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いつのもの毎日 始まりの日

帝都ヴェルムガルド。緑の尖塔が無数に立ち並ぶ城塞都市は、この朝も規則正しく息づいていた。


朝日が差し込む廊下。アルケミエ学園の制服を身につけた少女が、階段を下りていく。深緑の上衣に濃灰色のスカート。見た目には何の違和もない、どこにでもいそうな学園生。


だが、そのミディアムヘアの色に目を凝らせば、違和感に気づくだろう。銀灰色だ。染料で、少し無理に色を変えているのが分かる。根元はほんの少し、違う色が見え隠れしている。


少女の名はリーナ。十六歳。この学園に通って三年目の貴族魔術師見習いだ。


彼女の瞳は深い琥珀色をしていた。だが、その色を見た者はいない。右手の薬指に嵌められた銀色の指輪——瞳偽りの環——が、常にその本当の色を隠していた。魔導具としての効果は微々たるものだ。だが、その小さな一つの嘘が、彼女の人生全てを支えている。


リーナは食堂へ向かった。既に朝食の時間は始まっている。長い木製のテーブルが幾つも並ぶ食堂は、学園生たちの声で満ちていた。同級生たち、上級生たち。皆が当たり前のように魔導士としての未来を描いている。


「おはよう、リーナ」


隣の席の同級生が声をかけた。名前はジークフリード。帝国中流階級の出身だ。リーナは軽く頷いた。


「おはよう。調子は?」


「まあね。ところで、今日の魔力測定だよね。」


リーナの手が、スプーンを握る手が、ほんの一瞬硬くなった。


魔力測定試験。帝国の魔法師養成校では、半期ごとにその試験が行われる。生徒たちの「魔核」——体内で魔素を変換する臓器——がどの程度の容量を持つかを測定し、成績に反映させるのだ。帝式魔導のシステムでは、魔核の大きさ、その変換効率が全てを決める。強い魔力 = 強い魔導士。この大陸ではそれが常識だった。


「うん」


「リーナ、大丈夫?」


ジークフリードの目が、本当に心配そうに見ている。悪意ではない。単なる同期生としての心配だ。それが、却ってリーナの胸を締め付けた。


「大丈夫です」


リーナは笑顔を作った。その笑顔の奥には、何層もの壁がある。


朝食を終えた後、リーナは測定室へと向かった。学園の北棟にある、薄暗い部屋だ。壁には複雑な魔導具が埋め込まれており、その中央に一つの鉛色の球体が浮かんでいる。


「では始めます」


アシスタント魔導士が、冷淡に告げた。


リーナは球体に手を触れた。その瞬間、魔素が体内から吸い上げられていく感覚。自分の魔核がどの程度の力を持っているか。その全てが、この数秒間で数値化される。


記録は、即座に魔導具に表示された。


「容量値: 12」


アシスタント魔導士の顔が、微かに曇った。


「同年代平均が100から120程度ですから。相当低いですね」


その言葉は、事実だった。だが、事実であるがゆえに、その言葉は刃となってリーナを切った。


「精度はどうですか?」


「精度値: 87」


それはまあまあの数値だ。魔導式の構成能力は悪くない。だが、容量が全てではないとは言え、これほどの差は埋めようがない。


「次回の測定までに、改善が見られなければ。退学勧告も視野に入れておいてください」


アシスタント魔導士の言葉は、優しくなく、厳しくもなく。ただ、事務的だった。


それが、一番堪えた。


測定室を出たリーナは、廊下の片隅で立ち止まった。深呼吸。もう一度。その時、背後から笑い声が聞こえた。


「あれ、本当に容量12だってね。魔力測定の掲示板に張り出されてた」


数人の上級生が、噂を口にしていた。リーナを見た時、彼らの表情が変わった。


「あ」


それだけだ。だが、その「あ」の中には、「そっか、あの子か」という意味がたっぷり詰まっていた。


リーナは何も言わなかった。何も言えなかった。上級生たちは恥ずかしそうに足早に去っていく。


学園で過ごす一日は、予想通り地獄だった。


クラスメイトたちの視線が変わったのは午後の実技訓練の時だった。火属性魔法の練習。リーナは指を立て、祈祷のような詠唱を始めた。帝式魔導の基本形だ。


「フレアボール」


その一言と共に、指先から炎が発生した。だが、その炎は途中で消える。魔核容量が足りず、術式が維持できなかった。


「あ、また失敗した」


誰かが、小さく呟いた。その呟きが、全員の耳に届いた。


リーナは何度も何度も、試した。同じ魔法を。三十回。五十回。百回。その度に、失敗した。魔力が足りず、術式が途中で崩壊する。まるで、自分の体に何かが欠けているかのように。


