第二十五話
黒々とした足は五本、翼は対にならず三枚、中間部から二股に裂けた尾は片方だけが異様に伸びている。
連なる無数の瞳は片側の一つが欠けており、凝固した血が張り付き傷の新しさを物語っている。
「なんて名前付けるんだ?」
「多くて少なくて、綺麗で…………、うーん」
巨体の前に、小さき人が二人。
「名前を決めないっていうのは、ダメですか?」
「いいんじゃねえの」
魔神の図鑑に転写を終え、レンガは改めてその黒く巨大な身体を確認する。
距離は十メートルも離れていないというのに、かのドラゴンに攻撃の意思は無い。
時折翼を揺すり、レンガ達を不思議そうに見つめるのみだ。
「しっかしこれっぽっちの迷宮探索で二項目も埋まるとはなあ」
「大収穫ですね」
左のページにドラゴンの姿を、右のページに備考を書き連ね、レンガはその分厚い本を鞄の中に無理矢理仕舞う。
「なあ、リーシャ。
人間と魔族が戦争始めたらどうする」
唐突に放たれたレンガの言葉に、リーシャは少しだけ考える仕草を取る。
彼女の場合、何を物差しで計るのだろう。
その性質上、リーシャ・マナガレウスは戦争を尊ぶ存在にある。
殺戮に紐付けられた快楽が倫理観を踏み抜き、命を奪う事への忌避感など一度刃を振るえば即座に忘れてしまうだろう。
だが、
「勝手にやっててくださいって感じです」
どこかで聞いた様な答えが返ってきた事に、レンガは思わず苦笑いをしてしまう。
長年同じ釜の飯を食らい、同じ空気を吸った夫婦の顔が似てくるのと同じ様に。150年も殺し合い、お互いの血を肉を混ぜ合わせていれば当然思考も似てくるのだろう。
「レンガさんならそう言うでしょう?」
悪戯っぽく笑う彼女は、珍しく歳上らしい所を見せられた事に気分をよくしているのか、木訥としたいつもの表情より華やいで見える。
レンガは初めて戦場で彼女に会った時の事を思い出していた。
無双も無敵も欲しいままと思っていた当時、その幻想を粉々に砕いた剣神との出会い。
流れる様な剣技で自分の手足を、首を切り刻み、一時は鏡面投射の限界にまで迫られた事すらある。
それは存在の消滅。自分を滅する事が出来る奇跡の存在。
ある意味初恋とすら言えるだろう。
「言わねえよ俺は、そんな事。
人類を守るために必死に戦うぜ」
「嘘ばっかり」
今回ばかりは白旗を振らざるを得ないだろう。
上目遣いで妖艶に見つめてくるリーシャの視線から目を逸らし、ばつが悪そうな顔を隠そうと努力する。
別に全てが嘘という訳でもない。
もし本当に人類が滅ぶ機会があったとすれば、多少はその運命に抗うだろう。
だが、人と人との争いをどうこうする気は無い。
「…………帰るか」
「はい」
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透明化の魔法を使わずストーネスの地下迷宮から出た二人を待っていたのは、武装した兵士達だった。
全く同じ装いの全身鎧を着込み、その両手には長槍が握られている。
見れば円を描く彼らの外側には骨組みに布を被せただけの粗末なテントがいくつも設置されており、その中で傷を負った者達が治療されていた。
数時間前とは随分と異なる様相。
この一帯は言わば野営地と化していた。
「両手を頭の上に! ライセンスの提示と所属猟団を述べなさい!」
力強く、しかしどこか若さの残る声。
兜の面から漏れる声のためくぐもってはいるが、中々よく通るそれだ。
「ご存じだとは思いますが一応自己紹介を。
中央調査隊第三班班長、ロウ・ディアスと申します」
「ご存じじゃねえよ」と小さく毒づいたレンガには気付かず、ロウと名乗った男は面を被ったまま挨拶をする。
だがその手には依然として槍が握られており、決して物腰が柔らかいという訳ではなさそうだ。
