画竜点睛を欠く
「日の丸弁当ってあるだろう」
向田が唐突に言う。僕らは弁当屋で買ったのり弁当を、その弁当屋の向かいのベンチで食べていた。昼下がりの、ピークは過ぎた頃だから、店番のおばちゃんがニコニコと僕らが弁当をつつくのを眺めている。
「日の丸弁当というくらいだから、真っ白な白飯が土台にないと駄目だよな。その上に真っ赤な梅干しを乗せるんだ」
「うん」
向田が唐突なのはいつもの事だ。今の今まで僕の大学での授業態度や講義内容について聞き出していたかと思えば、話があらぬ方向にすっ飛んでいく。きっと、弁当屋の真横にあるバナーの、唐揚げ弁当を再び見てしまったのだ。トレーの右側に唐揚げがぎゅうぎゅうに詰まっていて、左側はまさに日の丸弁当になっている。白飯に紅一点。
あれにするかのり弁にするか、僕らは結構真剣に悩んだ。
「おかずはやっぱり唐揚げだろう」
やっぱり、と僕は思いながらちくわ天を齧った。
「まあ、梅干しひとつじゃあ、あの量のご飯は食べられないよね」
適当に話を合わせるのにも慣れてきた。とても頭を使う話と、使わない話。向田の話はその境界線が曖昧なのだけれど、世間一般からすれば大抵きっぱり後者である。
「画竜点睛を欠くって、言葉、知ってる?」
「がりょう?」
「故事成語だよ。昔、中国の凄腕の絵師がお寺の壁に竜の絵を描いたんだ。それに瞳を入れた途端、本当に竜になって壁から抜け出して、空に昇っていったという話があってね。それが、画竜点睛。ものすごく大事な最後の仕上げって意味。で、画竜点睛を欠くって言うのは......」
「目を入れ忘れたってこと?」
「まあね。仕上げが不十分だったってことだよ。最後の最後に、うわあ、やっちゃったってなるんだね」
僕は箸休めにきんぴらごぼうを摘むか、たくわんを摘むか悩んだ。向田の方をちらりと見ると、きんぴらごぼうが無くなっている。僕はごぼうを二、三本口に放り込んだ。
「それで、それがどうやって日の丸弁当に繋がるのさ」
「朝のキッチンだ。コンロに味噌を溶いたばかりの熱い味噌汁と、完成しただし巻き玉子の乗ったフライパンが置いてあるんだ。その隣では、弁当に着々と菜箸で食べ物が詰められていく」
僕のきんぴらは空になった。
「それで、だし巻き玉子と、きんぴらごぼうと、あとは何か一品、適当なおかずが詰められる」
「うん」
「そして、ご飯エリアには白飯がぎゅうぎゅうに詰まってる。弁当の隅々まで、隙間なく食材は詰められたんだ」
「うん」
僕はぽりぽりとたくわんを齧った。甘い味付けだ。おばちゃんと一瞬目が合う。
「そして、冷蔵庫からパックの梅干しを取り出す」
「うん、うん」
「梅干しを菜箸で一粒摘んで、白飯の上に乗っける......次の瞬間、真ん中ではなくて、箸から転げ落ちて随分下の方に乗っかってしまう」
「なるほど」
僕はご飯を掻き込んだ。
「画竜点睛を欠いたわけだ」
「うん」
「どう思う?」
「どうって?」
「ここからどうするかだよ。梅干しを定位置に戻すかってこと」
「そりゃあ」
蓋を開けて梅干しが中央になければ、なんだか虫の居所が悪い気がする。日の丸弁当ではない。なんだか日本じゃない国で、ちょっと微妙な気持ちで弁当をつつくことになりそうだ。
「でも、一度置いた場所は赤くなっているんだぞ。それをどう隠蔽する?」
「隠蔽って」
「画竜点睛を欠くって、日の丸弁当でも起こり得ることなんだな、って、さっき思ったんだよ」
僕のトレーはすっかり空になっていた。おばちゃんはいつの間にか居なくなっていて、奥の方から水を流す音がする。洗い物でもしているのだろう。向田の弁当は全然減っていない。僕は腕時計を見た。午後の講義が始まるまで十五分。そろそろ行かないとならない。
「ねえ、僕もう戻るけど」
「うん。店番のおばさん、どこに行ったんだろうな」
向田はちくわ天を口に咥えながら、正面の店を見ている。
「おばちゃんに、梅干しを間違って中央以外に落としたことがあるか、まさか聞くんじゃないだろうね」
「優秀な学生だなあ。早く大学に戻りたまえ」
僕は軽く向田を睨みつけて、さっさと大学の方へ歩き始めた。ゴミ箱を探しながら右往左往しているうちに、午後の講義に五分ばかり遅刻してしまった。
後日、向田に本当におばちゃんに聞いたのか尋ねると、
「そういう時は箸で白飯をくるってひっくり返すんだってさ」
とケロリとした顔で言ったので、呆れて言葉も出なかった。




