自分の創作は独り善がりだなと思うとき
エッセイはこんなもんで善いのか判りませんがとりあえず書いてみました。
自分の創作は独り善がりである。
何を云っているのだろうかと思われるだろうが、自分の創作は独り善がりだ。
独り善がりは「独」と「善」で出来ている。それ即ち独善だ。
独善はウィクショナリーに拠ると、
「1. 他者を顧みることなく、自分のみが正しいと疑わず行動すること。」
と書かれている。
そう、他人のことなんか知らぬと自分だけ、自分の世界に籠っているだけだ。
それなのに、自分は評価されたいと何処かで想っている。実に歪だとは思わないか。私はそう思う。
けれど、自分の世界に籠ってばかりでは絶対に他人には見てもらえない。他人に見せる努力が必要だ。
努力なんていうヒトコトで片付けられるのも厄介で仕方ないが、それくらいでしか日本語では表現できない。
私は本来、こんな下らないエッセイなど書くべきでない。できるなら、コレを物語や音楽や絵などに昇華させねば為らない。でも、今コレを書いているということは、きっと私は何をしても評価されたいという気持ちの裏っかえしだろう。なんと愚かしいやら嘆かわしいやら……。こういう所が『独り善がり』なのだ。
こんな0と1で構成されている電子ゴミなど書いてなんに為る。何にも為らぬ。
然し筆は進んでしょうがない。本当に、こんな自分が憎たらしくてしょうがない。こういうときに人間を已めたくなる。本能で生きている畜生にでも為れば良い。それが世界にとっても幸いだ。
だが、ぐちぐちぐちぐちと節操も無いことをしてたとて本当にコレは只の電子ゴミで終わって了う。
他の作家さんの有価物はもちろん面白く自身の糧に成る。
ありえない程クズな人間でも社会にいる意味は在る。糞は肥料に成る。ゴミは燃やされる程度の価値は在る。
けれどコレはなんに成る。燃えもしない。お前のせいで人の時間やパケットや文字コードを喰っている。
作家失格と云っても過言ではない。
ならば少しだけ過去の話をしよう。然すれば電子ゴミからは抜け出せるだろう。それでも存在価値が零に等しいことは覆らないだろうが。
さて、じゃあ何故私はこんなことに為って了ったのだろうか。自分でも原因は判っている。
DTM、と云う物をご存知だろうか。一般人や小説界隈に属する皆様にはあまり聞き慣れない言葉であろうが、DTMはデクストップ・ミュージックの略称である。英語で書くならばDesktop・Music、だ。パーソナルコンピューター(以下、パソコン)で創る音楽のこと、とざっくり覚えてもらえば善い。
実は私は中学生から今に至るまでDTMを続けている。現在の年齢は伏せておく。ここで年齢を明かして了うと年齢に左右されて正当な評価を得られなくなるからだ。
とは雖も、私のツイッター、ユーチューブ等を見てくれれば判るだろうが、正直プロには及ばない酷い作品しか創っていない。
コードもマイナーメジャーくらいしか解らぬ。Mixが甘ければメロディもなんだか粗雑である。けれど、DTM、ならびに音楽に対する愛情は人一倍あると自負している。
中学生時代は殆ど不登校であった。イジメと云うには言動も何もかも幼稚だろうが、なんとはなしに疎外感を感じていたのは事実だ。だから、学校に通わなくなっていた。そして、私は集団行動が苦手である。今も。相乗効果で余計に行かなくなっていただろう。
だからこそDTMにのめりこんだ。のめりこめばのめりこむ程、所謂『プロ意識』、が芽生えていった。本当に馬鹿馬鹿しい。それで飯を食っている訳、なかろうに。そうして肥大化しすぎた意識に苛まれ、どんどん良い楽曲を創り出そうと決心した。
その時は自分のパソコンなど買ってもらえていなかった。けれど家族共有のものなら在った。父にせがみ、ソフトを入れこんでもらい創っていた。
