第三十三話
昼間ながらに薄暗いアシラ連峰の一角に、無数の光の矢が灯るように明滅する。
狙われたのはレンガにリーシャ。
放ち手は魔族の男女、ウィリーとカーラ。
二人の目はどこか虚ろで、ここにはない何かを見ているようだ。
「レンガさん、あれは」
「形だけ見りゃ条件発動型の催眠魔法だ。
俺が解除したのは更にその外側にある時限式の制御魔法だが」
「時限式……?
つまり、彼らはその期限が来れば、先ほどのように人を襲うようになっていたと」
二人は今灰色の空の中にいる。
見えない翼を背負い、山肌からうんと離れた天から魔族の二人を見下ろしている。
人間と魔族にしてはあり得ないほどに穏やかな邂逅は、定められた運命のように闘いの渦中に変わっている。
「あいつらは対人類対魔族問わず戦争反対派なんだろうな。
出会い頭の無力化の魔法といいあの腑抜けた…………、いや違うか、平和ボケした応対と言い」
「厭戦的な思考の矯正?」
「いや、だったらもっと洗脳じみた魔法を使ってるはずだ。
あいつらはただの特攻兵、他人の意思持つ爆弾だ」
空に立つ二人を見上げるウィリーとカーラの様子は端から見れば、先ほどと何も変わっていない。
その手に握られた魔法だけが、ただレンガ達に照準を合わせている。
「おそらく彼ら以外にもあの転移の魔方陣の先の空間に同じような魔族の方々がいます。
まとめて叩いてもいいですが」
「そうだな……」
自由意思に上書きを行う催眠魔法は無理矢理解除すれば重大な後遺症を生む。
それにこの過酷な環境下に他の人間が現れることも、魔族である彼らが危険を冒して下山し人間狩りを行うというのも想像しにくい。
彼らに植え付けられている術は『人に会ったら殺せ』というそれだけのものだ。
「いや、こいつらはいい。
どうせこの山から当分は下りてこない。
問題は他の地下迷宮……、いや侵攻路の方だ」
魔族の人間界への侵攻が始まっている。
それは何もこの場所だけではないはずだ。
今人間の世界ではあらゆる場所で喚石が使われ、迷宮内の希少な鉱石は高値で取引され流通している。
地上の魔素は人々が気付かない内に段々と濃度を増し、魔族の活動を容易なものとしている。
「本来なら地下迷宮と侵攻路の存在によってとっくの昔に魔族は侵攻できたはずだ。
だがそれは叶わなかった」
「件の寒冷化と内乱、ですね」
「ああ、だが争うにも住処がいる。だからこうして自棄っぱちな特攻作戦まで仕掛ける始末だ。
そんで、人間側も黙っちゃいねえ」
レンガが想起するのはあの赤い髪の少女。
神ならざる身で人ならざる力を宿した最低の魔法の産物。
神徒だ。
「私の妹達ですか。確かにあれほどの力ならば正面切って張り合うのも難しくはないでしょうね」
「ああ、しかもそれだけじゃねえ。
聞いた話によれば『竜学者協会』だの『冒険者』だの、国軍以外の戦力も抱え込んでるらしいな」
『竜学者』
遥か昔、王都に設けられたバレンディア国習院。
読み書きの出来る十歳から二十歳までを対象とした学習施設であり、やがて王都周辺に姉妹校が誕生し、今では九校とその権勢を広めつつある。
教えるのは経済学から数学、言語学に建築学。
無数にある派生学部の中で、最も重要視され、かつ人気の高い学部が魔法学だ。
その魔法学を修めた者の中から更に国に見出だされた者が竜学者となる。
その地位と褒賞は二等星のドラゴンハンターに並ぶとされ、目指す者の数は多いものの、狭き門に阻まれる者の数もまた多い。
「開戦待ったなしの現状だな。
どっちも勝てる気でいやがる」
「そうですね。
ところでレンガさん」
かちりと剣を鞘に納めたリーシャ。
その表情はいつものように乏しく、150年来の付き合いであるレンガでもなければ読み取るのは容易ではない。
そしてそのレンガが読み取った彼女の感情。
それは悦び。
「私達はどうしましょう。
誰を斬りましょう」
『ただ、殺せ』
そう魔法に命じられ、幾万の命を持って生み出されたリーシャにとって、戦禍とは帰るべき住処であり、目指すべき到達点である。
ゆえに戦の香りがすれば飛び付き、血の雨を降らせることこそが彼女にとっての本懐である。
レンガと出会い、心動かされ全うな理性を獲得こそすれども、人が人であることをやめられないのと同じように、彼女もまた兵器としての自分を捨てることは出来ない。
殺戮への憧憬は止まらない。
「誰について、何を斬りましょう。
人間でしょうか、魔族でしょうか。
黒幕か権力者か奴隷か罪人かそれとも────」
リーシャが言葉を遮られたのは、その頬が両側とも真横に引っ張られたから。
レンガの冷たい手、それが整った顔に添えられ水餅のように引き伸ばしている。
陸の時とは違い、宙に立つ二人の視線はわずかにリーシャの方が高くなっている。
子供の悪戯のような魔神の振る舞い、きょとんとしたまま固まったリーシャに、レンガはおかしさを堪えきれず笑う。
「なんれふか、れんははん」
「ん? いや、表情は硬いのに頬は柔らかいのなって」
金と赤の視線がかち合う。
無限に迫る殺し合いの中で幾度も絡めたそれは、今はまるで意味合いが違う。
「お前は人間だから俺を殺したがってたのか?
