聖女と護衛騎士と、二十五年の想い
※四十歳の聖女と五十歳の護衛騎士です。お好きな方はどうぞ。
聖女テリーザ。
そう呼ばれて二十五年。
明日、その役目を新たな聖女へと引き継ぎ、ただ人へと戻る――。
***
ろうそくの明かりだけが灯る静かな聖堂内で、最後の祈りを捧げる。
微動だにしないその敬虔な姿に、後ろから低い声がかけられた。
「――聖女様。もう遅いので、そろそろお休みください」
伏せていた目をゆっくりと開いたテリーザは、声のした聖堂の入り口を振り返った。
そこには、いつもと同じように立つ護衛騎士の姿があった。
「最後だと思うと、つい時間を忘れて祈っていました……」
テリーザは微笑みながら、慣れ親しんだ聖堂内を見回した。
明日、テリーザは聖女を引退し、新たな聖女へとその役目を引き継ぐ。
本来であれば長くても四、五年で次の聖女へ引き継ぐはずが、新たな聖女がなかなか見つからなかったために、歴代最長の二十五年間という年月を務めた。
十五歳のときに聖女となり、気づけば人生の半分以上をこの神殿で過ごし、テリーザが聖女になったときの神官長も代わるなど、時代と共に多くのことが移り変わってきたが、聖堂の入り口でテリーザを見守る護衛騎士は二十五年間変わることなかった。
「私が二十五年も聖女だったために、あなたにまでこんなに長い間、護衛騎士という任に縛ってしまいごめんなさい」
「何を言っておいでですか。それが私の役目です」
護衛騎士はそう言って微笑みを浮かべた。
口元の皺が少し深くなる。
二十五年――。
今更ながら年月の長さを実感した。
テリーザが聖女となり神殿へやって来たその日から、護衛騎士に定められた彼は、常に側で聖女を守り続けてきた。
出会った頃には黒かった彼の髪は、今では灰色や白が多くなっている。
顔立ちも出会った頃とは変化し、髪色と同じ髭を蓄え、穏やかな顔立ちには皺も増えた。
二十五年もたてば当たり前だ。
テリーザ自身も最近、自分の亜麻色の髪の中に何本か白い髪の毛が混ざっていることに気づいた。
それほどの年月の中で外見は変われど、側にいることは変わらなかった。
「あなたが護衛騎士でいてくださったことを、心から感謝しております。あなたがいてくださったから、私はこれまで聖女を続けることができました」
「聖女様ご自身のお力です」
「いいえ。あなたでなければ、きっと今の私はいません」
テリーザは心からそう思った。
世間では歴代最長の二十五年間聖女であり続けたことを称えられたけれど、それは側で守り続けてくれた護衛騎士の彼にも言えることだと。
原則的に聖女がその立場を退くまで同じ護衛騎士がつくが、テリーザの場合は異例の長さとなってしまったために、彼も二十五年間も護衛騎士の任を続けることとなった。
神に仕える身として婚姻を許されていない聖女とは異なり、護衛騎士は婚姻の自由があるのに、神殿の外に住まいを持てば何かあったときにすぐに駆け付けられないからと言って彼は今日まで未婚を貫いてきた。
テリーザより十歳年上だから、もう五十歳になるはずだが、この年齢に至っても変わらない端正な顔立ちは昔から女性の視線を集めていたというのに。
そのことを申し訳ないと思うと同時に、彼がいなければやはり自分は二十五年もの年月をやり遂げきれなかったと、テリーザは感謝の念を抱かずにいられなかった。
「二十五年……。色々なことがありましたね」
テリーザは聖女になってからの二十五年の月日を思い返した。
「神殿に来たばかりの頃、神殿の屋根の上で一緒に夕日を見たことが懐かしいです」
テリーザがそう零すと、護衛騎士も懐かしそうに目を細めた。
「そんなこともございましたね。あなた様はまだわずか十五歳で、故郷を恋しがっておられた」
「ええ。慣れない王都の暮らしと、聖女という大任に潰されそうだった私を、あなたは突然神殿の屋根の上まで連れて行ってくれました。まだ出会ったばかりで、真面目な騎士様が屋根に登ろうなんて言い出して、正直びっくりしました」
「神官長に知られればお説教ものでしたから、私も若かったです」
「でも、王都の屋根瓦が夕日で染まっていく様子はとても美しくて、私はあの光景を見て王都を好きになりました」
聖女となったばかりの頃のテリーザにとって、のどかだった生まれ故郷とは正反対な王都も、常に真剣な表情で周囲に目を光らせていた護衛騎士の存在も、どちらも近寄りがたいと感じていたが、夕日に染まる美しい光景を見て一気に親しみを抱いたきっかけだった。
そんな思い出を皮切りに、記憶のふたが開いたように次々と蘇えってくる。
「小神殿へ祈りを捧げに行ったときには、近くの屋台で売っているお菓子をこっそり買ってきてくださったこともありました」
