第四章・人喰い狼
さようなら。またの機会は御座いません。
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ティアデール・23番エリア。
『既に前方に敵襲ッ!!数は300!!約5分程でここ高見台に到着してしまいますッ!!繰り返します―――!!!』
ぴりぴりとした沈黙が包む中、雑音混じりの無線機が鳴り響く。ティアデールの現在の23番エリアの兵は100.とても今の人数ではセルギオンの奇襲には持ちこたえられない。応援を待つばかりだったが、殺されるとわかっていて自分の部下を戦いに送り出したくはなかった。
ぎり…っ、とギガは唇を噛む。
「…隊長ッ!指示をッ!!!」
間近に迫っている奇襲隊に、ギガの部下たちは緊張状態が続いていた。その空気を小隊長であるギガが一番わかってはいたが、まだ少し…ほんの少しだけ可能性があるのなら、応援がやってきてくれるのを期待していた。
「――――――っ」
もうここまでなのか―――…と思った瞬間、高らかに響く十数のバイクの音がした。縋る思いで、ギガは静かに振り向く。
「さあ存分に暴れなさい狼たちっ!!一人残らず皆殺しよっ!!!」
誰もが知る橙色の少女の声に、一斉に兵たちの歓声が上がる。
時速最高速度で、僕とハロルドさんはバイクを走らせていた。こんな使い方をしたんじゃ確実にバイクとしての寿命をすり減らしているが、僕は現場に少しでも早く着ければそれでよかった。
「…」
もしかしたら、綜威さんもジェノンさんも、もう着いてしまっているかもしれない。僕としては、それはあまり好ましい事態ではなかった。血の気の多い二人のことだ――――少なくとも、魔力が大幅に削られているとは言え、ジェノンさんの正体が人間ではないということがばれてしまうかもしれない。
「――――っ、」
それに万が一にも、あの二人と餓狼がぶつかることだけは避けたかった。
どうしようもない程の焦りが、僕の背後を急き立てる。
早く、早く早く早く早く――――!!
僕の視界に、やっと高見台が入った。
「よう兄ちゃん!じゃ、オレは先に行くぜ!」
ぎゅん、と更にスピードを上げて、ハロルドさんの姿はあっと言う間に見えなくなっていった。一瞬呆け、しかし次の瞬間にはしっかりと前を見据えて僕はバイクを走らせる。
見えてきた。人間よりも視力がいい僕には、シャーロットと思われる橙色の髪が輝いているのが見えた。リーダーである橙色を先頭に、まるで大きな鷹が翼を広げているかのような隊列。
餓えた狼たちが、漆黒の閃光の如く戦場を駆ける―――!
「…っ、!?」
す、と今まで掴まれていた肩から感触が消えた。とっさに振り向くと、少女が黒曜石の瞳を無感動に細め、静かに立っていた。凄いスピードで走っているはずのバイクの後部で、腰に巻いている少女の長衣が荒々しくはためく。
――――なんてバランス感覚なんだ。
しかしそんな光景に目を奪われている時間など、僕にはなかった。ティアデールの兵たちに近つ゛いていることに気付き、僕は力いっぱいブレーキの機能のハンドルをぐいん、と逆転させる。急激に、バイクのスピードが落ちていく。後ろに少女の気配はない。どうやら、もうとっくにシャーロットたちの援護に向かったようだった。
「……っ、ギガさんっ!綜威さんとジェノンさんきてません…か…?」
そう言う僕に、しかしギガさんは反応を示さなかった。周りの兵たちも、同じようにただ一点を見つめている。僕も彼らの先に、視線を移した。
「―――…!」
狼。
ただそれだけが、僕の脳裏に浮かんだ。
ティアデールの紋の入った漆黒の長衣をはためかせ、シャーロットはバイクを自在に操りながら次々と敵兵を減らしていく。橙色が振るうその暴力は、少女の体躯に似つかわしくない程の長剣。彼女がその漆黒の閃光を振るう度、一瞬にしていくつもの命が喰われていく。
「あはっ!あはははははっ!ははっ!!ははははははははっ!足りない足りないっ!全然足りないわっ!!もっと強い奴はいないの?あははははっ!ははははははははははははっ!!」
嘲笑。
心の底から愉しそうに、シャーロットは嗤っていた。
否、圧倒的なその力の差は、最早勝負になどなっていなかった。
傭兵団・餓狼――――僕は彼女たちの喰い潰していくかのような芸術に、ただただ戦慄を覚えるしか術がない。
「この様子だと、私たちの出番はないようですね」
