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こうして魔王の名は決定的に世に広まった。


 吐く息が白い。


 アグハシル帝国の軍勢が進む森は、青々とした緑の茂る真夏の森の中だ。

 空には雲一つなく、真夏の日差しを彼らに与えていた。


 だと言うのに、真冬でもありえないほどの低い気温に包まれていた。森の木々に茂る緑の葉には白い霜が降りている。


 兵士達は白い息を吐き、夜営用の厚手の布を羽織って凍えながら歩き続ける。


 昨日の昼はこんな寒さは存在していなかった。敵陣方向から吹く風が妙に冷たいなと感じたのは、今日の明け方から。天気が崩れる事を憂慮した者達の予想に反し、天気は快晴の夏空を見せていた。


 なのに敵陣方向から吹く風は一向に暖かくなる気配を見せず、生き物の命を凍らせる極寒の風へと変わっていった。


「このまま、進軍を続けて大丈夫なのか? なにか悪い事が起きる前兆じゃないのか?」


 誰かが口にした不安の言葉が、さざ波のように軍勢に広がる。


「このまま進むのか……」「大丈夫なのか……」「殺されるんじゃ……?」


 軍勢に広がる動揺を将軍の怒号が諌める。


「ええい! この地方ではこの時期、寒き風が吹くのはよくあるただの自然現象だ! 根拠のない迷信を囁くな! 流言にて惑わす者は、敵の工作員として切り捨てるぞ!」


 根拠のないの無い断言と脅しによって兵士達の囁きは止む。兵士達の動揺は静まっていったが、動きがいつもより鈍いのは寒さのせいだけではないだろう。


 皆が一様に不安なのだ。

 真夏のこの時期にこんな寒さに襲われるなど経験した者などいない。

 遠くへ来た為だとしても、周囲の森の木々は夏の装いをしている以上普段は夏らしい暑さのはずなのに。


 遅い進軍でも森を抜け、帝国の軍勢は平原へとやって来た。この平原の先には攻略目標である都市の市壁が見える。


 敵軍たるダルヴィー王国軍が都市での籠城を選ばないならば、この平原にて野戦が行われるだろう。

 しかし、野戦を選択したならば既に展開しているはずの敵軍の姿は平原に無い。


 籠城を選んだのかと将軍は考えた。それならば攻城戦を行なうだけた。


 警戒の為に一応斥候を出す。それと共に将軍は自分の目でも馬上より見通しのいい平原を見渡す。


 平原に人影は見えない。


 そう思っていた直後、帝国軍と都市の間にある小高い丘に一人の人影があることに気がつく。


 今まで丘の影に隠れていたのだろうと、今まで姿が見えなかった事は誰も気に止めなかった。

 しかし帝国軍の彼らが気がつく直前まで、その丘の近くには誰一人として存在していなかった。


 遠目に見える人影は、黒い服に身を包んだ男だ。特徴的な長杖がその手にあり、先端についた大きな宝珠が怪しげな光を放っているのが遠目にも見えた。


 魔法使いが偵察にやって来たかと将軍は考えた。


 その考えは不意に何処からか響いてきた男の声に否定される。


『アグハシル帝国軍に告げる。進軍を停止し、速やかに撤退を開始せよ。五分以内に進軍が停止しない場合、こちらは帝国軍の殲滅を開始する』


 軍の前方から魔法によって拡声された声が届けられたわけではない。何処からともなく軍勢全体に届いた声だ。


 なるほど。あの魔法使いは偵察ではなく、口上の使者であったかと納得した。


 しかし帝国軍が止まる必要性は感じなかった。既にここ以外での戦端は開かれている。軍同士が向かい合っての口上戦ならば応じようもあるが、たった一人の軍旗も掲げてすらいない使者に対して軍を止めてまで応じる事はできない。


「虚仮威しに耳を傾ける必要など無い! 粛々と進軍を続けろ!」


 将軍の鼓舞に軍勢は止まる事は無かった。


 何らかの批難の言葉が使者からあると思われたが、何もない。


 そのまま進軍は続き、期限の五分まで時が過ぎる。


『……時間だ。これより、殲滅を開始する』


 軍全体に響いたその声に、将軍は可愛らしい虚勢だと鼻を鳴らす。この軍勢にこのまま圧殺がされるであろうあの都市は、この程度の抵抗しかできぬのだと哀れみすら感じた。


 だが、その哀れみが手心を加える理由にはならない。

 まずは丘の上の男から血祭りに上げるべく、騎馬隊を向かわせる。


 接近する騎馬隊に、丘の上の男が遠目にも見えるように長杖を動かした。


 その瞬間、一筋の光の束が放たれた。


 爆発音が鳴り響き、着弾点となった騎馬隊はその場所の地面と一緒に耕された。


「……なんだと!? 大魔法を使えるレベルの魔法使いか!」


 将軍は丘の上の男の素性をそう推測した。


 放たれた大魔法とその被害に驚きは有る。だが、脅威とは思わなかった。

 大魔法は威力と射程は凄まじいものがある。しかし、所詮それだけだ。


 習得には多大な才能を必要として、使用できる者などごく一握りだけ。大国たるアグハシル帝国でも大魔法を放つ事のできる魔法使いは三桁も居るかどうか。


 しかも大魔法は、一度放てば精神力を消耗し、休憩を挟まなくては連射もできない。

 大魔法が使える魔法使いを従軍させるなら、敵軍を攻撃する破壊の大魔法を使わせるよりも、進軍の際に問題になるモンスター避けの結界を張らせる事に注力させた方が軍の勝利に貢献する。


