5.無才の男、鍛える。
「…9998…9999……10000…!!」
逆立ちの体勢での腕立て伏せを終えた僕は壁際に立て掛けてある木刀を手にする。
ついさっきまで腕に残っていた筋力トレーニングによる痛みも引き切っている。
次は木刀の素振りだ。
「…1…2…3…!!」
オーガに殺されかけて部屋に戻ってきた僕がしているのは、自己鍛錬だった。
と言っても出来るのは筋トレ、素振り、イメージトレーニング程度なのだが…。
この部屋はどんなに疲れようとも、傷を負おうとも、僕の体をニュートラルの状態に戻す力があるらしい。
でも、筋トレを続けているとはっきりと能力値が上昇していることが判明した。
トレーニングを続けていると、最初はできなかったような、例えば先ほどの逆立ち体勢での腕立て伏せが出来るようになってくるのだ。
筋トレで傷んだ筋繊維は元に戻るのではなく、回復されているという事だ。
おそらく、この部屋の力としては健康な状態に戻すというのが一番近いのだと思う。
もし本当に部屋の力が【この部屋に来た状態に戻す】だったら掛け値なく詰んでいた。
あの状態でオーガに勝つ方法は皆無だったからだ。
でも、僕は成長できる。
望みは繋がっているんだ。
この部屋で鍛錬を積み、オーガを倒して先へ行く!!
「…9998…9999……10000…!!」
上段から真向切りの素振りを終えた僕は続けて袈裟切りの素振りを始める。
「…1…2…3…!!」
幸いなことに、フレンブリード家に居た際に剣術指南を受けていたため基本的な剣の振り方は理解している。
また、指導を受けていた流派が刀剣術も生業としていたので、刀についても指導を受けていたのは今にして思えばラッキーだった。
僕の唯一の武器である木刀はオーガに真っ二つにされたはずだが、この部屋で目覚めたときには何事もなかったかのように完全な状態に戻っていた。
ルシフェルはこの木刀について『特殊な能力がある』と言っていたが、それが関与しているのか、あるいはこの部屋の力によって修復されたかだ。
でも今はその答えに辿り着く方法はない。
「…9998…9999……10000…!!」
袈裟切りを終えたら次は左袈裟切りの素振り。
その次は一文字切り。
僕は淡々と素振りを繰り返す。
自己鍛錬はどれぐらい繰り返しただろうか。最初は数えようとしていたけど、それも諦めた。
何せ不眠不休で続けられるのだ。
僕はこの部屋にいる限り、怪我をしないし、食事も必要としないし、睡眠も必要としない。
これが地獄だと気づいたのはこの部屋で過ごしてすぐだった。
オーガに殺されかけ、もうダンジョンに挑むことを諦めても、この部屋では何もできない。
飢えることも死ぬこともできない。
精神が崩壊して何もわからなくなるまで生き続けるしかないのだ。
だから僕は何か縋れるものがないかを考え、自己鍛錬を始めた。
ただの腕立て伏せでいっぱいいっぱいだった僕が片手腕立て伏せ出来るようになったときは本当に嬉しかった。
それから僕は自身の成長を拠り所に一人この部屋で鍛錬を続けてきたのだ。
…もう、どれくらいこの部屋で鍛錬を続けているのかわからない。
「…9998…9999……10000…!!」
木刀での素振りを終えた僕は、心を落ち着かせて目を瞑り、あの時のオーガを脳内でイメージし対峙する。
そしてイメージのオーガとの戦闘を開始する。
「やっぱりだめか…。」
部屋の真ん中で大の字になって天井を見つめる。
イメージのオーガとの戦闘はこれまで全敗。
オーガの初撃を木刀でいなしたり、避けたりすることは出来るようになっているが、切り合う内に武器の違いが出てくるのだ。
向こうは真剣、こちらは木刀。
この条件でオーガに勝つには相手の斬撃は全て躱すか受け流すしかない。
それを続けるのが難しく、どうしても途中で木刀ごと切り伏せられてしまう。
今のところ突破口は見当たらない。
「一回行ってみるか。」
僕はそう言って起き上がると、木刀を手に扉の前に立つ。
オーガに勝てなくても、殺される前にこの部屋に逃げ帰ればいい。
最悪、もう別に殺されてもいい。
もしかしたら既に精神をすり減らし過ぎたのかもしれない。
自分でもちょっと自棄になってるなと思いながら扉をくぐった。
以前と同じ坑道がそこにはある。
トラップを警戒しながらも、以前よりかは早く坑道を進む。
目的のオーガとの邂逅はすぐに果たされた。
以前と同じ、一本道の坑道の先、右手に刀を持ったオーガが、居た。
こちらが向こうの存在に気付くと同時、向こうもこちらに気付いたようだ。
僕にはオーガが笑ったように見えた。