第六十話
「合成竜の用意を急げ」
霧の如く消え去った名奪兵。
ハーミットは抑えきれない苛立ちを抱えていた。
何かが狂い始めている。
作戦の規模の大きさから、末端では何かしらの齟齬が発生することは予測されていた。
ゆえに有能と判じられる部下はある程度手元に残し待機させたまま、今日を望んだ筈だった。
第一に、竜化の魔法が万全に作用していないこと。
これは魔族側の失敗だと思われるが、ハーミットにはとてもではないがそれだけが原因とは考えられなかった。
第二に、エスベルグの街に仕掛けた大規模魔法が取り払われたこと。
遠隔操作の起動装置を担当している部下から寄越された不穏な達し。
ここまで来れば些細な不具合などでは決してなく、誰かが明確に妨害を企てているのは間違いない。
だがその意図がわからない。
もし仮に今回の作戦を知る者が軍警省上層部と一部の息のかかった役人以外にいたとして、それをどうやって知り得て、また王都中に放たれている精鋭の眼を掻い潜り妨害を可能にしているのか。
ハーミットが知る限りではそんな離れ業を可能にする者は片手の指で足りる程であり、そしてあらゆる手を尽くし彼らを王都から遠ざけたのだ。
幸い未だ成すべきことはある。
悲願である自らの手で作り出した神徒と、それによって叶う魔族の殲滅。
だが、ハーミットの胸中に最も暗く、そして根付いているのはそれらではなかった。
「おお、女神よ」
美しき都グリアノス。
いずれ降りたる天の女神にハーミットは頭を垂れる。
「愚かな獣を導きたまえよ」
彼の眼に映るのは逃げ惑う市民。
優しく慎ましく、野心が枯れ平穏だけを望み、そして他を陥れ悦に浸る愚かな人未満の生物。
それすらも先導してみせよう。
人たる者の務めなのだから。
・・・
「イリーナちゃん!店のことはもういいから!」
前掛けを着けた熟年の婦人が叫ぶ相手は、宙を舞い魔法を放つ大立ち回りを演じている。
「大丈夫、おばさん。絶体守るから。
お店も、この街も……!」
若き竜学者イリーナ・ベルサンクトは戦う。
空から降る鳥型のドラゴン、アザレの群れを薙ぎ払い、時に人を建造物を守りながら、たった一人で大通りの一角を守護していた。
竜学者御用達の白衣はほつれ、至るところに誰かの血が付いている。
魔力がどれだけ保つのかすらわからず、それでも退く意思は見せなかった。
今やどこに逃げてもアザレに逢ってしまう。
ゆえに人々は屋内に逃げ、また、アザレはそれを見て建物を攻撃する。
「大分減ってきた……!いける!」
腹の底から湧き上がるのは強い意思だった。
先程一瞬だけ頭をよぎった鮮明すぎる夢のような何か。
内容はほとんど覚えてはいなかったが、思い出したいものではなかった筈だ。
そしてそれはどういうわけか打ち砕かれた。
抗える絶望を前にした時、イリーナはその歩みを進められる人間だった。
「一匹!…………もう一匹!!」
叩きつける風の魔法で三半規管を奪い、あわよくば脳震盪を狙う。
脳の小さい鳥型のドラゴンにはこれがよく効く。
落ちたところを鋭利な魔法でひと突きし、身体を翻しては辺りを見回し人と街を守る。
今出来る精一杯を、もうかれこれ十五分は続けていた。
息は切れ、膝は重い。されど屈しない。
だが、そんな思いを嘲笑うかの如く、それは現れた。
「…………なに、これ……」
その異変は誰しもが同時に気付いていた。
鼻腔を突き刺すむせ返る腐臭。
吐き気を催す香りは戦場に疎い者でもわかる、死肉のそれだ。
商店街の大通りを水音を立てながら身体を引きずる物体。
外に出ていた者は、口に手を当て青ざめ、耐えきれず嘔吐する姿もあった。
イリーナは竜学者である。
