エピローグ
「ねぇ、レイチェル。っで、その続きは?」
得意満面に、催促の電話に怯えるエマに経費の領収書を叩きつけた後、さらにもったいぶってから、レイチェルは今日、盗み聞いた話をエマに話し始めた。
「えっと、続きは……はっ!」
レイチェルは、肝心なところのページ同士が何かでくっついてしまっていることに気が付いた。剥がそうにも、ページ全体がくっついていて剥がれない。
「ねぇってば、レイチェル。もったいぶってないで続きを教えてよ」
エマは電話機とペン先を交互に見ながら、切羽詰った風に言ってくる。
だが、まさに切羽詰まっているのは、誰あろうレイチェルだった。
「(やばい。やばいよ……メモに書いてるからって話の内容なんて覚えてないし、サフィのおっぱいの感触しか覚えてないよ……唾で少しずつ溶かしながら……よし、いけるっ!)」
唾液で湿らせるとページの先が少し剥がれた。
「甘い……をおうっ!」
そして、レイチェルはそれが蜂蜜であることを思い出した。
「甘い?甘いって何?ちょっと、肝心なところが書けないんだけど……って今すっごい嫌な音がしたんだけど、何かが破れる音がしたんですけどっ‼」
思わず身を乗り出すエマ。その視線の先には……
「うへぇ……」
奮戦叶わず、無残にもページを破りとってしまったレイチェルの姿があった。
リリリーンッ リリリーンッ
その時、エマが一番恐れていた悪魔の電話が鳴った。
ネイマールは腕時計を見てから、手際よく終業作業をしていた。この後、取り立てて予定はなかったが、だからと言って手を遅くする理由もない。
「こんばんは、ネイマールさん。お久しぶりです」
「あら、ヴェラさんお久しぶりです」
珍しい人物がそこに立っていた。小柄で明るい赤毛に小さめの眼。大きな丸眼鏡をかけ、薄い唇の端には苦笑が作られている。これは彼女の癖だった。
彼女の名前はヴェラ・クリスティ。昨年行われたアミューズブーシュ社主催の文芸コンテストで優秀賞を受賞し、現在は小説家として働く傍ら、新聞の娯楽欄にエッセイを寄稿している。
「原稿ですか?」
「いえ、あの……言いにくいんですけど、ネタがなくって」
あはは……ヴェラは自分に呆れた声でカラカラと笑った。
「えぇっと……この前、お話ししていたミステリー小説のですか?」
「そうなんです。私って考えてみればミステリーって初めてで……日常ほのぼの系しか書いてこなかったのに、処女作のウケがよかったからって、調子にのって編集さんに次はミステリーでって言ったら、軽い気持ちで言ったらっ!次の日の文芸誌に次回作がミステリーだって告知されてて……」
にっちもさっちもいきませんよ。と再びカラカラと笑うヴェラ。
「あらら……」
「ネイマールさん」
「はい?」
「出来心は怖いですよ……私ね、結婚と告白はノリと勢いでもいいと思ってたんですよ。でも、今回のことで確信しました。石橋は叩いて渡るべきだとっ!」
「えっと…?」
「つまりはその、このあと時間はありますか?ウィスパー寄稿文店にいつも通りネタ漁りに行こうかと思うのですが、多分、今は締め切り間近でエマが修羅モードで、ほいほい尋ねようものなら、私なんてあっさり返り討ちにされてしまうと思うんですよ。だから、その、お願いします、一緒に行ってください」
ヴェラはそう言うと、勢いよく頭をさげ、そのまま受付カウンターで額を強打し、その場にうずくまってしまった。
ヴェラが小説に行き詰ると、ウィスパー寄稿文店に行くのは珍しいことではない。だが、前回、締め切り間近に店を訪れ、エマに酷い目にあわされたのが、よほど堪えたらしい……
「いいですよ」
「本当にっ⁉」
涙を袖でゴシゴシとやりながら、ヴェラはネイマールを見上げる。赤くなった額が痛々しい。
「支度するからちょっと待ってて下さいね」
「50秒で支度しなっ!」
ヴェラは嬉しそうに親指を立てて言うのであった。