第五章・死ねない理由
わかってはいるんですよ?
※
目の前が、霞む。
どろりと自分の生暖かい血が額に流れていくのがわかった。ジェノンは息も絶え絶えに、もう開かない右目をおさえる。どうやら何かが右目に入り込んだようだった。絶え間ない激痛に、思わず表情が歪む。
「………ッ、……!」
瞬間、咳き込む。とっさに口をおさえたが間に合わず、ぼたぼたと地に真っ赤な華が広がっていった。
「残念だったな、フェルギン。私に―――妖刀は効かない」
眼鏡を直し、ルーカスは何事もなかったかのように立っていた。身に纏う純白の長衣には、敗れた箇所はおろか埃一つついてはいない。ただただ静かに、眼鏡の奥に覗く冷徹な瞳をジェノンに向ける。
「……っ、」
左目だけはしっかりと見開き、ルーカスを睨む。痛みをこらえるように、何も考えなくていいように、闇紫の瞳には殺気しか帯びてはいなかった。
こんなところで―――負けてしまうのだろうか、
一瞬、そんな考えがジェノンの脳裏によぎった。
手も、足も、痺れるような…しかし鈍くぼんやりとした痛みが、ジェノンの意識を薄れさせる。目を開いているのも、精一杯だった。
「……っ、」
こんなところで負けるわけには―――死ぬわけには、まだいかないのに。
「綜、威……さん……っ……!!」
誰にも聞き取れないような、かすれた声音。
視界が、ぼやける。
「―――――、」
静かに、ルーカスが自分に近つ゛いてくるのがわかった。霞んでいく視界の先に、傷一つつけられなかった純白の長衣が写る。
「天使でもなく悪魔でもない、中途半端な堕天使。神に刃を向けた己の罪を知れ、デジェナレーテ・フェルギン」
かつん、と天使の靴音がやけに響いた気がした。
ジェノンは自嘲するように笑むと、かすれた声で言う。
「…っ、誰が、あんな神に………!」
一瞬忌々しそうに瞳を細めると、ジェノンがおさえていた腹を思い切り蹴った。
「ッ、がぁ、ああああぁぁああッッ!!!」
何度も何度も、けして立ち上がれないように。
冷徹な瞳だけを、ジェノンに向ける。
「ああッ……が、は………っ、………!!!」
血が、滴り続ける。
しかし見開いた瞳だけは、けして力を緩めようとはしなかった。
※
言い知れぬ不安感に襲われ、綜威はただ走り続けていた。どくん―――どくん、と自身の鼓動が早鐘のように脈打っているのがわかる。
「………っ……!」
そして自分の中に、鈍く広がっていく痛み。少し距離があるが、何か巨大な魔力同士がぶつかり合う気配もした。
しかもそのどちらかの魔力は――――自分がよく知った魔力だった。
一体、何が起こってるの―――!?
餓狼ではない。
その他の傭兵団でもない。
餓狼さえ除けば、この国には人間しかいないはずだ。しかもこんな大きすぎる力―――人間なわけがない。
じゃあ――――一体、何?
「………っ、」
走り続けながらも、綜威は感覚を研ぎ澄ませる。
自分自身でも気付かないうちに、綜威は殺気を放っていた。
ジェノンが顕現するために、契約を交わしたのは綜威。
それに伴って、恐らく微かに感覚がリンクしているのだと思った。鈍痛にも似た痛みが、綜威を急き立てる。
「………!?」
見つけた。
多少の距離を置いた、その向こう側。
気配を気取られないように、綜威は己の気配を押し殺す。
ジェノンの魔力が弱まっているのが、はっきりとわかる。それと同時に全身に駆け巡る、ジェノンと対峙しているであろう、敵の魔力の巨大さ。
―――――――勝て、ない。
こんなに、まだ相手との距離があるにも関わらず、綜威は本能でそう思った。
自覚させられる、圧倒的な力の差。
冷や汗が、伝った。
でもどうにかして、ジェノンさんを助けないと………!
「………っ、」
ぎゅ、と拳を握り締める。
迷っている暇など、なかった。
「最後に聞いておいてやろう。貴様がやらなければならないこととは―――――――何だ?」
どこまでも冷たい、冷徹な瞳が問うた。
どくどくと流れ続ける血に、最早不快感も感じられない。それ程までに、ジェノンの感覚は既に麻痺していた。
息をするのも、やっと。
微かに、ジェノンは唇を動かした。
「……………っ、…き、…なんです、よ……!」
ぼんやりとしか映らない、純白を目の前に。
「好き、なんですよ……っ、…綜威、さんの、ことが……っ…!!」
力の入らない手に、力をこめる。
しかし、真っ赤に血が滲むだけだった。
「どうしようも、ないくらいに…っ、…死ぬ、程に……大、好き……!!」
に、とジェノンは笑んだ。
思い浮かぶのはいつも通りの、無感情な綜威の表情。
そんな堕天使に、ルーカスは忌々しそうに目を細める。
「だから、死ね…ないっ………!!」
彼女の物語を、私が見届けるまでは―――――!!