「あなた様がとても食べたさそうな顔をしていましたから」
「甘い香りが美味しそうで、あれでは誰だって食べたくなってしまうというものです」
聖女としてしばらくたち、その自覚が芽生えてきたテリーザにとって、お菓子が食べたいなんて聖女らしからぬわがままは言えなかった。
けど、誰にも言っていなかったのに、小神殿で祈りを捧げたあと控えの部屋に一人でいたら、忍び込むように入ってきて懐から甘い香りのお菓子を取り出した護衛騎士に、思わず目が点になってしまった。
驚いて見上げれば、いつものと変わらない真面目な表情なのに、人差し指を口元に当てている姿に、どうして知られていたのだろうという恥ずかしさと、真面目な彼がどんな顔で屋台に甘い菓子を買いに行ったのか想像もできなくて、思わず声を失ったものだ。
他の人に見つからない内にと促されて急いで食べたお菓子の甘さは、それまでの人生の中で一番甘い味だった。
けれども、聖女としての日々の中には、驚くようなことや楽しいことだけではなかった。
ときには辛いこともあった。
「日照りが続いた年、雨乞いの祈りを捧げる間、ずっと側にいてくださったときは心強かったです」
「……夜通し眠らず祈りを捧げる姿に、倒れてしまわないかと心配でした」
テリーザの思い返す言葉に、護衛騎士の苦し気な声が重なる。
聖女となって数年が過ぎたあの年は、雨が途絶え土地が乾き作物が枯れ、国中が苦しんだ。
テリーザは聖女として何日も恵みの雨を願い祈り続けた。
ようやく雨粒が落ちた瞬間、テリーザは安堵と疲労で意識が遠のきそのまま倒れた。
気がついたときには自室で寝かされていて、傍らで護衛騎士が青い顔をしてテリーザを見守っていた。
それからしばらくはとても過保護な扱いを受けたことも、今でも覚えている。
「本当に、色々なことがありました……」
二十五年の年月はとても長かったはずなのに、どの日もまるで昨日のことのように鮮明に思い出せる。
そして、その全ての日々にいつだって護衛騎士が側にいた。
「私にとってあなたは、守ってくださる頼もしい騎士様であり、いつだって側にいてくれる優しい兄のようであり、そしてかけがえのない友人でした」
「では、私にとっても唯一無二の聖女様であり、目の離せない妹であり、かけがえのない友人ということですね」
互いに目を合わせて、笑い合った。
テリーザにとって人生の半分以上を過ごした神殿の中で、家族以上に長く共に過ごしたその存在は、一言では言い表せない。
いわば、半身ともいえるほど常に側にいた。
けど、それも今日までだ。
テリーザは聖女を引退したあとは、しばらく一人旅でもしようと思っていた。
これまで聖女として神殿を離れることができなかった分、気ままに自由な暮らしをしてみたかった。
生まれ故郷の家族は帰ってくるよう言ってくれたけれど、家業の畑仕事もすっかり忘れてしまったし、兄弟にもそれぞれ家庭があるので気を使わせるのも申し訳なくて断った。
ただ、少女時代まで過ごした故郷では家族がたくさんいて、神殿の中でも多くの人々に囲まれてきたから、一人で過ごすことに慣れるまで、少し時間がかかるかもしれない。
これからは、隣を見ても彼はいないのだ。
そう思うと、心の中にまるで穴が開いてしまったような気持ちになる。
その開いた穴から、心の奥にしまってきたものが少しずつ溢れてくる。
心の奥底に密かにしまってきた想い。
「聖女様?」
黙り込んだテリーザに、護衛騎士は心配そうな表情を向けた。
顔立ちに皺は増えたけれど、出会ったときと変わらないまっすぐな目に見つめられ、テリーザは視線を合わせられなくて思わず俯いた。
「どうかされましたか?」
優しい声音がテリーザを案じる。
いつだってテリーザのことを見守り気づかってくれた存在だった。
「……聖女としての立場を不満に思ったことなどありませんでした。でも、少しだけ……同世代の子たちが羨ましいこともありました」
聖女になったばかりの頃、身に余る役目だと自覚し励むことに必死だった。
けれど、普通の少女たちの自由を羨ましく思うときもあった。
友人同士で街へ買い物にでかけてみたかった。
おしゃべりや、ときには喧嘩をしてみたかった。
そして――。
「恋をしてみたかったです……」
国のために生きる聖女に恋は許されなかった。
国のために祈り、国のために生きる聖女。
聖女という立場を不満に思ったことはなかったけれど、聖女であるがゆえに諦めたことはあった。
「私、あなたをお慕いしてたんです」
二十五年間、密かに抱き続けてきた恋心。
毎日、彼の側にいられることが嬉しかった。
