揺れる三つの心
学園の中央広場に集合する時間が近づいていた。
リーナは宿舎の窓から外を見つめていた。朝日が石造りの建物を黄金色に染めている。新緑の季節。学園の庭園では、草木が一気に芽吹き、蝶が舞っている。
野外実習。その言葉が頭に残っていた。
前夜、掲示板で通知されていた。魔力測定試験も無事に終わった。その後の実習として、学園所有の森林地帯へ向かい、野生の魔物を討伐しながら薬草を採取するというもの。三年生以上が指導に当たる。
リーナは、その時、掲示板の一枚の紙を見つけた。
『実習チーム編成:
第一班──リーナ・メディアス、カイ・ヴァイスハルト、エルヴィン・レイトン』
その名前を見た瞬間、心臓が跳ねた。
カイ。あの人との訓練を重ねて以来、自分の容量値は少しずつ改善している。だが、同時に、複雑な感情も増していた。敵であるはずの相手が、自分を助け、導いてくれている。その矛盾。
そしてエルヴィン。師匠を失った悲しみを打ち明けてくれた人。古代魔法を理解する数少ない存在。その眼差しが、いつも温かく、そして何かを探り続けているように見える。
その二人と、同じチームになるということ。
(大丈夫だろうか)
リーナは自分に言い聞かせた。実習は学園の正式なカリキュラム。何の問題もない。ただの訓練だ。
だが、心は落ち着かなかった。
集合場所に着いたのは、指定時刻の十分前だった。
学園の正門近く。馬車が三台用意されている。各チームが指導者の引率で森林地帯へ向かうのだ。その周囲には、既に多くの生徒たちが集まっていた。
カイ・ヴァイスハルトは、既に其処にいた。
白金色の髪が朝日に輝いている。その瞳は、いつもの冷徹さを保ちながらも、どこか落ち着いた色をしていた。腰には細身の剣。帝式魔導の他に剣技も修めているカイだからこそ、実習中の指導者としても有能だ。学園の制服の上に、旅用の外套を羽織っている。実習の準備は完璧だ。
そのカイの横に、栗色の髪をした人物が立っていた。
エルヴィン・レイトン。
彼は、カイと話していた。その会話は短く、淡白に見えるが、二人が旧知の仲であることは一目瞭然だった。エルヴィンの青い瞳が、ちらりとリーナの方を向いた。
気づかれた。
リーナは一瞬、足を止めた。だが、もう逃げることはできない。
「朝からご苦労さん、リーナ」
エルヴィンが手を上げて挨拶した。その仕草は自然で、友人らしい親密さが感じられる。
「おはようございます」
リーナは丁寧に返礼した。
カイは何も言わず、ただリーナを見つめた。その視線は観察的で、何かを値踏みしているようだった。だが、それは敵意ではなく、むしろ確認のような感覚。
「では、馬車に乗り込みましょう。出発時刻まであと五分です」
カイが言った。その口調は、指導者らしく、淡々としていた。
三人は馬車へ向かった。其処には既に、荷物が積み込まれていた。テント、食料、医療用具、採集用の籠。全ての物が整列して置かれている。
馬車は揺れながら、学園を離れていった。
車窓から見える景色は、次第に都市から離れていく。建物が少なくなり、緑が増えていく。やがて、林道に入った。
馬車の中では、エルヴィンとカイが実習についての説明をしていた。その声は、実に専門的で、リーナはそれに聞き入った。
「魔物は、夜行性のものが多い。昼間に出現するのは、飢えた個体か、繁殖期のものだ。前者は比較的弱いが、後者は危険性が高い」
エルヴィンの説明は、詳細で正確だ。
「薬草の採取は、昼間に行う。夜間の採取は避けるべき。理由は単純──闇の中では、何が潜んでいるか分からないからだ」
カイが続けた。
リーナは、その会話の中で、二人が本当に実習の準備をしていたこと、そして、自分たちをこの実習に導くために、細かい計画を立てていたことを理解した。
「何か質問はあるか」
カイがリーナに向き直った。
「……ありません。よく理解できました」
リーナが答えた。
やがて、馬車は目的地に到着した。
森の入り口。背の高い樹木が空を覆い、地面には落ち葉が積もっている。朝日が、林の隙間から漏れて、斑模様の光をつくっている。
三人が馬車を降りた時、森の空気が全身に染みわたった。土の匂い、苔の香り、緑の生命の息吹。
「では、出発する」
カイが言った。
リーナとエルヴィンが後に続く。
森の奥へ進むにつれて、林は深くなっていった。太陽の光がより暗くなり、周囲の湿度が増していった。
道中、エルヴィンはリーナの歩調を気遣い、危険な岩場では手を差し出してくれた。その手は、温かく、そしてどこか優しさに満ちていた。
「大丈夫か」
エルヴィンが聞いた。
「……はい。大丈夫です」
リーナが答えた。だが、彼女の心には、複雑な感情が渦巻いていた。
カイは、その光景を見ていた。その表情は変わらず、冷淡そのものだった。だが、その瞳の奥底には、何かが燃えているように見える。
午後、一行は小さな魔物に遭遇した。
その姿は、ウサギ程度の大きさだったが、茶色い毛並みと、鋭い爪を持っていた。リスのような動物だが、目は赤く光り、明らかに危険を放っていた。
「あれは、ホースフレイム。低級の魔物だ」
カイが呟いた。
