星を見る人
私は空を見上げた。
円く切り取られた小さな天空には、宝石箱からは程遠い一つまみの星々が見える。
空は絶望的に高く、どれほど手を伸ばしても届きそうにない。星の輝きもこの身には届かない。
頼りにならない星明りでは、時計の針すら確かめられぬ。
近くにあるはずの縄梯子も――いや、やめよう。例え視界が確保出来てもはしごは掛けなければ意味がないのだ。
そして、下にいる自分では、どうあってもはしごを掛ける事ができない。
第一、そんなことはまだ明るいうちに何度も試していた。
私の腕力では、はしごを投げて上に引っ掛けるのは無理だった。
丸石を積んで作られた壁面をよじ登ることも、何度か滑り落ちることで諦めた。
得られたのは徒労と幾つもの裂傷に打撲、そしてどうあっても叶わないと云う絶望だけだった。
じっとしていると不安に押し潰されそうになる。周囲の闇が凝り固まって、私に圧し掛かってくるかのようだ。
狂いそうになる心に、一筋の光を射しているのが天上に見える丸い空だった。
狭い空間の中、脚を折り曲げて何とか仰向けに横たわる。
深海に沈んだかのように物音一つしない。
喉は叫びすぎたせいでとっくに嗄れていた。
目を閉じて耳を澄ますと、こぽこぽと水が湧き出てくるような音が聞こえる。さらさらと清水が流れているようにも聞こえる。
極限状態にある私の心が生んだ幻聴なのかも知れない。
それとも、古い時代から染み付いた音が星の光を受けてよみがえったのかも知れない。
ここはかつて、水の底にあったのだから。
時間の感覚はとうに狂いきっていた。一秒が一時間のように感じ、一時間が一秒のように感じる。
疲れきった私の心身は、緊張の糸を絶望の刃に断ち切られ、いつしか深い眠りについていた。
目が覚めたらいつもの部屋のいつものベッドにいる。そんな都合の良い夢はなく、私の肉体は相変わらず地の底にある。
歪な石床で眠ったため、体中が痛い。昨日の打撲も手伝って、もう指一本動かせそうにない。
せめて清浄な空気をと思い、深呼吸しようとして激しく咳き込んだ。喉の渇きが限界を迎えたようだ。
たった一晩でここまで衰弱しようとは、自分の体の弱さに笑えてくる。
そうしてようやく私は目を開いた。
円く切り取った青空が見えた。
その中に、白く、青白く輝く小さな光点が視えた。
星だ。
井戸の底からなら、昼間でも星が視えると言うのは本当だったのだ。
太陽は容赦なく私の力を奪っていくのに、星はあんなにも優しく私を見守ってくれる。
体中の水分はもう一滴も残っていないと思っていたのに、暖かいものが頬を伝った。
最後にこのような星を見る事が出来るなんて、なんて贅沢な人生なのだ。
私は最後の一瞬まで星を見逃すまいと、残る力を振り絞ってまぶたを開き続ける。
太陽が中天に至り、彼の体を激しく包み込んだ時、彼の瞳は既に何も映していなかった。
所要時間:約40分。
暑かったのか寒かったのか、そこらへんを表現するの忘れた。
いれるとしたら横たわった時と目を開いた時かな。