第38話 断章 ダリウス・ロン・ナハディの半生
夜明けを告げる日の出は遠く、外はいまだ夜が支配する刻限。
薄暗い竜舎の中を、年若いヒュマールの青年、ダリウス・ナハディは進む。
中皇競竜の竜舎に所属する竜務員として働くダリウスの朝は、草木も眠る真夜中だ。
ダリウスが立てる僅かな物音を聞きつけた飛竜が何頭か、飯はまだかと竜房から顔を覗かせる。
その一頭一頭に「よっ」「おはよう」「ねぼけてるなあ」と声を掛け、時には鼻先を一撫でしながら歩を進めていくと、目的の場所に到着した。
割り当てられた竜房の中、薄暗闇を羽織った青い鱗の飛竜が、丸くなって眠っている。
物音に周囲の飛竜が目覚めている中、警戒心のけの字もない暢気さに苦笑しながら、ダリウスは竜房の入り口を塞ぐ竜栓棒に手を置く。
「フラックス、おはようさん」
声に反応して、寝わらの上でぐるりととぐろを巻いていた飛竜の尻尾の先がぴんと立つ。
次いで眠気を振り落とすように大きく首を震わせ、寝わらの上で前脚を伸ばし、下肢を高く突き出す伸びをする。
長い首が持ち上がり、若木のしなやかさを宿した牝竜が起き上がった。
薄い金色の瞳がダリウスを写すと、弾む足取りで駆け寄り———。
「のわっ!おっぷ……ちょ、まて!まてって!」
覗き込んでいたダリウスの顔を、長い舌でぺろぺろとあらゆる角度から容赦なく舐め尽くす。
停止を呼びかけた唇の中にまで舌が侵入してきそうな熱烈歓迎を受けるダリウスに、隣の竜房の飛竜を担当する先輩竜務員が「お熱いなあ」と笑う。
いつものことなので止めてはくれない。
なんとか迫る鼻先を捕まえて押しやると、牝竜は満足したのか激しい舐め回しを止めて、今度は構えとばかりにダリウスの手のひらに鼻先を擦りつけて甘えだす。
「まったく毎朝毎朝、困ったやつだなぁ」
袖口で顔を拭うダリウスの肘を、無邪気に突ついてくる飛竜の名は、アオノフラックス。
春から初夏にかけて咲く青く可憐な花の名を持つ、ダリウスの担当飛竜だ。
*****
『———勝ったのはアオノフラックス!2着に3竜身の差を付けて、デビュー戦を完璧な勝利で飾りました!』
「やった……やっったぁぁぁぁぁ!!」
アオノフラックスのデビュー戦。
フラックスがゴール板を通過するや否や、固唾を飲んで見守っていた竜舎の面々の誰よりも早く、大きく、ダリウスは拳を天に突き上げた。
興奮冷めやらぬ勢いのまま、鼻息荒くダリウスは隣にいた調教師の顔を見る。
「凄いですよ、フラックスのやつ!あんな強い勝ち方できるならこのままいけば重賞……いやG1だって夢じゃないと思いませんか?!」
「ダリウス気ィ早いって。まだ1戦目だぞ」
興奮しきりのダリウスにフラックスの調教を務めた調教助手が呆れ笑う。「すみません、つい熱が入って」と恥ずかしげに頭を掻くダリウスらのやり取りの横で、調教師は感慨深げに空を泳ぐ青い飛竜を見上げていた。
「生まれは零細牧場だし、両親の産駒はどれもパッとしないから期待薄だったが……フラックスは今後が楽しみないい飛竜だ。とりあえずは予定通り、次走は来月だな」
「……ッ、はい!」
いつも慎重に物事を見極める性格から、あまり大きな事を言わない調教師が珍しく期待を込めた言葉。嬉しくなって、ダリウスも大きく頷く。
———アオノフラックスの競竜生活は輝いてみえた。
*****
「ダリウス、フラックスの様子はどうだ?」
調教終わりのフラックスを洗い場で綺麗に洗いあげていたダリウスの元に、調教師がやってきたのは年が明けてすぐのことだった。