だが唐突に母親に作品を見せてほしいと云われた。私は他の人に作品を見せたことは当時はなかった。だから、其の時が初めて他人に見せる最初の作品だった。だが、母親の一言は「なにこれ」の一言。
当然である。今でこそ多少マシな作品は創れてはいるが、当時は技術も何も、ソフトの操作も覚束なかったのだから。
私の心は折れた。が、同時にメラメラとした闘志のようなものが宿っていた。「絶対に見返してやる」と。
ココ迄は健全だろう。まだまだ青い少年が音楽で見返してやると思っているのだから。今思っても微笑ましい。
だが、そのときに産まれた感情に当時は気付いていなかった。言って了うと、「他人に作品を見せたくない」という感情だ。元々他人に作品を見せるのは私は好きではない。今、小説を公開している理由も「より良くしたい」、「欠点や粗を見付けてほしい」からだ。少なくとも建前上は。この思いが後に大惨事を招くことになるが今は話さないでおこう。
中学の時、不登校に為る前は美術部に所属していた。ココ迄踏み込んでいる読者なら解るだろう。「なんとなくひねくれた人物だ」と。文体から滲み出ているのも私も実感している。だからだろうか、文化祭や音楽祭に作品を出展することに為ったが、私は赤面してしょうがなかった。絵が下手だからだ。今はそれなりには描けはするが、音楽や小説と違い、ヒトサマに見せられるレベルでないと自覚している。今後一生見せるまい。
一応、絵は描いたが、確か出したのは音楽祭一回だけだ。何故ならば周りとの差をひしひしと感じていたからだ。私の所属していたソレは、特段絵ばっか描くようなそれではなかったが、私依り上手なのは確実だ。
中には、朧げな記憶で申し訳ないが割り箸でロボットみたいな造形を創っていた生徒も居たと記憶している。
そんなヤツに囲まれて裸足で逃げたくなるのは人間の本能だろう?
その時は何かを頑張ることに唾を吐き掛けていた時期だった。DTMに逢う前までは。
DTMに逢ってからは、私は頑張る事をやっと覚えた。
だが、幾ら頑張ったとしても家族に認められない。コレも当然だ。
何故ならば作品を見せていないのだから。私の実力が見えないのだ。
そして私はどんどんと冷ややかな目で見られるように為った。
「深夜まで起きるな」は学生として云われて当然、「好きなことだけして他の事をしないなんて」等々。
だが此れも真っ当な主張ではある。学生なら勉学をしてなんぼだろう。特別裕福な家庭でもなかったが故にまともな職業に就いてほしかったのだろう。
ある日、MIDIキーボードを欲しいと願った。MIDIキーボードは簡単に云えば「音の鳴らないキーボード」だ。ソフトに接続して使うのだ。すると、パソコンのほうで音が流れる。DTMで楽曲を創るのならば特別必須とは為らぬハードではあるが、良いメロディーが作れないのは事実であった。
お年玉も持ったのだし、買っても善いだろうと言った。だが返ってきた返事は予想を180度回るモノだった。
「そんな物買ってないで他の物を買いなさい」と。
そう、両親にとって私がやっている事は単なる【おままごと】、にしかすぎないのだ。
子供のやっているおままごと。それとはあまりにも違うものなのに。
酷く落胆した。それ故か、段々と両親にも自分の本当の気持ちを伝えづらくなっていった。
私の創る音楽は酷い。ソレは自分でも解っている。
だが其れに向かって努力していることやその時に掛けた情熱や熱量は決して偽物なんかではないのだ。
だが、両親には伝わらない。【おままごと】、なのだから。
自分の総てを否定されたような気がした。きっと、親としては参考書でも買ってくれ、のように諭したつもりなのだろう。けれどソレは私の心に、ひどく凍てついた氷の刃のように腹部に突き刺さった。今でも抜けていない。
その体験と、母親に云われた言葉。二つの歯車が不幸にも噛み合って了い、私はいつの日にか他人に作品を見せる事を恐がって了った。本来は家族や他の友人が居る際に作品をガンガンと見せるべきだったのだと思う。
