第39話 里帰りは波瀾万丈
後から悔いる、と書いて後悔と読む。そして後悔と並んで語られる言葉もある。それすなわち———。
後悔しても後の祭り。
「うわぁぁぁぁぁぁぁんっ!!!」
榛色の瞳が溶けてしまうんじゃないかってくらい次々と、大粒の雫が溢れては頬を濡らす。
麦の穂みたいな金色の髪を一つに結えた髪型はあの頃と同じ。程よく日に焼けた健康的な顔立ちは、この地を離れてから約一年と半年くらいの間に成長して、少しだけ大人びて見えた。
そんな少女が、頑是ない子どものように泣いている。
ミュゼが。ずっと会いたかった子が、ジブンを前にして声をあげ、ぼろぼろと涙をこぼして泣いている。
*****
調教都市トゥリームオから、空をゆく大きな船で運ばれ、降り立った場所には懐かしい風が吹いていた。
綱を引かれ、薄暗い貨物室から外へと連れ出されても、いつかのような不安はなかった。
鼻腔を満たす風の匂い。見える空の青さ。大気に満ちた魔力の感触で分かる。ここはジブンが生まれ育った故郷だ。
ジブンは故郷に帰って来れたんだ。
競飛竜になった時から、一つの目標だった故郷への帰還に、尻尾の先が小刻みに揺れる。
それは、船と陸地を繋ぐタラップの下で出迎えてくれた人たちの顔ぶれを見て、更に激しくなった。
いかつい身体つきに反して良い人そうな顔立ちの、ホートリー竜牧場の牧場主ヤフィスおじさん。
おじさんとは反対にひょろりと細い体格をした、弟のヨーゼスくん。
その隣に寄り添っているふくよかな女性はヨーゼスくんの奥さん、マーサちゃん。
そして———。
懐かしい顔ぶれの中で、一番小さい人物と目が合う。
すぐにあの元気な声で、名前を呼ばれると思った。
ジブンと目が合った時、彼女はいつも嬉しそうに名前を呼んで駆け寄ってくれたから。
だけど。
大きく見開かれた榛色の瞳に、みるみるうちに分厚い涙の膜が張る。あっと思った時には遅かった。
わななく唇が開いて、ああ、とかうぅ、という言葉にならない音が漏れ出た直後。
ミュゼの涙腺は決壊して……今に至る。
「ゔぇ、ひっぐ……うぇぇぇんッ」
感情が溢れて止まらないといった感じで、本人にも制御できていないのだろう。ミュゼはずっと言葉を紡ぐこともできず、ただ慟哭をあげ続ける。
ミュゼの泣き声に誰もが竦んで動けない中、いち早く行動できたのは、ヤフィスおじさんだった。
「……ミュゼ、そんなに泣いたらテンテンもびっくりしちゃうよ。落ち着いて、ゆっくり深呼吸してごらん」
「ヒッ、ひっぐ……あ"ぃ、グスッ」
かがみ込み、ミュゼの肩を抱き抱えるように背後から支えるヤフィスおじさんの静かな声音。慌てることも急かすこともない、穏やかな態度に、ミュゼも徐々に落ち着きを取り戻す。
小さく嗚咽は繰り返しているものの、過呼吸ぎみだった呼吸が落ち着いていく。
その時、ジブンの聴覚器官の横で、一つの声が蘇った。
『まあがんばれよ。———それとお前、俺が言うのもなんだけど一番忘れたらいけないこと忘れてるからな。おいおい後悔しろよ〜』
夢の中で会った前々世のジブンが最後に投げて寄越した、忠告と言うにはあまりに軽かった言葉。
同時に彼が指摘した、大事な大事な、忘れちゃいけなかった記憶も蘇る。
『……無茶して怪我しないでね』
ホートリー竜牧場を離れる夜に、ミュゼが言って聞かせたお願い。
レースで負けるなと言ってくれた。同時に、無茶をして怪我をするなとも言ってくれたのに。
右の翼を見る。黒いローブのおじいちゃんの魔法で骨は繋がったけれど、繋げたばかりの箇所は柔く脆いんだそうだ。だから今は負荷をかけないよう、折り畳んだ状態でベルトや金具で保定されている。
飛ぶ事はおろか、動かす事も許されていない翼。
シークエスが止めなければ粉々になっていたかも知れない翼。これが無茶でなくてなんだと言うのか。
言葉を交わし、約束したわけじゃないけれど、それでも約束を破ってしまったような罪悪感に襲われる。
故郷に帰還した喜びが、しおしおと萎れていく。
学校で悪ガキにいじめられていた時も、魔物に襲われた時だって、ここまで大泣きしたことはなかったミュゼ。
全部、全部、ジブンのせいなのだ。
持ち上がっていた尻尾が力無く地面に落ちる。項垂れたジブンの引き綱を受け取ったヤフィスおじさんが、労わるように首の付け根を叩いた。
「翼を怪我したって知った時は心底心配したんだぞ。無事でよかったよ」
その手つきと声は優しくて、無茶した事を咎められるよりもずっと堪えた。
バツの悪さから目玉だけを動かし、恐る恐る他の人の反応を窺う。
ヨーゼスくんもマーサちゃんも、ヤフィスおじさんの言葉に同意するように、安堵の表情でこちらを見つめていた。