 防衛戦となる敵は進軍の際にモンスターの事を気にする必要は無い。

 であるからこそ、貴重な高レベル魔法使いの、なけなしの大魔法の一発を騎馬隊に放ったのだろう。

 騎馬隊が傷つく事は痛手だが、一発で全滅するものではない。広がって駆けていた騎馬隊の傷は、あの大魔法を放った魔法使いを討つ事で取り返しが付く。


 大魔法とは総じて詠唱時間が長い。二発目の大魔法が放てるだけの精神力を残していたとしても、残った騎馬隊の足をもってすれば、次の魔法が放たれる前に討つ事など容易い。


「こんな捨て駒のようなやり方で大魔法を放てる魔法使いを無駄遣いするとは……」

「あの街にろくな軍勢が存在していない証でしょう」


 将軍のつぶやきに応えたのは参謀の言葉だ。

 その可能性もあるなと将軍は頷いた。あるいは、街は戦いを望んでおらず、あの魔法使い一人が戦いを望んでいたか。

 まあ、あの魔法使い個人に関してはどちらでもいい。すぐに命を落とすのだ。


 将軍の思考はどうやって攻城戦を行なうかに向かい始めた。


 しかし次の瞬間に、その考えは打ち砕かれる。


 爆発音が再び轟いた。


「なっ! 二発目だと!?」


 大魔法の詠唱を終わらすには、あまりにも時間が短い。このレベルの大魔法を行使可能な魔法使いが二人居たのか。それとも、大魔法ではなく通常の魔法でこれ程までの威力を出したのか。