だから自分の世界に籠るように為っていった。作品と創るという名目の元に。
自分の世界に籠るから他人に理解されなくなる。他人に理解されないからこそどんどん自分の世界に籠るの繰り返しだ。誰が望んだのだろうか、こんな負のスパイラルは。
私は凡才だ。いや凡才ですらないかもしれない。著しく才能がない。
だから人一倍努力しなければ為らぬ。だが然し努力しても努力しても才能の有る人には追い付けない。
おまけに周りからは疎まれる始末だ。今の今迄なぜ創作を続けられているのだろうかと心底疑問に思う。
努力した無才は努力した天才には絶対的に敵わない。無理だ。筆を投げるしかない。
そして努力という才はワイルドカードだ。何にでも対応できて了う最強の札だ。
私には努力という才すらない。努力はしている。けれどそれは好きなコトに対してだけだ。
とことんクズ野郎だと思う。ときどき、生きていることが無性に恥ずかしくなる。
だが、伝えたい想いが在るから、そして創作することくらいしか才がないからと思い這い蹲って生きている。
なんと情けない。
と、ここでタイトルに戻る。『自分の創作は独り善がりだなと思うとき』だ。
自分の創作は独り善がりだ。最初に言った通り、独り善がりだ。それなりに楽しんでもらう事は考えてはいるが、それでは足りない。だからといって読者に媚を売ることもできない。私のプライドやらという無駄なものが邪魔をする。何もかもが中途半端だ。
そんなでは良い作品は創れない。だが良い作品を創る為には創り続けるしか方法はない。何がしたいのか自分でも解らない。けれどまだ微かに情熱はある。ほとんどない火に縋って作品を産み続けるしかないのだ。
もう、那の頃の純粋な気持ちは何処にいって了ったのだろうか。もう見る影もない。
ココからは小説にすら纏まらない雑多な思いをだらだらと書くだけの話です。嫌な人は回れ右。
さて、色々と書いてきたが、結局は現状を打破できない自分が圧倒的に悪い。
変われない自分が悪い。お前は畜生ではないのだから自分で自分の道を作らなければ生きる道がない。
正直、何度も創作を止めたくなった。だが本当に僅かながらの見てくれている人がいるから作品を書けている。
「楽しければ評価を貰わなくてもそれで善いじゃないか」と云うのは創作家にとって非常に無責任である。何故ならば評価なしに作品を書ける人間など指折り数えるくらいしかいない。無論資料はない。喩えである。
評価、対価、少しでも何かがなければ続けることはできぬ。ネット上にあげている時点で承認欲求は多少なりともあるのだろう。自分だって薄々気付いている。
だが私が創作を続けている理由は伝えたいこと四割、楽しいからが四割、残りは承認欲求と欲望だ。
そう、楽しいも四割程度在るのだ。だから作品に籠める情熱は本物だ。それは声を大にして言いたい。
それでも承認欲求に魘されるのだ。
このまま承認欲求に自己を食い潰されるのではないかと時々不安に思う。承認欲求が悪いとは言わない。承認欲求を武器にして振り回す分には構わないが、呑まれたらお終いだ。
すると承認欲求のモンスターと化する。そうしたらもう歯止めは効かない。他人の作品を盗んで自己の物とし、自分の作品に愛着すら湧かなくなるだろう。私はそれを望んでいない。自分の作品に愛着が湧かなくなる事に酷く吐き気がする。
きっと自分自身を自分で恐れているのだろう。自分の異常性を理解しているからこそ、自分が恐ろしくて堪らないのだと思う。
総て私が起こしたコト、とは言わないし言えないが、私は変わらねばならない。
変わる為にネットに小説を上げ始めた節はあるだろうに、それも今では裏目に出ている。最悪だ。
吐き出すだけ無駄できっと誰も読んでくれやしないのだろうが、吐き出さないとやってられない。
此の儘きっと電子的な海に溺れるだけなのに。