お題「鏡」
男は駆け足でアパートまで戻ると、靴を放り捨てるように脱ぎ去り、冷蔵庫まで一直線に突き進んだ。
酒を飲まねばならない。
わさびやしょうがのチューブなどの調味料が申し訳なさそうに鎮座している奥には、キンキンに冷えた500ml缶が男を待っていた。
零れる汗も拭わず、震える指でプルタブを空け、炭酸の刺激の赴くままに一息で空にした。
空っぽの缶を勢い良く投げつけると、昨日出し忘れた燃えるゴミの袋にあたって跳ね返り、からんからんとフローリングに転がって虚しい音を立てた。
ほつれが目立つ背広を脱ぎ捨て、冷蔵庫から再びビールを取り出し、また一息で空ける。
男はアルコールに強いわけではない。
すぐに酩酊感が襲ってきた。
ふらつく足取りで洗面台へ向かう。
ネクタイを緩めて鏡を覗き込むと、疲れた中年男が目を赤くしてこちらを見ていた。
今晩は会社の友人が企画した合コンに参加してきた。
明日には休日出勤が控えていたが、男は気にせず参加した。
この数年は女日照りが続き、親からも心配されており、なんとかせねばと奮起した次第だった。
合コンは快調な滑り出しだった。
好みのタイプの女性も参加しており、会話も盛り上がり、これは上手くいくだろう、と男は途中まで気を良くしていた。
ところがトイレに立ったときに、女性トイレの方から、女同士の会話が聞こえてきた。
聞こえてくるのは男側の悪口。
話がつまらないとか、服がダサいとか、恐ろしい話ばかりだ。
男はこれ以上聞かないようにと足早にその場を去ろうとしたが、自分の名前が聞こえてきて、思わず聞き入ってしまった。
曰く、顔がダメだという。
男は席に戻り、愛想笑いに努めた。
場を乱さぬよう適度に酒に手を付け、適当な話でお茶を濁し、二次会には参加せず逃げ出すように電車に飛び乗り、一人暮らしのアパートに帰ってきて――、そして、今に至るというわけだった。
空き缶を握りつぶし、部屋を物色する。
そうだ、この前の飲み会の残りがあったはずだ。
台所へ走り、日本酒のビンの蓋を開け、一気に流し込む。
喉が焼け付くようだ。
味など分かるはずもなかった。
顔がダメとは、まったく身も蓋も無い陰口である。
男は自分の顔について、とびきり不細工でも、美男子でもない、どこにでもありそうな顔だと自負していた。
ゆえに今回の陰口は、驚きこそすれ、傷つく必要などないのだと、男は自分に言い聞かせていた。
そもそも、初対面の男を相手に顔がどうこう言うなど、女性側に問題がある。
男の頭の中で誰かが言った。
いや、いや、世の女性はあのような輩ばかりではないはずだ。
今回がたまたま悪かっただけ。
頭の中で、また別の誰かが言った。
男は酒瓶をあおり、めまぐるしく進む脳内の会議を聞いていた。
きっと次がある。そうだ、それに良く見ればそんなに美人というわけでもなかった。
もっと美人で性格も良くて完璧な女性が、いつか自分の前に現れるに違いない。
しかし、完璧な女性とは、一体どんな顔をしているだろう。
いや何も、完璧でなくても良い。
自分にとっての最高の顔は、どんなだろうか。
酒瓶を放り出すと、部屋の隅の新聞紙の横に詰まれた雑誌へ飛びついた。
むしるようにめくり、グラビアのページを開く。
きわどい水着を身に着けた女たちが、誘うようなポーズで微笑んでいる。
男は次々にページをめくった。
あれでもない、これでもない。
なかなか見つからない。
ついには鋏を持ってきて、顔を切り刻んだ。
じょきり。
別のページの女優も刻む。
新聞の広告の顔も刻む。
じょきり、じょきり。
男の部屋は顔のパーツだらけになった。
男はモノクロとカラフルが入り混じる紙片を床に並べだした。
既に酩酊はピークに達している。
ぐるぐると回る視界の中、男はそれらのパーツを一つ一つ吟味していった。
自分が一番好きな目はどれだろう。
鼻の形は、耳は、髪の色は、顔の輪郭は、肌の色はどうだろう。
まつげの長さは、頬骨の位置は?
男の手は止まらない。
並べては崩し、崩しては並べていった。
少しずつ、自分の理想の顔が見えてきて、男は嬉しくなった。
酔いも手伝って、まるで自分が天使でも造り上げているような気分を味わっていた。
どれだけ時間が経っただろう。
酷くのどが渇いていることに気付いて、男は再び洗面台へ向かった。
蛇口をひねって水道水を口に含み喉を潤す。
顔を上げると、見るもおぞましい悪魔が鏡の中からこちらを見ていて、思わず悲鳴を上げた。
脂ぎった黒い肌に、濁った目はぎょろりと飛び出している。
むき出しの牙は黄色がかっていて、醜悪な笑みを浮かべている。
一体何事だ、と目を擦ると、赤ら顔の中年男に戻った。
自分の顔を見間違えるなど、酔いが大分進んでいるようだと男は我に返った。
自分は何をやっていたのだろう。
冷静になり、男は掠れるような溜息をついた。
何もかもがどうでも良くなって、その場に倒れるようにして眠った。
ケータイのアラーム音で目が覚めた。
朝だ。
体の節々が痛い。
フローリングで眠っていたせいだ。
きりきりとこめかみを刺すような頭痛が、今日は一日中二日酔いだと教えてくれた。
だがそうも言ってられない。
今日は休日出勤だ。
室内は惨憺たる有様だった。
空き缶と、倒れた酒瓶と、細切れの天使の肖像画を踏み越え、男はシャワー室へ向かった。
湯を浴び、鏡を見ながら髭を剃った。
とびきり不細工でも、美男子でもない、どこにでもありそうな疲れた中年男の顔がそこにあった。
<了>