第九話
みしり、と重圧に耐えかねたそれが悲鳴をあげる。
高く詰まれた石ころの塔。
祠と言った方が正確かもしれないそれは、レンガとリーシャが深部を歩いてしばらくして見つけたものだった。
当然ただの祠ではないだろう。
「いかにも、曰く付き。
出来るだけ胡散臭くあってほしいもんだ」
「……………?」
立ち止まり、犬歯を見せて笑うレンガに、何かを気にする素振りのリーシャ。
ここは樹海のど真ん中、立ち入り禁止の自然保護区。
広大かつ同じ景色が広がる森の中で、この祠を二人が見付けられたのは偶然ではなかった。
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三十分ほど前。
二人は迷っていた。
同じ様な模様の木、土、空。
試しに枝を一本拝借し、地面に突き立て目印としてしばらく歩いてみれば、二人は吸い寄せられるようにまた同じ場所に戻り着く羽目になっていた。
目を瞑ったまま人差し指一本で逆立ち出来るリーシャの平衡感覚で真っ直ぐ歩けない訳がなく、二人の結論は、何らかの魔法による阻害を受けているのだろうとされた。
しかし魔法によるものだとわかっても、それがどこでどう作用しているのかわからず、レンガの力で消失させる事も出来ない。
「いっそ木を全て倒してしまいましょうか」
「そいつは最後の手段だろ。
何より負けた気がして嫌だ」
おそらくこれは、かの大賢者様の仕業だろう。
五十年前、ふらりとオーランの街を訪れ林道の開拓に尽力した、らしい。
確かにその名に恥じること無い力を持っていたようだった。
「目的地へ辿り着けなくする魔法なんて聞いたことないな。新しく開発されたのか?」
「何か他の魔法を複数併用しているのではないでしょうか」
「…………仕方ねえ。地道にやるか」
レンガは地面に漆黒の杖を突き立て、今度は魔力を込め足元に巨大な魔方陣を作り出す。
待機状態のそれを発動させることなく放置し、簡易の方位計とする。
「よし、リーシャ、行ってこい」
「音速で走れば突破出来るかもしれないという訳ですね?」
「全く違うが、とりあえず行ってこい。
それと、"絶対に真っ直ぐ"走ってくれ」
地面を抉り走り出したリーシャは、瞬きすら許さない内に深い森へと消え、
少ししてから、レンガの左側から走って戻ってきた。
「どうやら音速でも駄目なようです」
「…………俺が向いている方向へ走り出したリーシャが、今度は俺の左側から戻ってくる。
うーん、まだわからんな」
もう一度、今度は少しだけ速度を落とし、走り出すリーシャ。
しかし、やはりというか今度もまた、レンガの左側から戻ってくる事になる。
だが、全くの手応え無しという訳ではなかった。
「十度ズレたな…………」
「誤差ではないんですか?」
ほんの少しだけ、リーシャは違う角度から戻ってきた。
だが、彼女の言うとおり、歩幅や身体のバランスに引きずられ多少の誤差は生まれるはずだ。
ガイド無しに完全に前回の自分と同じ轍を通れと言われても、難しいだろう。
それが、常人ならば。
リーシャは違う。
レンガが言った"絶対に真っ直ぐ"という命令を彼女が守ったならば、誤差など生まれることはない。
天賦の才と血の滲む鍛練がそれを許さない。
「しかし、私の身体の向きを百八十度変えさせるとは、中々凄い魔法ですね」
「そんな事本当に可能なのか?
ただでさえ魔法に強いお前の身体と意識で?」
「うーん、何て言うか。
レンガさんの魔法を食らった時みたいな、大きく揺さぶられる感じは無いんですよね。
ほら、あの幻惑と幻聴とが山のように来る奴」
「『太陽と月の魔法』?」
「そう、それです。
この地の魔法が本当に私の精神に作用できる程強力なものだったら、もっと何か感じるはずなんですけど。
微かにしか捉えられないんですよね」
幻術の究極系は、対象に一切の違和感を与えないことである。
レンガは魔法の師にそう教わっていた。
ならば、おそらくこの魔法を仕掛けた大賢者は相当な力量の持ち主だったのか。
死を降ろす術を喰らい、生を暴走させる魔法を笑ったリーシャ・マナガレウスという化物相手に、はっきりとした効果を出せる様な、そんなものが本当に使えたのか。
レンガの出した答えは否だった。
だとすれば小規模な効果を連続で与え、方位を、平衡感覚を鈍らせたのか。
それならば━━━
「ねえ、レンガさん、一旦戻ってみますか?
一度空から見てみるのもいいですし、ここで悩んでも埒が明かないような」
「なんか釈然としねえが、それもそうだ、よ………な……?
