Paper Moon
ドラマであれば、こんな場面は使い古されて採用出来ないね、なんて、偉い人から突っぱねられるのだろうなぁ、と思うような光景も、いざ目の前にしてしまっては私も閉口してしまう。黒光りする単身のリボルバー。日本じゃ滅多にお目にかかれない、本物の凶器だ。しかし実際のそれを私は見ていない。病室の鏡に私自身と共に映ったのを、今もじっと見つめている。
「俺は甘くないぞ。5分ごとに1人殺す。院長を呼べ」
私のこめかみには時折強く、殺さんがばかりに銃が押し当てられる。だが、病人や看護師が怯えながら見つめる相手、つまり当の犯人は、その場にいる誰よりも落ち着いていた。荒い息も、震えた手も見受けられない。今朝新調したシーツの上で私は、彼にもたれかかるように身体を預けている。
「見世物に見えるか、お前ら。ただ騒ぐだけだったら目障りだ。お前らからでも構わんぞ」
銃が私から離れる。と同時に、私の左目のすぐそばを急激に通過し、視線と同じ方向へ銃口が向けられた。患者達は雲の子を散らすように走り去り、看護師もまた、保身の為に廊下を走った。私は、不思議と「薄情者」とか「助けて」とか言ったドラマみたいな台詞が思いつかず、かといって恐ろしくも無かった。不思議と、犯人の腕に包まれる安心感が、心地良かったのだ。
「お前」
と切り出して、男は顔を振り、何かを探し出すと、「狭山 有紀子だな」と問う。小さく頷くと、「そうか」とまた銃を私に押し付けた。先程よりも、柔らかく。まるで母親にマッサージをする子どもが「お母さん、痛くない?」と加減して押すような風情すらある。
「お前は、どうしてここにいる」
素っ頓狂で、おかしかった。病院のベッドに名前が書いてあるのだから、何かしら入院しなければいけない病気を患ってここにいる。当たり前の事じゃないの、なんて答えたかったのだけれど、それでは今の雰囲気に余りにも合わない。少し、真面目を気取ってみる。
「虫垂炎です」
「盲腸か。良くなってきてるのか」
「えぇ、ご飯ももう食べられます」
「そうか。点滴だけで飯が食べられないのは辛かっただろう」
「ダイエットだと思えば気楽でしたよ。痛かったですけど」
「女は色々と大変だな」
私は、小学生の頃見たアニメの1シーンを思い出した。こういう時、正義のヒーローはとても出にくいのだろうな、と。普段ならば、悪事の限りを尽くす悪者に、正義の鉄槌を喰らわすべく、いつどこで着替えたのだか、どのような原理でベルトが回ったら特殊なスーツを着た超人になるのか分からない男なり女なりが、殴ったり蹴ったりビームを出したりして私をお姫様抱っこして救い出してくれる。その一連の行動に私は涙を流して、病院から飛び立つヒーローへ手を振る。その、誰もが一度は憧れる存在が、今この状況では窓の外から尻込みして眺めてしまうような、そんな雰囲気だ。
「お前の親は、見舞いに来るのか」
私の首にかかった腕がゆっくりと離れ、流れるように肩を掴んだ。身体を預けているので、映画を見るカップルのような構図になってしまっている。
「いえ、父は2年前に」
言いかけて、男が頷くのが見えた。そう、死んだ、とはまだ言っていないのに。いや、厳密には、死んだ、という表現では曖昧なのであるが、それすら制止して男は言葉を重ねた。
「守りたいと思えるものを守れなかった、っていうのは、恥ずかしい事だろうか」
低く唸るような、しかし落ち着く声だった。彼が郵便配達員で、私が荷物を受け取る時にこの声で話されたら、うっかりお茶でも出してしまいそうな魅力があった。
「恥ずかしくなんか、ないです。必死だったんですよね。だったら、恥ずかしいなんて思った方が、酷いと思います」
