第三話 海霧の向こうで
「景気が良いみたいだな」
20××年、日露間で取り決めが交わされた。
領土問題は棚上げに地域経済の活性化を図ると銘打ち、北方四島への往来にはビザが不要とされ。
俺が商売を始めたのもそのおかげ、島も車が売れるぐらいには潤っているはず。
「冗談でしょ? ここは相変わらずカニの缶詰作るだけ。観光客も来るけど島を潤すほどじゃない」
たしかに。まるで見所のない島だ。
だいたいこの国の連中は客商売に向いてない。決定的に愛想が欠けている。一見さんもリピーターもお断り、観光など迷惑だと言っているようにしか見えない。
「少しは日本語覚えたんだけどね。……『ヤマトダマシイヲ、ミセテヤルー』。『オイごるぁ オリロ メンキョモッテンノカ』」
言葉を失った俺に一切構うこともなく、バーテンダー(そう名乗っている)はまくしたてる。
「オンライン戦車ゲームの日本語音声MOD。世界中でもう十年以上の人気だし、名前ぐらいは……え、聞いたことない? じゃ、日本人が好きな歌とか教えてよ」
妙な女だと思う。
カウンターの上にノートパソコン。接客しながら画面に向かってしゃべりかけたり手を振ったり。
だが音楽を流すには確かに便利だ。妙だと思うのは俺が古いせいか。
「『カチューシャ』でもかけときゃいい。大概聞いたことあるはずだ」
「なら戦車ゲーム、良いとこ突いてたんじゃん」などと愚痴る女が叩くキーボード、その気まぐれなリズムがやけに心地良くて酒をあおる。
カチューシャはお袋もよく歌っていた、せがんだ客と声を合わせて。酒に焼けた声が耳に蘇る……ような気がしたところに、その耳を逆撫でされた。
流れてきたのは舌足らずで媚びた声、ユーロビートを思わせる演奏に乗せて。
予想外のあまりむせ返り、喉と鼻に受けた不快な刺激そのまま反射的に怒鳴っていた。
「これが『悪ふざけ動画』ってヤツか?」
違う、カチューシャはそうじゃない。
上手くなくて構わない。野郎ががなり立てたって良い。だがこれは違う。
「~~ちゃんに何か文句あるのか? よそ者にロシア人の心が分かるか、でかい面しやがって」
誰だか聞き取れなかったが、狐めいた風貌の客が上げたその言葉も間違ってはいない。
求められた通りに仕事で歌う若い女、いや子供。その声に上から目線で講釈垂れるなんざ無粋も良いところ、悪い酔い方をした自覚もある。
だが愛国者サマよ? お前らが店に乗り付けたワンボックスは外国製、運んで来たのはこの俺だ、てめえが毛嫌いするよそ者だぜ?
日本だロシアだってうるさいんだよ。商売の邪魔をするのはいつだってお前たちだ。車は車、カチューシャはカチューシャだろうが。
「やめとけ。……ああ、悪ふざけだな。年寄りには聞かせられない」
狐の連れ、熊を思わせる男だった。
店の片隅で酔い潰れていた老人……と言うには間のある親爺に、ちらりと目を向けている。
この親爺、不摂生のあまり目の下に隈を作っているせいで、陰でタヌキと呼ばれている。宵も浅いうちから腰を落ち着け、酒の力を借りて気勢を上げるのが日課だとか。
「俺はアフガン紛争に参加したんだ。お前たちの誇りはどこへ行った。祖国は失われた……」
またホラが始まったと、なけなしの常連は相手もせず愚痴るに任せていて。
すると男は泣いているのかいないのか、やがて黙って俯いて。そしてそのまま、今そうしているように、いびきを立てて寝てしまう。
「お前は日本人か?」
熊野郎に答える先から、バーテンダーに遮られた。
「熊はウクライナからだっけ? そう聞くとまるでウチが繁盛してるみたいじゃない」
ウクライナ、どこかで聞いたことはあるんだが……思い出せない。
キ○ガイ水のせいだ。今日は飲み過ぎた。
「この辺の地名じゃないな。西か?」
狐野郎の顔が嘲笑に歪む。猫を思わせるバーテンダーも鼻で笑っていた。
熊野郎は不機嫌なまま、ロシア人らしいツラをこちらに向けていて。
「ああ、西の端だ」
それがまたなんで東の端まで……いや、聞いてどうなるものでもない。
――――若いカチューシャは歩みゆく 霧かかる高く険しい川岸に――――
俺のお袋は岸を飛び越えた、歌に出てくる娘とは違って。
そして日本でカチューシャを口ずさんだ。海霧の向こう、祖国に遠い目を向けながら。
粘つく歌声、霧のように纏わりつく思い出。隠せそうもない不愉快。
バーテンダーに、客の連中に見せる気になれず顔を背けた。
だがそのせいで窓の外、店の光を受けて鈍く輝く視線に捉えられる。
動物めいた客が集まるのはこの視線、店の看板のせいかもしれない。
汚い毛を逆立てた年寄り猫。ふたつの目は互い違い、どこを見ているやら。
初めて通りかかった時には眩暈を覚えた。吸い寄せられるような気持ちの悪さに唾を吐き散らした。
半月後、視線を感じた。振り返れば看板の猫がニヤニヤと笑っていて。
違う角度、別の距離。どこに立っても目が合うような気味悪さ。
「チェシャ猫」
あれは六度目かそこらだったか。
季節が変わり、意を決して近寄ったところで。
背後から、扉越しに声をかけられた。
「ウォッカで良い?」
ひと昔いやふた昔前、餓鬼だった頃のスナックに見えて気安く足を向けた。
だがヘッドセットをかけてノートパソコンと客の間を目まぐるしく行き来する女を見ていると、自分が場違いに思えて仕方ない。
失敗だったかと今さら思っても、鼻が店に馴染みきっている。
カチューシャは鳴り止んでいた。
なお歌手の素晴らしさを讃える狐から顔を背けたバーテンダーと目が合った。
「音楽に講釈? 趣味の良い客なんていらないんだけど」
悪かった。金を使えば良いんだろう?