………………リーシャ、お前、今なんて言った?」
「え?
ですから、一旦"戻らないか"と」
戻る?
何度も同じ場所に繰り返し訪れ、同じ景色の中歩み出し、自分達がどちらから来たのかもわからないと言うのに。
そんな事が可能なのか?
「…………………!」
だが、辺りを見回したレンガも気付いてしまう。
わかる。
どちらへ歩けば戻れるのか。
どちらへ歩けば進めるのか。
「なんでだ……?
なあ、リーシャ。
なんで俺達は"歩み出せる"?」
「………………なんでって。
それは…………」
言葉に詰まるリーシャ。
言われてみれば、確かにそうだ。
何をもって正解とし、何をもって帰路としていた?
「………………深い、森へ」
「深い……?」
「………………そうか…………。
光、……!
私達は多分、微かな光量の増減を頼りに進んでいるんです!」
天は今、青々と茂る葉で覆われ、少しの光を隙間から差しているのみだ。
そして、それは"奥"へと行けば行くほど目減りしているような気さえする。
奥?
「……確かにそれならひたすら暗い深部を目指してる俺達が、何の迷いも無く進路を決められる理由の説明にはなるが……。
でもそれだけじゃ………………、……!」
「レンガさん?」
「リーシャ、お前、目隠ししたまま真っ直ぐ歩けるか?」
言うが早く、鞄から厚手の黒い布を取り出し、レンガはリーシャの視界を覆う。
「レンガさん、目を瞑るだけでは駄目だったんですか?」
「まぶたの上からでも光は感じとることが出来る。
ましてお前なら人の何倍も鋭敏に、詳細に、な。
だからそれは着ける必要がある」
会話の流れから何となくレンガのやらんとしている実験の意味を察し、リーシャはそこそこの速さで走り出す。
一分後、それまで帰ってきていた筈の時間になっても、リーシャは帰ってこない。
二分、三分と待ち、五分後にようやくリーシャは帰って来た。
まるでその目が見えているかの様に、レンガの近くで止まる。
「おかえり、リーシャ」
レンガは、"背後にいる"彼女に向かってそう告げる。
目隠しを取ったリーシャは、怪訝そうな顔をしたまま、首をかしげる。
「やはり……先程までの私は光に……いいえ、闇に釣られて走っていたのですか?」
「それだけじゃない、が、要因の一つではあるだろうな。何も空だけじゃねえ。
多分俺達は、木に騙されてきた」
「木、ですか?」
レンガは『光の魔法』により、一条の光の線を森の"奥 "へと向ける。
それは、木にぶつかり途中で途絶えている。
「リーシャ、お前、木をかわしただろう」
「最小の動作で、ですからそれだけで何も百八十度回ることなど…………いや、そうですね」
「ああ、一回二回じゃそう変わる事はない。
んで、お前、何回木を避けた?」
顎に指を当てるリーシャが考えているのは、何回木に当たったか、ではない。
十、二十どころではないことだけは確かだ。
薄氷の森の林道付近では確かにそれなりの密度で木が生え揃っていたが、この深部では太く長い木がそれぞれ十メートル前後は間を空け根を張っている。
「誘導、でしょうか」
「単独じゃ大して効果は無いだろうが。お前が最初に言った通り複数の要素を無理矢理組み合わせて故意に迷宮を構築してやがる。
それにしても……、こんな大木を意図して配置変えするなんて正気じゃねえな」
リーシャは目を瞑り五感に身を委ねる。
魔法的要因以外で自分に働きかけているものは、
「風、かもしれません」
「……風?」
「絶え間なく、全く同じ方向に、ほんの少しだけ風が吹いている……、のかもしれません」
木々を揺らさず、葉を落とさない程度の微弱な風。
レンガも目を瞑り知覚しようと試みるが、さすがに彼女ほどの能力は有していないせいか、上手く感じることは出来なかった。
「……弧を描いているのか、もしかして」
「はい。真っ直ぐ進んでいる様で、その実少しずつ、歪められています」
「…………光にしても、木にしてもそうだ。
……さっき目隠しをしたお前が時間をかけて戻ってきたのは、多分通った軌跡の円が大きかったからだ」
「"迷い"を構成する要素を一つ断ったから、角度が緩やかになった、という事でしょうか」
一つでは効力が薄くとも、重なれば歩法の達人すらも惑わせる。
それも直接的に意識を攻撃するのではなく、あくまで自然な認識の中で、それを少しずつ歪めていく。
「今わかってるのは、光と、木と、微風と、……気圧もか?」
「多分それだけではないでしょう。
音も、匂いも、漠然とした"何か"を深層意識でやっと感じ取れる程の出力で作用しているかもしれません。
