12話 襲来
彼はゆうゆうと空を泳いでいた。
彼は生まれついての強者であった。一声、声を掛ければ弱き者共はひれ伏し、一息、息を吹きかければ有象無象は消え失せる。
それで消えぬ者でも彼の肉体にかかれば、あっという間に死体に姿を変えた。
そう、彼は圧倒的な強者であった。ドコに行くのも自由であり、気に入らないモノがあれば、戯れにそれを破壊した。
それを咎めるモノなど存在しなかった。
その日も彼はゆうゆうと空を泳いでいた。けれどその日は普段と違うことが一つあった。
それは今まで来たことの無い場所へと向かって行く事だ。
こちらの方向に来た事に理由などない、ただの気まぐれだった。
なんとなく、あちらの方向へは今まで行った事が無かったなと思い出し。ならば行ってみよう。そう決めた。
彼の翼は力強く空気を叩き、彼の巨体を軽やかに未知の土地へと運んだ。
知らぬ土地を上空から睥睨しつつ、その土地を己の新たな領土と見なす。
どれほど新たな領土を見て回っていいだろうか。やがて眼下に目立つ色をした蛙の群れと、それと戯れる見た事の無い二本足の生き物達が居るのを見つけた。
あの蛙は知っている。ピリリと刺激的な味がする蛙だ。群れをなしているので量も食べられる蛙だ。
しかし、もう二本足の生き物は知らない。
どのような味だろう?
と彼は考えた。
だが、まずは蛙だ。ピリリとた味を堪能した後に、見知らぬ二本足の味を賞味してくれよう。
どのような味であるか、実に楽しみだ。それでこそ、新たな領土を得た甲斐があったというものだ。
彼はそう決めると、急降下を行いながら自慢の咆哮を上げた。
彼は知る余地も無かったが、彼が初めて見た二本足の生き物達からは、彼の種族はこう呼ばれている。
――ドラゴンと。
◇ ◇ ◇
その轟音が鳴り響いた時、その場にいた全ての生物が全身を硬直させた。音を全身に浴びただけで、巨大な何かをぶつけられ、己の小の小ささを突きつけられる。
小さなアリを潰すために巨大な鉄塊を用いたかのような、無慈悲で圧倒的な暴虐がこれから起きるのだと言う事を予感させる。
そしてその時のアリは、自分達なのだと、誰もが悟った。
捕獲班の全員が硬直し、こちらに迫ってきて居たポイズントードの群れも、跳ねること無く固まっている。
一瞬、護衛班の者達に影がかかり、巨大な存在がポイズントードの群れの傍らに降り立った。
体長三十メートルを超す巨体にもかかわらず、あまりにも小さな着地音に、幻影でも見ているのかと錯覚する。
真紅の鱗で覆われた全身。何よりも目立つ巨大な真紅の翼膜。大きく緩やかに湾曲している二本の角。巨体を支える太く強靭な四肢。長く太いクセにしなやかに動く尻尾。
「……ドラゴンだ……」
恐慌で皆が動けない中、誰かが掠れる声でぽつりと言った。
ドラゴン。モンスターの中で最強と呼ばれる、暴虐の象徴。
舞い降りたのはドラゴンの中でもっとも多くの物語に登場し、もっとも有名なドラゴン。
ドラゴンと呼ぶならば、このドラゴンの事を指し示すほど有名なドラゴン。
真紅を身に纏う竜。またの名を火吹竜。
その有名すぎる火竜の吐息は、敵を焼き尽くすだけではなく周囲の岩石すら溶解させる威力があるという。
ドラゴンは、動きを止めたポイズントードをおやつをつまむかのようにヒョイヒョイと口に運ぶ。バリボリと骨を噛み砕く音がしなければ、本当に幻影と勘違いしたままだっただろう。
「――に……逃げろ……」
竜の咆哮からの自失から一番初めに立ち直り、声を絞り出したのは、最も修羅場をくぐった経験が多いCランク冒険者であるカールだった。
彼の声を聞いて次に硬直が解けたのはテオだった。巨大な存在に圧倒される事には慣れている。
ドラゴンが気がついて、こちらに視線を向ける。動き出した人間に腹を立てたのか、食い掛けのポイズントードの残骸を振り落とす。
そしてこちらに向き直ったまま、大きく息を吸い込み初めた。
来る……っ!