そうか。3度目の彼は少し安心したようだった。元々落ち着いてた風情から、更に温和な気持ちが私にも伝わってくる。ただ、純粋な疑問をぶつけるのは、今が一番良い。
「どうしてこんな事を」
ありふれた質問だった。しかし彼は私の耳元で笑って、困ったな、とつぶやく。
「疲れちまった、と言えばそれまでだ。だが、死ぬには惜しい命だから、長らえている」
どうにも本質を掴めない回答だ。彼自身も多分、納得してはいないだろう。ここにいる人間は、1割か2割、生きてはいない。生かされているのだ。延命装置やペースメーカーをつけて、息も絶え絶えにその身が休まる事すら許されない。人道的に、これはどうなのだろう、なんて、大学時代は思ったけれど、今となっては「生きてるだけでぼろ儲け」なのだ、と思うようにしている。そうでもしなければ、不安が安心を上回る今の世の中じゃ、ただ苦痛なだけだ。
「泣きたい時に泣けないなんて、変な世の中になったと思わないか」
私は即座に頷く。決して眼前の銃が怖いからではない。むしろ、彼は私をその銃で守ってくれているような気すらする。正義のヒーローは今や、私にとっては悪者なのかも知れない。正義なんて定義は、その程度のあやふやな立ち位置だ。
「許せないものを、許せないと言って、何がいけないんだろうな。それを訴える為に制度があって、法律があって、守る為に憲法がある。今じゃ中学生だって知ってる事だ。しかし、それを抑えているのが国だとしたら、俺はどこに駆け込めば良かったんだ?俺は、こんな物が欲しくて、こんな状況になりたくて、アンタを人質に取ったんじゃない」
そうだ、私は今、名も知らぬ良い声のこの人に、人質に取られているのだった。銃口を向けられて、ドラマのように犯人と話している。ということは、彼はもうすぐ誰かの説得に心打たれて自白し、涙ながらに連行されるのだろうか。そこまでドラマなら、お笑い種だ。私はお墓までこの話を持っていって、死んだ後に彼と会ったらこれを肴に一杯やりたい。
「人質に取ったにしては随分私と悠長に話してるのね」
「アンタが俺よりどっしり構えてるせいで、もっと高圧的にやろうと思ったのに狂っちまった」
何故か私のせいにされたが、まぁ私が何割か悪いかも知れない。そう、元から人を殺す気なんか無かった殺人鬼を、更に萎えさせてしまったのは確かだ。普通なら褒められる所だが、何だか勿体無い事をした気がする。
「私が院長です。貴方の要求は何ですか」
私は急にしおらしくしてみる。犯人に捕まる患者、という事に変わりは無いが、どうしてかそうした方が彼にも、そして何より向こう側でへっぴり腰に声を上げる院長や物陰に隠れて事の経緯を見やる看護師達にも、都合が良いと思った。
「アンタが5年前受け持った心臓病の男性を覚えているか」
院長は暫く黙り込み、首を横にゆっくり振った。多くの患者を執刀したから誰と言われなければ分からない、と、震えた声が私の所にも届く。
「あの頃ニュースで散々取り沙汰されたよなぁ。リビング・ウィル。生前の意思ってやつだ。苦しみたくないから無理な延命をしない。過ぎ行くままに命が終わるのを見届けて欲しい。俺と妹は、そう言ったはずだ」
男の声が、一層に震えた。涼やかな青いカーテンが風に揺れてはためき、花瓶に挿した花が口に沿うように回転する。
「助かる命を助ける、私の役目はそれだけです」
思い出したように強い声が跳ね返ってくる。院長の目が少し鋭くなったような気がした。だが、鏡越しに見える男の顔は、未だ崩れない。
「助けなくて良いと本人が言っても、それを無視してでも、功績の為に、お前の昇進の為に、有紀子を無碍にしてまで、俺を生かしたんだろう。人の命を救ったんだから、咎められる訳ないよな。有紀子を殺してなければ、お前はまだ病院内を駆けずり回る、心臓血管外科の劣等執刀医だったんだもんな」
