第八章
1
九月二十七日 日曜日
影が動いた。
それは影ゆえに音をもたず、影ゆえに重さをもたず、影ゆえに顔をもたなかった。
影は暗闇のなか山の斜面を滑りおりてきた。夜の石畳に自身の色を重ね、ゆっくりと歩みを進める。
闇の濃淡が周囲を描く。乱立する長方形は都市のようであり、その中を闊歩するひときわ濃い影の姿は、さながら都市の安寧を脅かす怪獣のようだった。
その場所に光はなかった。夜の帳はその腕を広げて重厚な雲で世界を光から覆い隠した。
光なき世界に希望を求める愚か者はいない。この静寂は生きとし生けるもの全てが夢の世界へ希望を求めて立ち去った証なのだろうか。
否――
「『なぜ兎走千沙さんは合宿所に残されたのか』。それが私の疑問の発起点でした」
声が聞こえて影は動きを止めた。
闇を撫でながら身体を傾ける。その挙動に驚嘆や焦燥の色は見られない。どこまでも静かで、どこまでも穏やかな動きだった。
影は言葉を返さない。沈黙に埋まりながら、声のした方向を見つめていた。
光が現れた。
二つの光が闇を照らし、姿なき影の身体を突き刺した。
途端に、周囲にいくつもの光が浮かび上がった。無数の光が闇を引き裂き、影の世界の正体をさらした。
そこは墓地だった。区画された無数の墓石が立ち並ぶ広大な墓地。そのいたるところに、刑事たちが立ちはだかり、その手には巨大な懐中電灯がかかげられていた。
初めの二つの光が揺れ動きながら影に近づいた。そこにいたのは恒河沙法律と籐藤剛だった。
籐藤は鼻を鳴らし、右の拳を握りしめた。その隣で、沈痛な面持ちの法律は、猫背になりながら言葉を続けた。
「兎走さんを合宿所に残していくことにどんな合理性があるのでしょう。兎走さんを残していくことで、犯行が露見する可能性が非常に高まります。『もし兎走さんが犯人の顔を見ていたら』、『誘拐の瞬間を偶然目撃していたら』、なぜ犯人はそのように考えなかったのでしょう。それとも犯人は合宿所に兎走さんがいることを知らなかったのでしょうか。たしかに彼女は、宴会の最中に体調不良を訴え、一人先に寝室へ向かいましたからね」
籐藤が右足を一歩前に踏み出した。法律は彼の前にそっと手を伸ばして制した。
影は光を当てられても影だった。黒い薄手のコートで身体を包み、フードで顔を隠している。身体を横向きに丸く縮め、両手で何かを抱きかかえていた。
「もう一つ事件当夜について気にかかったことがあります。それは、合宿所玄関のカギです」
影がピクリと身体を揺らした。
「犯人は合宿所を去る時に玄関のカギを締めていきました。この行動にいったい何の意味があるのでしょう。犯行が露見するのを遅らせるためでしょうか。誘拐後に合宿所を訪れる予定のひとがいるかもしれない。そのひとが合宿所の中に入り、大和田ゼミのみんなが消えていることに気づくのが遅れることを期待したのでしょうか。いいえ。もしそんな人がいるなら、その人は建物の中にひとがいることを予想して訪れるはずです。鍵がかかっていて、中とも連絡が取れなければ何か異変があったと思うに違いない」
――とにかく――法律は声を張りあげ、両手を一度大きくたたいた。
「犯人は二つの不可解な行動をとっています。一つ。犯人は兎走千沙さんを現場に残した。二つ。犯人は玄関のカギを締めた。さて、この謎は残したままで次の話に移りましょう。八月十八日に九人が失踪し、約半月後、九月三日を皮切りに、九人のうち七人が都内で無残な遺体となって見つかりました」
「九月三日、江東区I町の歩道橋で東条都」
籐藤が言葉をつないだ。
「九月八日、文京区M町の私立蓮下学園初等部で垣本愛乃。九月九日、世田谷区K町の路地裏で匙之宮琴音。九月十四日、多摩地域八王子市山中のコテージで林さゆり。九月十七日、足立区C町のごみ捨て場で龍首恵。九月二十日、大田区N町の土手で加藤彩。九月二十五日、港区M町の空き地で鳥峰祭」
「全ての場所に共通する点として、深夜帯は人通りが少ないが、太陽が昇れば必ず発見してもらえるということがあげられます。犯人は死者の姿を世間に見せびらかしている。いったいなぜでしょう。また、被害者の遺体は発見された順番に従って、その腐敗が進行している。一つ目の遺体より二つ目が、二つ目の遺体より三つ目が腐敗していたのです。この点を鑑みることで、なぜ遺体を見つけやすい場所に遺棄したのかが理解できます。すなわち、犯人は誘拐したゼミ生の遺体をつかって、九相図を見立てようとしていた。本物の遺体による九相図の作成が犯人の目的なのです。調べてみたところ、大和田ゼミの合宿で『檀林皇后九相図』についての授業がおこなわれていたことが判明しました。数ある九相図のなかでも、発見された遺体の腐敗の進行具合はこの九相図と一致していたのです」
影は黙って法律の言葉に耳を傾けていた。
「ここで先ほどの一つ目の疑問――なぜ兎走さんは合宿所に残されたのか――が混乱の様相を増します。この犯罪は『数』が非常に重要な意味を持つ犯罪だった。犯人は事前に大和田ゼミの構成員をチェックしていたはずです。犯人は兎走さんが別の場所にいるとわかっていながら放置しておいた。九相図を作るためには九人だけで十分であり、それゆえ十人目となる兎走さんを残していったのでしょうか。これはおかしな推理です。先ほども申した通り、兎走さんはどこかで犯行の瞬間を、犯人の顔を見ているかもしれない。彼女を生かしておけば犯行が露見する確率が高くなるのです。その場で殺すか、いっしょに誘拐するのが合理的です。だがそうはしなかった。犯人は兎走さんがそこにいると知っていながら誘拐しなかったのです」
「おもしろいひとですね」
影が口を開いた。
当然だ。相手は魑魅魍魎でもなければ狐狸妖怪の類でもない。人間だ。血の通った人間なのだ。
「失礼。続けてください」
抑揚のない声で影は言った。籐藤の耳に、法律がつばを飲み込む音が聞こえた。
