第十一話
結界の解除の報せを受け、オーランの街の実質的な支配者、バラン家に仕える老執事ジズは、焦りの渦中にいた。
五十年前にこの目で見たあの大賢者の力は確かなものだった。
ならば誰かが破壊したのだろうか。
ムーンバールから逃げ仰せ、薄氷の森の林道近くにて報せを受け取ったジズは、主人であるガイウス・バランの許可を得て、屋敷内の一等部隊である彼らを連れて森の深部へと急行した。
大賢者が遺した迷い払いの秘術を用いて向かった先に見たのは、真白く錆び付いた巨大なドラゴンだった。
かつて大賢者が封印したはずの、災厄を振り撒くとされる名も無きドラゴン。
十五年前に発刊された大竜事典にも載っていない、正真正銘の危険種。
三等星のドラゴンハンターである部下達の魔法や武器がどれだけ通じるかはわからない。
だが、相も変わらず五十年前と同じ様に微塵も動こうとはしない。
これならば滅ぼせる可能性はある。
指示を出し、魔法が放たれる。
色鮮やかに混じりあった魔法の数々は、しかし白いドラゴンに当たる直前に霧散した。
「よう、爺さん。また会ったな」
突如霧が形を成したように一瞬で現れた、赤と黒が混じる髪に金色の瞳。
手には漆黒の杖。
魔法使い然とした格好ではあるが、肉体もそれなりに鍛えているのだろうか、相対してみれば一部の隙も無いように思える。
(この方は確か……しばらく前にムーンバールと共に現れた……)
ジズはそう古くない記憶から照合し、目の前に立ちはだかる者の正体を探る。
(あの場に現れたということはおそらく四等星のドラゴンハンター。
手持ちの金で退いてくれずともまあ面倒な相手ではないでしょう。
もう一人仲間がいたはずですが、はぐれたのでしょうか)
攻撃体勢に入っていた部下達の前に出て、ジズは一度静かに礼をする。
恭しく、それでいて優雅さを滲ませる、熟練の所作である
どうやらこの魔法使いの青年も攻撃の意思は無いようだ。
ならば手っ取り早く済ませるに限る。
「私はジズ、とある屋敷の執事をしております。
まずは、さきの攻撃の非礼、詫びさせて頂きたい。
まさかこの様な場所に人がいるとは」
「……」
「旅のお方ならば知らないのも仕方が無いやもしれませんが……、ここは禁域、許可無しで入ることは許されてはいないのです」
当然、どれだけ請願されようとも許可など降りることはないが。
一応は先制して、イニシアチブを取ることには成功しただろうか。
「そいつは失礼した。なにぶん面白そうな物に目が無いもんでな。
一つ訊きたいんだが、あんたらはこのドラゴンが何か知ってるのか?」
「…………」
悪びれる事もなく会話を続ける青年に、ジズは若さを感じていた。
無鉄砲で、後先を省みない。
今、自分が命令の一つでも下せば彼はその短い生涯に幕を引く事になるというのに。
だが、悪意の様なものも感じられない。
どのようにしてこの場所に辿り着いたのかは、後で聞くとして、今この場は大人しく下がってもらう事にしよう。
「どれだけ小さな街であろうと、秘密の一つや二つはあるものです。
ましてオーランともなれば、それこそ歴史の表舞台には出せないものがいくつも。
見れば、あなたはまだ若い、が場数は踏んでおられるようだ。
なればこそ、今どうすべきか。わかるはずです」
後ろに控えている部下達が、かちゃりとそれぞれの武器を鳴らす。
露骨すぎる脅しの姿勢に仕向けたジズも苦笑いしてしまうが、これが最も効果的だろう。
尻尾を巻いて逃げ出すか、交渉の姿勢に持ち直すか。
どちらにしても不都合は無い。
だが、返ってきた答えはどちらでもなかった。
「……無理だな。理由が足らねえ」
「なに……?」
「あんたらはどうしてこのドラゴンが動かねえか知ってるか?」
圧倒的な暴力を前にしてもまるで怯んだ様子を見せない男に対して、ジズ達は警戒心を露にする。
こちらは三等星以上のドラゴンハンターが十人、対してあちらは精々が四等星な上たった一人ときている。
普通に考えれば勝ち目などある筈が無い。
何か策でもあるのだろうか。
「錆び付いた体表、踞ってる身体の隙間なんかには苔すら生えてやがった。
こいつはな、飯もろくに食ってねえ、雨垂れだけ吸って五十年暮らしてやがる。
それなのに鼓動は弱るどころか、俺がここに来てから強まるばかりだ」
「………………殺れ」
突如つらつらと語り始めた青年、通じる言葉無しと考えたジズは部下に無力化を命じる。
もはや時間の猶予は無い。
大賢者の張った結界は打ち破られ、災厄が世界に振り撒かれんとしている。
自分達が今この白いドラゴンを滅ぼさねば、オーランの街はおろか世界に危機が及ぶ。
合図と共に魔法が、剣が、槍が、斧が、青年に牙を剥く。
少し理不尽な光景とはいえ手段を選ぶ余裕は無い。
だが、杖を持つ二人の部下の放った魔法は、なぜか空中で掻き消え、次いで攻撃に移った男達の武器は、青年に届く前に砕け散る。
「なにっ!?」
「……くそっ、魔法か!」
彼らとて三流ではない。
武器が折られようとも、すぐさま体勢を立て直す。
格下相手だと油断していた訳ではない。
それでも自慢の攻撃は防がれ、必殺の魔法は消滅する。
十人がかりにも関わらず、青年はかわす動作すら取ろうとしない。
