偽りの共闘と揺れる心
学園の実習室は、早朝の静寂に包まれていた。石造りの壁には無数の魔導具が埋め込まれており、その中央に広がるのは広大な訓練スペースだ。朝日が窓から差し込み、床の魔法陣を照らしている。
リーナは教室の後ろで、掲示板に目を凝らしていた。本日の「魔導具実習」の内容が記されている。
『本日の課題:二人一組で「防御結界の構築」に挑戦。教師の攻撃魔法を三回連続で防ぎきること。失敗時は役割交代のうえ再試行。』
息を吸う。吐く。
(防御結界...ペアワーク...)
リーナの胸がわずかに高鳴った。魔核容量が低い自分にとって、防御結界は最も厳しい課題の一つだ。相手の魔力に依存する部分が大きく、コントロール能力だけでは補えない領域がある。
教師が黒板に名前を書き始める。
「では、ペアリングを発表します」
リーナは息を止めた。
「リーナ・メディアスと...カイ・ヴァイスハルト」
時が止まった。
訓練室の空気が、一瞬で冷たく変わった。周囲の何人かが、思わず息を呑む。二つの名前が呼ばれた意味は、学園全体が知っている。
リーナの脳が混乱していた。あのカイ・ヴァイスハルトだ。第2話で自分の魔力消費パターンを指摘してきた、あの上級生。古き血の排除を家訓とする、帝国六大貴族ヴァイスハルト家の嫡子。鉄冠院と関係が深い、最も警戒すべき相手。
(なぜ...)
リーナはその場で立ち尽くすしかなかった。
一方、カイはというと。
訓練室の入り口から、白金の髪が陽光に輝く身影が歩み入ってきた。高い身長、緊張感に満ちた存在感、そして氷のような冷たさを纏った瞳——カイ・ヴァイスハルトだ。彼は名前を呼ばれても、一瞬の微妙な沈黙が落ちた後、小さく頷くだけだった。その表情には、わずかながら不満の色が見える。
(面倒だ)
カイは心の中で呟いた。容量12という、常識外の低さを持つ少女とのペアなど、どう考えても効率が悪い。騎導師志望の自分にとって、防御結界は得意分野ではないが、相手が弱すぎれば論外だ。
しかし、指示は指示だ。
リーナとカイは、訓練スペースの中央に向かった。周囲の視線が、二人に集中している。クラスメイトたちは、この組み合わせの結末がどうなるか、興味深く観察している。
「では、開始します」
教師の声が響く。
「リーナ、カイ。まずは基本的な防御結界を組み立ててください。術式の統合を目指します」
リーナはカイの方を見た。カイは一瞬、彼女の顔を見つめたが、すぐに視線を逸らした。
「どうする?」
カイの声は冷たく、事務的だ。
リーナは、一瞬思考を巡らせた。自分の魔核容量は、帝式魔導では致命的に低い。だが、これまでの訓練で気づいたことがある。
(微細なコントロール...)
「あの...もしよければ」
リーナの声は小さく、丁寧だ。だが、その中に一筋の確信がある。
「あなたが大量の魔力を供給して、私がその流れを細かく調整するというのは、どうでしょうか?」
カイは、彼女を見た。その琥珀色の...いや、違う。瞳偽りの環によって変えられた瞳を見た。
(提案か)
「...やってみろ」
カイは、簡潔に答えた。
二人は向かい合った。距離は約二メートル。カイが両手を開く。その指先から、ぼんやりとした光が放たれ始める。魔力の流れが、可視化されている。
リーナは、深呼吸をした。
心を落ち着けて、母から教わった「根源律」の知識を、帝式魔導に変換する。古代魔法の感覚を、帝式魔導の枠組みに無理矢理押し込める。それは、自分の生存戦略そのものだ。
「来てください」
リーナが呟くと、カイの魔力が彼女に流れ込み始めた。
最初は、ぎこちなかった。カイの魔力は、ただ単純に前へ押し出される力だけを持っていた。一方、リーナはそれを受け取り、術式へと編成していく。火、水、地、風の四属性を組み合わせ、バランスの取れた結界を作り上げようとしていた。
(詰まる...)
リーナの額に冷や汗が浮かぶ。魔力の流れが、ところどころで詰まっている。カイの力が強すぎて、細かいコントロールができないのだ。
だが、その時だった。
カイが、リーナの状態を察知したのだ。彼の魔力の流れが、わずかに緩和される。押し出す力を減らし、リーナの調整を受け入れやすくする。
「...試しに、左手の流れを弱くしてください」
リーナが提案すると、カイはそれに応じた。
小さな調整が、繰り返される。左手を弱く。右手は強く。全体的な流れを減らし、その代わり、リーナの微細なコントロール精度に任せる。
(こいつ...分かってるのか)
カイは思った。リーナの調整が、次々と施される。それは単純な魔力伝達ではなく、二人の連携による術式の構築だ。
やがて——光が、形を成した。
二人の間に、淡い光の膜が浮かび上がる。透明で、しかし確かな存在感を持つ防御結界だ。
「よし。では、第一回目の攻撃を開始します」
教師が、手を上げた。
その瞬間、教師の詠唱が響く。火属性の攻撃魔法だ。赤い光の弾が、二人に向かって飛ぶ。
リーナは、結界に魔力を流し込む。光の膜が、わずかに輝きを増す。火の弾は、結界に当たると、その表面で消える。衝撃は、二人の足元に走るが、耐える。
一回目、成功。
「二回目」
今度は、水属性の攻撃だ。より複雑な術式。青い光が、結界を襲う。
リーナは、再度魔力を調整する。だが、この時点で、彼女の額には血が滲み始めていた。鼻からも、わずかに赤い液体が流れている。魔力消費の限界に達しかけているのだ。
二回目、成功。
「三回目。最後の攻撃です」
教師の詠唱が、より一層大きくなる。複合属性の攻撃だ。火と雷を組み合わせた、より高度な魔法。
リーナは、視界が揺らぎ始めているのを感じた。
(もたない...)