「失踪した九人について調べているうちに、ある一人の人物が捜査線上に浮かびました。江川富彦。徳和大学の学部生です。橋京大学の大学院で歴史学の修士号を取得したあとに徳和大学の歴史学科に入学してきた彼は、男子禁制という暗黙の掟を破り、大和田ゼミへ入会しました。そして彼は同ゼミの匙之宮琴音さんに好意を抱き、ストーカーという悪業に走りました。実の姉妹のように仲の良かった大和田ゼミの生徒たちはそれを看過することができなかった。六月の上旬。九人のゼミ生は江川さんを人気のない屋外ステージに呼び出し、彼の悪行を譴責しました。逆上した江川さんは暴力に訴えましたが、返り討ちにあい大けがを負った。彼は大和田ゼミを恨んでいます。そんな彼が、ゼミ生たちが愛する芸術作品になぞらえて彼女たちを殺害するというのは、なるほど説得力のある推論です。事実、警察が江川のもとに伺うと、彼はその日のうちに逃亡しました。この点も江川富彦犯人説に強い説得力を与えています。しかし――」
闇夜の咆哮と聞き紛う強風が吹き荒れた。点在する卒塔婆が甲高い笑い声をあげる。墓地の最奥に立つケヤキの木は、抗うようにその葉を揺らしていた。
「ぼくは、江川富彦が犯人であるという説には納得できませんでした」
「……へぇ」
黒いフードからのぞく唇が下弦の月のように線を引いた。
「あの男が犯人ではないと?」
「えぇ」
「どうして」
「江川さんは六月に大和田ゼミの九人から暴行を受けました。徒手空拳のまま合宿所に乗り込めば、返り討ちにあうに決まっています。江川犯人説をとるならば、この点を補強する必要があるわけです。ここで補強案を二つ挙げ、そしてその二つが大きな疑問点を内包していることを示しましょう。補強案①。江川さんは何かしらの凶器を手にして九人に襲いかかった。ナイフ、けん銃、スタンガンといったところでしょうか。しかし、本当に江川さんが凶器を手にしたとして、それで九人を意のままに操れるでしょうか。九人のうち四人は武道の有段者でした。そして――たとえばけん銃を手にした江川さんが、九人の中でいちばんおとなしい……そうですね、匙之宮琴音さんの背中にけん銃を突きつけて、皆を脅したとします。『さあ行け。廊下を進め。角を曲がって、玄関ロビーから外に出ろ。そこに停まっている車に乗って……』はたして、気の強い彼女たちが唯々諾々と従うでしょうか。そうは思えません。なんといっても相手は九人です。江川さん一人で九人を見張るのは難しいでしょう。誰かがわざと激しく転ぶとか、叫び声をあげるとか……江川さんのスキを生み出して、武道の有段者が彼に襲い掛かると考えるのは決して非現実的ではありません。江川さんに武術の経験はありませんでした。腕力も乏しく、たとえ武器をもっていたところで九人を誘拐できるはずがないのです。では仲間がいたとしたらどうでしょう。これが二つめの補強案です。この合宿所を訪れたのは彼一人ではなかった。彼は仲間と協力して九人を合宿所から連れ出したのです。なかなか説得力がありますね。しかしぼくは納得しません。合宿所の東棟にある森林の中に何者かの足跡がありました。大和田ゼミの前に合宿所を利用した徳和大学の生徒や、合宿所を管理した管理人にも確認しましたが、彼らはここ数日は一度もこの雑木林のなかに入ったことはないと証言しました。足跡のある位置は大和田ゼミが使用していたA教室の正面にあり、犯人はそこでこれから連れ去る相手たちを監視していたと思われます。しかし、実際に江川さんもしくは彼の仲間が監視していたとして、一人で監視作業をするでしょうか。なんといっても監視対象は九人です。全員が常にいっしょに行動しているわけではありません。もしかしたら誰かが庭に出てくるかもしれない。室内の右の方を監視している時に、左の方にいる誰かがこちらの存在に気づくかもしれない。つまり、犯行が複数人で行われたのなら、監視もまた複数人で行うというのが当然です。しかし、林のなかの足跡は一つだけでした。あそこにいたのは一人だけ。一人だけなんですよ」
「想像にすぎない」
「ほぅ」
法律の鼻がすんと鳴った。
「大和田ゼミの九人はあなたが思うほど勇敢ではなく、江川の装備した武器に恐怖を覚えた。また、江川富彦はあなたが思うほど合理的思考能力の持ち主ではなく、たった一人で監視をおこなった。この二つが事実だったのかもしれない。あなたの主張は想像にすぎない。根拠なんて、ない」
「おっしゃる通りです。ですが、江川さんを犯人ではないと断定するためにこの話を持ち出したのではないのです。重要なポイントは『私が納得しなかった』ということにつきます。私は納得できず、江川さんが犯人ではないという可能性について考え続けました。それと同時に他の捜査員は彼が犯人と考えて動いていました。彼らの判断が正しければそれでよい。私の判断が正しければ同じようにそれでよい。結局、二つの道のどちらかが真相につながっていれば私たちの勝ちなのですから」
『しかし――』と、法律は続けた。
「ほかの捜査員の方々は、ある一つの可能性に目をつけました。江川さんには共犯者がいた。あろうことか、彼らはそれを兎走千沙さんであると推測したのです。江川さんは九人をどうやって誘拐したのか。睡眠薬です。共犯者である兎走さんが九人に睡眠薬を摂取させる。九人が眠りについたところで江川が車で彼女たちを連れ去り、兎走さんは一人合宿所に残る。朝になったら合宿所から外部に連絡し、『目覚めると自分以外の九人が失踪していた』と告げればいい。このアイディアの利点は、最初に提示した疑問――すなわち、『なぜ兎走千沙さんはあの合宿所に一人残されたのか』という疑問に答えられるということです」
「すこし、話を脱線させてもいいですか」
影が片方の手をおごそかに上げた。
「なんでしょう」
「ここには、いったい何人の警察が」
「ざっと、三十人。あなたを逃がすわけにはいかないので」
「なるほど。あぁ、もちろん。逃げるつもりはありませんよ。私は化け物でも怪人でもない。ただの人間なんです。三十人ものおまわりさんから逃げられるわけがない。全てが終わったら、きちんとお縄につきますよ」
その言葉を耳にしても、周囲の刑事たちの張りつめた緊張が解けることはなかった。彼らの視線は一心に一つの影に注がれていた。
2
「あなたのお話はとてもおもしろい。さぁ、続けてください。それで、兎走さんが共犯者と疑われてあなたはどうしたのですか?」