 二発目は無いとみて勇敢に丘の上の男へ向かっていた騎馬隊は総崩れとなった。蜘蛛の子を散らす騎馬隊の者たちはバラバラになって逃げ帰る。

 無いと思っていた二発目があった以上、三発目が無いとは言えない。彼らはその考えが誤りであることを祈り、次の犠牲者が自分にならないことを祈った。


 だが、その恐ろしい予想は的中した。


 三度目の閃光が騎馬隊を追撃する。爆発によって耕される地面と共に騎馬が吹き飛ぶ。

 逃げ散る騎馬隊は広がっているために、一発の攻撃による被害は小さい。ここで攻撃が終われば逃げ延びる騎馬もあっただろう。


 しかし、ゆっくりと歩く足音のようなリズムで、同じ攻撃が続けられた。


 閃光が走る度に、爆発が地面を掘り返し、ついでとばかりに騎馬が吹き飛ばされる。


 分散した事によって、一発による被害が小さくなったとは言え大魔法級の攻撃だ。

 しかも逃げ散る騎馬隊に対して、しらみつぶしのように放たれては、あっという間に全滅した。


 動くものが居なくなり、残ったのは、広範囲に渡ってえぐられ、掘り返された平原の地面だけだ。


 騎馬隊を蹴散らしたらしい男は一人、丘の上に佇んでいる。他に何者かが潜んでいるようには見えない。

 つまり、たった一人で帝国軍の騎馬隊一つを殲滅してみせたのだ。


「……あいつの精神力はどうなっている? 通常魔法でもアレほどの数は撃てんぞ?」


 将軍の呻きに、再び何処からか声が響いてきた。


『最後の警告を行う。速やかに撤退せよ。撤退しなければ殲滅を行なう』

「ふざけるな! 軍を広げて取り囲め! いくら大魔法が連続して使えようと数の力で圧殺できる!」

『……そうか、残念だ』


 将軍の軍への命令が聞こえたかのように声は応え、そのまま途切れる。


 丘の上の男は、杖を天に掲げる。


 警戒をするが何も起こらない。騎馬隊を殲滅した魔法はこちらまで届かないのか、それとも精神力が尽きたのか。


 たとえそうだとしても油断などできない。


 あの男は、こちらの頭上を見上げている。人影としてしか見えない遠きに居る男の視線など、分かるはずがない。けれど将軍はふとそう思った。


 何を見ているのだと、将軍は己の頭上を見上げる。


 そこには雲一つない広がっている。――そのはずだった。


 少なくともつい先程まではそうだったはずだ。


 なのに将軍の視界に飛び込んで来たのは、真っ白な分厚い雲の塊だ。


 それが高速で、軍勢に覆い被さるように落ちてくる。


「総員っ! 対空魔法防御っ!!」


 絶叫のような将軍の号令は、一歩遅かった。


 そしてその言葉が、将軍の最後の言葉となった。




 帝国軍は、声の通りに殲滅された。


 軍勢は将軍の命令に反応する間も無く、分厚い雲の呑み込まれる。

 同時に激しい雨音が鳴り響く。


 雨音は数十秒ほどで鳴り止み、その後、その場は静寂だけ支配した。

 降下して濃霧と呼ぶに相応しくなった雲は、軍勢を包み込んだまま中々晴れない。

 大勢の人が居るならば必ず生まれるざわめきが、全て消え失せていた。


 霧の中、不気味なほど静まりかえったその場にやがて、風が吹く。


 ゆっくりと霧は払われ、何が起きたかの全貌が明らかとなる。


 姿を表した軍勢は全てが凍り付き氷像になっていた。


 人も馬も、平原に生える草も全てが凍りついている。当然、その場に命を持つ者は残っていない。兵士たちは立ったまま死に、将軍は馬にまたがったまま死んでいた。


 もっとも広い範囲で被害を受けたのが、そんな氷像となり倒れる事もできずに命を落とした者達だ。


 氷像となった彼らから離れた場所に居た者は、体中霜まみれになって凍死していた。


 更に離れた者も、急激に下がった気温と体温によって、多くの兵士が命を落としていた。


 その時死んていなかった者もただ即死していなかったというだけだ。極度に下がった体温と、同じく下がった気温によって、凍死するのも時間の問題だ。


 軍勢から離れた場所に居た兵は、運良く死神の鎌から逃れることができた。それでも、手足の指と耳と鼻を凍傷で失った者が多い。

 氷結地獄から帝国本国に逃げ帰る事ができた、ごく僅かな幸運な彼らは、その時に何が起きたかを証言した。


『雨が……。降って来たんだ。


 俺が居た場所は軍の最後尾の辺りで、大して雨脚は強くなかった。軍の中央部分からは大きな雨の音がした。だから、それに比べたら大した事じゃなかった。小雨程度だったと思う。

 けどその雨は普通の雨じゃなかったんだ。

 とてつもなく冷たい雨だったんだ。


 ――魔法かって? いや分からない。魔法で作った雨だったのかもしれないけど、少なくともその雨からは魔力は感じられなかった。


 ともかく普通の雨じゃなかったんだ。雨に当たったら、普通、濡れるだろう?

 けど、その雨は、身体に当たった瞬間に煙になったんだ。俺の所は身体が濡れる程度には雨が降っていた。なのに、身体に触れた瞬間には煙になって乾いてしまったんだ。

 その代わり、とんでもなく冷たい雨だったんだ。


 ――なに? 燃えていたのか? ああ、煙の事か……。いや、物を燃やした時に出る煙じゃなかった。湯気みたいな煙だった。けど湯気みたいに熱くは無くて、逆にとてつもなく冷たい煙だった。


 雨が振った時、周囲は一瞬で霧に包まれたんだ。多分、あの霧は煙になった雨だと思う。


 あの霧もとてつもなく冷たくて……。俺の場所の霧はそれほど濃くはなくて、すぐに霧は晴れたんだ。けど他の場所はそうじゃなかった。とんでもなく濃い霧が掛かっているの見えた。

 その濃い霧が風に吹かれてゆっくり動いていったのも見えた。こっちは風上だったから大丈夫だった。けど、あの白い死神に巻き込まれた奴らで生き乗ったやつは居ない。


 ――何故そう思うだって? 生き残ったやつは、あの雨が降ってきた時、軍の中央から離れていて、尚且つその後吹いた風の、風上にいたやつだけだったからさ。


 他に生き残ったヤツらは居ない。


 俺らは火を起こして湯を沸かす事ができた。けど水は凍りついていたんだ。なんとか湯を沸かす事ができた。それでも仲間の多くは、寒い寒いと言いながら死んでいったんだ。


 ……なあ。俺たちを殺したヤツは何なんだ?

 軍隊を纏めて皆殺しにする魔法なんて、聞いたことが無いぞ? そんなの神話やおとぎ話の中だけの事じゃないのか?!


 あいつ、俺たちに殲滅するって言ってきたヤツは――。人間なのか?! 人類を滅ぼす魔王じゃないのか?! あんなこと! 人間にできるわけがないだろう?! 俺たちがあんなっ。まるで子供が遊びで、アリの巣に水を流し込むような殺され方するなんてっ!

 正しく魔王の所業じゃないかっ!』


 軍勢の全滅によって軍事力が低下したアグハシル帝国は攻略を諦めざるを得なくなった。

 公式にはそう発表されたが、実際には軍勢を凍りつかせた者を恐れたのだろうと、まことしやかにささやかれる事になる。


 やがでその者は、アグハシル帝国内でこう呼ばれ、広く恐れられる事になる。


 氷結の魔王と。



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