凛とした声の方を見ると、綜威さんが青い瞳を細めて遠くの光景を見つめていた。彼女の無表情から伺える、微かな苛立ち。それは遠くの光景を見るためではなく、忌々しさに瞳を細めているようにも見えた。
「そう、ですね……」
呟くように、僕は言う。
灰色の瞳は、動くこともできずに繰り広げられる殺戮奇術を見つめているだけだった。
※
同時刻。
持っていた無線からの召集は無視し、ジェノンは一人ティアデールの外れにある森に来ていた。暗鬱と、深く広がる森。見上げてみれば、多くの巨木が両手を広げるように空を覆い隠している。静かに、そよそよと緩やかな風が続いていた。
「……」
ここなら、綜威さんもエインセルさんも追っては来られませんね…
ぎゅ、とジェノンは静かに拳を握り締めた。そしてす、と息を吸い込む。
「<遥か異界よりの使者、光纏いし蝶、我に悲嘆と絶望を、相対する者には閉じられ行く世界の鍵と狂おしい程の憎しみを―――!!>」
ざわざわと風が唸り、散っていた木の葉が舞い上がる。
詩い終えると同時に広がる、漆黒の翼。ゆっくりと、ジェノンは顔を上げた。
続き続ける森の奥に――――闇紫の瞳を向ける。
「さあ、そろそろ出てきたらいかがです?私を殺しにきたのでしょう――――ルーカス先輩」
殺気。
エインセルたちといる時にはけしてみせなかった、相手を睨み殺すようなその表情。いつものふざけた口調などどこにもなく、ただ一点に、その殺気を送る。
「ほう――――今のお仲間に、助けなど求めないのか?デジェナレーテ・フェルギン」
ジェノンの見据える闇から、浮き出るようにその男は現れた。真っ白な長衣を纏った男の背には、ジェノンとは違い純白の翼が。
ばさ―――と白と黒の羽根が周囲に舞う。
「いかにも。私はルーカス・オルブライト…。フェルギン、我が主の御名の命にて…貴様を殺しにきた」
言って、ルーカスは真っ白な手袋を嵌めた右手で眼鏡を上げる。レンズの奥から覗く冷徹に輝く瞳は、真っ直ぐにジェノンを忌々しげに睨む。
じり、とジェノンは半歩下がった。
「しかしフェルギン、我が主は貴様をいたく気にいっている。今一度―――今一度なら、まだ貴様の席が空いているぞ?」
「神に歯向かい、クーデターを起こそうとした私に――――好機を下さると?」
「そうだ」
静かに、ジェノンは闇紫の瞳を細める。少しも警戒は緩めずに、ただルーカスの出方をうかがうように、眼鏡の奥の瞳を睨んだ。
ざわざわと、鳴り響く風。それに乗せられるように純白と漆黒の羽根が舞う中、ジェノンの足元に落ちていた羽根が闇紫色の視界に映る。
それを合図にするかのように堕天使は―――――跳んだ。
「まったくもってごめんですね――――今更あんな神の元に戻るなどっ!!!」
跳躍し、ばさりと漆黒の翼を広げる。ジェノンは純白の天使に狙いを定め、右手をす、と構えた。そして叫ぶように、何かに誓うように――――。
「<黒針>ッ!!!」
一斉に、凄まじい数の漆黒の針が純白の天使に向かう。当たったらひとたまりもないであろうその鋭い針たちに、しかしルーカスは右手でずれた眼鏡を直すだけだった。
「それが貴様の答えか」
目を伏せる。
やったか――と心の内で期待を膨らませていたジェノンは、おびただしい程の量が突き刺さった地面を見て目を見開く。
「―――ッ!!?」
しかしそこに、針たちの攻撃を受けたルーカスの姿はなかった。はら、と役目を終えた針たちは漆黒の羽へと戻る。
「貴様――――こんな玩具で私を倒せると思ったか?」
後ろから、声。
ジェノンは闇紫の瞳を見開いたまま、すぐに振り返ろうとしたがそれは叶わなかった。自分の背に鈍痛が走ったかと思うと、次の瞬間ジェノンは思い切り吹き飛ばされていた。木の幹に物凄い勢いでぶつかり、その衝撃を殺しきれずに、地面に叩きつけられる。
「ッが……ッ、はっ………!!!!」
一瞬息がでず、ジェノンは咳き込む。ごほごほと吐くのは、真っ赤な血。みるみるうちに、地面が赤く染め上がっていった。痛みをこらえ、声を殺そうと唇を噛むが、その結果伝うのは同じく真っ赤な鮮血。
「愚かな。―――あの魔女の眷属に力を制限されている貴様が、私にかなうはずがない」
吐き捨てるようにそう言うと、ジェノンのいた上空から静かに地に足をついた。ルーカスは地に這い蹲るジェノンを冷たく見下ろすと、忌々しそうにぎり、と唇を噛んだ。
