洗車
梅雨が明けてしまった。
梅雨の真っ只中にある時は連日の雨を睨みながら過ごしていたと言うのに、明けたら明けたで梅雨の間が恋しくなってしまう。
薄暗い空にじめじめとした空気は鬱陶しいことこの上ないけれど、梅雨の間はなんと言っても気温がそれほど高くならないのだ。感覚的に7月は既に夏。だけども梅雨の間だと「今日は5月並の気温でしょう」と天気予報のお姉さんが言ってくれることがある。
5月の気温なんて遠い昔のことはさっぱり覚えてなくても、尋常な7月の気温より涼しいのは昨日の夕飯を覚えていない俺でもわかるのだ。
だけども梅雨は明けてしまった。
やってきたのはまさしく夏の空気。
憎たらしい太陽の容赦ないエネルギー放射の結果、巨大な日傘を用意できない地上は天上知らずに気温を上げていく。
テレビは各地の温度計が最高気温を更新していくのがよっぽど楽しいらしく、今日は何度今日は何度、明日は何度明日は何度と何度も何度も繰り返して放送する。
海外旅行から帰ってきたばかりならともかく、今日一日を真っ当に過ごしていれば、どれだけ暑かったか身に染みて知っている。それともまさか、海外帰りの人が俺が想像できないほどたくさんいるのだろうか?いや、まさか……。やめよう。庶民は海外旅行なんて縁がないんだ。きっとみんな暑い思いをしているんだ。
そんな暑い夏の炎天下の最中、日陰で犬のマットを洗っていた俺にオーダーが下された。
「車を洗え」
まさか、である。
町内の有線放送ではしきりに「熱中症に注意しましょう」と流され、ニュースを見ればヘッドラインに「熱中症で病院に搬送される人」を数えている。
にもかかわらず容赦のないオーダー。
外気は既に35度を越え、人気の少ない通りには陽炎が立ち昇り、遠くには逃げ水が見える。風がないため流れる汗は一向に乾かず顎を伝い、涼気を求めて打ち水をしようものなら逆に蒸し暑くなる始末。
畑仕事してるじい様が死んじゃうような過酷な環境だと言うにもかかわらず、車を洗え、である。
当たり前のことだが、洗車はクーラーの効いた室内でできる作業じゃない。車が置いてある外でするしかないのだ。
これが自分のことなら先延ばしにして涼しくなった夕方にでもするのだろうが、そのまま忘れて翌日以降にずれ込むことは珍しくない。
オーダーなのだから忘れてはいけない。
どうせやらなければいけない嫌なことならば、さっさと終わらせた方が気分的に楽である。
そんな理由で俺は暑さに立ち向かい、車を洗い始めた。
車を洗うと言っても本格的な洗車ではなく、極々簡単な水洗いだ。シャンプーもワックスも不要。ホースとスポンジと水きりタオルと仕上げタオルを用意すれば十分である。
水掛ホースには高圧洗浄機を使用する。
その出力は、なんと1.5メガパスカル。大気圧が1024ヘクトパスカル。ヘクトは100倍、メガは100万倍なので、大気圧の10倍以上の圧力で水が噴出するのだ。
しかし、数字をあれこれ言っても凄さはまったくわからない。ただ、ノズルから噴出す鋭い噴流を見ていると、指で触れれば怪我をしそうなくらい勢いが良い。怖くてやったことはないが。
スポンジは極普通の洗車用スポンジ。はっきり言って浴槽用スポンジと何が違うのかわからない。
水切りタオルはちょっと不思議なタオル。水気を吸いやすく、絞りやすい。きっと色々な種類があって、製品名にも凝った名前がついているのだろうが、そんな知識はなくとも洗車は可能である。こーいうアイテムがあると知っていればよいのだ。
最後の仕上げタオルは、洗車マニア様からは大変ご不興を買ってしまうと覚悟しつつ白状すると、なんの変哲もない普通のタオルを使用してしまう。
準備を万端に整えればいよいよ洗車開始だ。
洗車開始直後が一番気持ちいいんだ。
高圧洗浄機でぶわーっといくんだぶわーっと。
車のボディに水をかけて、目立つ汚れを洗い流すのだ。
高圧をうたうだけあって、ノズルの先端から吹き出る水はとても勢いが強い。ノズルから3メートルも離れると水は細かな霧となって空気に溶け込むように散っていく。角度によっては小さな虹が現れて目を楽しませ、体に掛かる微細な水滴もひんやりと気持ちいい。
水流が車のボディに当たった時も同様で、跳ね返った水はこれまた霧状となり周囲の温度を下げてくれる、ような気がする。
しかし、気持ちよい作業が終わってしまうとあとはひたすら地味である。
次に待っているのはスポンジ作業。
高圧洗浄機でも落ちない汚れを、スポンジで拭い落とす。この作業のポイントは、ボディが濡れているからと言ってスポンジでそのままこすってはいけないことだ。
汚れていると言うことは微細なほこりや塵がついているということ。そのままこすってしまうと、スポンジにたまった塵やらほこりがボディをひっかいて細かな傷を作ってしまう。
それを避けるためには、水をちょろちょろかけながらこすらないといけない。
水しぶきを浴びながらの作業と違って、炎天下の中でこの仕事はひたすら苦難である。
汗がながれっぱなしとなり、頬を伝い顎を伝い、時々目に入って痛い思いをさせてくれる。
時折吹く風がなんだか応援してくれるように思えて嬉しくなるが、北風と太陽と同じように風は太陽に勝てないらしく、汗を乾かすまではいかず、吹き続けてもくれない。
ボディを一通りふき取ったら、もう一度高圧洗浄機の出番だ。
拭い取った汚れを水の流れで落としきる。洗車は大量の水で汚れを落とすのが基本らしいと昔聞いた事がある。
ここまでくればあとは水を綺麗に拭きとって終わり。
拭き取り作業は、大きな水滴を水切りタオルで拭き取って、それから仕上げタオルで細かな水滴を拭きとるのだ。
こうすると手早く水滴を取りきる事が出来る。
暑い最中に洗車をすると、水滴を拭き取る前に乾いてしまってみっともない水玉模様がついてしまう事がある。それを避けるには手早く拭き取り作業する必要があり、そのために上記作業が生まれたのだ。
左手に水きりタオルを持ち、右手に仕上げタオルを持って拭き取り作業を黙々と始める。
暑くて無言になるわけではなく、急いでやらないと水垢が残って折角の洗車にけちがついてしまう。
空手少年が修行していたように、左手で円を描き、次には右手で円を描く。
彼ほど無心に作業を出来るわけないが、やらなきゃ終わらないのはきっと一緒。
洗車作業はまだ終わらない。
次はドアをあけて、ボディとドアの隙間を拭き取らなきゃいけない。もっとも、ボディ全面に比べると面積は僅かなので作業時間自体は短いのだ。
ただ、大体終わったのに後一歩が残っているのが気に入らないのだ。
ようやっと作業全部が終わった時には、もう全身が汗でびしょびしょだ。
太陽が一瞬たりともサボらずに輝いていたせいだ。
けども、クーラーの効いた屋内に非難できれば暑さの恨みも忘れてしまう。
むしろ、いい汗にスパイスを添えてくれてありがとう。
たっぷりと汗をかいた俺は軽くシャワーを浴びる。
汗を流してすっきりとした俺を待っているのは、キンキンに冷たく冷えたビール。ではなく、サイダー。
車を運転するようになってから幾年が経とうとも、ビールの旨さがいまだわからないでいる……。
掛かった時間を正確に計るの忘れてしまった。
1時間から1時間半の間だとおもうのだが、どーだろ?