「今作ったような話を、知ったような口で話すのはやめてもらえませんか」
院長は更に言葉が鋭くなった。まるでどっちが犯人か分からない口ぶりは、私を困惑させるに十分すぎた。下手をすると、私に銃を押し付けるこの男だけがこの病院で唯一の善人で、悪の親玉である院長とそれに加担する看護師軍団、のような構図になりつつある。しかし、偶然とは言え私と同じ名前の妹がこの男を掻き立てたと言うのなら、ますますお墓まで持っていく準備をしなければいけない。悲しいかな、多分これから先の人生でこれ以上のハプニングはもう無いと思うし。
「じゃあ聞くが、俺と妹、二人分の遺言書を親に渡すよう預けたはずだが、親の遺書には「二人の最期の気持ちを受け取れなくて残念だ」とあった。何故渡さなかったんだ」
「そんな物は受け取っていません」
「そう言うだろうな。じゃあもし、俺がその遺言書2枚を持ってたとしたら、どうする?」
段々と男の語気が強くなってきた。院長はうろたえながらも虚勢を張り続け、見ているのも恥ずかしい。守りたいものを守れないかも知れない、という恐怖が、余計に彼を辱めているのだろうか。だとしたら男は、もう恥ずかしさなんか、一切無い。
「ここのシュレッダー、随分ボロがきてるみたいだな。俺も有紀子も、実印押しておいて良かったよ、ホントに。無駄に几帳面なのは親譲りかね」
そう言って私の肩から手を離し、胸元から一枚の紙を取り出して広げた。そして私に「悪いが、読んでくれないか」と小さく囁く。頷いて受け取ると、彼はまた私の肩を強く掴むフリをした。本当は、全然力なんか入れてない。狂気に奮えた復讐の鬼を、必死に演じている。
「…お父様、お母様。私、支倉 真吾は、治る見込みの無い心臓の病気に侵されてしまいました。不運な事に、妹も私と同じ病気です。しかし心配をしないでください。私も妹も、延命治療を拒否します。この病院の噂は常々耳に入っております。人体実験紛いの手術を行い、失敗は体力が無かった事にするという噂は、私達の身を凍らすに余りあるものです。転院も望みません。静かに、兄妹二人で仲の良いまま、見送ってやってください。お願いします」
読み終えた私に「すまないな」と優しい声をかけてくれた彼は、あれから十数分しか経っていないのに随分と疲れた様子だった。院長は難しい言葉で私達に向かって罵声を浴びせているようだったが、ただの遠吠えにしか過ぎない。
「俺が助かると知って妹を殺したお前を追い詰める為だ。何だってするさ。世の中がいくら変わっても人間はそう変わりゃしないよ」
本を閉じて、私は何度目かの月を見上げる。あぁ、どうしてだろうか、今日が過ぎていく、と何度思っても、今日はまたやってくるし、明日はやってくるであろう、という期待でしかない。ドラマのようにロマンチックなレストランに憧れる少女の私はあの病院に置いてきた。だから、生きてるだけでぼろ儲け。がめつく、卑しく、生きてみても良いかなって思う私もまた、あの病院に忘れてきた。今残ったのは、何もかもを捨てたいと思う諦めの気持ちと、何かと兄のように振舞う、ひ弱な恋人。彼は多分私より先に死んでしまうけれど、私は彼と一緒のお墓に入る。それで、十分設けもんだ。十分、飾られた人生になったじゃない。
「何で婿に入ったの?」
「一度死んだから名前変えて心機一転、ってやつさ」
「薄情ね。妹さんが哀しむわよ」
「あいつも一緒に嫁に来たと思ってくれよ」
「まぁ、素敵。そういう事も言えるのね」
「月が綺麗だから、言ってみただけさ」
「ドラマの見すぎよ。私、死んでしまいそうだわ」