過去の傷跡
石碑騒動の収束から三日が経った。
アルケミエ学園は、ようやく平静を取り戻し始めていた。帝国監視官の調査は形式的に終了し、古代魔法の痕跡は消され、生徒たちの不安も薄れていった。だが、リーナにとっては、その三日間は永遠に思えるほど長かった。
カイが自分を守ってくれた理由。エルヴィンが何かを探ろうとしていた理由。その二つの視線の中で、リーナは胸を締め付けられるような思いで毎日を過ごしていた。
夕暮れ時。学園の中央庭園は、昼間の喧騒が嘘のような静寂に包まれていた。リーナは噴水の脇にある石造りのベンチに座り、沈む太陽を眺めていた。空が茜色に染まり、影が長く伸びる時間帯。この時間が、彼女は一番好きだった。昼間ではない、かといって完全な暗闇でもない。その曖昧な境界線の中で、自分の秘密も一瞬だけ、許されるような気がしたからだ。
「君はいつもここにいるんだな、探しやすい」
その声は、静かで、少し疲れたような響きを持っていた。
リーナが振り返ると、エルヴィン・レイトンが庭園の石畳を歩んできている。栗色の髪が夕焼けに照らされて、赤銅色に輝いている。青い瞳は、相変わらず何かを観察するような深さを持っていた。だが、その瞳の奥には、いつもの好奇心とは別の、何か重い感情が宿っているように見える。
「……エルヴィンさん」
リーナが挨拶した。その声は、いつもより低かった。警戒心もあるが、同時に別の感情も混ざっていた。好奇心。エルヴィンが何を言いに来たのか、知りたいという気持ち。
エルヴィンはベンチの端に座った。リーナとの距離は、約一メートル。近すぎず、遠すぎず。その距離感は、何かの意図があるのか、それとも自然なのか。リーナには判断がつかなかった。
「話がある」
エルヴィンが呟いた。その声は、決意に満ちていた。
「話したいと思っていたんだけど...タイミングを逃してた」
リーナは何も返さず、ただエルヴィンを見つめた。彼が何を言おうとしているのか、察しはついていた。あの石碑の件。古代魔法の知識。その全てに関連した、何かの秘密。
「実は、俺にも秘密がある」
エルヴィンがようやく口を開いた。
「君には関係ない秘密。でも...今話す理由もある。君の魔法を見たからだ。あの不思議な制御パターン。その時、俺は昔のことを思い出した」
リーナの全身に緊張が走った。古代魔法を見抜かれているのか。だが、その推測は外れていた。
「昔、俺には師匠がいた」
エルヴィンが話し始めた。
その声は、とても静かだった。だが、その静寂の奥底には、深い痛みが隠れている。リーナは、そう感じた。
「古代魔法の研究をしていた人だった。帝式魔導とは全く異なる、別の系統の魔法を学びたいって。俺は、その師匠の元で、三年間ほど学んだ。その間に、古代ルーヴェノール文明の歴史、失われた言語、根源律という古い術式について、いろいろなことを学んだ」
リーナの心臓が、激しく脈打った。古代ルーヴェノール。根源律。それは、母から教わった言葉だ。古代魔法。自分の秘密そのもの。
「でも」
エルヴィンが続けた。その声は、かすかに震えていた。
「その師匠は...帝国に捕まった」
夕焼けの光が、二人を柔らかく照らしている。リーナは、エルヴィンの顔をじっと見つめた。彼の表情は、その光の中で、わずかに歪んでいるように見える。悔恨。後悔。その二つの感情が、彼の顔に刻まれていた。
「帝国の異端審問局。鉄冠院という、帝国皇帝直属の秘密機関だ」
リーナは、その言葉を聞いて、全身の力が抜けるのを感じた。鉄冠院。帝国最高の暴力装置。古代魔法の使い手を狩り、処刑する組織。
「師匠は、古代魔法の研究をしているということで、指名手配された。俺は...その時、何もできなかった。隠れることしかできなかった。そして、師匠は処刑された」
エルヴィンの声が、途中で途切れた。彼は唇を噛みしめ、目を閉じた。夕焼けの光が、彼の横顔を照らしている。その顔には、深い悲しみと、静かな怒りが刻まれていた。
時間が止まったようだった。リーナは、何も言う言葉が見つからなかった。エルヴィンの悲しみが、自分の心に重くのしかかっている。同時に、別の感情も生まれていた。
(この人は...師匠を失ったんだ)
そう思った時、リーナの心の中で何かが変わった。エルヴィンに対する見方が、確実に変わった。彼は単なる、何かを探ろうとする上級生ではなく、深い傷を抱えた、一人の人間だったのだ。
「君の魔法を見た時」
エルヴィンが、ようやく目を開いた。その青い瞳が、リーナを見つめている。
「その特異な制御パターン。あの師匠を思い出した。師匠の魔法も、帝式魔導とは全く異なっていた。力の使い方が、完全に違うんだ。君の魔法には、その匂いがある。古い魔法の、ほんのかすかな痕跡が」