「ドラゴンブレスが来るぞっ! 逃げろ!」
カールの叫び声。
けれど、逃げろと言われても、ドコにどうやって逃げるというのだ。
「あっ、いやぁ……」
「あ、うあ……」
竜の咆哮の自失から立ち直っている者は居ない。声を上げたカールでさえ、逃げようとするがガクガクと震える足はまともに動いてはくれない。
ダメだ。やらないとここに居る者は全て火竜の吐息に焼かれて死ぬ。
そもそも、他の者の命を心配する前に、全力を尽くさなければ、自分の命すら守れない。
「う、うおぉぉぉぉぉ!」
テオは自らの心を奮い立たせる為の声を上げ、ドラゴンへと向けて一歩、前に踏み込んだ。
もう数歩踏み出せば、それだけで誰よりも前に出た。一番ドラゴンに近い場所に居たイーリスは腰を抜かしてガクガクと震えていた。
ドラゴンは大きく口を開いた。鋭い牙が並ぶその先、喉の奥にチラリと炎の光が見えた。
火竜の吐息が放たれる。
その寸前、テオの行動は間に合った。
「門最大開門っ! 全事象収納! 収納吸引力、出力最大!!」
テオが伸ばした手のひらの先。その空間に、巨大な波紋が広がる。そう思えたのも一瞬。次の瞬間には漆黒の巨大な板が立っていた。その直径は四十メートルを超える。
全事象収納は、門に触れるモノ全てを収納する。物体、生物はもちろん、熱や光すらも収納する。結果として門は漆黒に染まる。
そして、収納吸引力は言葉の通りだ。
これがテオのアイテムボックスの、現在の性能限界だ。訓練以外でここまで必要な事など無いとテオは思っていた。
全事象収納はあまりにも無差別すぎる。門に触れているモノはひたすらに吸引するのだ。それはつまり、門に触れている空気すらも吸引する。
最大開門で数秒展開しているだけで、門へと向かう暴風によって甚大な被害が発生する。
もしも門の吸引に片面、両面が選べなかったら、テオにも被害をもたらしている。
ドラゴンへと向けられた門の収納面が空気を吸い込み嵐を引き起こす前に、火吹竜はその名に相応しい火竜の吐息を放った。
強烈な光が周囲を真っ白に染める。
漆黒の巨大な門は一切の光を通さないのに、それを迂回する光だけで目が眩む。
「ぐうぅぅぅぅ!」
テオは門の維持に全力を尽くす。
開いた門に叩き付けられる炎と熱はそれで敵を焼き尽くすのではなく、物理的に粉砕する為に炎と熱を叩きつけているのではとテオは疑う。
大量にアイテムボックスの中に叩き込まれる炎と熱。アイテムボックスに入ってくる全てのモノはテオに把握されている。けれど、これ程大量のモノが一気に入って来たことは今まで経験が無い。
あまりの情報の多さにテオは頭がクラクラとしてくる。
しかしこの不快感に屈する訳にはいかない。
全事象収納をしている門の制御をわずかでも手放し、毛の一筋ほどの綻びが生じればそこから漏れ出た炎と熱に黒焦げになる。
――いや骨すら残らず焼失する。
制御を手放せないのは全事象収納だけではない。
最大開門という、門の大きさが少しでも小さくなれば、炎と熱は門を回り込んで焼いてくる。
収納吸引力の出力がわずでも落ちれば、熱せられた空気の回収が間に合わず、門を回り込んで肺を焼く。
そのどれかが起きぬよう、テオは必死で制御を続ける。
数分とも思えた、ほんの数秒。
不意に門への炎と熱の流入が止まった。漆黒の門を回り込んで来る光も収まっている。
テオは未だ人を殺傷するに足りる熱を帯びた空気の吸引は続けながら、全事象収納から光の収納を停止する。