ドラゴンについて調べ、知り、纏めるのが仕事だ。
だからこそ戸惑っていた。
"それ"が何なのか、まるでわからなかったから。
「……ドラゴンを、…………食べてる」
赤黒い巨大な肉塊はイリーナが討伐したアザレに覆い被さり、その場で蠢いていた。
表面がざわつき、そして小刻みに揺れる。
その動き仕草は一見すれば気味の悪いだけのものだったが、日頃から竜を知るイリーナにはわかってしまった。
「笑ってる……」
ぞわりと背筋に恐怖が這い、火照っていた身体の温度が急激に下がるのを感じた。
爛れた肉も、漂う死臭も、不定形な全容も、その全てが本能的な恐怖を掻き立てるように設計されているかの如く。
人々は言葉を失い足を止める。
「…………ッ!風よ!」
震える足に鞭を打ちイリーナは全力の魔法を放つ。
イリーナの攻撃は確かにその肉塊の化物に当たり、そしてその表面の肉を散らした。
飛び交った赤い皮が剥げ、そして中から覗いたのは、
大きな頭骨。それも大小種類様々なものを無理矢理付け合わせたように混ざりあい、そしてその全てがかたかたと蠢いている。
それはイリーナでなくともわかる。
笑っている。露悪的に、反自然的に。
やがて新たな肉塊がそれを覆い隠し、何事も無かったかのように元に戻る。
「…………火よ!……、風よ!……」
放つ。自分の限界など忘れ、全力を重ねる。
肉が焦げる匂いが立ち込め、吐き気と頭痛でイリーナが膝をつく頃。
気付けば肉塊の化物は十メートルも無い距離まで近付いていた。
ぼとりとイリーナの後ろで音がする。
肩で息をしながら無理矢理振り向けば、そこにはまた同じような赤黒い小さな肉塊があった。
それだけではない。
辺りを見回せばいくらでもいた。
人の腕の骨あるいは頭蓋骨、骨盤。
いずれを肉塊から僅かに露出させ、やがてひとかたまりになり巨大な肉塊となる。
正気が奪われるその光景にイリーナは呼吸さえ忘れかけていた。
かたかたと骨の笑う音が嫌と言うほど耳に木霊する。
誰かの叫び声が聴こえるが、内容は頭に入ってこなかった。
おそらくこれから、この肉塊の一部となるのだろう。
走馬灯は見えない。
それすらも赤黒い泥に塗り潰されていた。
嫌だ、死にたくない、誰か
「二十点だ。ベルサンクト」
低い、重い声だった。
嗄れてなお力強いそれは、イリーナのすぐ目の前から聴こえる。
知恵ある者の証である目映い白衣をたなびかせる老骨。
竜学者協会会長ガスケット・レバン。
その姿だった。
「会、長…………?」
「彼我の力量差をわきまえない、減点だ。
消耗を考慮せず魔法を放つことなど論外だ、何より……」
羽の付いたペンを宙で振るうレバン。
浮かび上がるは魔方陣。
地面から立ち上った紅蓮の槍が肉塊を襲う。
だが、焦げ付いた匂いの後に残ったのは少し形を削がれただけの肉塊だった。
二等星のドラゴンハンターの魔法が通用しない。
その事実を目にし、辺りの人々はざわついたが、肝心のレバンは焦ることも憤ることもなかった。
「何より研究対象の前で膝をつくなど言語道断」
ともすれば機嫌が良いのではないかと思うほどに。
そして彼を知る者からすれば、それは上機嫌に他ならなかった。
いつだって心踊るのは未知。
知らぬものこそ全て、そうして歩いてきたがゆえのガスケット・レバンだった。
「立ちたまえ。研究の時間だ」
虫の息の愚輩に酷なことを言うものだと、イリーナは笑ってしまいそうになるが、これでも随分と甘やかされている気もした。
ならば答えなければならない。
手に力を込め立ち上がれば、目の前にいるのは恐怖の怪物ではない。
それはドラゴン。知るべきものだ。
「解析を、開始します……!」