リーナは息が止まった。
(見抜かれている)
だが、その恐怖よりも、別の感情が強かった。エルヴィンは、自分を指弾しようとしているのではなく、ただ...師匠を重ねているのだ。
「だから...話したかった。君が何かの秘密を持っているなら、それが何であれ、俺は味方になりたい」
エルヴィンの声は、静かで、真摯だった。
「師匠を失ったから。俺は、二度と、大切な誰かを失いたくない。だから...君がもし、何か困っていることがあれば...」
言葉が途切れた。
リーナは、自分の心の中で、何か大きなものが動いているのを感じた。この人は、自分の秘密を知っているのに、それを帝国に通報しようとしていない。むしろ、保護しようとしている。
夕焼けがより一層深くなり、空の色が紫に染まり始めた。二人は、その色の変化の中で、並んで座っていた。物理的には、約一メートルの距離。だが、心理的には、確実に距離が縮まっていた。
「俺が思い出すのは、いつも師匠のことだ。毎日、どこかで。朝起きた時、街を歩いている時、夜眠りに落ちる前に」
エルヴィンが、静かに続けた。
「でも...君といると、その思い出が...違う形に変わる。君といると、まるで師匠がまだ生きているような気がするんだ」
リーナの胸が、ぎゅっと締め付けられた。それは、同情の圧迫感ではなく、別の何かだった。温かみ。相手の心を受け入れたいという気持ち。
エルヴィンは、ゆっくりとリーナの方に向き直った。その瞳が、彼女をじっと見つめている。
「だから...もし君が話したいことがあれば、聞く。そして...秘密を守る。俺に、その力があるなら」
リーナは、その言葉を聞いて、自分の秘密の一部を、この人に明かしたいという衝動に駆られた。古代魔法。ルーヴェノールの血。その全てを話したい。この人なら、きっと理解してくれる。
だが、その衝動に、別の恐怖が抵抗した。話したら、それが本当に秘密になるのか。いつか、この人を通じて、帝国に知られることになるのではないか。
リーナは、その葛藤の中で、静かに首を横に振った。
「……まだ、話せません」
その声は、かすかに震えていた。
「でも...聞いていただいて、ありがとうございます。エルヴィンさんの...悲しみを」
リーナが言葉を継いだ。
「……見捨てられていないんだ、ということが...少し、わかった気がします」
エルヴィンは、その言葉を聞いて、わずかに笑顔を浮かべた。完全な笑顔ではなく、悲しみが混ざった、複雑な笑顔だ。
「そうか」
エルヴィンが呟いた。
「でいい。俺は...君がここにいてくれるだけで...」
そこまで言った時、暗くなり始めた庭園の片隅で、何かの気配を感じた。
リーナが、その気配に気づき、反射的に振り返った。すると、庭園の奥の暗がりから、白金色の髪を持つ人物が、ゆっくりと歩み去るのが見える。
カイ・ヴァイスハルト。
リーナの心臓が、激しく脈打った。カイが、どの程度の会話を聞いていたのか、その顔を見ることはできなかった。だが、その背中の空気が、何かの複雑な感情で満ちているのは、確実だった。
リーナが、カイを目で追っていると、エルヴィンが気づいた。
「何か?」
エルヴィンが聞いた。
「……何もありません」
リーナが答えた。だが、その答えは嘘だった。カイが、自分たちの会話を聞いていたこと。その複雑な表情。その全てが、リーナの心に新たな不安をもたらしていた。
エルヴィンは、リーナをじっと見つめたままだった。何か、気づいているような表情で。だが、彼は、それ以上何も言わなかった。
「そろそろ、夜になる。帰ろうか」
エルヴィンが静かに立ち上がった。
リーナも、その後に続いた。庭園を出る際、彼女は何度も後ろを振り返った。カイがいた暗がりは、今はもう、深い黒に染まっていた。
夜の学園へ向かう二人の足取りは、重かった。一歩一歩が、新たな感情と葛藤を重ねているようだった。
リーナの心は、大きく揺れていた。エルヴィンへの共感。彼が見せた深い傷。そして、その傷を分かち合いたいという強い想い。同時に、カイの複雑な表情。あの人は、何を思っていたのか。何を感じたのか。
二つの視線が、自分に向けられている。二つの想い。二つの秘密。その全てが、リーナの心の中で、複雑に絡み合っていた。
(この人たちを、どう思えばいいのか...)
リーナは、静かにそう呟いた。答えは、まだ見つからない。だが、その途中で、確実に何かが変わっていることを、彼女は感じていた。
エルヴィンの苦しみに寄り添いたい気持ち。同時に、カイが自分に何を求めているのかを知りたい気持ち。その二つの想いが、リーナの心の中で、新たな物語を紡ぎ始めていた。