「さすがに少し疲れが見えますね。こうやって……人間にちょっかいを出す元気はあるんですが、飼い葉の食いつきが細くなってて。夏から冬まで連戦続きでしたし今度の放牧でしっかり休めたらいいんですけど」
じゃれついてくるフラックスをいなしながら報告するダリウスの言葉に、調教師はなぜか眉間に皺を寄せる。
「———それなんだがな、フラックスの次走が決まった。来月のレジーナ杯だ」
「……えっ?フラックスは今月から放牧に出す予定では?」
夏の新竜戦を勝利で飾った後、フラックスは休む事なく勝ったり負けたりを繰り返しながら、既に4つのレースを飛び切って年を越した。
今後は春に開催される牝竜三冠の一つ、G1ケラスース賞を目標として冬の間は生まれ育った竜牧場で休養を取らせるという話だったのだが。
「ヴィローヴァ賞を勝った勢いで重賞を勝ちたいという伯爵様の強いご要望でな」
「そ……そう、ですか」
「休まず続闘は若い飛竜には厳しいが、伯爵様もそれだけ期待してのことだ。それに夏こそは放牧に当ててくださるよう進言する」
調教師が去った後、胸の内でわだかまるもやもやとした不安に肩を落としたダリウスを、薄い金色の瞳が心配そうに覗き込んできた。
「……フラックス。もう少しだけ頑張れるか?」
労りを込めて鼻筋を摩ると、言葉の意味は理解していないだろうフラックスは、それでも目に見えて落ち込んだダリウスを安心させるように、その頬をぺろりと優しく舐めた。
*****
「先生どうしてですか!今度こそ放牧に出して休ませてくださると仰っていたのに!」
ダリウスの喉からまろび出た非難は、もはや悲鳴に近いものだった。
年を越して休みなく春までレースを飛び続けたフラックス。
春に開催されたケラスース賞とケルクスを終えて、本来ならば三冠の最後、秋のラジアータ賞に向け放牧に出し英気を養う予定だった。
ケラスースで2着に入る大健闘を見せたフラックスは、秋のラジアータ賞への優先出走資格を有しているのだから、夏の間無理をさせる必要はない。
にも関わらず、休み返上で夏もレースに出すと聞いて詰め寄らずにはいられなかったのだ。
一方、詰め寄られた調教師もまた、やるせ無い様子で顔を歪める。
「私も騎手のピアーズも、フラックスを休ませてやるべきだと反対したんだ。特にピアーズ、彼女は強く反対していたし、一度は伯爵もそれで良いと仰ったんだ……だが前走の2着。思わぬ好走を見せてしまったことで伯爵様はご自身の判断こそ正しいとお考えになってしまったらしい」
「そんな……このままじゃフラックスは———」
最悪の事態を想像してダリウスは言葉に詰まる。
この一年間フラックスは毎月、短いと1週も空けずレースで飛んでいた。
全力で飛ぶレースは過酷で、飛竜の体力を大きく削る。例えレースが一月に一回であっても疲労は抜けずに蓄積する。そんなことをもう一年もフラックスは続けていた。
限界なのは誰の目にも明らかで、この頃は体調を崩しがちになり、食事の時間も竜房で蹲っていることが増えていた。
胸中渦巻く不安や苛立ちに服の胸元を握りしめたダリウスから、調教師はどこか諦めた表情で目を逸らす。
「私とてフラックスには才能があると思っている。引退後も視野に入れれば、使い潰すようなことは止めて大事に育むべきだ……だが最終的な決定権は竜主にある。フラックスの所有者はあくまでアオノ伯爵なのだ」
「だとしてもこんな仕打ちは……」
ダリウスが最後まで言い切る前に、調教師は言葉を被せる。
「———これは仕方のないことなんだよ、ダリウス」
『仕方がない』
調教師が自分自身にも言い聞かせるように放った単語が、いつまでもダリウスの耳にこびりついて離れなかった。