「九月十七日に、足立区C町で発見された龍首恵さんの遺体について気がかりなことがありました。この遺体は『檀林皇后九相図』に倣えば第五相『噉食相』となります。『噉食相』では、腐敗した肉が獣に食べられる様子が描かれている。しかし、龍首さんの遺体は、ごみ捨て場に集まるカラスたちの興味をひきながらも、彼らのくちばしがそのご遺体に触れることはありませんでした。遺体発見現場の目の前に住む米谷ひろこさんが竹ぼうきを振り回してカラスを追い払ったのです。『噉食相』は失敗しました。ここでまた疑問が生まれます。『犯人はなぜ米谷ひろこの家の前に遺体を捨てたのか』。第四相までの遺体の配置場所は犯人にとって完璧な場所が選ばれていました。つまり、①夜間は人通りが少なく、②朝になれば必ず人目につく場所、というわけです。犯人は入念に検討して遺体の配置場所を決めていた。なんの考えもなしに米谷ひろこ宅の前に遺体を置いたはずがない。江川富彦犯人説をとる捜査員は、これは江川さんが大和田ゼミの九人に対するものとは別の私怨を晴らすためにおこなったと考えました。以前、江川さんは徳和大学内のコンビニでトラブルを起こし、そのコンビニを出入り禁止になりました。そのトラブルの相手こそ米谷ひろこさんだったのです。恥をかかされた江川さんは、彼女を驚かせるために自宅前のごみ捨て場に遺体を置いた。しかし、ぼくにはこの考えが納得できませんでした。調べたところ、江川富彦という男は完璧主義が服を着て歩いているような男です。そんな完璧主義者が、かつて自分を言い負かしたほどの強気な女性が、目の前の遺体を憐れんでカラスを追い払うと予想しなかったのでしょうか。米谷ひろこへの復讐と、大和田ゼミへの復讐。江川にとって重きが置かれているのはもちろん後者です。完璧に『檀林皇后九相図』を見立てるならば、米谷ひろこ宅の前に遺体を置くはずがないのです」
法律は一度大きく息を吐いて呼吸を整えた。
「ですが、もし犯人が、米谷ひろこにカラスを追い払ってくれることを期待していたらどうでしょう」
影は笑って白い歯を見せた。
「米谷さんはあの日、夢の中で甲高い音を聞いたそうです。おそらくそれは玄関チャイムの音でしょう。犯人はチャイムを鳴らして、米谷ひろこを夢の世界から起こしたのです。その時点で窓の外ではカラスたちがけたたましく鳴きわめいていた。ひとたび眠りから覚醒すれば、彼女が様子をうかがいに外に出てくることは確実です。もう一度言いましょう。もし犯人が米谷ひろこにカラスを追い払ってくれることを期待していたら。この疑問は次のように言い換えることができます。つまり――もし犯人が、龍首恵さんの遺体で『噉食相』を見立てるつもりがなかったとしたら?」
沈黙。
無彩色の沈黙が世界を支配した。
暗闇の世界のなかで、籐藤は一筋の光を見つめていた。夜空を駆ける流星のごとくきらめく光。その名は真実。真実が楕円の線を描きながら自分の手元に落ちてくる。淡く発光を繰り返す一つの真実。それがいま、目の前に――
「『檀林皇后九相図』に従えば、第五相は『噉食相』です。では、龍首さんの遺体は別の相ということでしょうか。そもそも別の相だとしたら、なぜ彼女の遺体は五番目に発見されたのでしょう。もしかして我々は遺体発見の順番を間違えたのでしょうか。いいえ。先ほど申しましたとおり、犯人は確実に人目に付く場所に遺体を置き、かつ必ず一つの遺体が発見されてから次の遺体を置いています。間違いありません。犯人は龍首さんの遺体が五番目に発見されることを期待していたのです。五番目の遺体でありながら『噉食相』ではない。ここにきて我々は、妄信的に捉えていた前提を覆す一つの可能性にたどり着きます。すなわち、犯人は『檀林皇后九相図』を見立てようとしていたわけではなかったのです」
ふつふつと空気が沸き上がるような奇妙な音が籐藤の耳に届いた。
それは、影の笑い声だった。
影は口元をおさえ、身体を折り曲げてひくりひくりと震えた。震えながら笑った。甲高い妖魔のようなその声に、籐藤の顔は自然とこわばった。
「本当におかしな話ですよ」
影は折り曲げた身体をゆっくりと立て直した。
「そうだ。悪くない。考えようによっては、この展開も、悪くない」
そんな影のつぶやきが、風に乗って籐藤の耳に届いた。刑事は法律の横顔を見た。探偵もまた刑事に視線を送った。冷たく、赤く血走った二つの瞳。
「続けてください」
影は石畳を踏みつけて音を立てた。その足は革製のショートブーツをはいていた。
「『犯人の目的は檀林皇后九相図を見立てることではない』。この仮説を後押ししてくれる証拠がないか、これまで見つかった遺体について振り返ってみましょう」
法律は語りだした。
「一つ目の遺体、東条都さんは死後数時間が経った状態で見つかりました。紛うことなき『新死相』です。二つ目の遺体、私立小学校の敷地内で見つかった垣本愛乃さんは身体こそガスで膨張していましたが、皮膚が張り裂けて血液が流れ出ることはありませんでした。『膨張相』です。どうも雲行きがよくありませんね。私の先の仮説を補強してくれるところは何もない。三つ目、四つ目の遺体も同じです。世田谷区K町の路地裏で見つかった匙之宮琴音さんは膨張した皮膚から血がしたたり落ちていたので『血塗相』。コテージの庭先で見つかった林さゆりさんの遺体は腐敗した肉が崩れ落ちていたので『胞乱相』です。おかしなところは見受けられません。『檀林皇后九相図ではない』という仮説は『偽』なのでしょうか。五つ目の龍首恵さんの遺体については先ほど指摘した通りです。そして、六つ目の遺体。大田区の土手で見つかった加藤彩さんの遺体です。あぁ。ここです! 私の疑問符はここに投げかけられることになる。ねぇ、どうでしょう。野上刑事。聞こえますか? 六つ目の遺体は、どんな様子だったのでしょう。そしてそれは何の『相』と言えるのでしょう」
法律から数十メートル離れた位置にいた野上は突然自身の名前が呼ばれて飛び上がった。周りの刑事たちの視線を感じながら彼は咳払いをした。
「『青瘀相だ』。加藤彩の遺体は、発見時身体から水分が抜け始め、その一部分で乾燥が始まっていた。九相図ではこの状況を『青瘀相』と呼ぶんだろう」
「その通りです。水分が抜けはじめ、ミイラ化が始まった状態を『青瘀相』と呼びます。しかし、加藤彩さんの遺体は、本当に『青瘀相』だったのでしょうか。ここでひとつ留意点をあげます。第一発見者です。加藤さんの遺体を最初に発見したのは――人ではありません。一匹の犬でした」
「犬、ね」