それに、多分方位を狂わせる魔法も使われていますね。
それだけでは私達にはせいぜい斜めに歩かせる程度にしか効果が無いでしょうが、他の誘導も相まって完全に術中にはまっていたようです」
「……ああ。一定以上進むと、必ず弧を描いて元の場所に戻される。
だとすれば、どうしても行かせたくない場所は……中心部の、さらに奥か」
薄氷の森の深部へと至る道はこれと言って固定されている訳ではない。
ただ、林道を通ってきた者ならば、必ずと言っていいほど、森の中央から獣道を経由して深部へと入ることになる。
そう、作られているから。
「おおよその仕掛けはわかった。
にしても随分な力の入りようだな」
「よほど隠しておきたいものがあるのでしょう。
俄然、楽しみになってきました」
レンガは漆黒の杖のちょうど中間に当たる部分を右手で握り、左手で見えない弦を引く。
放たれたのは一条の赤い光。
だが、魔法ではない。
存在しない矢は暗い森の奥へと消える。
軌跡が赤い線として宙に残り、歪みを打ち破る一矢となる。
「さて」
二人はその軌跡に従い一直線に進む。
レンガは自分が先程まで正解だと思っていた方向より、少しだけ右に向け、矢を射っていた。
「本来なら、林道から真っ直ぐ進めばそのまま深部、さらにちょうどど真ん中の最奥まで苦もなく辿り着ける。
だが、その場所には人には見せられない何かがある。それこそ馬鹿みたいな数の罠を張り巡らせて、迷いの森を作り上げてしまうほどに」
「これ程までにたくさんの要素で構成された誘導ともなると私でも惑わされます。
おそらく、深部中央へ向かう途中に右か、左か、どちらかに舵を切らされ、それぞれの方向に向かって円を描き、同じ場所に戻されると」
「ああ、そんでさっきお前は左側から帰って来た。
つまり、俺達が正解だと思い込んでいた道は、本来の真正面から少し左寄りだったって事だ」
話ながら歩いていれば、早速自分達の身体が赤い線に対して、少し斜め向きになっている事を二人で確認する。
何が作用しているのかはわからないが、おそらく"迷い"の一つだ。
「こうしてみれば随分と露骨だ」
「今私達は線に対して左向きに微かに傾いていました。
軌道の修正はしますか?」
「いや、このままでいい。
俺の予想が正しければ、多分隠されているもの……というか場所はそれなりに広いはずだ。
ある程度角度を合わせて真っ直ぐ歩くことが出来りゃ、遠目に見えるんじゃねえかな」
リーシャはレンガの言葉を疑うこと無く信じ進む。
なるほど、歩いてみれば、"正道"は違和感が凄い。そうリーシャは感じていた。
この道は間違っている、とそんな漠然とした思いを五感が作り上げている。
赤い線が酷く歪んでいるようにも思われるし、深部からどんどんと遠ざかっている様な気さえする。
ならば、これこそが正しい道なのだろう。
「…………………! レンガさん、あれ!」
「ん?」
リーシャが指差したのは向かって右奥の木の向こう。
赤い線のガイドから離れ、彼女に手を引かれてレンガは近付きようやくそれが眼に入る。
「石積の祭壇……? いや、祠か?」
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こうして迷いの霧を晴らし、二人は今それを前にして考え込んでいた。
何かある、のは当然として、何をすべきなのかをいまいち決めかねていた。
「俺の予想だと馬鹿デカい建物があって、そこで悪い奴等が悪いことしてるみたいなのを期待してたんだが」
「少なくとも広くはありませんね」
みしり、と何かが重さに耐えかねる様に悲鳴をあげる。
「まあ見るからに結界、だな。
しかしこれ、もう持たねえじゃねえか」
「私達は圧も何も出していませんし、寿命でしょうか」
みしり、とさらに大きく軋る。
「あっ」
リーシャの短い声と同時に、空間にひびが入る。
「あーあ」
レンガの嘆息と共に、ひびが広がり、遂には空間が割れる。
積まれていた石は砂と消え、
隠されていたものが露になる。
「…………おいおいおい、マジか」
白く錆び付いた体表、よく見れば全てが鱗で覆われている。
頭部には一対の細長い角。
畳まれてはいるが、それでも大きさと力強さを誇示している両翼。
大人を一呑み出来る程の大きさの口からは、鋭い牙が覗いている。
今まで見た全ての生物よりも大きく、質量を感じさせる体躯は、根元的な恐怖を呼び起こさせる。
それは、まさしく。
「……ドラゴン」
地面に臥せり翼を畳み、休眠している様な格好ではあったが、その鼓動は猛々しく。
二人は成す術もなく、見とれてしまっていた。