*****
調教を終えた助手がフラックスの背から飛び退く。
それはただ背を降りたというより、今にも壊れそうな足場から慌てて距離を取ろうとする動作に似ていた。
何事かと駆け寄ったダリウスに血の気の失せた顔で、助手はぼそりと告げた。
「みしみしと……フラックスが羽ばたくたび翼の付け根が軋む音が聞こえるんだ」
押し殺しきれない震えが支配した言葉に、ダリウスは絶句する。
競飛竜の翼から、背に跨った人間にまで届く異音がするなんて話は聞いた事がない。
異常な状態なのは明白だった。
連戦続きでろくに休めていないフラックスの体調を考え、今日の調教はほとんど調教とも言えないごく軽いものにしている。にも関わらず、今のフラックスはまるで全力でレース本番を終えた後のように項垂れ、疲れ果てていた。
「ああ、……なんてむごいことを」
いつの間にか痩せこけた首筋に顔を寄せ、絞り出すように呻いたダリウスの頬を、自分こそ辛いだろうにフラックスはやはり労わるようにそっと舐めた。
*****
年の瀬を締め括るアルアージェの競竜が誇る大レース。
その開催場にアオノフラックスは居た。
フラックスの翼の異音は良くなっていない。
あの日以降、調教助手は何も言わなかった。けれどフラックスに跨るたび青褪める彼の顔色を見れば、フラックスの背で彼が何を聞いているのかは、その背に乗れないダリウスにも察しが付いた。
アオノフラックスの陣営には大レースに挑む前とは思えない沈痛な空気が、重く暗く垂れ込めていた。
レースに参加する競飛竜達がパドックを周り終えると、騎手達が各飛竜の元へ近付いてくる。
今日のアオノフラックスの鞍上は今までずっと騎乗してきたエルフの若手騎手、ピアーズではなかった。
彼女はフラックスの処遇に対する度重なる忠言をアオノ伯爵に疎まれ、鞍から下されたのだ。
ピアーズから乗り替わりで、フラックスの鞍上となった騎手が近寄ってくる間。
フラックスの鼻先を縋るように撫でながら、周りの誰にも聞こえない声でダリウスはフラックスに語りかけた。
泣き出したいのを堪えて優しく、切実な祈りを込めて言い聞かせる。
「フラックス、今日はドベでいい。殿で周ってくるだけでいいんだ……だから、どうか———どうか無事に帰ってきてくれ……!」
——————そして。
——————祈りは届かなかった。
レース最後の直線。アオノフラックスはゆるやかに、背に乗せた騎手を庇いながら失墜した。
異変に駆け付けた調教師らの手により移送された竜舎で、竜医から下された診断は『右上翼骨粉砕骨折』。
溜まりに溜まった疲労の蓄積に耐えかねて、アオノフラックスの翼は砕け散ったのである。
*****
「伯爵様、フラックスの右翼は手の施しようがありません。どうかご決断を———」
アオノフラックスが運び込まれた竜舎の入り口。
調教師が苦渋を滲ませ、ベルバドル・デイル・アオノ伯爵へと報告する。
「そうか、ならば手配しないとな」
何の感慨も無さそうに応じた伯爵の声に、唇を噛み締めながらダリウスは背を向けて、竜房の中のフラックスに寄り添い続ける。
伯爵の顔を見てしまえば、飛び出しかねない罵倒の言葉を抑え込むために。
背後で、伯爵とは対照的に調教師が重いため息を吐いたのが聞こえた。
「……ではこちらで《安息》処置が出来る竜医を手配します」
「ん?ああ、それには及ばんよ。ソレには最後まで使い道がある」
明日の天気を話すような気軽さで最後の慈悲を否定され、ダリウスの背に怖気が走る。
「……つ、つかい、道……ですか?」