影は左手でそっと白いあごをなでた。
「えぇ。犬です。セント・バーナードのラルフくん八歳です。書類上は遺体の第一発見者である三上英雄さんの飼い犬です。九月二十日の朝、三上さんは日課の散歩のため土手を歩いていたところ、突然ラルフくんが土手の下にある茂みのなかに飛び込んでいきました。首輪とつながっていたリードに腕を引っぱられた三上さんは、何度も『とまれ!』と叫びましたが、ラルフくんは止まりません。これは少しばかりおかしなことです。セント・バーナードはその恐ろしい外見とは異なり、非常に忠義に篤い主人想いの犬種です。そんなラルフくんが、主人が制止するのを無視して人間の死体に飛びかかったのはなぜでしょう。三上さんはラルフくんについてこう語っていました。『ここ数日間はずっと不機嫌で品定めするような目でこちらを見る。ドッグフードを半分ほどしか食べない』とね。単刀直入に申し上げます。あなたは、ラルフくんに人間の肉を与えたのではないですか」
籐藤の脳裏をトートバッグに入った青い包みが通りすぎた。
――違法なんてかわいい言葉じゃない――
青い包みはバッグの中で白い煙に覆われていた。ドライアイス。生ものを持ち歩くにはつきものだ。
あの日、三上家から引きあげ、包みの中身を告げられた籐藤は文字通り固まった。この探偵は病院街で誰と出会っていたのか。こんなことに現職の警察官が関わったと知られたら、自分の免職だけで済む話ではない。違法なんてかわいい言葉じゃない。倫理や道徳。人間の尊厳にかかわる境界に籐藤はまたがっていたのだ。
「あなたは加藤彩さんの遺体が見つかる数日前から、毎晩ラルフくんのもとに通い、彼に人間の肉の味を教えていた。ラルフくんに人間の肉の匂いを教え、確実に加藤彩さんの遺体に気づいてもらうため、そしてその遺体を食べてもらうために。わかるでしょう。六つ目の遺体は『青瘀相』ではなかった。あなたは『噉食相』を見立てようとしたんだ。しかしあなたの計画は失敗に終わった。あなたは引退した元プロ野球選手の筋肉を見誤っていた。テレビ番組で一三〇キロのベンチプレスを上げるほどの三上さんのことを知らなかった。三上さんはセント・バーナードを押さえつけた。見事なものです。端からみれば『噉食相』は失敗に終わったように見えますが、あなたはそれほど気にしなかった。なぜなら、ラルフくんは実際にあなたが与えた人間の肉を食べたからです。人間の肉なんてそう簡単に手に入るものではありません。だがあなたは違う。大和田ゼミの人間を殺してその遺体を保管していたあなたなら、容易に用意することができたはずですよね」
「加藤さんの肉を食べさせたました」
影のその言葉に、刑事たちがざわついた。
「九相図のルールは守らなければならない。加藤さんには『噉食相』を担ってもらいました。だから最初から彼女の肉を与えたんです。できれば三上英雄という目撃者がいるところでも食べてほしかったんですけどね。自尊心の高い男と聞いていたので、マスコミの前でよくしゃべってくれると期待していました。筋骨隆々な五十代ですか。テレビを視る習慣が私にはないもので……まぁ、実際にあの犬は加藤さんの肉を食べてくれたんです。『噉食相』は成功しましたよ」
「認めるんですね。加藤彩さん――六つ目の遺体は『噉食相』だったと」
「えぇ。認めます。さて。これは困ったことになりましたね。加藤さんが『噉食相』ならば、当初『噉食相』と呼ばれていた五つ目の遺体である龍首恵さんはなんの『相』なのでしょう」
おどけた口調で影はいう。挑発に乗るな。法律は自身に語りかけた。
「難しい話ではありません。六つ目の遺体が『青瘀相』から『噉食相』に変わったならば、五つ目の遺体も『噉食相』から『青瘀相』に入れ替えてみればいいのです。首藤恵さんの遺体も、全身ではないが腹部でミイラ化が始まっていました。『青瘀相』と呼ぶには十分なのですよ。九相図において、腐敗の順番は絶対ではないそうですね。専門家の方から伺いましたよ」
法律は足元を見つめ、一度大きくため息をついた。
「東条都さんは『新死相』。垣本愛乃さんは『膨張相』。匙之宮琴音さんは『血塗相』。林さゆりさんは『胞乱相』。龍首恵さんは『青瘀相』。加藤彩さんは『噉食相』。そして七番目に見つかった物置の中の白骨遺体――鳥峰祭さんは、骨が連なって置かれていたことから『白骨連相』ということになります。ここまでの流れから、犯人が見立てようとしている九相図が『檀林皇后九相図』ではないことは明らかです。『檀林皇后九相図』ならば、『噉食相』から『青瘀相』と続くはずなのに、そうはなっていません。どういうことでしょう。犯人は自身にどんなルールを課して犯行を重ねていたのでしょう。当初ぼくは、犯人は室町時代の大永七年に描かれた『大念佛寺本』という絵巻に描かれた九相図を見立てていると考えました。この九相図は『新死相』『膨張相』」『血塗相』『方乱相』『青瘀相』『食噉相』『白骨連相』『白骨散相』『成灰相』という九つの相からなります。一つめの相から七つ目の相までが、今回の事件と一致しているのです。ですから、大和田ゼミ残りの二人、片瀬双葉さんと大和田夏鈴さんは『白骨散相』――風に吹かれて骨が散らばった状態で見つかるか、『成灰相』――これは一般的な九相図では『古墳相』と呼ばれるものです。骨さえもなくなり、死者の墓石だけが現れるのではないかと考えました」
「ずいぶん九相図について詳しいのですね」
「勉強しましたから」
影の言葉に法律は答える。感心したように影はうなずいた。
「そうですか。おや。不思議ですね。『大念佛寺本』第八相『白骨散相』がまだ見つかっていないのに、私たちはいま、第九相『成灰相』の舞台となる墓場にいます。これはどういうことでしょう」
「どうもこうもありません」
吐き捨てるように法律は言った。
