禁忌の影
朝の光が学園の石造りの廊下に差し込む。いつもより重い空気が流れていた。
リーナは掲示板を見つめた。その上に貼られた一枚の紙。『緊急:古代魔法関連の異物発見。全生徒は所属教室に待機のこと。帝国監視官による調査が本日より開始される』
心臓が止まりかけた。
古代魔法。その言葉だけで、リーナの全身に緊張が走る。母から教わった根源律。右手首に薄く浮かぶ古代魔法の紋様。全てが露見する危険。死刑。
(落ち着いて)
リーナは深呼吸をした。学園は多くの生徒が集まっている。廊下の隅へ身を寄せ、他の生徒たちが何を話しているのか、耳を澄ます。
「何が見つかったんだろう」
「古代魔法だって。禁忌の術だ」
「怖いな...」
ざわめきが廊下に満ちている。生徒たちの間には明らかな恐怖が広がっていた。帝国が最も忌み嫌う古代魔法。その痕跡が学園内で発見されたという事実だけで、皆が不安に駆られている。
リーナは教室に向かった。途中、カイ・ヴァイスハルトとすれ違う。白金色の髪が陽光に輝いている。彼の表情には、いつもの冷たさに加えて、何か別の色が見えた。警戒。それとも、興味か。
その瞳がリーナと交錯した。わずかな間。その中で、リーナは何かを感じた。
彼も何かを知っているのか。それとも、自分の秘密に気づいているのか。
教室に着くと、エルヴィン・レイトンが既に廊下で待っていた。栗色の髪が朝日に照らされている。その青い瞳は、何か深い思考に沈んでいた。
「朝からご苦労さん、リーナ」
エルヴィンは笑顔で声をかけた。だが、その笑顔の奥底には、明らかに何かの計算があるように思える。
「…おはようございます」
リーナは丁寧に答えた。警戒心を忘れず、言葉を慎重に選ぶ。
「で、君はあれを知ってる?古代魔法の断片が見つかったんだって。学園内でね」
エルヴィンの声は軽く、当たり障りのない口調だが、その質問は核心を突いている。
「…今、掲示板で知りました」
リーナの声は小さかった。感情が高ぶると、言葉が詰まってしまう。それが今のリーナの状態だった。
「へえ。ところで、君の魔力制御、この頃どう?」
エルヴィンが話題を変えた。その転換は自然だが、リーナには何か意図的に感じられた。試験結果。容量値の改善。それについて、なぜ今、聞くのか。
「…少し、改善しました」
「いいね。頑張ってるんだ。えらいね」
エルヴィンは肩を軽く叩いた。その仕草は友人的で親切だが、リーナは警戒を解かない。彼は何かを探っている。その感覚は確かだ。
実習室に移動させられたのは、午前中の授業が始まる直前だった。
そこで、リーナは初めて、その物を見た。
石碑。
灰色の石で作られた、背丈ほどの石碑が、実習室の中央に置かれていた。その表面には、無数の文字が刻まれている。古代文字。
リーナの全身が硬直した。
その文字は、母から教わった言葉だ。古いルーヴェノール文明の言葉。根源律の詠唱に使う文字。
心臓が激しく脈打つ。胸の奥で、何かが暴れ始めた。
(これは…何なのか)
帝国の監視官が、石碑の前で何かを計測していた。魔導具を使って、古代魔法の痕跡を調べているのだろう。その周囲には、学園の教師たちが立ち尽くしている。
リーナは人混みの隅に身を隠した。石碑をじっと見つめながら、呼吸を整えようとする。だが、整わない。
「落ち着け」という思いと「露見するかもしれない」という恐怖が、心の中で衝突している。
「見つかったのは昨日の夜。中庭の片隅に置かれていた」
学園長オルヴィナ・シュトラーセが、監視官に説明している。その声は平坦で、感情を排除した口調だ。
「誰が置いたのか、現在のところ不明。古代魔法の痕跡は新しい。おそらく、数日以内に刻まれたものと思われます」
監視官は無言で頷いた。その表情は硬く、何かの疑惑に満ちている。
「学園内に古代魔法使用者がいるということか」
その言葉が、室内に落ちた。
リーナは息が止まった。
周囲の教師たちが、互いに視線を交わす。その中に、不安と疑惑が満ちている。古代魔法使用者。その言葉は、死刑宣告と同等だ。
「全生徒に対して、徹底的な調査を行う」
監視官が宣言した。
「魔力検査。古代魔法の特異な痕跡がないか、全員調べさせる」
リーナの心が、完全に凍りついた。
魔力検査。古代魔法の痕跡を調べられたら、自分は終わりだ。右手首の紋様。古代魔法を修めた者にしか出ない痕跡。それが見つかれば、即座に処刑される。
その時だった。
「失礼します」
カイ・ヴァイスハルトが、前に出た。白金色の髪が光に輝いている。その瞳は冷たく、だが何かの意志が燃えている。
「ヴァイスハルト嫡子。何か意見があるか」
監視官が、わずかに警戒心を示した。帝国六大貴族の当主の息子。その発言には、政治的な重みがある。
「この石碑の刻まれた時期について。本当に数日以内なのか、検証する必要があります」
カイの声は落ち着いていた。完全な論理的思考。
「古代魔法の痕跡は確かに新しい。ですが、それは『刻まれた』タイミングではなく、『持ち込まれた』タイミングの可能性があります」