意識が遠ざかり始める。足がふらつき、膝が折れかけた。
その瞬間だった。
カイが、リーナの腕を掴んだ。
彼女が倒れるのを支えて、自分の体を支柱にする。そしてもう一方の手で、魔力を爆発的に放出した。
「結界を!」
カイの声が響く。それは命令ではなく、励ましだった。
リーナは、その声で、再度意識を引き戻された。
最後の力を振り絞り、カイの魔力を結界に編成する。火と雷の複合攻撃が、結界に当たる。
その瞬間——
リーナの瞳偽りの環が、魔力切れで、一瞬だけ効果を失った。
カイの視界に、ほんの一瞬だけ、琥珀色の瞳が映った。深く、美しく、しかし異質な色。帝式魔導を修めた者の瞳ではない。何か、もっと古く、もっと深い何かの色。
(今の瞳...)
カイの脳が、その色を記録した。だが、その思考を遮る前に——
結界が、爆発した。
ではなく。
結界が、炎と雷を完全に遮断した。
リーナは、慌てて右手の指輪に魔力を注ぎ込んだ。瞳偽りの環が、再度効果を取り戻し、彼女の瞳の色が、すぐに変わった。琥珀色から、灰色への詐欺的な変化。
訓練室は、静寂に包まれた。
「...成功です」
教師の声が、驚きに満ちている。
全員が成功するわけではない課題だ。特に、この組み合わせで成功するとは。周囲のペアの何組かが、まだ結界を維持できずにいる中での、明確な成功だった。
訓練場から響く、ざわめき。クラスメイトたちの驚きの声。
リーナはそのざわめきの中で、カイを見た。
カイは、相変わらず冷淡な表情のままだが、その目は、少しだけ違う光を宿していた。
「君の魔力コントロール技術は...見事だった」
カイの言葉は、短かった。だが、その声には、わずかな温かみがあった。確かに存在する、微かな肯定。
リーナは、戸惑った。
「あ...ありがとうございます」
その返答は、丁寧で、か弱く、そして何かの感情が揺らいでいるように見えた。
二人の間に、奇妙な沈黙が落ちた。それは、敵意ではなく。警戒心でもなく。何か、別の何かだった。
やがて、訓練は終了した。
訓練室を出て、廊下を歩く時だった。カイが、後ろからリーナに声をかけた。
「君は...」
リーナは、一瞬、全身が硬くなった。
「今さっき、君の瞳の色が、一瞬...」
(終わった)
リーナの脳が、その一瞬で、あらゆる最悪のシナリオを描いた。露見。追求。鉄冠院への通報。死刑。
だが、リーナは、落ち着きを取り戻した。
「光の加減です」
その返答は、即座に、自然に、飛び出した。丁寧な口調で。微動だにしない顔で。完全な嘘で。
カイは、わずかに眉をひそめた。
「...そうか」
その一言で、彼は追及をやめた。もっとも、彼の心の奥底には、疑問の火種が灯ったままだった。
二人は、廊下で別れた。
リーナは、一人、学園の片隅で、身を小さくして座り込んだ。
胸が、激しく鼓動していた。
(あぶなかった...)
あの一瞬で、全てが終わることもあったのだ。古代魔法の痕跡。その証拠。琥珀色の瞳。全てが。
だが、同時に、別の感情も、リーナの心の奥底に芽生えていた。
訓練の最後の瞬間。カイが、彼女を支えた時の温かさ。その腕の力。そして、訓練後のカイの言葉。
「君の魔力コントロール技術は見事だった」
その言葉の中に、わずかながら存在していた、肯定。
(あの人は...敵だ)
リーナは自分に言い聞かせた。ヴァイスハルト家。古き血の排除。家訓。
(なのに...)
その「なのに」の先には、言葉がなかった。ただ、複雑に揺らぐ感情だけが存在していた。
その夜、カイは自室で、その日の訓練を思い出していた。
特に、最後の瞬間。
リーナの瞳に映った、あの琥珀色。一瞬だけ見えた、その異質な色。
(あれは...)
カイは確信していた。あの色は、帝式魔導の瞳ではない。何か、別のシステムの痕跡。古い魔法。禁忌の術。
だが、同時に、カイは考えていた。
あの少女の、訓練中の全力。最後の瞬間、彼女を支えたあの感覚。彼女の「面白い技術」。
(調査が必要だ...)
カイはそう判断した。だが、判断と別に、彼の心のどこかで、別の感情が動いていることに、カイ自身が気づいていなかった。