「あなた方には迷宮協定における重大な違犯が報告されています。
協定にしたがって三十年以下の禁固刑、または王都にて十一年の無償奉仕、従わない場合は処断となります」
随分と急な展開にレンガは辟易していた。
ただでさえ子守りで精神的な疲労が溜まっていると言うのに、これ以上厄介事が舞い込んでは気が休まる暇が無い。
横を見ればリーシャが呆けた顔で首を傾げている。
ただ、無断で地下迷宮に潜り込み、秩序を乱したのも紛れもない事実である。
人の形を取り、同じ言葉を話し、人の世に生きるならば、少なくとも非はレンガ達にある。
「これより王都へ連行します。
いいですね、副隊長」
ロウは首だけを動かし自分の背後で治療に当たっている上司に声をかける。
中央調査隊副隊長、レジーナ・ファリスは、憎々しげに顔を背け返事を頑としてしようとしない。
その様子を見て呆れとも諦めとも取れるため息をついたロウは、再びレンガとリーシャに向き直り会話を進める。
「不正侵入者護送用の馬車を連れてきて正解でした。
武器と持ち物を全て置き、身体検査後あちらに乗り込んでいもらいます。
時間がありません、いそい━━━」
「なあなあ、ロウくん! 本当にいいのかね? なあ?」
お堅い場に響き渡るのは場違いな少女の声。
甲高いという程ではないが、少女らしい快活とした高音。
声だけでなく、身体ごと割って入って来たのは深紅の髪を持つ少女だった。
「し……、『神徒』様……! しかし!」
「堅いなあロウくんは、むしろラビちゃんに感謝して欲しいくらいなんだけど」
むさ苦しい全身鎧の輪の隙間からレンガ達の前に現れた少女は、それなりの立場である筈のロウを顎で使っている様にしか見えない。
それにレンガには確かに聴こえていた。
(『神徒』…………。馬鹿げた魔力の正体はこのガキか)
じろじろと不躾に視線を遣るレンガに気付いた赤髪の少女は、金と白の刺繍がふんだんにあしらわれたワンピースをふわりと舞わせ、その緑色の眼を光らせる。
「だってさあ、そこのお兄さん、多分ロウくん達じゃ勝てないよ」
ぱちんと指を鳴らす少女。
瞬間、レンガ達の前で何かが弾け、ガラスを砕いた様な音が響く。
「あ、赤目……、それに金……!?」
「災厄の鬱金か…………?」
少女が行ったのは魔法の解除。
レンガはカシウスとのやり取りから、自分達の瞳の色が現代では少し特殊なものとされている事を察知していた。
大した手間でもないため、自分とリーシャに光の魔法を常時かけ、その瞳が茶色に見えるよう調節し、魔法に耐性のあるリーシャには、身体本体ではなく、彼女の周辺の偏光を操ることでなんとか認識を阻害していた。
それを見抜き、あまつさえ破壊してくる謎の少女。
保有する魔力量はレンガの数倍。
一等星のドラゴンハンターであるカシウスすら凌駕しているのではないかとも思われた。
「ほら、ラビちゃんの言った通りだ。
ロウくん死んでたよ? 感謝してよね」
その言葉を皮切りに、槍を持った全身鎧達の圧が更に強まる。
別にレンガ達は攻撃しようとしてはいないのだが、彼女の「死んでいた」という言葉と、赤と金という吉凶を前にして身の危険を否が応にも感じたようだ。
「ラヴィエル様、お耳に入れたいことが」
輪の外からかかった声に赤髪の少女はすぐに反応する。
声の主はレジーナ。
片腕を押さえながら仮設テントから歩いてきた様だ。
「不本意ながら、私と、私の隊はその者らに命を救われました」
「なっ!? 本気ですか副隊長!」
「レジーナ様、その事は……!」
所属する組織のお偉方が犯罪者の肩を持つ様な言葉を発した事に驚く声。
動揺が走る場において、ラヴィエルと呼ばれた少女は楽しげに、何か頷くような仕草で考え事をしていた。
