露見の危機と決意の夜
試験まで、あと七日。
アルケミエ学園の廊下は、いつもより静かに感じられた。朝日が窓から差し込み、石の床に長い影を落としている。リーナは通路の隅を歩いていた。なるべく他の生徒に目立たぬよう、なるべく視線を集めぬよう。
前回の魔力測定の結果はもう学園全体に知れ渡っていた。容量値:12。それは、ほぼ絶望的な数字だった。同年代平均が100から120の中で、その十分の一。その数値は、リーナに対する周囲の態度を大きく変えていた。
教室の片隅に座ったリーナは、教師の言葉を聞いていなかった。いや、聞こうとしていなかった。脳が、その情報を拒否していた。
「測定結果が基準以下の生徒は、退学勧告の対象となる可能性があります」
その声は、まるで遠くから聞こえてくるようだった。教師は淡々と述べている。感情を排除した、事務的な口調で。
(退学...)
リーナの指が、机の端をぎゅっと握った。退学。それは、死刑宣告と同義だ。ここを追い出されたら、どこへ行けばいいのか。古代魔法の力を隠したまま、この帝国で生きていくことなど、不可能だ。
「次回の測定試験は一週間後です。改善が見られない場合は、進級が不可となります。そしてその次の測定でさらに基準を下回れば、教育委員会から正式な退学通知が出されます」
一週間。
リーナは心の中で何度も繰り返した。一週間で、容量を増やさなければならない。魔核容量は、生まれつきのものだ。訓練で急激に増えるものではない。だが、増やさなければ、ここにいられない。
放課後の訓練場で、リーナは何度も何度も同じ魔法を繰り返していた。火属性の基本魔法。フレアボール。完成させるのに必要な魔力は、同年代なら難なく供給できる。だが、リーナにとってそれは、まるで海の向こうにある星を掴もうとするようなものだった。
フレアボール。失敗。
フレアボール。失敗。
フレアボール。失敗。
何度目だろう。二十回か、三十回か。その度に、自分の不完全さが浮き彫りになる。なぜ、自分だけがこんなに弱いのか。なぜ、他の者たちは難なくできるのか。
(それは...)
リーナは知っていた。答えを。自分の魔核は、帝式魔導に最適化されていない。代わりに、古代魔法の力が流れている。根源律の力。帝国から最も忌み嫌われ、必死に隠さなければならない力。
訓練場の隅で、一人、リーナは何度も何度も魔法を試し続けた。
やがて日が沈んだ。訓練場の高い窓から、オレンジ色の光が最後の輝きを放っていた。リーナは息が切れていた。全身が汗で濡れている。だが、成果は何もない。
翌日、そして翌々日。リーナは必死に訓練を続けた。睡眠時間を削り、食事も簡単に済ませ、ただひたすら魔法を繰り返す。
四日目の朝。リーナは授業中に倒れた。
ぼんやりとした意識の中で、リーナは数人の生徒に支えられていることを感じた。彼らは何か言っていた。だが、その言葉は聞こえない。世界がふわふわと揺らいでいた。
「リーナ!大丈夫?」
同級生の声。ジークフリードだった。心配そうな顔。だが、その心配も、今のリーナには苦しかった。
保健室。白い天井。清潔な匂い。リーナは二時間ほどそこで眠った。
目を覚ました時、保健室の窓からは夕焼けが見えた。もう放課後だ。おそらく、授業は終わっている。
「目覚めたか」
その声は、静かで、冷たく、しかし同時に何かを観察するような鋭さを持っていた。
リーナが身を起こすと、カイ・ヴァイスハルトが椅子に座っているのが見えた。白金色の髪。氷のような瞳。帝国六大貴族ヴァイスハルト家の嫡子。
(なぜ...あの人が)
リーナの体が硬直した。第4話の中庭での出来事が頭をよぎった。月夜の庭園。あの奇妙な会話。そして、瞳偽りの環の警告音。
「保健室の人から、君が倒れたと聞いた。見舞いに来た」
カイの説明は、シンプルだった。だが、その目は、何かをさぐるようにリーナを見つめていた。
「ご心配をおかけしてしまいました。ただ、睡眠不足で...」
リーナは、丁寧に、そして慎重に答えた。
「無理をするな」
カイが言った。その声には、わずかながら、温かみがあった。完全に冷たいわけではない、そんな温かみ。
「体を壊しては、元も子もない」
リーナは答えることができなかった。無理をしない、というのは、選択肢ではないのだ。無理をしなければ、ここにいられない。ここを追い出されたら、古代魔法の力を隠したまま生きていく術がない。
しかし、そのことは口に出せない。
「...無理をしなければ、ここにいられません」
ようやく、リーナは言った。その言葉は、自分の本心の一部を示している。ただし、全てではない。むしろ、最も重要な部分を隠したままだ。
カイは、その返答に何も言わなかった。ただ、リーナを見つめている。その視線の中には、疑問があった。なぜ、その少女は、ここまで学園に固執するのか。その理由が、何なのか。
「なぜそこまで?」
カイは再び問った。
リーナは答えられなかった。その問いに対する答えは、自分の秘密そのものだからだ。古代魔法。ルーヴェノール。母の血。全てが、ここにいる理由と直結していた。だが、それは、絶対に言えない。
「...申し訳ございません。答えられません」
リーナの声は、小さかった。
カイは、椅子から立ち上がった。その動作は、静かで、優雅で、しかし何か決意を秘めているように見えた。
「分かった。無理強いはしない。だが、体には気をつけろ」
そして、カイは保健室を去った。
リーナは、一人になった。その時、初めてリーナは、カイの視線の中に何があったのかに気づいた。それは、敵意ではなく、探究心だ。自分を理解したいという欲求。そして、わずかながら、心配。
(あの人は...何者なのか)
リーナはそう思い続けていた。
その夜。リーナは寮の部屋で、窓の外を見つめていた。月が出ていた。四日月。その光が、庭園を薄く照らしている。
リーナは決意した。
帝式魔導では、魔核容量を増やすことはできない。それは、生物学的な限界だ。だが、もし古代魔法の力を理解できれば、その力を何らかの形で帝式魔導に転換できるかもしれない。あるいは、根源律の本来の力を理解することで、隠された可能性が開かれるかもしれない。
禁書庫。学園の奥に存在する、古い文献の蔵。帝式魔導に関するもの、歴史に関するもの。そして、禁忌の書。古代魔法に関する、わずかに残された記録。
深夜。リーナは寮を抜け出た。廊下は静寂に包まれている。石造りの廊下を歩く靴音すら聞こえない。
禁書庫への道。リーナは何度か来たことがある。いや、来たはずだ。だが、その記憶は不確かだ。古い建造物。木の香り。ほこりの匂い。
禁書庫の扉は、古くて重い。鉄製の装飾が施されている。その扉を開くと、警報が鳴るはずだ。帝国の学園施設には、常に監視魔導具が設置されている。
リーナは、深呼吸をした。
(これをしなければ、死ぬのと同じ)
そう思い込むことで、自分を鼓舞した。
扉を開く。その瞬間——
ピィィィィーッ!