恐ろしい予感に裏返った調教師の問いに、伯爵は胸元から最新型の伝心機を取り出し、誰かしらの連絡先を探していた。
痛みに苦しむフラックスを、見向きもせずに。
「重賞を勝つほど力のある競飛竜ならさぞかし魔力も豊富で滋養に富んでいるだろう。そういったものを好む好事家が知り合いにいてね、折に触れ「強い競飛竜の肉を食べてみたい」と言っていたから、彼に譲る手配をするよ」
「たっ———食べッ?!」
「私も変わっているとは思うがね。現役の競飛竜の肉なぞ硬くて食べにくいだろうに」
思わず振り返ったダリウスは、調教師の絶句を、知人の感性に対してだと勘違いした伯爵が肩をすくめるのを見て、転がるように竜房から伯爵の前へ飛び出した。
ぎょっと目を剥く調教師と、路端の石ころを眺めるような伯爵の視線を背中に感じながら平伏し、頭を地面に擦り付ける。
「お待ちください!安楽処置を施さずやみくもに飛竜を苦しめることは月白教の教えに背きます、せめて最後のご慈悲をお与えくださいッ……!」
「そんなもの———貴族の城たる競竜の場であれば、どうとでもなるだろう」
暗に隠蔽すると告げて伯爵は、心底侮蔑し切った表情で膝をつくダリウスを見下ろす。
「確か《安息》は飛竜から全ての魔力を奪う事で死に至らしめるのだったか……。そんなもの使ってしまったら魔力の宿らない、ただの硬い肉だぞ。何の価値がある。お前はアオノフラックスの商品価値を下げろと言うのか」
自身の部下が詰られる様を見て、呆気に取られていた調教師が慌ててダリウスの隣に膝をついた。
「伯爵様申し訳ありません……!この男はアオノフラックスに思い入れが深く、出過ぎた真似をしてしまったのです、どうか寛大な御心でお許しください!」
揃えて頭を下げる男達を見下ろし、伯爵はこれ見よがしにため息を吐く。
怒りを納めたというよりも、これ以上価値のないものに無駄な時間を割くのを避けた素振りだった。
「———まあ良い。君たちはアオノフラックスをよく世話してくれたからね。その対価に今回の非礼は許そう。明日の朝には引き取りに来させるから一晩だけ置いていてくれたまえ……それと、変な薬は使わないでくれ、味にうるさい相手なんだ」
地に伏せたまま、顔を上げられないダリウス達の上に、どこまでも傲慢な声が投げ付けられる。
「飛竜は人の為に白の盟主が遺した人の従僕。人に使われてこその飛竜なのだよ……ならば最後の最後まで使って貰えることは本望だろう?」
足音が遠去かり聞こえなくなった頃。
遠巻きに見守っていた竜舎の職員達が安堵する空気を察した調教師がそろ、と身を起こした。
そしていまだ地面に蹲るダリウスの背を痛々しげに摩る。
「ダリウス、これは仕方のないことなんだ。私もこんな扱いは間違っていると思っている……だが今のアルアージェの競竜界は貴族の力が強過ぎるんだ。神殿も飛竜の処遇を改善しようとしているが、競竜発展の最初期に反対をしたせいで、競竜中枢へ力が及ばないでいる。ツェツェール公爵様のような温厚篤実な方が現状を変えようとして下さってはいるが……末端の我々ではどうすることもできないんだ。いつか時代が変わるのを待つしかないんだよダリウス」
———いつかって、いつだ。
悔しさ、悲しさ、怒り。
ダリウスの内で巻き起こる感情は嵐になって、涙の雨を降らせる。
己の涙が地面を色濃く濡らすのを目の当たりにして、ダリウスは悟っていた。
今、この時。目の前に。フラックスの地獄は其処に在るというのに、『いつか』は決して訪れない。
誰もが『いつか』を期待して、そうして誰もが揃いも揃って目を瞑っているのだから。
