第三十一話
バレンディア王国内での最大警戒地域たるアシラ連峰の一角。
死の熱風が吹き荒れ火口が大きく顎を開くその場所で、レンガは奇妙な出会いを果たしていた。
「あんた魔族だよな。何してんだ?ここで。
管理人?」
「惑い薄れよ……迷灯!」
レンガの言葉に返ってきたのは魔法の詠唱。
右手を突き出した魔族の男から放たれた白い霧を思わせるそれは、二人の男女を覆い、
「魔族の魔法ですか。やはり人間のそれとは体系が違うようですね」
しかしなんの効力も発揮すること無く、消え去る。
高度な幻惑魔法、それも相手は塵ほどの魔力しか持ち得ない人間二人だ。
効かないはずがない、詠唱に失敗したわけでもない。
そして今さらになって魔族の男はこの場の異常性に気が付く。
死の山の、それも頂上になぜ人間が居るのか、どのようにして登ってきたのか。
そんなことが可能な存在に自分は敵うのか。
「なるほど、やけに涼しいのは氷の喚石からの冷気か。
砕いて撒けばそれで終わりだ。楽でいいね」
そう言いつつ、レンガは地面を爪先で軽くつつく。
何を、とそう言いかけた魔族の男の言葉は突然の地震によって掻き消される。
視界が揺れている。否、正確には自分も世界も揺れている。
「なっ! なんだ!?」
どこからか響く超振動、けたたましい爆発音。
それは山の鳴動、大地の激憤。
溜まり溜まったマグマの滓が行き場を無くし上昇する。水蒸気が逃げ惑い出口を探し彷徨っている。
バレンディア四大災害の一つ、噴火の兆候だった。
「レンガさんが起こしたんですか?」
「ああ。このまま放っておいたら五十年後には勝手に噴火してたろうからな。
深海ならともかく、陸の噴火はあまり良い影響を星にもたらさない」
「………………終わりだ」
絶望一色に染まった魔族の男の顔。
アシラ連峰の群発的噴火。
そんな兆候は微塵も無かったはずだ。
だからこそ自分達はここにいる。
「まともな魔法なんて久々だ」
背に負った白い杖を一本手に取り水平に構える。
魔族の男にはレンガが何をしているのか、何をしようとしているのかまるで理解できなかった。
そんな何も感じない杖で、稚児のような魔力で、何をしようというのか。
「基礎魔法─放射系統─冷氷放射─第二階層」
原始的な詠唱。
古くから伝わる、それもレンガがこの世界に来る前から残る魔法使いの言の葉。
膝をつき、腿を開き、踵を合わせ、両手を杖ごと大地に添える。
無理だ、そんな矮小な魔力では。
それが魔族の男に許された、声にならない声。
「『氷の魔法』」
赤黒い煙がレンガの身体を一瞬覆い、間髪置かず魔法が放たれる。
これまでに増え続けたマグマが地表へと逃げるように登り、限界まで低下した火山内部の圧力は限界に達し、灼熱を放つ秒読みへと入る。
だがそれを許さない魔神の息吹がアシラ連峰広域に轟く。
物体の振動数の低下ではない。
冷気と氷を直接産み出す魔法。
冷風と氷雪が突如顕世し、辺りの温度が急激に低下する。
深部を凍てつかせ、内部をゆっくりと冷やす。
苦しむように山々の鳴動は少しずつ収まり、大気を揺らす空振も気付けばほとんど収まっている。
十分もした後、レンガの金の瞳が一際濁りやがてその輝きを失う。
「はい、完了っと」
「お疲れ様です」
レンガの背についた土埃を払うリーシャが労いの言葉をかける。
軽い、簡単な言葉。
急激なマグマの冷化は火口から噴煙を伴い、熱された水蒸気は爆発すること無く結晶化している。
直径五十メートル以上はある巨大な地獄の釜は、黒ずんだ赤に染められていた。
鳴動の気配はない。
「…………何なんだ、お前……?」
その場に取り残されていた魔族の男は、自分の正気と、眼前の人間の御業を疑っていた。
山ごと地中を冷却する。
そんなものは魔法ではない。
人間の魔法の区分にはあまり明るくない魔族だが、一目見ればそれがどんな種類でどれほどの威力か推し量るだけの力量はある。
それでも魔に属する者として、今見た光景はにわかには信じがたかった。
魔法と隔絶した奇蹟。
理の領域だ。
「俺か? レンガだ。
横の奴はリーシャ」
「魔族の方は登山ではないみたいですね」
自分達は登山ですとでも言いたげな女の口調に魔族の男は絶句する。
死の山峰に登山?