怒りも失望もない。ただひたすらにジブンの無事を喜んでくれている顔だ。
ミュゼを見る。
悲しみと安堵と心配が入り混じって、一言で言い表せない複雑な表情を浮かべた顔には、涙の気配がまだ滲んでいる。
加減なしに涙を拭ったせいで、赤く腫れた目元に光る涙の軌跡を見て、ああ、と理解した。
———ジブンという飛竜はもはや『ジブン1人のもの』ではないのだ。
無茶をしてジブンが傷ついた時、その無茶で傷つく人が居ることに、思い至らなかった。
視野が狭くなっていた。無頓着だった。
ケルクスの前後は、精神的に余裕がない状態だったとはいえ、本当に軽率だったと今なら解る。
ミュゼだけじゃない。
ヤフィスおじさんや牧場の人達。シークエスやアルルアちゃんにトトー先生。それからアオノ氏に、会ったこともなかった黒マントのおじいちゃん。
そして、ジブンが名前も知らない人たち。きっと、とても心配してくれていた。
競竜は、飛竜だけの力で飛ぶんじゃない。
いつかのレースでシークエスが教えてくれた。だけどそれはきっと、騎手と飛竜だけの関係で終わる話でもなかった。
沢山の見知った人と、知らない人たちの、期待や願い、努力に心配。様々な思いを全部背負って飛ぶ……それが競竜なんだ。
勝つことが目的だけど、勝つことだけが全てじゃない。
怪我をしたら、それはジブン1人の問題で終わらない。
———なんて重いんだろう。
誰かに期待されるということは。誰かに大切にされるということは。
こんなにも重く、息苦しく———心に響くものなのか。
目の前に、泣かせたくなかった女の子が立っている。
泣かせたくなかったのに、不甲斐ないジブンのせいで泣かせてしまった女の子が。
いつのまにか少し大きくなった両の手のひらが、ジブンに向かって開くように持ち上げられた。
「デンデンお"がえ"り"……っ」
ただいま。そして心配かけてごめんミュゼ。
広げられた両手の間に頭を下ろす。身体は少し大きくなったけれど、変わらない体温と匂いに包まれる。
今度こそ、ジブンは生まれ故郷に帰ってきたんだと実感した。
*****
久しぶりに戻ったホートリー竜牧場は、目に見えて大きな変化は無いものの、なんだか少し明るくなっていた。
光の当たり具合じゃないよ。雰囲気の話ね。
ジブンが旅立つ前は、言っちゃなんだが経済的に苦しいのかなー?ってのが薄っすら察せる雰囲気が漂っていた。
おじさんやヨーゼスくんが、何度か額を突き合わせて難しい顔で話し込んでいたのを見た記憶がある。
そんなおじさんを心配そうにミュゼが見ていたことも知っているし、懐妊が発覚したマーサちゃんが人手不足になることを気に病んでいたのも知っている。
ジブン達、飛竜の前で露骨に落ち込んだり愚痴を言ったりする人達じゃなかったけれど、そうやって少しずつ推し量れるような場面はあった。
あの頃、彼らが抱えていた不安は、じわじわとホートリー竜牧場にまとわりついて薄暗い影を落としていたと思う。
だが今はどうだろう。
泣き腫らした顔をしたミュゼはともかく、他の人達の表情は溌剌として、いつかの不安の影はない。
牧場内で見知らぬ従業員さんの姿が見えたのも、経済的な苦しさがなくなったのでは?と推察する根拠の一つだ。
マーサちゃんが産休に入った後に新しく人を雇っていたけれど、また少し人手が増えたのかな。
歩みを緩めて、竜舎に続く道や、見知らぬ若い飛竜が飛ぶ遠くの放牧地を眺める。
注意を払えば、足元の道は以前よりきれいに整えられているし、放牧地の柵も修繕されているのに気付いた。
よくよく見ないとわからなかったけれど、細々としたところに手入れが行き届くようになっている。
こうした小さな変化も、牧場全体が明るくなったと感じた要因だろう。
後ろ脚で立ち上がり、きょろきょろとあたりを見渡すジブンに、マーサちゃんが優しく目を細める。
「ふふ、テンテンったら知らない人が居るのに驚いてるのかしら」
「ハーレーは人懐こいからすぐ慣れると思うけど、後でちゃんと顔合わせさせようかな」
「ミオットがはしゃぐだろうね。ハーレーの大ファンだし乗せて欲しいってせがみそうじゃない?」
微笑ましげに知らない誰かの名前を口にするヨーゼスくん。その名前を聞いたおじさんは、いつもの優しげな顔付きをキリッと引き締めて、首を横に振った。
「まだアイラに舐められているようなひよっこを、現役の競飛竜に乗せるわけにはいかないよ。言われたとしても却下だ却下」
「あらあら。お義兄さんてば、ミオットくんには厳しいのね」
「兄さんにとっては弟子みたいなものだからね……そういえば、兄さん。父さんが死んでから手付かずで放置したままだった北の放牧地。あそこの修繕ってどうなったんだっけ?」