*****
放り投げた石が高いところから低いところへ転がり落ちるように。
持てる者の横暴によるツケを払わされるのはいつだって、持たざる者達だ。
権力者が放り投げ、その下の人間達が目を瞑って見ないふりをした石は、加速し勢いを増しながらフラックス達飛竜目掛けて転がり落ちる。
最も立場の弱い飛竜達は、転がり落ちた石に巻き込まれたら最後、奈落へと何処までも落ちていく。
この地獄を、ダリウスは知っていた。
どこかでそういう運の無い飛竜が居ることを、ダリウスは知っていた。
ダリウスだけではない。競竜に関わる者であれば誰もが知っている。そして誰もが哀れに思いながら『仕方がない』ことなのだと目を背けた。
知っていたくせに。
見ないふりをした。
そのツケを、今フラックスが払わされている。
『キュオォォォン!!……キュウッ、フゥゥゥゥ……!』
竜舎に悲鳴がこだまする。
痛みに耐えかねたフラックスの上げる苦鳴が、身悶えする音が絶え間なく。
それは大きく口を開けた地獄の顎が、突き落とされたフラックスを咀嚼する、悍ましい音。
明日の朝、処理施設へ輸送されるまでの長い夜ははじまったばかりだった。
「ごめん……ごめんよ、フラックス……!」
フラックスの頭を撫でる以外にできることはなく、それでも慰撫を止めることもできず、ダリウスは苦しむフラックスを撫で続ける。
竜舎にはダリウスを除いて他に人はいない。
誰もが地獄を目の当たりにしたくなくて立ち去ってしまった。
ダリウスを案じて最後まで残った調教助手も、お前も割り切れと告げるとフラックスの悲鳴を振り切るようにして去ってしまった。
『キュゥウ、フーッフー……ッ!』
「ごめんなフラックス。辛いよな、痛いよな……ッ」
楽にしてやれるなら、してやりたかった。
けれどダリウスにはフラックスを苦痛なく楽にしてやれる手段が何一つない。
今ほど自分の手に逆鱗がない事を悔やんだことはなかった。
飛竜は普通の魔法や刃物では傷をつけられない。
魔法は身体に満ちた純正魔力によって打ち消され、逆鱗持ちによる対飛竜魔法しか受け付けず。刃も高級金属アダマンティン以下では擦り傷程度にしかならない。
苦痛なく、一息にその命を終わらせる事ができる魔法こそ飛竜への最後の慈悲《安息》であるというのに。
それすら取り上げられて。
「くそっ……どうしてオレは!」
己の無力に対する悔しさから握りしめた竜房の中の寝わらが、爪の間に入り込む。
その不快感すら握りしめようとしたダリウスの泣き濡れた頬を、暖かく濡れた何かがなぞった。
溢れる涙で、歪んだ視界の中。
痛みに襲われながら、それでも。フラックスは傍らのダリウスを案じていた。
「やめてくれ……!オレはお前にそんなことをしてもらう資格はないんだ……っ」
罪悪感から顔を覆うダリウスに構わず、フラックスはダリウスの涙を拭おうと舌を伸ばす。
何度も何度も、小刻みに震えながら往復する舌の感触にダリウスはその頭を胸の中に抱き込んだ。
ほんのり暖かく、硬い鱗の感触を抱き締めながら、この腕の中のぬくもりを喪うのだと知って、ダリウスは己の無力を呪った。
アオノフラックスは堕ちていく。
どこまでも。
どこまでも。
どこまでも。
どこまでも。
命絶えるその時まで。
堕ちていく。
*****
———涙も枯れ果て、頼むから早く明けてくれと願った夜が明けた頃。
竜房に横たわるフラックスは悲鳴をあげる力すら尽きていた。
愛嬌に溢れた面影は見るも無惨に消え去り、時折襲い来る激痛に小さく痙攣を繰り返すばかり。