「対処法は簡単。火属性か地属性で、十分に倒せる」
エルヴィンが追加した。
リーナは、既に精神を集中させていた。低級魔物。容量の低い自分でも、対処できるはずだ。
右手を上げた。指先から光が放たれ始める。
「フレアボール」
呪文を唱える。その声は、丁寧で落ち着いていた。だが、内心は緊張している。
光が膨らみ、火の玉となる。それは、ホースフレイムに向かって放たれた。
動物は、驚いて逃げ惑った。だが、火の玉は追いかけ、その毛並みに着火した。
悲鳴を上げ、動物は林の奥へ逃げていった。
「いい制御だ」
カイが呟いた。
「精度が上がってきた」
それは、褒めているのか、観察しているのか、判断がつかなかった。
正午を過ぎた時間帯。三人は、森の中の小さな空地で休息することにした。
そこは、木々に囲まれた、比較的安全な場所だった。テントを張り、簡単な食事を準備する。
リーナが用意した水筒から水を飲んでいた時、エルヴィンが彼女の隣に座った。
「朝からお疲れ様」
エルヴィンが言った。その声は、軽く、親友らしい優しさが感じられた。
「……こちらこそ」
リーナが返した。
しばらくの沈黙。周囲には、風の音と、遠くの水音だけが響いていた。
「君と一緒にいると、心が安らぐんだ」
エルヴィンが、突然そう呟いた。その声は、真摯で、計算がない。
リーナの頬が、熱くなるのを感じた。
(何を言ってるんだろう)
その言葉の重みが、彼女の心に落ちた。師匠を失った人の、その後の感情。そして、今、自分の側にいてくれる人。
「……」
リーナは言葉が出なかった。感情が高ぶると、言葉が詰まってしまう。そのメカニズムは、相変わらずだった。
エルヴィンは、その沈黙を受け入れた。無理に言葉を引き出そうとしなかった。
だが、その時、別の気配を感じた。
カイが、その場を立ち去った。
テントの方に向かい、何かを準備しているのか、それとも単に距離を置こうとしているのか。その背中には、明らかに何かが煮えくり返っているような空気が漂っていた。
「……」
リーナは、その背中を見つめた。
やがて、午後の実習が再開された。
薬草の採取。その時間帯になると、エルヴィンは元々の指導的態度に戻った。どの植物が薬草なのか、どのように採集するのか。その知識は豊富で、リーナは新しいことを学んだ。
だが、カイの様子は変わっていた。
彼は、一人で魔物を狩り始めた。その剣技は、見事なものだった。
一体、また一体と、次々と魔物を倒していく。その動きには、感情的な荒々しさが感じられた。
(あの人……何かに怒ってる)
リーナはそう感じた。
夕方になった時間帯。実習のクライマックスが訪れた。
三人が薬草の最後の採集地に向かっていた時、突然、地面が揺れた。
「来たな」
カイが呟いた。
林の奥から、大きな影が現れた。
それは、先ほど倒したホースフレイムではなく、より大型の魔物だった。その大きさは、人間の二倍はありそうだ。銀色の毛並み、鋭い牙。その名は、アイアンファング。
中級魔物だ。
「連携する」
カイが指示を出した。その声は、もう感情的な荒々しさではなく、指揮官としての冷静さに戻っていた。
「エルヴィン、左から援護。リーナ、右から。俺は中央で牽制する」
その指示は、正確で、効率的だった。
戦闘が始まった。
カイが剣を抜いた。その刃は光に反射し、銀色に輝く。彼は魔物に向かって走った。
魔物が牙を向いて襲いかかる。だが、カイの剣がそれを迎撃した。
火花が散る。
リーナは、右側から魔法を放った。
「フレアボール」
火の玉が、魔物の側面を焦がす。魔物が怯んだ。
エルヴィンは、その隙をついて、冷気の魔法を発動させた。
「フロスト・レイン」
その冷気は、魔物の動きを鈍くさせた。
カイが、その隙をついて、剣を突き立てた。
一撃、また一撃。その剣技は、正確で、力強かった。
数分の戦闘の後、魔物は倒れた。
三人は、一瞬、息を整えた。
「見事な連携だ」
エルヴィンが言った。
「お互いの弱点を補完していた。これは、本来の実習で学ぶべき内容そのものだ」
カイも頷いた。その瞳には、もう敵意のようなものはなく、ただの同志としての敬意が宿っていた。
「お疲れ様、リーナ。君の魔法のタイミングは完璧だった」
エルヴィンが言った。
リーナは頷いた。心臓はまだ高鳴っていたが、その中には、確実に達成感が生まれていた。
夕暮れ。三人は、実習地から学園へ向かう馬車に乗っていた。
夕焼けが空を赤く染めている。その光の中で、カイがリーナに向き直った。
「お前を守る」
カイが言った。その声は、低く、真摯だった。
リーナは、その言葉の重みを感じた。
それは、約束のようでもあり、誓いのようでもあった。
リーナの心は、大きく揺れた。
カイの真摯な眼差し。エルヴィンの温かな優しさ。その二つの視線が、自分に向けられている。
(どうすればいいんだろう)
そう思った時、馬車は学園の正門に到着していた。
夕陽が建物を黄金色に染め、三人の影が長く伸びていた。その影の中で、リーナの心は、確実に何かが変わり始めていることを感じていた。
次の日常が始まろうとしていた。だが、それは、もう以前と同じものではないだろう。