「ああ、それならミュゼに———……ミュゼどうしたんだい?」
大人たちが和やかに世間話に興じる横で。不自然なほど黙りこくっているミュゼに気付いたおじさんが、足を止めた。
ジブンを含め、皆の注目がミュゼに集まる。
視線の真ん中でミュゼは、服の裾をぎゅっと握り、意を結したように唇を固く引き締めて、顔を上げた。
「お父さん!伯爵様にお願いしてテンテンを引退させて貰おうよっ」
誰かが息を呑んだ音が、のどかな空気の中、嫌に響いて掻き消えた。
「テンテンはもうじゅうぶん頑張ったよ!重賞どころかG1だって勝ったすごい子なんだよ!そんな飛竜ガヴィランさんの牧場にだっていない、ティルホウで初めてのすごいすっごいことなんでしょ?!テンテンのおかげで報奨金もたくさん貰えたし、仔竜の評価も上がったってお父さん達も喜んでたじゃない!牧場も持ち直してきたんでしょう?なら、これ以上怪我する前に……引退して繁殖牝竜にした方が絶対いいよ!ずっとうちに居てもらおう!」
堰き止められた水が一気に噴き出すかのように。うわずった声で、一息に言い切ったミュゼの必死さに、誰もが気圧されていた。
かく言うジブンも怒涛の勢いでもたらされた情報量の多さに混乱して、思考がまとまらない。
報奨金とか仔竜の評価ってなんだ?引退?繁殖?それってお肉になる心配ないってこと?ずっとここに居られるの?だとしたらカイセイルメイはどうなる?トトー先生やアルルアちゃん、シークエス達には、もう会えない?あのレースが最後?あんな……レースが?
ホートリー竜牧場に戻る。
ドラゴンステーキになる未来を回避する。
どちらもずっと望んでいたはずなのに、それが目標だったはずなのに。
突然現れた目標達成の可能性に、湧き上がったのは、喜びや安堵ではなく激しい動揺だった。
冷静に思考を巡らせようと忙しなく視線を動かしていると、ジブンの綱を持つヤフィスおじさんに目が止まった。
優しげな印象が強いおじさんは、冷静を通り越して冷徹にも見える表情を浮かべて、娘を見据えていた。
「……ミュゼ。キミがテンテンのことをとても大事に思っているのは知っているよ———でもね。テンテンはもう《アオノハーレー》なんだ、立場を弁えなさい。君の発言は自分の感情を優先して身勝手に喚いているだけの、子どもの我儘だと自覚しなさい」
いつもなら穏やかな言葉を選ぶおじさんから、愛娘の頬を打ちすえるような鋭さで、厳しい言葉が飛んだ。
ミュゼが驚愕に目を見開く。
しばらく呆然としていたけれど、じわじわと突きつけられた言葉の意味を理解したのだろう。榛の瞳にまたも分厚い涙の膜が張った。
「う、うぅぅぅ……ッ!」
言葉にならない唸り声を噛み殺し、弾かれるように竜舎とは反対方向に駆け出すミュゼ。
「ミュゼちゃん!」
「マーサ、放っておいて。1人で頭を冷やした方がいいんだ」
瞬く間に遠ざかるミュゼの背中へと、マーサちゃんが手を伸ばすのを、おじさんが止めた。
「で、でも前みたいに森に行ったりしたら……」
おろおろと狼狽えて、ミュゼの走り去った方角をしきりに気にするマーサちゃん。反対に、おじさんはチラと一瞬同じ方角を見ただけで、竜舎へと踵を返そうとする。
「大丈夫。ハーレーが帰ってきたんだ、遠くには行かないよ」
「だとしても、兄さん……ミュゼはまだ子どもなんだから、あんなに冷たく言わなくても……」
それまで成り行きを見守っていたヨーゼスくんが、マーサちゃんの肩を抱きながらおじさんに言い募る。
「子どもでも、竜牧場を継ごうと思っている以上は理解しないといけないことだろ。生産した飛竜を送り出したなら、あとはただ無事を祈ることしかできない……ハーレーは競走能力がなくなったわけじゃないんだ。そんな飛竜の怪我一つに耐えられないなら牧場は継がせられない」
「……兄さん」
きっぱり言い切ったヤフィスおじさんに、ヨーゼスくんは言葉を探すように視線を彷徨わせて、口籠もる。そしてがっくりと肩を落とした。
おじさんの言葉が正しいからなのか、おじさんの態度が取りつく島もないからなのかはわからない。
重苦しい沈黙が横たわる、気まずい空気の中で、おじさんがポツリと呟いた。
「信じて待つだけというのは辛い。だけどそれも、産まれた時からこの子達を見守ってきた僕らの仕事で……背負う業なんだよ」
里帰りは前後編くらいにまとめるつもりだったのですが、書き始めたら、主人公に自覚をさせるのと、ミュゼの心の整理、技改良、後々のお話に関する種まきなど、やることが…やることが多い!となったので予定より少し尺を取ることになりました。
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