ダリウスを慰め続けた柔らかな舌先は悲鳴を上げすぎてヒビ割れ、半開きの口からだらりと垂れ下がり、弱々しい呼吸を繰り返して空虚な目で天井を見つめていた。
やがて到着した『処理施設』への輸送船に、フラックスが、罪人の如く、引き摺られるように積み込まれるのを見送りながら。
見送る誰もが皆、俯き、あるいは目を逸らす中。
ダリウスは決めた。
この地獄に『底』を作ると。
碌な休みも与えられず、骨が軋む限界まで酷使されて飛んだレースで治療不可能な怪我をした。
これ以上苦しまなくていいという、最後の慈悲すら取り上げられて死の際まで利用され続ける。
一度落ちてしまえばどこまでも落ちていく。この飛竜の現実を地獄と言わず何と言う。
競竜を止めることはできない。
競竜という大規模な魔力を廻す儀式は、人びとの生活、そして政治と密接に関わっている。無理やり断ち切るようなことをすれば、かのユヴェン・キシリーのように国が滅ぶだろう。
だが今の競竜の在り方は、人々の為に飛竜を遺した白の盟主が望んだ在り方だとはとうてい思えなかった。
競竜は無くせない。思わぬ事故で治療不能の怪我をする飛竜自体は無くせないのならば。
せめてその地獄に、終わりの『底』を作る。
これ以上苦しむことのないよう、最後の救いを必ず自分が差し伸べる。
それはどこにでもいる飛竜が好きなだけの純朴な青年の人生が、大きく変わる瞬間だった。
*****
陸の孤島とも呼ばれ、アルアージェ皇国屈指の厳格さを誇るンデバーネ・ルト神学校。
学びを求めて自らその門を叩いた青年に、数多の生徒を迎え、送り出してきた教師でもある神官達は、一様に困惑していた。
彼が冷やかしで来たからではない。神学校へ通う資格がないからでもない。
年齢は多くの学生より上ではあるものの、崇高な想いを胸に勉学に打ち込み、このンデバーネ・ルトで学ぶ事を望んだ。
だからこそ彼の進学理由を聞いた時、教師の誰もが眉を顰めた。
対飛竜魔法の習得。
逆鱗持ちのみが習得できる魔法分野を、逆鱗を持たない身で修めようとしている。人類が飛竜と共に暮らすようになってから、少なくない魔法使いや神官達が挑み挫折してきた無謀とされる挑戦。
今また一人の未来ある若者が、無謀な挑戦を大真面目にしようとしていることに対する困惑だった。
この挑戦が無鉄砲さや傲慢さからくるものであれば、教師である彼らは強く諌められただろう。高く伸びた鼻っ柱を折ることだって彼らには可能だった。
しかし、教師らの眼前で進学理由を問われた青年、ダリウス・ナハディは違う。
覚悟を胸に、飛竜達の未来のために挑もうとしている。
深い後悔から来る信念を折ることを、教え導く立場の彼らはしたくなかった。
「———ナハディさん。貴方の志は素晴らしいものです……けれど貴方にはその、対飛竜魔法を修めるための資格がないでしょう?」
この場で唯一の女性である恰幅の良い神官が戸惑いながらもなんとか諭そうと、最初に口を開いた。
「ここで学ぶのは自由のはずです」
「それはそうじゃが……逆鱗を持たない者が対飛竜魔法を習得するというのは今まで誰一人成し遂げられなかった、不可能なことなんじゃ」
この中で2番目に教鞭を取って長い神官が、首を横に振ると、長い髭が顔の動きに合わせて揺れ動いた。
「誰も成し遂げられていないことが、自分が挑まない理由にはなりません」
「わかってくれナハディ君。我々も決して悪気があって否定しているのではないのだ。若い君の人生を無駄にしてほしくないのだよ」
神経質そうな見た目をした壮年の神官が、吊り上がった意地の悪そうな形の眉を下げて言い募る。