心の奥底から溢れ出てきた長年の想いをテリーザが告げると、それを聞いた護衛騎士はまるで豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしていた。
テリーザはその表情を見て、思わず吹き出すように笑った。
「ふふ……」
長く一緒にいたけれど、彼のそんな顔を見たのは初めてだった。
「あなたでも、そんな顔をするのですね」
「……人を何だと思っているのですか」
「いつだって冷静で優しく、頼りになる騎士様でしたわ」
テリーザは目の前の護衛騎士をまっすぐに見つめた。
初めて会った日から守り続けてくれた頼れる護衛騎士。
二十五年前、聖女を守る護衛騎士だと紹介されたあの日を、今でもよく覚えている。
騎士なんてめったに見ることもない小さな農村で生まれ育ったテリーザにとっては、十も年上の騎士はあまりにも大人の男性で、緊張して目も合わせられなかった。
そんなテリーザの側で、彼はいつだって静かに寄り添い続けてくれた。
護衛騎士として包み込むような頼もしさを持ち、家族と離れ寂しかったときにはまるで兄のように親身に寄り添い、いつもそばにいてくれる友人のようなかけがえのない存在――。
……でも。
本当は、いつだって恋をしていた。
十五歳の心に人知れず灯った初恋。
聖女は国を救う存在と尊ばれたが、テリーザにとっては彼の存在こそが救いだった。
楽しいときも、辛いときも、いつだって彼が側で寄り添ってくれていたから、二十五年もの長い年月を聖女であり続けられた。
それと同時に、彼の前では聖女でなく、ただのテリーザでもいられた。
最後にせめて、聖女としてではなくて、初恋に落ちた少女の感謝を告げたかった。
「今まで本当にありがとうございました」
もう初恋を抱いたときの年齢ではないけれど、ずっと変わらなかった二十五年の想い。
二十五年越しにようやく伝えることのできた告白だった。
「……先を越されました」
「え?」
目を丸くしていた護衛騎士は、自身の右手で顔を覆うと、深く長いため息を零した。
いつも直立不動といえるくらい背筋を伸ばして立っていたのに、珍しくわずかに背を丸めている。
「明日、あなたが聖女の役目を終えられた後にと考えていたのに……。まさか今日、先に言われるなんて……」
声もいつもより歯切れが悪くて、テリーザは彼がこんな風な様子を始めて見て少し動揺した。
明日からはもう会えなくなるのだと思うとつい想いを吐露してしまったが、急にこんなことを伝えても困らせてしまうだけだと、今さらながらに気づいて申し訳なさが込み上げた。
「あ、あの……」
「自分は聖女を守る護衛騎士だと、常に己に言い聞かせてきました」
しかし口を開こうとしたテリーザの言葉を遮り、護衛騎士は静かに歩み寄った。
「家族と離れ心細そうにしながらも、聖女として国のために祈り続けるひたむきな姿に、何度抱きしめようとした手を思いとどめたことか」
「騎士様……?」
テリーザの目の前まで近づいた護衛騎士は、片膝をついて跪いた。
初めて会ったときにも、こうしてテリーザに対して跪き護衛騎士としての忠誠を誓っていた、その記憶が蘇ってくる。
「妹ではない。一人の女性として、心から愛しております」
けれど告げられた言葉は忠誠の誓いではなくて、テリーザは息が止まりそうになった。
「これからは、国のための聖女ではなく、私だけのテリーザでいてください」
聖女様と言う呼び方ではなく、初めて名前を囁かれ、テリーザはまるで少女に戻ったかのように頬を紅潮させた。
そのまま固まるテリーザに、護衛騎士は髭に囲まれた口元に微かに苦笑いを浮かべた。
「返事をいただけませんか?」
その言葉でテリーザはハッとした。
けれど突然のことに動揺してか、嬉しいはずなのに色々な考えが押し寄せてきて、何を言えば良いか分からなくなった。
「……わ、私は、こんな歳です……」
「それをいうなら、私の方があなた様より十も上です」
「け、けど……」
「年齢も立場も関係ありません。今までも、そしてこれからも、共にいたいのです」
叶うことなど予想していなかったために混乱するテリーザに、護衛騎士はまっすぐな眼差しでそう告げた。
それはテリーザが願って止まないことだった。
「これからも、一緒にいられるのですか……?」
「生涯共にいることを誓います」
二十五年前とは違う永遠の誓いが、静かな聖堂にこだました――。
翌日、神殿を後にした元聖女の側には、変わらず寄り添い続ける元護衛騎士の姿が見られ、多くの祝福を受けた。
四十歳と五十歳という、自分が好きなものを詰め込んだ年齢同士の話ですが、読んでいただきありがとうございました!
番外編を短編置き場に置いています。下部のリンクからも飛べますので、もしご興味があればどうぞ(5/11追記)