「『大念佛寺本』なんかじゃない。あなたが目指した九相図はそんなものじゃなかった。ぼくは不思議で仕方がなかった。犯人はどうしてわれわれが『噉食相』と『青瘀相』を取り違えるよう細工したのか。『大念佛寺本』であることを隠すため。それにいったい何の意味がある。思いつかない。でも事実としてそれは起きた。何か理由があったのです。ぼくがその理由にたどり着く発端となったのは、大和田姉弟の研究室で見た一枚の切り抜きでした。切り抜きには緋色の唐衣で着飾った女性の姿が描かれていました。そこから生まれた三つ目の仮説。『檀林皇后』でも『大念佛寺本』でもない、第三の九相図。そして、この第三の九相図ならば、『青瘀相』と『噉食相』の入れ替えに大きな意味を与えることができる。それだけじゃない。これまで我々が残してきた全ての謎を解き明かすことができるのです。ぼくは合宿所に残された大和田ゼミの皆さんのノートを確認しました。第三の九相図のヒントを求めてノートを読み返しました。そして、見つけたのです。『地獄』『色欲』。『性』。『桜姫』『十訓抄』。『髑髏』。『秋風』。これらの言葉は一人の歴史上の偉人を差している。九相図の本質は生前の『美』と死後の『醜』の比較。生前の姿が美しければ美しいほど、その効能を持つと言えましょう。ならば本当に優れた九相図とは何か。それは絶世の美女の死後の姿を描いたものです。檀林皇后が九相図として描かれるまでになったのは、彼女の美貌がその一因としてあげられます。ですが、檀林皇后を上回る絶世の美女が描かれた九相図がこの世には存在するのです。古代ローマの政治紛争に巻き込まれたプトレマイオス朝の女王クレオパトラ七世。傾国の美女と称された中国唐代の楊貴妃。そんな二人と並んで、わが国では『世界三大美女』と称される平安時代の女流歌人――小野小町。そうです。あなたは『小野小町九相図』を見立てて大和田ゼミの生徒たちをその手にかけたのです。この九相図ならば全てが説明できる。あなたが今この場にいる理由も説明できるのです!」
影が笑った。
軽快な笑い声が墓地にこだまする。
「『小野小町九相図』の大きな特徴。それは、九相図でありながら――死者の姿が八つしか描かれていないということです。小野小町九相図を見立てるためには、八人の死者を犠牲にするだけで済むのです。私の言っていることは正しいでしょうか。専門家のあなたならわかりますよね。さぁ、答えてください。大和田夏鈴准教授」
3
影はフードに手をかけ、その顔を顕わにした。
墓地に散らばった刑事たちは息をのんだ。そこにいたのは、幾度となく彼らが写真で見た顔、被害者の一人としてその安否を案じていた大和田夏鈴だった。
「大和田さん……」
法律のか細い声が夜風に舞った。探偵は下唇を噛みしめ、感情を押し殺すように鼻をすすった。
「どうもはじめまして。徳和大学文学部准教授大和田夏鈴です。専門は美術史。主に日本美術と宗教芸術を研究しております」
夏鈴はほほをつり上げて、月のように白い前歯をみせた。
「あなたは……刑事さんですか?」
「いいえ」
ポロシャツの肩に手を置きながら法律は言った。
「ぼくは探偵です」
「そうですか」
けろりとした態度で夏鈴は言葉を返す。
「人目に触れないという大前提を死守できるのならばなんだってする。警察っていうのはそういう組織です。探偵を飼いならしていてもおどろきませんよ」
籐藤の脳裏に再び青い包みが現れた。刑事は自身のほほを一度はたいた。
「お名前は」
「恒河沙法律と申します」
「十の五二乗ですか。恒河沙さん。私が『小野小町九相図』を見立てたとして、それでどんな利点が生まれるというのでしょう」
『続きをお聞かせ願いたい』。そう頭を垂れる大和田夏鈴に、籐藤の心臓がドクリと警戒の信号を送った。
籐藤は恐れていた。目の前にいる女は姉妹のように慕ってくれた生徒たちをその手にかけた殺人鬼だ。だが何かが違う。この女は普通の殺人鬼とは何かが違う。
倫理の水平線を超越した存在であることはたしかだ。彼女がそれを自覚しているのかどうかは知らないが、いま彼女が足をつけている場所は常人とおなじ場所ではない。それは他の多くの殺人鬼とておなじこと。その多くの殺人鬼がもたない『何か』を大和田夏鈴は抱いている。
「『小野小町九相図』を見立てることの利点。なんといっても第一に、犯人を被害者の中に隠すことができるということです。この九相図には小野小町の死後の姿が八つしか描かれていない。これを見立てるならば、手に入れるべき死体は八つだけでいいのです。あなたは合宿で『檀林皇后九相図』を題材とした授業をおこない、また合宿前には多くのひとにゼミ合宿でこの九相図を題材にした授業を行うことを吹聴した。これは事件発生後、遺棄された遺体が『檀林皇后九相図』を見立てていると警察が判断するための下準備だったのです。そしてあなたは、米谷ひろこ宅の前で見つかった龍首恵さんの遺体と、大田区の土手で見つかった加藤彩さんの遺体を遺棄するに際して、それが『檀林皇后九相図』に従っているかのように細工をした。その結果私たちは、犯人が『檀林皇后九相図』を見立てようとしており、かつ失踪した九人が例外なく被害者であるという誤った大前提を抱いてしまったのです」
闇夜を疾駆する風がその勢いを強めた。ぶ厚い雲はその巨大な身体をのそりのそりと動かし、暗がりの墓地に時おり月の光が舞い降りた。
「もう一つの利点。それは、合宿所で起きた誘拐という事実を理路整然と説明ができるということです。ぼくが江川さんを犯人とすることに抵抗を覚えた理由の一つは、彼には大和田ゼミの九人をあの合宿所から連れ去ることが、不可能だと思えたからです。どんな武器をもって脅迫したところで、四人の武道有段者がおとなしく従うはずがありません。しかし――それが『脅迫』ではなく『提案』だったらどうでしょう。姉妹のように仲のよい九人のうちの一人が『外に出よう』と提案したのならば、難なく他の八人を合宿所の外に連れ出すことができるのではないでしょうか」
「『提案』ね。私はなんて提案したのでしょう」
大和田夏鈴の細い眉がかすかに動いた。強く吹き始め風に乗って、後ろにまとめた黒い髪がなびいている。
「誘拐事件が発生したあの日の夜。東京都西部は昼から降り続いていた雨がやみました。合宿所がある多摩地域八王子市山中には夜景スポットがあります。雨雲が消え、満点の星空が夜空を覆ったあの日、あなたは酒に酔って盛り上がっていたゼミ生たちに、車で星を見にいこうと提案した。そうじゃありませんか。あなたは小柄な女性なら九人くらい余裕で乗り込めるバンを所有していますね。兎走さんは事件当日駐車場に怪しい車はないと言った。そのとおりだ、彼女にとっては、合宿所に訪れている先生の車がそこにあることは当然なのですから」