五十年後の噴火を無理矢理前倒しにして、あまつさえそれを魔法で止める?
正気の沙汰じゃない。
何より恐ろしいのは、その顔が、態度が狂気に染まっているわけでもないこと。
ごく自然に、異常を正道としている。
「何が……、何が目的なんだ…………?」
我が身に宿る数多の魔法が児戯にも劣る程に頼り無い。
震える拳を強く握りしめることが今出来る精一杯だった。
「そりゃこっちの台詞だろ」
「なぜ人間界の山にあなたが、いいえ。
"あなた方"がいらっしゃるんでしょう」
リーシャの台詞に魔族の男ははっとして振り返る。
駄目だ、今出てきては駄目だ。
「ウィリー!? さっきの大地震は一体……。
………………嘘、でしょ……?」
火口周辺、氷の喚石が散らばるこの場所に、明らかに人工的と思われる穴が存在していた。
そこから突如現れた若い魔族の女。
男と似た服を纏い息を切らして走って来たのち、レンガとリーシャとに目があってしまう。
「へえ、転移の魔方陣か。くく。
魔神も歩けば謎に当たるってな」
「や、やめろ、頼む!俺はいい、彼女だけは殺さないでくれ!」
知的好奇心を揺さぶられたレンガが愉しげに笑う。
リーシャもそんな彼の顔を見てつられるように薄く笑みを浮かべる。
だが災禍の如き力を目にした魔族の男からすれば、その笑みは餌を前にした獰猛な獣の目。
その気分次第で自分も家族も仲間も一瞬で葬られる。
そんな焦りと不安が彼の思考を支配していた。
「別にあなた達をどうこうしようという気はありませんよ」
「…………えっ……?」
「人間!!ウィリーから離れなさい!」
転移の魔方陣より現れた魔族の女は、指先に展開した魔法をいつでも放てると言いたげにレンガ達に差し向ける。
両者の距離は十五メートルほど。
その指先に集められた魔力はそれなりのものであり、ウィリーと呼ばれた魔族の男も巻き込まれるであろうことは容易に想像できた。
つまりはただの脅しなのだろう。
「…………魔法を解除してくれ、カーラ」
俯いたままそう言ったウィリー、風の音だけが一瞬残り、次いで動いたのはレンガだった。
肩掛け鞄から取り出した杖を静かになったアシラ連峰の山肌にとんと鳴らすように立てる。
詠唱は無し、魔素の変換ないしは放射も無し。
ゆえに魔族の男女には一切抵抗することが出来なかった。
「動くなよ」
その言葉に反応したのは二人の身体だった。
叫ぼうとしても声がでない、手足が固まったかのように凍りつき、魔法を練ることすらも出来ない。
「面倒だから先に言うぞ。
俺はいつでもお前らを殺せる。だが殺す理由も無い。お前らだけじゃない、魔族そのものをどうこうしようなんて欠片も思っちゃいない。
わかったか?」
「あなた方魔族が人間を恐れ、憎むのは…………、私には理解できませんが、まあ種族の違いとはそういうものでしょう。
ですが今はそれは捨て置いてください。
私達はただの観光客ですから」
そもそも人間でもないですしね。
そうあまりにも意味深げな言葉をぼそりと溢したリーシャに、ウィリーとカーラは目だけを動かし驚異を露にする。
『神縛』
対象の捕縛に長けたレンガの魔法ならざる術式の一つ。
発動の際には拘束する対象に応じた力の分自らも縛らなければならなくなるが、それ以外にこれと言って不満点は無いお気に入りの術だ。
現在レンガは右手の小指を動かせないでいるが、それに不便を感じることはない。
「それで、なんでこんなとこに魔族がいるんだ?