「汚らわしい、汚らわしい汚らわしい汚らわしい汚らわしい!反逆罪による天界からの永久追放、それに飽き足らず地上界での大量の魂の乱獲―――どこまで生き恥を晒せば気が済むのだ、この堕天使が」
「……っ、…ぐ、……」
大きく闇紫の瞳を見開き、ジェノンはルーカスを睨むように見上げる。ぐ、と立ち上がろうと拳を握り、血が滲む。早々に肩で息をしなければならない程のダメージを受けながらも、ジェノンはふらふらと立ち上がった。地にしっかりと足をつき、睨む目つきは緩めない。
「それでも―――私はここで死ぬわけにはいかないんでね」
「ふん―――来い、堕天使」
漆黒の堕天使に、純白の天使。
両者がす、と右手を出すと、小さなつむじ風が起こったと思った瞬間、剣が現れる。
一つは純白の。
そしてもう一つは―――漆を塗ったような、漆黒。
「はあああぁぁぁあああああああああっっ!!!」
雄叫びと共に、ジェノンは動いた。一瞬でルーカスの前まで移動し、斬りかかる。しかし漆黒の剣はルーカスには当たらず、代わりに純白の剣が冷たく受けていた。
金属がぶつかる、独特のかん高い音が響く。
その耳鳴りにも似たような音が大きく広がり、森じゅうの鳥たちが驚いて飛び去っていった。
「無駄だ」
冷たく言い放つルーカスに、しかしジェノンは――――嗤っていた。
魔女のようでいて悪魔でもない――――堕天使の、笑み。
「<消えることなき憤怨、続き続ける不変、忌まわしい柵を背負いし死者たちよ、啼け、叫べ、響かせよ――――黒揚羽!!!>」
どろりと地面から真っ黒な液体が滲み出てきたかと思うと、それらはルーカスを包みこむように一瞬で宙に広がった。それはまるで―――黒い翅を持つ、蝶々のように。
「――――っ!!?」
地に、足が引きずりこまれる。
ルーカスはなんとかこの漆黒のどろどろから逃れようともがくが、もがけばもがく程に、その液体はルーカスを地の奥底へ誘うように引きずり込んでいった。
「残念でしたね先輩……この子は地上界に降りた時に拾った妖刀でして、今すごく―――お腹がすいてる頃だと思うんですよ」
闇紫の瞳が、歓喜にざわめく。
恍惚と輝くその瞳に―――ルーカスは忌々しそうに表情を歪めた。
「ッ、このっ……!」
「私はこの地上界で、やらなければならないことがあります。そのために、まだ死ぬわけにはいきません―――というわけなので」
「ばいばい♪先輩」
にい、といやらしく笑んで、ジェノンはルーカスを見下ろす。
どろどろと、ずるずると、焦らすようにゆっくりと漆黒の液体はルーカスを引きずり込んでいった。そしてついに、完全に地面に呑み込まれる。
「………っ、」
安堵の溜め息をつき、ジェノンは負ってしまった傷をおさえる。だんだん血が滲み、べっとりと服に染みこんでいくのがわかった。その不快感に表情を歪ませ、ジェノンがその場を立ち去ろうとした、その時。
ぴしぃ、
音が、した。
一気にジェノンを、鳥肌が立つ程の恐怖感と殺気が襲う。闇紫の瞳を見開き、振り向く。
「――――――ッ!!!」
瞬間凄まじい魔力が、ルーカスが消えていった地面から湧き上がっていった。ぴし、ぴしぴしと静かに、しかし気味の悪い音を立てながら地面に雷にも似た亀裂が走る。
まずい――――!
そう思った瞬間には、もう遅かった。
翼を広げ、すぐに自身を襲うであろう脅威から逃れようと飛び立とうとしたが、弾けるように無数に飛び散った大きな塊に打たれる。翼ごと木に叩きつけられ、漆黒の翼は歪に折れ曲がる。
「う、ぐぁ、あああぁぁぁあ、っあああああああああああっっ!!!!」
全身を走る激痛に、堕天使の声とも言えない声が、響き渡った。
※
「………っ、!?」
シャーロット率いる餓狼の残虐さっぷりをつまらなそうに見ていた綜威は、一瞬感じた不安に思わず振り返った。「綜威さん?」と怪訝な表情で呼んでくるエインセルを無視し、透き通る程に青い瞳を細める。
「………」
ざわざわと、言い知れぬ胸騒ぎが綜威を急き立てる。ぎゅ、と右手の拳を握り締めると、次の瞬間に走り出していた。
行かなければ、ならない気がした。
どこかはわからない。
しかし目指す場所は、わかっているような気もした。
「…ジェノンさん……!」
乱れる青い髪など気にも留めず、綜威は走る。
エインセルの制止の声など、最早耳に入ってはいなかった。
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