「ははははは!」
大和田夏鈴が笑い声をあげた。ハスキーヴォイスが墓地に響き、刑事たちの鼓膜を小刻みに揺さぶった。
「すごいですね。まるでその場で見てきたかのように……」
「あの山の中で外に出る理由といったらそれぐらいしか思いつきません。兎走さんが体調を崩して眠りについたのは、あなたが睡眠薬を飲ませたからでしょう。食事を準備する際、兎走さんの食事にだけ薬をいれたのです。夕食は味覚を強く刺激してくれるカレーだ。多少変な味がしても兎走さんは気づかなかったでしょう。彼女が寝室に戻り、雨があがったところで、あなたは外に行くことを提案した。兎走さんを置いていくことに反対したひとがいるかもしれない。だけどあなたは上手いこと言いくるめた。『兎走さんのような優しい子は、そうやって気を使われるほうが嫌なんじゃないかな』とか言って。あなたが兎走さんに睡眠薬を飲ませたのは、彼女がゼミの中で一番仲間を想う性格をしていたからではないですか」
「寝室から車のキーを取ってくるついでに
兎走さんの様子を見てくるとみんなには言いました。もし眠っているようなら、枕元に書置きを残しておくと。スマートフォンにメッセージなんかを送られては、あとから証拠になってしまいますからね」
「そんな書置きは存在しなかった。つまりあなたは嘘をついたんですね」
「もちろん。兎走さんは睡眠薬で眠っている。そんなことをする必要はありません」
「あなたの言葉に、ゼミ生たちは従ったでしょう。なぜなら、あなたたちは姉妹のように仲がよかった。長姉のあなたの言葉に、妹たちが抗うはずがない」
「えぇ。よく言うことを聞いてくれたわ。本当に、本当にいい子たち」
籐藤の背中に悪寒が走った。自分を慕う生徒たちを殺めた大和田夏鈴が、慈母のような微笑みを浮かべたのだ。
籐藤は確信した。
この女の殺害の動機は、怨恨や営利や自尊心の獲得といった、人間の負の感情に纏わるものではない。
――大和田夏鈴は自分が正義の下にいると確信している。絶対的な白日の下にその身があり、この『聖』を理解せず、自身を捕らえようとする警察権力を、悪法の僕と見なしている――
大和田夏鈴は逃亡する意志はないと言った。だがそれは、自身の罪を認めることと同意ではない。悪法も法であると認めたにすぎないのだ。
「この『提案説』に従うと、合宿所に残された様々な謎が解決されます。第一の謎。なぜ兎走千沙さんは合宿所に残されたのか。『小野小町九相図』を見立てるには、八人の遺体があれば十分だから。それもあります。しかしもっとも大きな理由は、九人を連れ去ってしまったら、『檀林皇后九相図』の見立て殺人とみなした警察が、消えた十人の中に犯人がいると気づくかもしれないからです。自分が『被害者』の枠の中に入り、警察が『檀林皇后九相図』を念頭に捜査してくれることをあなたは期待していたのですからね。合宿所の玄関にカギがかかっていたという第二の謎。この真相もおどろくほど単純です。眠りについている一人を置いて合宿所をあとにする。戸締りをするのは当然ではないですか。星を見るため外に出た九人は、肌寒い夜空の下であなたが用意した車に乗り込んだ。車内であなたは、睡眠薬を混ぜた温かいお茶をゼミ生たちに飲ます。『寒いから身体を温めなさい』とか言ったのでしょう。姉妹のように仲のいい彼女たちは一本の水筒をまわしのみしていく。アルコールで味覚が鈍っていた彼女たちは、ある程度睡眠薬の濃度が高くてもその味に違和感を覚えることはなかった。兎走さんの時よりも早く睡眠薬は効果を発揮し、あとは簡単。あなたは都内の隠れ家に八人を監禁し、殺害した。遺体が腐敗して、九相図の各相にみあったところで、都内のいたるところにその遺体を置いていったのです」
「探偵さんというのは、本当にすごいですね」
大和田夏鈴は感嘆の言葉を漏らした。
「まるで見てきたかのように、いや、おみごと。おっしゃる通りですよ。全部あなたのおっしゃる通りです」
「江川富彦を誘拐したのもあなたですね」
「えぇ」
刑事たちがざわついた。
そんな周りの態度に、夏鈴は首をかしげた。
「そんなに驚くことですか? 容疑者になり得る彼に身の潔白を証明されたら困るくらいです。だったら、彼を誘拐して口を封じる。おっと。いまのは比喩ですよ」
「ということは!」
数十メートル離れたところにいる野上が胴間声をあげた。
「江川富彦は生きているんだな!」
「生きてますよ。生きているに決まっているじゃないですか。まさか私が彼を殺すとでも。心外ですね」
「殺人鬼がなにをえらそうに」
野上は唾を地面に吐き出した。
「事件発生後、大和田ゼミと浅はかならぬ因縁を抱いていた江川富彦は必然的に誘拐を疑われることになります。不幸なことに、彼には事件発生当時のアリバイがありませんでした。彼は焦りました。警察は自分を疑っている。彼は逃亡を図りました。しかしもちろん、警察は周囲で彼を見張っています。彼だってそれぐらいは予測できたでしょう。すると幸運なことに、警察が帰った直後、彼のアパートの近くでひったくり事件が起きたのです。彼はこのチャンスを逃しませんでした。張り込みについている全員とはいかなくとも、数人は声のした方に何事かと駆け付けるに違いない。逃げるなら今がチャンスです。アパートの一階に住んでいた彼は、庭から出ると、隣家との柵を超えて逃亡しました。大和田さん――」
法律は大和田夏鈴に向かって指を向けた。
「ひったくり犯は、あなたですね」
「えぇ、もちろん」
「張り込み中の刑事の注意をひくために」
「えぇ」
「そのあとあなたは、江川富彦を追いかけた」
「車でね。国道でタクシーを拾うだろうと思ったので、急いで向かったら、青白い顔をして挙動不審にまわりを見渡す江川君を見つけた。声をかけると、彼はぴょんと飛び込んできました。後部座席に乗り込んだ彼を懐柔するのは簡単でしたよ。私はあなたの味方だ。あなたの才能を私は認めている。私の研究の邪魔をするゼミ生を苦しめるために彼女たちを監禁した。そう言うと彼は、ぜひとも自分にも手伝わせてくれと身を乗り出した。そのあとは芸がなくて申し訳ないのですが、睡眠薬を飲ませて彼も監禁しました」
