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月夜の庭園と危険な距離

夜更けの学園は、昼間の喧騒が嘘のような静寂に包まれていた。


リーナは寮の自室で、天井を見つめたまま三時間以上が過ぎていた。目は開いているが、脳はすでに疲弊しきっている。寝たいのに、眠れない。その矛盾が、胸の中で小さな苦痛を生み出していた。


(また駄目だ...)


何度目だろう。この不眠症。学園に入ってからずっと、こんな日が増えている。昼間は必死に帝式魔導を修めようとしているのに、夜になると心が落ち着かなくなる。カイの視察の日以来、特にそうだった。あの訓練場でのことが、頭の隅に引っかかったままになっている。


(あの人の目...)


カイの冷たい視線。その奥底に感じた、何かを見透かそうとするような鋭さ。「君の魔力消費パターンが通常と違う」という言葉。


あの一言は、自分を知らない上級生の気まぐれな指摘ではなく、何かもっと深刻な警告のように聞こえた。ヴァイスハルト家。古き血の排除。その家訓。


(もう、ここに来たんじゃなかった...)


そう思ったことは何度もある。だが、来ないという選択肢はなかった。母の遺言。ここで生き延びること。古代魔法の力を隠しながら、一日一日を積み重ねること。その先に何があるのかは、リーナ自身、よく分かっていなかった。


結局のところ、自分は逃げているだけではないか。そんな自問自答が、眠りを遠ざけていた。


リーナは、ベッドから身を起こした。月光が窓から静かに差し込んでいる。この時間、学園の大半は眠りに落ちている。少なくとも、廊下に人がいることはまずない。


(散歩でもしよう)


そう決めると、リーナはこっそり寮を抜け出した。階段を下り、廊下を歩く。靴音が石床に響くのが気になったが、この時間帯に誰かに見つかることはまずあるまい。


やがて、リーナは学園の中央に位置する中庭へと辿り着いた。


そこは昼間、多くの学園生が集まる場所だ。四方をアルケミエ学園の建物に囲まれた、閉じられた空間。中央には、古い様式の噴水がある。帝式魔導と古代魔法の融合で作られたという、珍しい存在。その石造りの彫刻からは、かすかに魔力が感じられる。


月明かりに照らされた庭園は、昼間とはまったく別の世界だった。


影が深くなり、光が弱くなり、全てが幻想的に映る。樹木の枝が月光に照らされて、まるで銀色に輝いているように見える。噴水からは、静かな水音が聞こえてくる。その音だけが、この沈黙の世界に、かろうじて生命を与えていた。


リーナは噴水のそばに座り込んだ。冷たい石の端。その上に腰を下ろすと、体全体に夜の冷たさが沁み込んでくる。


(綺麗だ...)


そう思った。こんな時間の庭園の美しさ。昼間のにぎやかさとは全く異なる、静寂の中の輝き。


リーナは深呼吸をした。夜空に浮かぶ月。その光。その全てが、一瞬だけ、自分の心を解放してくれるような気がした。


---


「眠れないのか?」


その声は、突然だった。


リーナの体が瞬間的に硬直した。咄嗟に振り返ると、庭園の奥から、白金色の髪を持つ人物が近づいてくるのが見える。


カイ・ヴァイスハルト。


リーナの心臓が、激しく脈打つ。その時点では、まだ逃げ出すべきかどうか判断がつかなかった。だが、逃げるにはすでに遅い。カイはもう、リーナを見つけている。


カイは噴水の反対側に、無言のまま座り込んだ。リーナとの距離は、噴水を挟んで約四メートル。二人の間には、月光に照らされた水が静かに流れている。


しばらく、何も言わなかった。ただ、沈黙。


その沈黙は、決して不快なものではなかった。ただ、両者が何かを探り合う、緊張感に満ちた空白。リーナは、ここで何を言うべきか判断がつかなかった。


やがて、カイが口を開いた。


「君はなぜそこまで学園に固執する?」


その質問は、ストレートだった。容赦がない。だが、同時に、何かをぶつけるのではなく、純粋に疑問を投げかけているように聞こえた。


リーナは、一瞬言葉を探した。


「...魔力が低いなら、別の道もあるだろう」


カイが続ける。その声は相変わらず冷たいが、何か別の何かが混ざっていた。好奇心。あるいは、単純な疑問。


リーナは、答えた。


「ここにいなければならない理由が、あるから」


その言葉は、全てを表現しながら、同時に何も説明していなかった。秘密と秘密の間に生まれた、奇妙な会話。


カイは、その返答に対して、さらに続けた。


「家の使命と、自分が正しいと思うことが矛盾する時がある」


カイの声には、わずかな苦しさが混ざっていた。これは、上級生が下級生に対する訓示ではなく、カイ自身の本音だった。おそらく、この庭園に来る前から、このことで悩んでいたのだろう。


