恨み
常温放置した保存テストを終えて、顕微鏡や生菌数を確認する培地などがあれば腐敗状況を確実に確認できるが、この世界にそんなものはないので食べて健康被害が出ないかどうか確認する。
密閉保存した食品で恐ろしいのは嫌気性菌のボツリヌス菌である。蜂蜜に1歳未満の乳児に与えないよう注意書きが書かれているのを見たことがある人は多いと思う。あれは酸素があると増殖できない嫌気性菌のボツリヌス菌による食中毒の危険があるからだ。大人なら平気でも、抵抗力の弱い赤ちゃんは死に至る。
集団調理の基準であるHACCPでは75度の加熱で良いが、嫌気状態となる保存食の加熱殺菌の基準が120度以上とはね上がるのはボツリヌス菌を殺すために設定されている。もしもこの世界にしか存在しない食中毒菌がいても、ボツリヌス菌基準の加熱殺菌であればカバー出来るだろう。
冒険者は過酷な環境で免疫力低下の恐れもある。保存後の確認だけは欠かせない。
無事に保存状態もクリアできたため、フリーズドライとパック保存食は各店へ一斉周知することとなった。
瓶詰保存食を販売している宿屋と飲食店は全て講習会へ参加した。ウインナーもパックに入れて窒素充填後に密閉、加熱殺菌すれば長期保存可能ということで精肉店や今まで干し肉を販売していた業者も参加している。瓶詰保存食が販売されてから干し肉の売上げは落ちており、値段や不便さを理由に瓶詰を買わない人が干し肉を購入する状況である。パック保存食が販売されれば、干し肉が売れなくなるのはわかりきっていた。
クレアの保存食を良く思わない干し肉業者もいる。昔ながらの製法で、冒険者を支えてきた干し肉の職人さんだ。
商業ギルド主宰の講習会で、ヴィンセントとクレアは説明を行った。講習会の帰りに60代程の男性から声をかけられる。
「あんたは新しいものを考えてチヤホヤされて満足だろうがな、わしらみたいな昔ながらのとこはついていけねぇ。今日のが販売されたらもう店をたたむしかねぇんだよ。あんたのせいでな」
クレアへ向けられる敵意から庇うようにヴィンセントはクレアの前に立つ。
「店を辞めるかどうかは自分の判断だろう。貴方がついていけなくても、他の業者は新しい製法で販売することを考えてる。クレアさんのせいじゃない」
「こいつがいなければわしらはずっと店をやれたんだ!この女さえいなければ!!」
「貴方の店の商品が本当に良いものなら、たとえ今日の保存食が発売されようと売れるだろ。売れないのなら、それだけの魅力がないんだ。クレアさんを恨むのはお門違いだろう。恨むなら自分の腕を恨め」
激怒する男性は今にもヴィンセントに殴りかかろうとする。ヴィンセントは男の足もとを氷で固定し、動けなくなったところを商業ギルドの職員に取り押さえられた。
恐ろしくて何も出来なかったクレアは、ただ取り押さえられる姿を呆然と見ていた。顔色が悪く怯えたクレアを見てヴィンセントが安心させようと声をかける。
「大丈夫、クレアさんに危害は加えさせません。しばらく外出のときは俺と一緒にいるようにしましょうか」
「……ありがとうございます」
クレアの声は浮かない。今までにクレアのことをよく思わない業者はいくらでもいたが、面と向かって敵意を表したのは今の男性が始めてだった。
宿屋の名物を作りたかった。泊まりに来てくれる冒険者の支援が出来ればいいなと軽い気持ちで前世の知識を利用して保存食を作った。
この世界の文明ではまだまだ到達出来ない技術を持ち出したのだ。ついていけないと拒否する人が出るのも当然だった。
本当は学校で教わっただけで自分で考えたものではないのに、今では保存食のクレアと代名詞にまでなっている。情報提供料を低くしたのは自分の本当の発明品じゃない引け目もあった。お金を受け取ることに抵抗があったのだ。皆の役に立てればそれでいいと思っていた。この出来事はクレアの心に暗い影を落とす。俯いたままのクレアに、ヴィンセントは続けた。
「クレアさん、全員に好かれることは不可能ですよ。妬まれ恨まれることもあるでしょう。それでも、貴女を必要としてくれる人は大勢いる。この国中の何万人といる冒険者がクレアさんに助けられ、貴女を必要としています。今までの冒険者向けに食品を販売するお店から恨まれて当然なんですよ、商売敵なんですから。胸を張って、自信をもって下さい。恨まれるほど冒険者から愛される存在になったんだと、誇って下さい」
「私は、保存するために必要な知識を持っていたから作って販売しただけなんです。私が試行錯誤して保存食を研究したわけじゃないんです。本当に誇っていいのでしょうか」
「当然でしょう。知識があったって、何もしなければ今も冒険者達は塩味の硬い肉とパンだけの食事です。クレアさんが販売してくれたからこそ今があるんですから。それに、ダンジョン踏破に近いパーティーが保存食を嘆願するくらいすごい食品ですよ。団長なんて皆の前でプロポーズするくらいクレアさんに惚れ込んでるんですから、もっと自信を持ってください。天狗になったって良いくらいですよ」
「そう、ですね。でも天狗になんてなれませんよ」
冗談交じりに話すとようやくクレアは笑顔を見せる。そして、シミリスのプロポーズ話をして笑顔になったクレアを見て、ヴィンセントの胸がチクりと痛んだ。