その時だった。
ジェノンとルーカスの間に、何か黒い物体が割り込むように現れたのは。
「<天と地の先駆け、千と幾億の夢をもって――――>ああもう面倒臭ぇ以下略ううぅぅッ!!」
ばさ、と歪な片翼が広がる。
はらはらと、漆黒の羽根が舞い散った。
「よォ―――天使」
金と赤紫の瞳をいやらしく歪め、カインは言った。ルーカスの冷徹なまでに感情のない瞳に、苛立ちが宿る。
「なぜ…貴様がここにいる……っ、カイン・ベックフォード!!」
「ケッ、何だあ?オレサマがいると知っていたらこんなところには来なかった、みたいな口ぶりだぜぇ?天使さんよォ!」
びりびりと、悪魔と天使の魔力がぶつかり合う。
半歩、ルーカスは右足を引いた。
「てめえがいると気分が悪ぃ――――とっとと失せろッ!!!」
激昂。
悪魔の迫力にたじろいだ、その一瞬。
ひうんひうんひうん、と何かが飛び回るような音に気付いた時には、もう遅かった。瞬間何か大きな力に引っ張られたかと思うと、次の瞬間ルーカスは物凄い勢いで大木に押し付けられていた。
「っ!が……っ、糸………!!?」
肉眼には映らない程に極細の、無色透明の糸。
綜威はルーカスを縛りつけた木の裏で、きりきりと糸を引いていた。その手には、指が出るように切られた手袋が嵌められている。
そしてす、と軽く右手をひいた瞬間、まるで最初からそうなっていたかのように―――ルーカスの右手が落ちた。
純白の長衣に、赤が染み渡る。
「っな、あ、あああああああああ、ぁぁあああっっ!!!?」
一瞬で、綜威はルーカスの前に移動した。
睨むように、しかし感情を含めない青い瞳で、赤く染まった天使を見つめる。
「滑稽ですね、天使さん。たかだか死なないだけしか能力のない人間に、片腕を切りおとされるなんて」
低く、鋭い声音。
目の前に転がるルーカスの右手を、綜威はぎり、と踏みつけた。
「貴、様ァ……!!」
「動けないでしょう?この糸は技術屋・ゴーシュが造った特別な武器ですからね」
無表情で、視線はルーカスに向けたまま、踏みつける足をどけない。
怒りの瞳で、ルーカスは綜威を睨む。
しかし動じない、どこまでも冷え切った青い瞳で、綜威は言った。
「私のこの右手をひいただけで、簡単に貴方の身体はばらばら。首と胴体が仲良しでありたいなら、早くこの場から消えてください」
「………っ…!小娘が……!!」
数瞬の沈黙の後、映像画面が狂ったような不協和音を響かせて、ルーカスは消えた。それを確認して、綜威はぱたん、と地に膝をつく。
「……っ、」
安堵と共に、一気に額を冷や汗が伝う。
「お、オレサマの見せ場が……」
後ろで、カインが絶望している声が聞こえた。はっとして、綜威は立ち上がる。ジェノンに駆け寄ると、心配そうな表情で声をかける…わけはなく、思い切りジェノンの胸倉を掴んで自分に引き寄せた。
「ジェノンさん……!なんで、なんで何も言わなかったんですか!?何も心配ないって、言ってたじゃないですか……っ、…!!」
「…っ、綜威、さん…」
にへら、とジェノンは必死に笑顔をつくる。
その動作にも、綜威は怒りにも似た苛立ちを覚える。
「なんで…なんで…っ…!!馬鹿ですよ、貴方は……っ…!!」
「よかった、綜威さん、が、無事、で……」
「ジェノンさんのがぼろぼろじゃないですかっ!!私なんか…無傷ですよ……!」
力が、抜ける。
ぎり、と綜威は唇を噛んだ。
「貴女、を…巻き込みたく、なかった……」
胸倉をつかんでいた自身の手にジェノンの血が大量に付着しているのを見て、綜威は静かにジェノンを寝かせた。
「とにかく…喋らないで。傷が広がりますよ」
言って、綜威は短剣を取り出すと自身の手首を切った。
つー、と真っ赤な鮮血が伝う。
「私の血を飲んで。少しくらいは効きますから」
「っ、おいおい小娘っ!大丈夫なのかよ、不老不死の血なんか飲ませて…!!」
少し慌てるように、カインはジェノンの身体に飛び乗った。「ぅぐ、」とジェノンが呻いたがカインは気にしていないようだった。
「大丈夫ですよ。彼は怪異だし、人間じゃない。だから傷の治りが早くなるだけですよ。…ただ、人間が私の血を飲んだら、血の力に負けてしまいますけどね。」
す、とジェノンの口元に自分の血を持っていく。
しかし肩で息をするのもやっとなジェノンに、一気に血は与えられない。
「っ、げほ、ごほ……っ…!!」
血を飲ませても吐き出してしまうジェノンに、綜威は青い瞳を細める。仕方ないと言った表情で、綜威は自身の手首を深く抉る。
「っ、!!」
火に焼かれるような鈍く低温な痛みに、思わず表情を歪めた。そして伝い落ちていく真っ赤な血を、自身の口に含める。生暖かい鉄錆にも似た味に、吐き気を覚えながらも。
「……っ、」
そしてその血を、口移しで堕天使の口に流し込む。何回も咳き込むジェノンに時間を置きながら、またその繰り返し。少しずつ目に見える程度に回復をみせるジェノンに安心し、綜威は手首の痛みをこらえる。
「…もう少しだから、」
呟くように、言い聞かせるように綜威は言った。
再び自身の血を口に含み、ジェノンの口に運ぶ。
ただただ時間だけが、過ぎていった。
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