何とかしてダリウスを説得したい神官達の視線が、これまでずっと沈黙したままの、最後の一人に注がれる。
教え導く者として最も長くこのンデバーネ・ルト神学校に在職する神官へと。
「———逆鱗を持つもの達が習熟の差はあれ、学べば修められるものを、君は地べたを這いずり血を吐くような努力と年月を積み重ねてなお……全てを無駄にして徒労に終わるかも知れない。いえ、そうなる可能性が殆どです、それでも構わないと?」
若葉を思わせる淡い色合いの髪から長い耳が伸びている。信心深い聖職者を絵に描けば、こんな表情になるだろうという微笑みをたたえたエルフが、表情を裏切らない穏やかな口調でダリウスに問うた。
「理解しています」
「君が苦難の道を選ばずとも、相応しい資格を持つものが、君がするよりもっと上手く的確に切り開いてくれるかも知れませんよ?」
ダリウスの頭にカッと血が昇る。
『誰か』が何とかしてくれる。『いつか』時代は変わる。そう思って目を瞑り続けた結果がフラックスの末路だった。
「今、この時!誰もいないじゃないか!誰も苦しむ飛竜に手を差し伸べられていない!アイツらの地獄は今もそこに在るのに誰も彼も見て見ぬふりをしている!」
世の中のあらゆる不条理に対する怒りを瞳に宿して睨みつけるダリウスの剣幕に、エルフの神官は聖職者然とした微笑みを崩さない。
「もし、仮に。君が《安息》を習得できたとして……。《安息》は使用するたびに殺した飛竜の死に際の魔力が身体にこびりつきます。魔力に鋭敏な飛竜は同族の死の気配に聡い。飛竜の死を纏う君は2度と飛竜から慕われ、愛されることはないでしょう。それでもよいのですか?」
「…………自分が愛されるために飛竜の地獄を見過ごすことはできません。それに———」
ダリウスは、フラックスの暖かな舌の感触を思い出して、手のひらで頬を撫でる。あの日確かに感じたはずの温もりはとうに失われている———けれど。
人が好きで嬉しいと舐めてくる癖。
悪戯を咎めようとすると、目を逸らしてシラを切る小狡いところ。
構ってほしいと服の裾を引っ張るいじましい仕草。
ダリウスの膝の上に頭を預け、寝息を立てた無防備な寝顔。
フラックスとの思い出が、空を往く飛竜の群れの如く駆け抜けた。
何もかもが愛おしく———そして、2度と戻って来ない。
それでも彼女から貰った優しい記憶は、今も色褪せる事なく胸の中にある。
彼女がダリウスにくれた暖かな愛があれば。その暖かさを目の前で地獄に落とした事実がある限り、ダリウスは覆せない宿命とだって戦える。
「もう、何もしないで目を瞑ったまま生きたくないんです」
ダリウスの瞳に宿った狂気的な覚悟に、狂信とまで言われる信仰心を見慣れた神官達がたじろぐ。
その中でただ一人、エルフの神官だけは笑みを深めた。
「……わかりました。ダリウス・ナハディ。私の元で学びなさい」
「アーシェス先生、本気ですか?!」
「こんなにも高い志を持った未来ある若者の人生を棒に振ることになりますぞ!」
「その素晴らしい志があれば神官としても様々な未来があるはずだ!思い直してみないか?」
アーシェスと呼ばれたエルフの神官に、他の神官達が食ってかかる。彼らもまたダリウスを思うからこそ、ここまで熱くなっているのだ。それを知るエルフの神官は、変わらぬ穏やかさで反論を受け止める。
「彼に相応しい未来を用意する事が教師の役目ではありません。彼が目指す未来への道を手助けすることが私の役目です……例え長い道の先に、目指す場所がなかったとしてもね」
誘うようにダリウスへと白い手が差し出された。