「し、執事長様!」
「私が相手をする、支援しなさい」
どうやらこの青年は未知の魔法を行使できるようだ。
だがそれでも、魔法使いというものは得てして近距離になると酷く脆くなる。
視線で合図を送り、数拍して予定通りのタイミングで、他の攻撃的な魔法に紛れ、部下が光の魔法を放つ。
青年は回避すら取らずその両目に閃光を食らったのかふらついている。
その一瞬の隙を突き、ジズは大地を蹴り肉薄した。
右手を顔の前にかざす青年はあまりに無防備だ。
すでに射程圏内に入っているこちらに気付いている様子も無い。
手に持つナイフで狙うは腕。
殺さず終わらせる余裕があったのは、ひとえに味方の援護あってだ。
刹那の速さで腕を振り、柔い肉を切り落とす。
はずだった。
完璧な優位の中攻撃体勢にあったジズの身体は、まるで馬車に跳ねられた様に真横に吹き飛ばされる。
「執事長様!?」
「だ、誰だ貴様は!?」
ジズは胸部の痛みに耐えながら起き上がり、自分がもと居た場所を睨む。
腰まで届く長い金髪、赤い瞳。
完璧なまでに整った顔立ちにメリハリのついた肢体は、さながら神話に伝え聞く女神の様だ。
しかし、そのどれもが今この場には不釣り合いだった。
(……まさか、隠れていたとは。あの青年も先ほど湧いて出た様な現れ方でしたし、どうやら相当な魔法の使い手のようだ)
突如現れた麗人は、黒いバトルドレスを纏い、なんの飾り気も無い剣を右手に握っている。
先ほどから部下の武器を破壊していたのは彼女の不可視の攻撃か。
合点がいくが、同時に勝機が遠ざかっている事をジズは感じ取っていた。
「誰だと言われましても……。
どうやら今の私は、あなた方の知る神話にしか存在しないようなので」
「な、何を言って……?」
とても冷たい眼をしている。
そう、ジズは感じた。
人を殺す事になんの感慨も抱いていない、倫理感が欠けている、という訳ではない。
わかった上で、殺すことに抵抗を感じていない。
向けた刃は自分にも返ってくる、だがそれは大義名分ある戦においての話だろう。
「本当に何も言わずに、何も聞かずに死ぬ気かあんたら。
まあそれもいいだろ。武士みたいな潔さがあって好きだぜ、俺は」
漆黒の杖を肩に担ぐ様に置く青年は、気だるげに、しかしどこか楽しげにそう言う。
老執事ジズは今こそようやく悟る。
触れてはならない者達だったと。
二等星並の力を持つ自分が、部下の力を借りながらも微塵も歯が立たない。
戯れで、殺される。
「撒き餌の要領で一人だけ生かして根元から叩くのはどうですか?」
「遺恨を残すのは嫌だからなあ。
あんたら、自分の主人を売る気は無いんだろ?」
そら恐ろしい事を平気でのたまう彼らを、ジズは信じられないといった顔で見ていた。
今、この世は確かに平和である。
目立った争い事も無く、人と人とは武器ではなく言葉を交わして日々を過ごしているのだ。
それなのに、彼らは狂っている。
いや、恐れている。
使命とて、確かに先に手を出したのは自分達だろう。
命を奪うために、武器を向けたのも確かだ。
そして、その戦いで自分達が奪われる事があっても、それは道理の中の話だ。
しかし、彼らの言ったことはその範疇を遥かに超えている。
一族郎党、根絶やしにする。
そう言ったのだ。
時代錯誤も甚だしい。
まるで自分一人の過ちで、国が傾くとでも自負しているような、命の背負い方だ。
ジズはこの若者二人に戦禍の炎を見た。
今の世界に、生きるべきではないと、心の中で断じていた。
「はあ……ドラゴンの方はなんとなくわかってきたが、大賢者とあんたらについてはまだまだ知りたい事があったんだが」
「仕方無いですね。一からまた調べましょう」
朝の挨拶でもするかの様な気軽さで、二人は会話を続ける。
ジズも、彼の部隊も、戦意はとうに尽きていた。
逃げ出そうと機を伺うことすら、金と赤の四つの瞳が許さない。
一つの甘さが仲間を殺し、一つの情が家族を殺す。
敵を逃がせば、それは明日、お前を再び殺しに来る。
敵を殺せば、遺された者が恨み抱き、お前をみたび殺しに来る。
友と笑い合う時に、恋人と語り合う時に、親や子と暮らす時に。
起きていても、寝ていても、必ず誰かがお前を殺しに来るだろう。
それが嫌なら、皆殺しにするしかない。
教え込まれ、そして幾度となく身に染みさせられたそれらの言葉は、どれ程強大な力を持った所で忘れることはない。
二人は、平和を知らなかった。
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レンガが握る漆黒の杖が、杖先からどす黒い空気を纏い刃を成す。
大人の男二人分の丈を持つ、絶死の鎌の出来上がりである。
魔法ではない、とジズの部下達はわかっていた。
わかっていたからこそ、もはや何も出来ない。
振るわれれば死あるのみ。
しかし、足はすくみ動かない。
彼らが一様に目を瞑ろうとした刹那、
「話を、させてくれないか」
低い男の声が、森に少しだけ響く。
ジズ達は彼を知っていた。
当然だろう。
「た、……大主さま……?」
オーランの歴史に根差す、街の裏側に位置する存在。
バラン家が現当主、ガイウス・バラン、その人である。