どうやって来たのかはおおよそ予想はつくが」
「バレンディア王国の南北を分断する山脈。
そんな敵地の中心地であなた方が居を構えている理由、是非とも知りたいです」
レンガが術を解けば、魔族の二人の身体は糸が切れた操り人形のようにバランスを失い崩れかける。
立ち上がり、苦い表情のまま手を開閉し、首に手を当てる彼らには諦めとも取れる表情が浮かんでいた。
「…………お前達は何を望んでいる」
「面白いもの」
「強いものですね」
ウィリーはここでようやく今自分が何を相手取っているのか、何を"相手取っていない"のかわかった。
この者達は人間ではない。
邪ではないとか、度を超えた力を持っているだとか、そんな理由ではない。
遊び半分で禁域に立ち寄り、物見遊山で自然を超越する。
人だの魔族だの以前に、尺度が違う。
「…………ウィリー」
「……選択肢は無さそうだ」
別に脅されているわけでもない。
力とはそういうものだ。
魔族とて、そうして沢山の物を、者を従え支配してきたのだ。
自分達だけがその理から逃れようなど虫のいい話だろう。
「……………………俺達は移住しに来たんだ」
ウィリーの答えはレンガの予想を上回るものだった。
人間は魔族とは敵対していない。
表向きは。
だが実情は違う。
王都のあるバレンディア王国北部では対魔族感情が日に日に強くなり、もはやガス抜きたるパフォーマンスではコントロールできないほどに対立の溝は深まっている。
家族が人間に、魔族に殺された。
いつからかそんな声が珍しいものではなくなり、『出会えば殺す』という物騒な価値観が前線のドラゴンハンターや兵士に根付いていた。
同じ大陸に住む者ながら、共生など望むべくもない。
「本気で言ってんのか?
今日ここに来たのが俺らじゃなかった、あんたら魔族なんざイチコロだろ」
「…………こうするしかなかったのよ……!」
無遠慮なレンガの言葉にカーラが悲痛さの混じった叫びで応える。
確かに、普通に考えれば殺し合う者同士分別を弁えて、分けられた境界の内側で暮らすのが争いを望まぬ者の最善だろう。
それでも、忌むべき人間の地、それも地獄を模したこのアシラ連峰に住み着くのは理由があるからだ。
「寒冷化だ」
「……」
「俺達北方民族は元々は人間界とは最も遠い場所で暮らしていた。
煩わしいいざこざも無い。平和そのものな土地だった。
……だが十年ほど前から、北風が妙に冷たくなって、太陽は陰り、作物は育たなくなっていった。
降る雪の量は次第に増え、魔法じゃどうにもならないほど。
野生の獣も皆南下して姿を消した」
誰が悪いといった話ではない。
大自然の前では魔族とて無力。
「でも、移住するなら他の魔族の所でよかったんじゃないですか?」
「……それは出来ない」
リーシャのもっともな問いに、ウィリーは目を強く閉じ重たい空気と共に次の言葉を吐露しようとする。
「………………ウィリー」
「……」
カーラの静止はあくまで体裁を保つためといった軽いもの。
しかし何をそこまで言い渋るのか。
確かに魔族の内情など人間に漏らせば祖国に同族にあらゆる非難を受けるだろう。
だがそれは今更な話だ。
ここまで言ってしまえば多少の内部情報など些細なものだろう。
そう不思議がっていたレンガとリーシャにもたらされた答えは、聞いてしまえば納得の出来るものだった。
「……我々魔族は現在東西と南北に別れ戦争をしている。
………………崩壊はそう遠くない」
憎々しげに、諦めたように。
魔族の男は、同族の危機を打ち明けた。




