第四十九話
若き竜学者イリーナ・ベルサンクトは困窮していた。
この王都グリアノスで生まれ育った彼女にとって、街の景観も行き交う人々も、どれも見慣れたものであり、そして何よりもかけがえの無い大切なものだった。
それが今、同時に失われている。
自分の眼前で。
子供の頃から親しくしていた八百屋の店主夫妻。
母親と幾度も買い物に訪れ、駄々を捏ねたところを見て笑われていたのも今では懐かしい。
その店は先ほど圧風魔法で破壊した。
まるで母親のように優しく接してくれた店主婦人はドラゴンとなり、夫を食い殺した。
狂乱と亡我の中でがむしゃらに魔法を放ち、残っていたのは思い出ではなく肉塊だった。
「……会長に、…………会長に、報告を」
竜学者を志してからというものその身体には生傷が絶えなかった。
実地での魔法研究やドラゴンの観察には当然相応の危険が伴う。
ひびの入った親指の爪、引っ掻き傷の残る手の甲。
だがそれすら誇らしかった。認められた時の心を満たす想いと、培ってきた経験を言葉以上に語るこの傷だらけの手は自慢ですらあった。
そして今。
その手から命が、思い出が零れていく。
心根を冷やす無力感が肩に重たくのし掛かり、足が地面を踏んでいるのかさえわからない程だった。
「こんな時に総長がいてくださったら……。
なんて、ダメだよね。…………怒られちゃうよ、私」
ぼろぼろと涙を血だまりに落とし、彼女は進む。
まだやれることはある筈だ。
出来ることは無いかもしれないが。
「…………」
興国前は山側だったことから、少しだけ高台になっているこの場所は物見街道と呼ばれていた。
切り取られたようなテラスからは行政区を一望でき、すぐ側のカフェの野外席で昔はよく国習院帰りに寄り学友と様々な話に花を咲かせたのだった。
それも今は無惨な姿だが。
「…………あれ、……?」
ふと遠くを見渡したイリーナ。
その眼に留まったのは、空に舞う魔族の騎士でも、降り注ぐドラゴンの群れでもない。
妙な"風"が吹いている。
それはまるで引き寄せるように渦を巻き、手招いている。
その台風の目となる場所にあるのは、確か
「作戦……、指揮室……?」
イリーナの脳裏には、当代の竜学者試験の成績上位者として表彰された際出会った、とある人物の姿が浮かんでいた。
肥えた体に、沼のように沈む眼差し。
稀代の傑物、軍王。大層だと半ば呆れていたその呼び名は、実物を目にした時にそれが誇張ではなかったとイリーナは思い知らされた。
軍警省大臣ミハエラ・ハーミット。
なぜ今思い出した?
何かがおかしい。
狂っている。私が?
それとも、
「…………鐘が、鳴ってる」