「そういう時、君はどうする?」


カイの質問に、リーナは一瞬、息を止めた。


この質問は、カイが自分に何かの共感を求めているのだ。古き血の排除。その家訓。そしてカイ自身の信念が、どこかで矛盾を生み出しているのだろう。


リーナは、小さく呟いた。


「私は...ただ生き延びるために、ここにいます」


その言葉の重さに、カイは何も返さなかった。ただ、月光に照らされた庭園を見つめたまま。


二人の間に、また沈黙が落ちた。だが、その沈黙は先ほどの緊張感とは異なっていた。何かが、わずかに共有されたような、そんな感覚。


やがて、リーナが周囲に目を向けた。


庭園の植物たちが、月光に照らされて幻想的に輝いている。昼間には気づかなかった花が、夜中に蕾を開き始めているのか、その輪郭が微かに変わっているように見える。つるバラの蔓が、月光に銀色に輝いて見える。樹木の幹には、影と光が交互に落ちて、不思議な模様を描いている。


リーナは思わず呟いた。


「綺麗ですね」


カイも、その言葉に応じた。


「そうだな」


カイの声には、わずかながら温かみがあった。小さく笑ったわけではなく、ただ、一つの共感。それだけで、リーナの心の中に、何かが変わった。


この瞬間、二人の距離が、わずかに縮まった気がした。物理的にではなく、心理的に。


---


しかし、その瞬間は続かなかった。


リーナの右手の薬指に嵌められた銀色の指輪——瞳偽りの環——が、突然、微かな振動を発した。その振動は、すぐに小さな音へと変わった。


ピッ、ピッ、と。


それは、魔導具の警告音。魔力切れが近い。リーナの体が瞬時に硬直した。


いまいましい。この環は、使用時間が長いと、たびたび警告を発する。通常は大したことではないが、今、この瞬間は、最悪のタイミングだった。


リーナは、素早く立ち上がった。


「失礼します」


その言葉だけを残し、リーナは庭園を立ち去った。走るほどではないが、かなり急いでいた。背後で、カイの視線を感じるが、振り返ることはできなかった。


環の警告音は、リーナが庭園を完全に去るまで、小さくピッ、ピッと響き続けていた。


カイは、リーナの背中を見送りながら、呟いた。


「君は一体、何を隠している?」


その言葉は、誰に向けられたわけでもない。ただ、月光に照らされた夜の庭園に、消えていった。


---


翌朝。


リーナは廊下を歩いていた。授業が始まるまでの、わずかな時間。いつもと変わらない日常。


だが、その日常の中で、一つの出来事があった。


リーナとカイが、廊下ですれ違ったのだ。


その瞬間、二人の視線が、一瞬だけ交錯した。完全に目が合ったわけではなく、ただ、視界の中に相手が入った、そんなレベルの接触。


しかし、その一瞬が、全てを物語っていた。


昨夜のことを、互いに思い出している。そして、その昨夜のことについて、決して触れないという、暗黙の了解が、その視線の交錯の中に存在していた。


カイは、何も言わずに歩き去った。リーナも、何も言わずに、その場に立ち尽くした。


(あぶなかった...)


リーナの心の奥底で、そんな思いが反復された。瞳偽りの環の警告音がなければ、もしかして自分は何かを言ってしまったかもしれない。心を許してしまったかもしれない。


それは、何よりも危険なことだった。


昼間の授業でも、リーナはカイの顔を見ないように、視線を避けていた。だが、ときどき、カイの視線を感じることがあった。その視線は、疑問に満ちていた。


(あの人は、何かを探っている)


リーナはそう確信していた。完全な証拠はないが、感覚として、そう思えた。


月夜の庭園での会話。その最後の瞬間。


リーナの瞳が、一瞬、本来の色を取り戻しかけたのだ。瞳偽りの環の効果が、完全に失われるその寸前に。


カイは、その色を見たのだろう。琥珀色の瞳。帝式魔導の瞳ではない、何か別の何かの色。


(あのことをどう説明すればいいんだろう)


リーナは、そう思い悩んでいた。だが、答えは簡単だった。説明しない。触れない。あたかも何も起きなかったかのように、日常を続ける。


それ以外に、生き延びる方法はない。


夜が訪れると、リーナは再び眠れなくなった。だが、今度は違う理由だった。不安からではなく、別の何かが、胸の中で小さく動いていたのだ。

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