(本当に、欠けている)


リーナは思った。帝式魔導の魔核。その容量。自分には、それが圧倒的に足りていない。なぜなら——


自分の魔力は、帝式魔導に最適化されていないから。


代わりに、自分の体には、別の何かが流れている。母から受け継いだ、古代魔法。根源律。その力は、帝式魔導とは全く別のシステムで動いている。


この帝国では、古代魔法は禁忌だ。三百年前、ルーヴェノール民が古代魔法で帝国軍を追い詰めたその日から、帝国はこの術を徹底的に排除してきた。使用者は死刑。血族も同様。


リーナはルーヴェノール民の末裔だ。母方から。母は帝国の貴族——偽りの貴族——と結婚することで、その身分を隠してきた。そして、亡き母はリーナに、古代魔法の基礎だけを教え、そして何度も何度も言い聞かせた。


「絶対に、絶対に、この力を使ってはいけない」


帝式魔導を修めるために学園にいる。古代魔法の力を使えば、即座に身元が露見する。そこからは、待っているのは死刑だけだ。


だから、リーナは必死に帝式魔導を学ぶ。そして必死に、古代魔法の力を封印している。その結果が、この哀れな魔核容量だ。


訓練場の隅で、リーナは一人、何度も何度も魔法を試した。誰もいない、誰の目にも届かない場所で。


夜が来た。


学園は静寂に包まれた。リーナはこっそり、中央図書館へ向かった。ここには、古い文献が集められている。帝式魔導に関するもの、歴史に関するもの。そして、禁忌の書もだ。


リーナは図書館の最も奥まった場所に腰を据えた。その手に握られているのは、装丁の古い一冊。タイトルは判別できない。内容は、古代魔法に関する考察だ。密かに残された、誰かの手による記録。


ページを読み進めていく。やがて、リーナの緊張が少しだけ、ほんの少しだけ解ける。


心が、休まる。


誰も見ていない。誰も聞いていない。この瞬間だけは、自分が何者かを隠す必要がない。


やがて、リーナは無意識に、口を開いた。


古代の言葉——根源律の歌——を、小さく、小さく歌った。


母の血が、その言葉に反応した。リーナの喉から、何か古い、何か深い、何か大地そのものが息づくような音が発せられた。


その瞬間だった。


書架の観葉植物が、突然動いた。


蔓が、その根が、ぐんぐんと成長を始めたのだ。緑色の蔓が、天井へと向かって伸びていく。葉が増える。花が咲く。本来なら数ヶ月かかるはずの成長が、数秒で完了した。


リーナの歌は、一瞬にして止まった。


「あ」


その一言すら、心の中だけだった。


震える手で、リーナは必死に、その蔓を元に戻そうとした。触れると、その緑は逆流を始めた。成長が、反転していく。葉が落ちる。蔓が縮む。やがて、観葉植物は元の、小ぶりな状態へと戻った。


だが、その時間は長かった。本当に長かった。


リーナの額には、冷や汗が流れていた。


「誰も見ていない」


その祈りが、ずっと繰り返されていた。


「誰も見ていない。誰も見ていない。誰も見ていない」


やがて、全てが静寂に戻った。観葉植物は、何事もなかったかのように、そこに在った。


リーナはそっと、古い文献を書架に戻した。足が、ふらふらしていた。


図書館を出たのは、夜中だった。


月光が、学園の石畳を照らしていた。その光の中、リーナは学園の塔を見上げた。尖った塔が、月と重なる。


(これが、私の現実なのだ)


リーナは思った。


あの、古代魔法の力。根源律。それが自分の中に確実に存在すること。そして、それをどうしても、どの道隠さなければならないこと。


帝式魔導の容量は、どう頑張っても増えない。なぜなら、自分の魔核の本質が、そもそも帝式魔導には向いていないから。


だが、根源律を使えば、身元がばれる。処刑される。


(魔力が低い落ちこぼれとして嘲笑されても、それは生きていられるってことだ)


リーナは、瞳偽りの環に手を触れた。銀色の指輪。母の形見。


やがて、学園の塔から、鐘の音が響いた。夜中の鐘。この帝都で、何度繰り返されたかわからない、その音。


「母さん」


リーナは呟いた。誰にも聞かれない、その声で。


「私は、生き延びます。この学園で。この帝国で。どんなに嘲笑されても、どんなに孤独でも。私は——"


その言葉は、そこで止まった。


なぜなら、図書館の窓から、その全てを見ていた影が、一つあったから。


その影は、リーナが去った後も、しばらくそこに留まっていた。やがて、暗闇に溶けていく。


誰が、見ていたのか。


リーナは、知らない。


だが、その影を持つ何かは、確実に、彼女の秘密を知ったのだ。

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