監視官が、わずかに眉をひそめた。
「つまり」
カイが続ける。
「この石碑は、学園外で刻まれ、誰かが意図的に学園内に持ち込んだ。そういう可能性です」
リーナは、その言葉の意味を理解した。カイは何かを指摘している。単なる学園内の古代魔法使用者ではなく、何者かが意図的に騒ぎを起こそうとしているのではないか。そういう指摘だ。
「それは…」
監視官が言葉を濁らせた。その表情に、わずかながら疑問が浮かぶ。
「詳しく調べる必要があります。石碑の材質。刻まれた古代文字の年代。学園への持ち込み経路。全てです」
カイの主張は冷徹だ。完全に論理的で、感情を排除している。だが、その言葉の奥底には、何かの意図が隠されているように思える。
リーナは、その瞬間、何かに気づいた。
(カイさんが、私を守ってくれている)
そう思った瞬間、胸の中に別の感情が生まれた。警戒心と感謝が混ざった、複雑な気持ち。
監視官の調査は、その後、別の方向へ向かい始めた。石碑の持ち込み経路。学園図書館のチェック。古い資料の確認。
やがて、その夜のことだった。
エルヴィンとカイは、学園図書館の禁書区域で、何かを調べていた。その中には、リーナも含まれていた。三人は、古い資料の中から、何かを探っていた。
「この痕跡。持ち込まれた日時は、確実に三日以内だ」
カイが静かに言った。その指が、古い書物の一ページを指す。
「学園図書館から盗まれた可能性が高い」
エルヴィンが、その脇で何かをメモしていた。栗色の髪が書物の光に照らされている。
「で、この文字。正体は何なのか」
エルヴィンが、石碑の文字の写しを見つめている。その目は、深い知識を持つ者の瞳だ。
リーナは、その時、心臓が止まった。
母から教わった文字。その一字一字が、自分の心の奥底に刻まれている。古代ルーヴェノール文明の言葉。根源律の詠唱に使う言葉。
そして、その文字列は、非常に古い。おそらく、数百年前のものだ。
「これは…」
リーナの声が、わずかに震えた。
「知っているのか」
エルヴィンが、リーナの方を向いた。その青い瞳が、彼女を見つめている。それは、単なる好奇心ではなく、何かの核心に迫ろうとする視線だった。
「…いいえ。何も」
リーナは答えた。嘘だ。完全な嘘。だが、その嘘をつくことで、自分は生き延びることができるのだ。
カイが、その様子を静かに観察していた。その瞳が、リーナをじっと見つめている。
(彼は知っている)
そう思った。カイは、自分が嘘をついていることを知っているのだ。だが、それを口に出さない。なぜなのか。その理由が、リーナには分からなかった。
「この文字。古代ルーヴェノール文明のものだと思われる」
エルヴィンが、専門的な説明を始めた。
「失われた民族。帝国によって滅ぼされた、古い魔法の使い手たちだ」
そのエルヴィンの言葉は、まるでリーナの心を剥ぐようだった。
「でも、この文字が学園に現れるなんて。何かの意図がある」
エルヴィンの口調は変わった。推理的で、鋭い。
「誰かが、意図的にこの騒ぎを起こした。学園内に不安を作ろうとした」
カイが呟いた。
「学園内部に、帝国の息がかかった者がいる可能性がある」
その言葉が、室内に沈む。
三人は、その後、何時間も古い資料を調べた。やがて、明け方になった。
学園図書館から、古代魔法に関する書物が盗まれた痕跡が浮かび上がった。ここ一か月以内。複数冊。それらの書物は、根源律に関する詳細な記述を含んでいた。
「内部の陰謀。確実だ」
カイが結論を述べた。
「誰かが、古代魔法について研究している。そして、その研究を隠そうとしている」
エルヴィンが、静かに頷いた。
「帝国の息がかかった者。その可能性が高い」
リーナは、その会話の中で、自分の秘密の危険性を改めて感じた。古代魔法の知識。それは、死刑に値する秘密だ。
(いつか、この秘密は露見するのか)
そう思いながら、リーナは窓から見える暗い空を見つめていた。
やがて、夜が明け始めた。朝日が空を照らし始める。その光の中で、三人は図書館を後にした。
その歩みの中で、カイがリーナに近づいた。
「君は…」
カイが、何か言いかけた。だが、その言葉は完成しなかった。
「何も言うな。今はまだ、その時ではない」
カイは、そう言って、その場を去った。
リーナは、その言葉の意味を理解できなかった。だが、一つのことだけは、確実に分かった。
カイは、自分を守ってくれている。理由は不明だが、確実に。
そしてエルヴィンは、何かを探っている。何かの目的のために。
リーナの心の中では、信頼と警戒が、複雑に絡み合っていた。
学園の朝は、静かに明けていく。だが、その静寂の奥底には、何かの不穏な予感が潜んでいた。
帝国監視官の調査はまだ続いている。そして、学園内部の陰謀も、確実に蠢いている。
リーナは、その二つの危険に挟まれながら、一日一日を生き延びることしかできない。
だが、同時に、何かが変わり始めていた。カイとエルヴィンという二つの視線。その中で、リーナの心の距離は、わずかながら変わろうとしていた。