「あなたにとって、世間から姿を隠した江川富彦は隠れ蓑だった。誘拐も殺人も死体遺棄も全て彼の仕業だと警察に思わせるためには、彼に世間から消えてもらわなければならなかった。合宿所の東にあった靴の足跡。あれは、江川の関与を疑わせるために、あなたがつけたものでしょう。女性が男物の靴を履くことは不可能ではない」
「いろいろと考えますね、探偵さんは。あぁそうだ。ついでに探偵さんに一つ訊きたいことがあるんです。最初にゼミ生を殺すときに、江川君の気が少しでも晴れればと思って、彼の目の前で匙之宮さんの首を絞めました。だけど彼、目を背けてずっと震えてたんだですよ。ゼミのみんなを憎んでるいるから喜ぶと思ったんですけど、本当は違っていたんですかね」
夏鈴は眉をまげて首をひねった。その表情からは邪心の類はなに一つ読み取ることができなかった。素直に、心のままに、疑問を提示しただけだと――
「もういい!」
籐藤が叫んだ。
「もういい。もう沢山だ。こいつを逮捕しよう。こんなバカげた話に付き合ってられん。どうしてこんな……ちくしょう!」
髪をかきむしる籐藤の肩に法律がそっと手を置いた。
「もうすぐです。もうすぐ終わります」
籐藤は法律を見た。
探偵は刑事を見てはいなかった。その視線はひたすらに目の前の殺人鬼に注がれていた。
「もうすぐ全てが終わります。ぼくのわがままにつき合わせてしまい申し訳ありません。でもぼくは、どうしても犯人の言葉を聞きたかったんです。彼女が収監されたら、一般人であるぼくが彼女と接見することは難しくなるでしょう。今しかないんです。ぼくが彼女の言葉を聞くには、今しかないんです」
法律の懇願を籐藤は無言で聞き流した。
「そうですね」
右腕に抱えた何かを撫でながら夏鈴は言った。
「残された謎は数えるほどしかありません。さて、恒河沙さん。答え合わせといきましょうか」
「えぇ」
法律は小さくうなずいた。
「まずお話ししたいのは、『小野小町九相図』の第一相についてです」
「恒河沙さん」
夏鈴がくすりと笑う。
「すごいですねあなたは。本当に、本当にわかってくれたんですね。私の、ねぇ、あなたは本当に――」
法律は大きな手で顔を覆い、横にいる籐藤にしか聞こえないほどの小さなうめき声をあげた。見えざる邪念。闇夜に溶け込む邪な思想が、探偵の首をキリキリと絞めつけているようだった。
「『小野小町九相図』には死後の姿が八つしか描かれていません。では『小野小町九相図』は九相図でありながら『八相』しか存在しないのでしょうか。いいえ。違います。この九相図には第一相として『生前相』が存在します。『生前相』とは、その名の通り第二相から八つの姿で描かれることになる死者の生前の姿を描いたものです。一つの絵の中に、みずみずしく美しい『生命』の姿と、臭気漂う醜い『死』の姿を同時に載せることで、その対比を強調する。『生前相』にはそんな狙いがあったのでしょう」
「『生前相』? はて。私が彼女たちの『生』について何を残したというのですか。彼女たちとの想い出? 実の姉妹のように仲睦まじかった彼女たちとの過去という記憶そのものですか? 概念的! 実に概念的ではないですか、探偵さん」
夏鈴の嘲笑がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「いいえ。あなたは『生前相』を確かに見せてくれました。あなたは『生前相』を現場に残した。柿本愛乃さんのカメラに残された写真。合宿当日に撮影された集合写真です。あの写真にはゼミ生の姿だけしか映っていなかった。長姉であるあなたがシャッターを押したんです。肩を取り合い、手を握り、おどけたポーズで笑顔をふりまく。そんな彼女たちのエネルギッシュな姿をあなたは一枚の写真に収め、そのデータが残ったカメラを合宿所に残してきた。カメラのデータを警察が見逃すはずがありません。『新死相』が現れるよりも前に『生前相』は提示されていた。行方不明となった九人の手がかりを求めて、警察が現場に残された証拠を見分した際に、警察は『生前相』を目にしていたんですよ」
「おれたちを利用したのか」
籐藤の震える指が夏鈴をさした。
夏鈴は眼球だけを動かして籐藤を見たが、それ以上の反応はなかった。
第一相『生前相』として、集合写真。
第二相『新死相』として、東条都。
第三相『膨張相』として、垣本愛乃。
第四相『血塗相』として、匙之宮琴音。
第五相『胞乱相』として、林さゆり。
第六相『青瘀相』として、龍首恵。
第七相『噉食相』として、加藤彩。
第八相『骨連想』として、鳥峰祭。
「そして、あなたが抱えているもの。それが片瀬双葉さんですね」
法律がそう言うと、夏鈴は右手に抱え続けていたものを高々と掲げた。
それは骨壺だった。
高さ二〇センチほどの白亜の骨壺は、その表面に白菊のカメオが浮かび上がっていた。
「第九相『古墳相』。あなたはこの鏡清寺にある片瀬家の墓にその骨壺をおさめるためにここに来た」
「えぇ」
「そして私たちは、あなたを止めるためにここに来た」
「そうですか」
夏鈴はその場で首を左右に回した。
「本当にたくさんの刑事さんがいらっしゃいますね。これは……今夜、私が『片瀬さん』を持って現れることが分かっていたのですか」
「もちろんです」
「それはどうして」
「骨ですよ」
「………ふふ」
夏鈴の手が骨壺を優しく撫でた。赤子をあやすように骨壺を撫でまわしたあと、彼女はそれを指先で弾いた。
「第八相『骨連相』。空き地の倉庫で見つかった鳥峰祭さんの骨は、ナイフの刃をあてた跡がありました。当初私たちはこの行為の目的を、こびりついた肉をそぎ落として、『骨連想』にふさわしい真っ白な骨に見せることだと思い込みました。それも一つの目的だったのかもしれません。だがあなたにはそれとは別に、肉をそぎ落とさねばならない理由があった。それは、時間です」
「……ふふふ」