「幾度血反吐を吐き涙を流そうと、挫折と絶望に膝を折ろうとも、偉大なる創造神様と白の盟主様の御心に従い、必ず私が前へと進ませましょう」
*****
———そののち。
ダリウス・ナハディは神官アーシェス・フィリオディータに師事し、魔法の才能を開花させた。
そうして秘められた稀代の才覚と、年月。血の滲む努力の果て。
魔力操作によって逆鱗持ちの魔力の波長を完璧に模倣することに成功。安楽処置《安息》を、習得する。
不可能と言われた逆鱗を持たぬ身での対飛竜魔法習得を成し遂げただけでない。
《安息》習得のために得た魔力操作の力を応用し、新たな対飛竜魔法、救命措置《回生》までを開発するに至る。
翼が折れれば死ぬしかなかった飛竜達の命を救う、重度の骨折以外は治療が可能という破格の魔法。これにより数多くの飛竜達が救われ、ダリウス・ナハディの名は瞬く間に広まった。
名実ともに世界に名だたる偉業を成し遂げた彼は、多数の神官からの推薦と神官長らの全会一致の承認を受け、本来は死後生前の功績を讃えて贈られる『聖人』の称号を、存命のうちに与えられた。
異例中の異例。奇跡の体現。
アルアージェ国内は元より、他国からも注目され言祝がれる中、聖人として確固たる地位を獲得したダリウスが初めにしたことは演説だった。
折しも、魔力を用いて遠くの映像を映し出す魔法道具・映し鏡が民間にも普及し始めた時期。
アルアージェ中が、世界各国が見守る中ダリウス・ロン・ナハディは今一度人間と飛竜の関係を見直す事を説いた。
『命に価値をつけたとしても、命の尊厳まで奪って良いことにはならない。預かる命が生くる間は安寧を与え、終わりには安息を約束する。全ての人よ、我ら人間に飛竜を与えたもうた白の盟主の御心に相応しくあろう』
歴史書にも登場する演説の一説。
白の盟主から授かった飛竜を道具として酷使することへ疑問を呈したこの演説は当初、競竜界を牛耳っていた一部貴族達から猛烈な批判を浴びた。
しかし、それを上回る支持を民間と神殿から受ける。
更にはアルアージェ三大公爵家の一角、国内のエルフ族を束ねるツェツェール家がいち早く賛同を表明。次いで同じく三大公爵家のクロトーワ家までもが、賛同の意を表した事により風向きは一気に変わる。
———『いつか』の機会が、漸く訪れたのである。
聖人を旗印に、民衆の支持を受けた神殿からの後押しにより、それまで貴族主体だったアルアージェの、世界の競竜は大きく変わっていく。
飛竜が道具として酷使される時代の終わり。飛竜福祉の発展。人と飛竜の新しい在り方。
多くの偉業を成し遂げたダリウス・ロン・ナハディは、治療不可能な怪我や病に冒された飛竜に最後の慈悲を徹底するべく、率先して組織を作った。
『黒き御手』。ダリウスの思想に共鳴し、例え飛竜から愛されなくとも最後まで飛竜への献身を貫く者達。
ダリウスは組織の長として、黒き御手の証たる漆黒のローブを生涯纏い、苦しむ飛竜達の最後を看取り続けた。
華美な装飾も、豪華な暮らしも望まず、全てを飛竜と人類の絆に捧げ続ける。
そんな質素清貧な彼だが、祝典などの折には唯一その身を飾る花があった。
ダリウス・ロン・ナハディの、波乱万丈の生涯に優しく寄り添う、春から初夏の間に咲く青く可憐な花。
彼の愛した花の名は———。
現実世界と文明の発展や死生観等が全く違う世界において、ダリウスは宗教の力を借りてアニマルウェルフェアを追求した人です。
次は主人公のお話に戻ります!
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