蝶子の鈴
さて、ちょっと不思議なお話をしましょう―――――――
もう何年も前の春休み。私は十一歳だった。群馬の田舎に住む祖父母の所に、母と一緒に遊びに来ていた。その時は他に、三人のいとこ達も来ていて、とてもにぎやかだったのを記憶している。その年は、珍しく季節はずれの雪が降った。四国で育った私にとって、ただでさえ雪は珍しい。私は祖父に、外に連れて行ってくれと頼んだ。面倒だと言いながらも、いとこ達も乗り気だったためか、祖父は私たちを外へ連れ出してくれたのだった。
「見てみろ。梅の花が凍ってる」
そんな事を言いながら私達の前を歩く祖父が連れて行ってくれたのは、家からすぐ近くにある神社だった。なんという神社だったかは忘れてしまったが、ひどく古い神社だったのは覚えている。針葉樹が日光を遮っているため薄暗く、赤かったであろう鳥居の色は落ちているし、雪をかぶった狛犬達の座っている台座には緑の苔が生えていた。当然ながら、昨夜降った雪もそのままにされている訳で、私はいとこ達と雪を踏んだ。サクッサクッという音が気持ち良くて、靴や手袋が濡れるのもかまわずに遊んだ。
ふと祖父を見ると、祖父は背の低い細い竹を取ってきていた。小刀で竹の先を尖らせている。不思議そうに見ている私の視線に気が付いたのか、祖父は私にその竹を一本渡してくれた。同じように後から来たいとこ達にも竹を渡し、祖父は
「切れ込みが入っているだろう。茶色い所を剥いでみな」
と言った。言われた通りにすると、茶色い皮の下から青い綺麗な竹が出てくる。これは驚きだ。枯れた竹かと思っていた。枯れていたのは表面だけのようだ。目を丸くしている私達を見ながら、祖父は満足げな顔をした。
「綺麗だろうが。家で使うから、汚すんじゃないぞ」
笑いながら言った祖父に私達はうん、と返事をした。
その時、私は背後で鈴の音を聞いた。軽い音だった。はっとして振り返ったが、誰もいない。驚いてしばらく辺りを見回す。
ざあっと音を立てて吹いた風が私の髪を乱した。
次の瞬間、隣に立っていたはずのいとこ達と、前で笑っていたはずの祖父の姿がふっと掻き消えた。そして、さっきまで祖父の居た所には、少女が立っていたのだ。年は私と同じくらいだろうか。長い緑の黒髪と白いワンピースを風になびかせていたその少女は、じっと私を見つめていた。
「運がいいんだね。私が言うのも変だけど」
その少女はそう言って笑った。鈴の音がする。よく見ると彼女の腕環に小さい銀色の鈴がついているようだ。
「いいもの、持ってるね。私も欲しい」
当惑しきった私は何も言えずに、ただ立っているだけだった。少女は笑いながらぱんっと手を叩いた。
一瞬後、裸足の少女の足元には私のものによく似た竹が転がっていた。今までは確かになかったはずなのに。私は目を疑った。しかし、何度目をこすってもその竹は少女の足元にあるし、祖父達の姿はなかった。
「ごめんね。驚かせちゃったね」
私はやっと口を開いた。
「君は?」
「蝶子よ」
竹を拾った少女は笑って言った。そうして、もう一度手を叩いた。
「ほらね」
私は目を奪われた。辺り一面、色とりどりの花が咲いていた。雪はなくなり、しおれていた草は立ち上がって緑色をしていた。冷たかった風は温かく、どこからか花弁を運んだ。
蝶子を見ると、彼女は竹をかまえていた。
「私ね、腕には自信があるのよ」
私は蝶子の言った意味を理解し、祖父から預かった竹をかまえた。汚すなと言われた竹だったはずだが、私は忘れていた。蝶子が、元気な掛け声をかけた。私も声を上げる。蝶子の動きは速かった。風のように舞い、堅い竹を鞭のようにおろす。私は次々と繰り出される「何でもあり」の蝶子の技を必死で止めた。
何度目かの対戦のあと、蝶子は言った。
「強いね、久々よ、あなたみたいな人」
私は服の袖で汗を拭って笑った。というより、頬が緩んだ。剣術の基礎は祖父から教わっていたが、今までの誰に褒められた時よりも、嬉しかった。
休憩している間は、蝶子は花の名や花の編み方を教えてくれた。シロツメクサを基調にタンポポやアカツメクサを編みこむ。花の冠や腕輪を身につけ、小鳥や虫と会話する蝶子は綺麗だった。精霊のような美しさだった。何もかもが新しくて、珍しくて、面白かった。時間を忘れた。
何度目かの休憩をしている時、私がつくったタンポポの冠をかぶった蝶子の肩に一羽のメジロがとまった。メジロの鳴く声の後、なぜだろうか。蝶子の顔が暗くなる。
「ああ、もう時間だ。嫌だなあ。これがあるから」
「え?」
突然、私の周りの物の輪郭が溶け始めた。足もとの花々も消えていく。しっかりとした輪郭を保っているのは私と蝶子だけだ。地面が無くなったのに、私たちは立っていた。
「もう時間だ」
蝶子はもう一度言った。私は何かを言おうとしたが、口が開かなかった。蝶子が私に近寄ってきて、私の胸ポケットに何かを入れた。その途端に蝶子の輪郭も溶け始める。
「じゃあね」
蝶子の姿が完全に消えた。私は目を閉じた。
私は目を開けた。私の隣にはいとこ達が立っていて、前では祖父が笑っていた。祖父は、ポカンとした私に気がつくと、
「それじゃあ、帰ろうか」
と言った。私は慌てて竹を見た。さっき蝶子と遊んで汚してしまったはずだったが、竹は無傷だった。私が茶色い皮を取ったその時のまま、つるつるした青い竹が私の手に握られていた。
帰り道、祖父は私の横を歩きながら言った。
「楽しかったかい?」
私は俯いたまま小さな声で、うん、と答えた。
しかし祖父はもう一回私に言った。
「本当に、楽しかったかい?」
私は祖父を見上げた。祖父は優しく微笑んでいる。私ははっとして胸ポケットを探った。私の指が、何か丸いものにあたった。
「あ」
鈴だった。小さい銀色の鈴。祖父は何も言えない私の頭を撫でながら言った。
「楽しかったようだねえ」
《完》
はじめまして。
ちょっと前に書いた小説です。
最後まで読んでいただけたなら幸いです。
さらに、このお話を気に入っていただけたなら、もっと嬉しいです。
ありがとうございました。