赤く長い髪が彼女の背で揺れる。
「レジちゃんが命を救われたのかあ。
ふむふむ。
そこの金のお兄さん!」
「………………………んぁ? 俺か?」
急に声をかけられ、更に指まで差された事に、半分居眠りしていたレンガは漂う意識を何とか捕まえ会話に復帰する。
「え…………、寝てたの、お兄さん?」
「いや、瞑想してた。断じて寝てはいない」
たじたじと身を引く大袈裟な仕草と共に顔を引きつらせるラヴィエル。
これだけの武器と敵意を向けられぐうすか寝ている人間を見れば無理も無いというものだった。
しかもあまつさえ言い訳までする始末。
金の瞳を持つだけあるのか、とその場にいたリーシャ以外の人間は、なぜか奇妙な底知れ無さを覚えていた。
「いや、でも横のお姉さんも船漕いでるけど……」
「こいつはアホだから。俺はアホじゃないから」
レンガもリーシャも疲れていたのだ。
同じ場所で毎日毎日飽きもせず、殺し合っていたあの頃とは違う。
変わり果てた世界で新たな発見や刺激に追われる毎日。
まるで童心に返ったかの様に、心動かされる日々。
今日は子供のお守りという慣れない仕事に身をやつしたのだ。
身体の休息は必要無いが、心の休息はやはり必要である。
時は夕方。
宿に戻って二人で本でも読みながら寝ようと決めいたのにこの有り様である。
「話を戻すけど……、金のお兄さん!」
「なんだガキ」
「……………………。
お兄さん、強いでしょ!」
レンガの放った言葉に、一瞬場に緊張が走る。
ある者は青ざめ、顔をひくつかせ、怯えている。
レンガには大方彼らの態度の理由について予想がついていた。
このラヴィエルと呼ばれる少女。
『神徒』とも呼ばれた彼女はおそらく彼らにとって大分特別な存在なのだろう。
この年端もいかない見た目で大勢の大人達を震え上がらせている。
権力ではない。
これはおそらく純粋な、力。
「俺か? この居眠り女はともかく、俺なんて見た目通りの魔力しか無い雑魚だぞ」
「…………あのねえ、お兄さん、私の事知らないみたいだけど。
流石に舐めすぎじゃない?」
軽い足取り。
年相応な、跳ねる様な足運びでラヴィエルはレンガに近付き、
「よっ」
そのままレンガの頭を蹴り飛ばす。
だがその身体が吹き飛ぶ事は無かった。
なぜならレンガの首から上は爆ぜ消し飛び、蒸発した首の断面からは煙が漂っている。
蹴られた事に気付いていないような棒立ちのままの間抜けな身体がその場に残っていた。
ロウやレジーナ達にはラヴィエルが何をしたのか、どんな魔法を使ったのかさっぱりわからなかった。
ただ、心の底から湧き出る恐怖に抗っていた。
このいたいけな少女の機嫌を損ねれば自分達は死ぬという漠然とした想い。
「痛えぞ、クソガキ」
だが、次の瞬間彼らの恐怖は更なる驚愕に塗り潰された。
首無しの死体が立っていた場所から声がしたかと思うと、瞬きする間もなく黒と赤が混じる髪と、濁った金の相眸がなぜか蘇っている。
全身鎧を着込む者達の心臓は強く鼓動し、本能は逃げろと警鐘を鳴らしている。
幾つもの戦場や地下迷宮を共に切り抜けてきた手に握る愛槍が、今では木の棒同然とすら思えてくる程の無力感。
「想像以上だね、お兄さん。さすがは金」
惨劇を引き起こした筈のラヴィエルはあっけらかんとした態度で、手放しで称賛を送っている。
見守る者らには、何から何まで理解が追い付かない。
「ねえ、お兄さん。
いくら強くったって、お尋ね者のまま生きていくのは嫌でしょ?」
「嫌じゃないぞ」
「………………………………………。
だからね、一つラビちゃんから提案があるの」
レンガの取りつく島も無い答えを無視して、ラヴィエルは人差し指をぴんと立てる。
「一緒に魔族を殺さない?
これから戦争をするんだ」