帝国の兵だから俺を斬り刻んだのか?」
「……………………それは」
手が離された部分が仄かに冷たさを覚え、リーシャの熱を奪う。
目の前の、自分よりほんの少しだけ年下の少年が何を言いたがっているのか。
少しだけわかる気がする。
「初めはそうだったろうけどな。
俺だって共和国の人間だからお前を滅ぼそうとした。
だけどそんなの最初だけだ」
「…………私は」
自分はどうしてこの少年を殺したがっていたのだろう。
帝国の人間だから?
それはそう"だった"。
だが、そんな想いも思考も国に裏切られ彼方に幽閉されてからは欠片も覚えてはいない。
それでも150年間、日々刃を研ぎ、首を臓腑を魂を、その一切を斬りたいと思ったのはどうしてだろう。
「俺はな、お前がムカついたんだよ。
自慢の魔法も磨いた術式もぶった斬られて、おまけに俺の身体もバラバラに刻むクソ女。
もしかしたら俺より強いんじゃねえか、ヤバイんじゃねえか」
それはリーシャも全くもって同じだった。
力の全てを手にしたと傲っていたあの日、天を墜とす人外の少年が現れた。
当たれば自分とてただでは済まない超常を気まぐれに放ち、どれだけ刻もうとも次の瞬間には平気な顔で笑っている。
腹が立った。
揺らがずにいたはずの高みがぐらつき、焦りもした。
何より、
「何より、イラついたんだよ。
『俺より凄いんじゃねえのか』ってな」
自分より強い存在が気に食わない。
自分より危険な事象が気に入らない。
認めない、負けたくない、侮られたくない。
だから150年も殺し合えた。
ずっと互いに焦がれていたから。
「…………レンガさんは、私に鏖殺を望みますか?」
「望まねーよ。人斬りに飢えた時は俺がお前をぶち滅ぼしてやる」
「……そうですか」
兵器としての自分は好きではない。
それでも、魂よりせり上がる衝動はどうしようも無く刃に飢え、満たされた時の快楽と形を失った罪悪感が後から感情を圧迫する。
鉄と殺戮しかない灰色の世界。
だが気付けば名すら忘れられた平原で、一切の衝動とは無関係に、自分の意思で闘った。150年もだ。
そして戻った緑眩しい世界では兵器でもなく、力の奴隷でもない身分。
だが、今の自分はあまり嫌いではなかった。
今の自分と言えば、どうやら図鑑の編纂者なる奇妙な身分である。
おかしな話だった、笑えるほどに。
「図鑑」
「あん?」
「面白いもの、いっぱい見つけましょう」
まるで年頃の少女のように。にこりと笑い、お返しとばかりにレンガの両頬を軽く引っ張る。
不満げな魔神を尻目に天へ駆け、火災積雲に濁った灰色の空を嗤う。
そんな色でどこへ行けると言うのだろう。
「『神断』」
神剣一閃。
理を二分する絶無の一太刀。
真横に薙がれた空間が悲鳴をあげ、あらゆる雲を引き裂き天を斬る。
霧散した雲間から見えるは登りたての朝日と、少し白みながらも青さを失わない晴れ間。
「こうしている今でも、世界では兵士が軍師が策士が黒幕が、悪が神がドラゴンが、面白いことをしようとしているんです」
決まりきった運命に奴隷のように従って流される世界で、爪弾きにされた二人だからこそ自由になれる。
「そうだな」
不倶戴天の比翼連理。
目的も無く彷徨い力を振るうならば天災と変わらないが、今はやりたいことがある。すべきことではない、好きでやっていること。
いつか誰かに見せる本、そこに載せる世界を今は満喫する。
「人類の滅亡も魔族の存亡も知ったこっちゃねえが、面白そうだから滅茶苦茶に引っ掻き回してやろう」
「いいですね」
澄み渡った空を蹴る。
向かうは策謀渦巻くバレンディア王国が王都グリアノス。
どうせ存在するだけで世界を滅茶苦茶にするのなら、出来るだけ面白く壊そう。
笑えるような結末を。悲劇は茶番に、惨劇は狂言に、あるなら喜劇だけでいい。
一対の厄災が、彗星のように北の空へと放たれた。