警報が鳴り響いた。
赤い光が、禁書庫の内部を照らし始める。その光は、魔導具によって自動的に発動した警告だ。学園の警備員たちは、おそらく今、その音を聞いている。
(走れ!)
リーナは、禁書庫の中へ駆け込んだ。古い本。積み重ねられた古文書。その中から、何かを探す。古代魔法に関するもの。根源律。母が教えてくれた、その断片的な知識。
やがて、足音が聞こえた。複数の足音。警備員が駆けつけてきたのだ。
「そこにいるのか!」
声が叫ぶ。
リーナは禁書庫から飛び出た。廊下を全速力で走る。後ろから警備員が追ってくる。
「待て!」
その声は、怒鳴っているのではなく、公務的な命令だ。
リーナは、脳をフル回転させていた。逃げ道。隠れ場所。このままでは、警備員に捕まる。そして、捕まれば、身元確認。古代魔法の痕跡が発見される可能性。死刑。
廊下を曲がる。階段を駆け上がる。屋上へ。あるいは、別の建物へ。
追跡は続く。足音は、確実に近づいている。
やがて、リーナは人気のない中庭に追い詰められた。三方を建物に囲まれた場所。逃げ道がない。
警備員が、リーナの前に立ちはだかった。魔導師の装備を備えた、帝国学園の公式な警備員だ。
「動くな」
その声は冷たく、命令的だった。
(終わった)
リーナの心が、そう告げていた。
その時だった。
「彼女は私と一緒にいた」
静かな声が、闇の中から聞こえた。
カイ・ヴァイスハルトが、中庭に姿を現した。白金色の髪が月光に輝いている。その表情は、いつもの冷たさそのものだが、その目には強い意志が宿っていた。
「ヴァイスハルト様...」
警備員が、戸惑った様子で呟いた。帝国六大貴族の嫡子。その言葉の重みは、彼ら一般警備員よりも遥かに高い。
「禁書庫への侵入は、若干の好奇心による誤りに過ぎません。彼女は、実は私が誘導したのです。勉学の一環として。申し訳ありませんが、この件は忘れていただけますか」
カイの説明は、完全な嘘だった。だが、その嘘は、圧倒的な説得力を持っていた。ヴァイスハルト家の当主の息子の嘘。それは、一般警備員が疑うことなど、不可能な嘘だった。
「かしこまりました。ご説明ありがとうございます」
警備員は、渋々としたその表情で、中庭を後にした。
やがて、警報も止まった。全ては、静寂に戻った。
リーナは、そこに立ち尽くしていた。
「助けてくれたんですか...」
リーナは呟いた。その声は、驚きと、そして複雑な感情に満ちていた。
カイは、リーナに近づいた。その距離は、二人の間に、わずかな隙間しかないほどだった。
「これで君に借りができた。いずれ、君の秘密を教えてもらう」
カイは告げた。その声は、脅迫ではなく、約束のように聞こえた。
リーナは、複雑な表情で頷くしかなかった。
中庭の片隅では、月が静かに輝いていた。そして、二人の影が、月光に映り込んでいた。
リーナの心の中では、何かが大きく揺らいでいた。カイ・ヴァイスハルト。敵であるはずの存在。だが、今、彼は自分を助けた。なぜ。その理由が、リーナには分からない。
そして、その理由が分からないことが、最も危険だった。なぜなら、それは心が揺らいでいることを意味するからだ。警戒心が薄れることを意味するからだ。
(あの人に何かを信じてしまったら...)
リーナは、その先を考えることができなかった。代わりに、彼女は自分の秘密の重さを思い出した。古代魔法。ルーヴェノール。死刑。全てが、この瞬間の「助け」と引き換えに、いずれ暴露されるかもしれない。
だが、同時に、リーナは思わずにはいられなかった。
(この人は、本当は何を考えているのか)
カイの表情。その中に見える、わずかな温かみ。それが何を意味するのか。敵意か。あるいは、本当の心配か。
その夜、リーナは眠ることができなかった。
試験まで、あと三日。
魔核容量を増やすことはできない。だが、リーナは今、別の問題と向き合っていた。それは、カイ・ヴァイスハルトという存在。彼の真意。そして、自分の心の揺らぎ。
すべてが、もう制御できない領域に入ってしまった。