漆黒の門は色を失い、透明の門へと姿を変える。
その先に存在する光景は火竜の吐息が放たれる前とは一変していた。
巨大な門を境に地面は大きく削られ、半チューブ状になっている。削られた表面は灼熱した溶岩に姿を変えて全体を覆っている。
その先に不機嫌そうに喉を鳴らすドラゴンがいた。己の吐息を耐えられた事がよほど腹に据えかねたようだった。
「ガォォォォォォォンッ!!」
竜の咆哮がテオ個人へ向けて放たれる。
だが、火竜の吐息に比べたら大した事じゃない。目に見えなくはなったが、未だに門はそこにあり、大量の致死性の熱量を持った空気を吸い込み続けている。
竜の咆哮はその空気と共にアイテムボックスの中に収納されていった。
ドラゴンにとってはその咆哮など、牽制に過ぎなったかったのだろう。
翼を力強く羽ばたかせ、強靭な四肢で地面を蹴り、テオに向かって突進した。
あまりにも急激な動きに、テオはドラゴンが瞬間移動してきたのかと錯覚した。
ドラゴンはそのまま前脚を振るう。鋭く頑丈な爪でテオを肉塊へ変えるつもりだったのだろう。
テオもドラゴンの動きに反応する事は、できなかった。
しかし、その攻撃はドラゴンにとっての致命傷となった。
振るったはずのドラゴンの前脚は、テオに触れる寸前で、消失した。
殺す者と殺される者、ドラゴンとテオはお互いに動揺する。
テオは一瞬でドラゴンが目の前にやって来た事に。
ドラゴンは己の腕が消失した事に。しかし腕を失ったにしては痛みが無い。驚きに身を引こうとしたドラゴンは、消えたはずの腕に引っ掛かってガクンとバランスを崩した。
そこでドラゴンは気がつく。己の腕は失われた訳では無い。目に見えない何かにハマって、抜け出せなくなったのだと。
目に見えない何かを成したのが、目の前に立つ矮小な存在だと言う事も気がつく。
何が起きたのかをテオはドラゴンよりも早く理解した。
アイテムボックスの主なのだから当然な事だ。ドラゴンは開きっぱなしだった門に腕を突っ込んだのだ。
全事象収納の漆黒の門から光の収納を止めたのは、ドラゴンの姿を確認する為だった。
熱せられた空気から身を守るだけならば、全事象収納から、空気と熱の収納だけに切り替えれば良かった。しかし、全事象収納から光の収納だけを止めるのを選んだのはそちらの方が楽だからだ。
無差別に収納する全事象収納は何も考えずに済む分楽なのだ。一つの門で一つのモノを収納する事に、次ぐ楽さだ。
そして一つの門に複数の存在を収納対象とするよりも、全事象収納から一つだけ収納対象から除外する方が楽だ。
その違いはわずかな事だが、全事象収納を行っている門から変更するというのならば、後者の方が断然楽だ。
テオは何か深い考えがあって全事象収納から光という一つの存在を収納対象から除外したわけではない。だが、その判断が彼自身の命を救った。
もしも門が収納対象が空気と熱だけだとしたら、ドラゴンは門をすり抜けてテオを肉塊に変えていただろう。
しかし今、ドラゴンはテオが展開する生き者も収納するアイテムボックスに片腕を突っ込んだ。門は常に一方通行だ。収納の門に入ったモノはドラゴンの腕であろうと逃がさない。
殺す者と殺される者の立ち位置が揺らいでいる。
最大の、そして唯一であろう好機の到来に、テオは大きく口角を釣り上げた。
動揺するドラゴンを睨み付けながら、テオは叫んだ。
「俺の世界に引きずりこんでやる!」