「あなたには時間がなかった。タイムリミットが迫っていた。それなのに、鳥峰祭さんと片瀬双葉さんの遺骨には、まだ肉がこびりついていた。あなたの予想よりも、腐敗が遅れていたのです。あなたは焦った。肉がついていては『骨連想』も『古墳相』も見立てられない。だからナイフを使って、骨についた肉をそぎ落とした。しかし、一見するとこれはおかしな考えです。なぜなら、あなたには十分時間があったはずです。世間から姿を消したあなたには、迫りくる時間なんてなかったはずだ。これは矛盾です、あなたには時間があった。なのにあなたには時間がなかった。そう。あなたはどうしても『今日』この日に――九月二十七日に片瀬双葉さんの『古墳相』を完成させたかった。ぼくは籐藤さんに頼んで、片瀬双葉さんのご家族について調べてもらいました。そして判明しました。二年前の今日、片瀬双葉さんの祖父にして、京橋大学名誉教授、片瀬重昴氏が老衰のため亡くなりました。つまり、夜が明け、朝を迎えると、片瀬重昴氏の三回忌が始まるのです。氏は学界のみならず、政界や財界、マスコミなどにも影響をもつ顕者でした。そんな氏の三回忌には、氏に勝るとも劣らない多くの顕者が参列します。何人も、何人も、何人ものひとが集まる。あなたはこの機会を逃したくなかった。自身が創りあげた『九相図』の最後を彼らに見せつけるつもりだった。鳥峰祭さんが遺棄された倉庫は、放課後になると地元の子どもが秘密基地として毎日のように遊びに訪れていました。九月二十五日は金曜日。土曜日は家族で遠出をして秘密基地に訪れない可能性が高い。だからあなたは二十五日に、肉を削り落とした遺骨をあの倉庫の中に置いたのです。わかりますか。あなたがナイフを握ったから、私たちは今ここにいるのです」
「なるほど」
夏鈴は大きくうなずいた。
「たくさんのひとに見てもらいたい……そんな欲に目がくらんで、私は失敗したわけですね」
言葉とは裏腹に、夏鈴の表情からは降伏の色が見られなかった。彼女は微笑みを浮かべたまま、片瀬双葉の遺骨が入っている骨壺を撫でまわしていた。
「恒河沙法律さん。すごい方ですね。見たところお若く見えるのに、なんとも聡明なお方だ」
「どうしてなんですか」
法律が叫んだ。
「どうしてあなたはこんなことを。自身の生徒たちを手にかけてまで、どうして『九相図』をつくりたかったのですか」
拳を握りしめ、石畳を踏みつける法律とは反対に、夏鈴は小首をかしげて『はぁ』とつぶやいた。
「私、美術が2だったんですよ」
「……は?」
「通信簿のことです。美術について勉強するのは好きだったんですが、実際に手を動かしてつくるのは本当にダメなんです。センスがゼロで、知識と愛は本物だったので1は免れましたが、いつも美術の成績は2でした」
――だけど、これなら自分でもつくれるかなって――
「そう思ったんです。私の大好きな九相図。世にも美しい『小野小町九相図』を、実際に人間を殺してつくりあげる。世間のひとびとに見てもらい、その美しさ、生命のもつはかなさを知ってもらいたかったんです。私のつくりあげた芸術作品を見てもらいたい。だから、殺したんです」
誰も、何も、言葉を発さなかった。
否。発せなかった。
理解できなかった。
目の前にいる殺人鬼が口にしたその動機。その言葉が意味することを理解できず、彼らはただ、立ち尽くすことしかできなかった。
金縛りに似た静寂が過ぎていく。その間も夏鈴は石畳の上で骨壺を撫で続けていた。
「おしまいにしよう」
静寂を破ったのは籐藤だった。
「法律。おしまいにしよう。もういいだろう」
刑事は深い息を吐きながら前に進みでた。懐中電灯で夏鈴の姿を照らしながら、眼前の殺人鬼をにらみつける。わずか数十センチの距離に犯人がいる。この一か月、追い続けた犯人が、目の前に――
夏鈴は絶やすことなく微笑みを浮かべ続けている。骨壺から左手をはなし、だらりとその腕を地面にむかって伸ばした。
「刑事さん」
「なんだ」
「あそこのケヤキの木、見えますか」
夏鈴は振り返り、左手で暗闇を指さした。
数十メートル先、墓地の一画に緑の葉を茂らせた巨大なケヤキの木が立っていた。
「あそこに片瀬家のお墓があるんです。どうかこの骨壺をあそこに置かせてもらえませんか」
籐藤は首を横にふった。
許可できるはずがなかった。
夏鈴は犯罪者だ。犯罪者であり、殺人鬼だ。人倫の路を外れたものにかける温情などはない。
「だめです」
そう口にした次の瞬間、籐藤の視界に映る全てが上昇を始めた。
困惑を覚える前に、背後から叫び声が聞こえた。しかし、その声が誰のものなのか、どんな声なのか、どんな言葉で、どんな意味をもつのか、その全てを籐藤は理解することができなかった。
――世界が上昇したわけじゃない――
両ひざに突き刺さる石畳の冷気が籐藤に真実を伝えた。
――おれが、落ちている――
夜空に浮かぶ暗闇の一片が、波を立てて歪んだ。刑事たちの目が宙空に奪われ、コンマゼロ秒以下で彼らは自身の失態に気がついた。
暗闇に浮かんでいたのは、一枚の黒いコートだった。
視線をおろすと、そこに夏鈴の姿はなかった。
「こっちだ!」
コートが石畳に降りて音をたてる。それと同時に刑事たちの号叫が飛び交い始めた。彼らの声はケヤキの木とは別の方角から聞こえていた。
首と胸を掴みながら籐藤は石畳の上に横たわっていた。視野の境界がいびつな曲線を描きながら揺れ動く。息を吐こうにも吐けず、息を吸おうにも吸えない。
「籐藤さん!」
うずくまる籐藤の背中に、法律が手を置いた。
「しっかりしてください。籐藤さん!」
秒刻みの時間が経つにつれて籐藤の意識は鮮明なものへと戻っていった。
「どこが痛みますか。見せてください」
大丈夫だ。そう言おうとしたつもりだが、言葉が出ない。のどの奥からは声にならない声がすきま風のように漏れ出るばかりだ。
一度、二度、三度と咳を繰り返す。
「傷はありません」
法律が籐藤の腹部を見た。
「おそらく空手です。大和田夏鈴は空手の有段者なんです」
石畳に手をつきながら籐藤は法律の数分前の言葉を思い出した。『九人のうち四人は武道の有段者でした』。六月に江川富彦に暴行を加えた大和田ゼミ生のうち、有段者は三人だけだった。ならばあの日合宿所にいたもう一人の有段者とは誰か。その答えは消去法によって導かれる。
「落ちついて、呼吸を整えてください。肺を掌底でうたれたように見えました。しかし、あんなにも速い掌底……」
「ほ……ぉり……っ」
籐藤ののどからかすかな声が漏れだした。
「い……いけ……」
法律は顔を上げて、夏鈴が逃げ去った方に顔を向けた。探偵は一度うなずいてから立ち上がった。
石畳を外れて最短ルートを通っていく。スニーカーが泥か何か柔らかいものを踏みつけた。法律はそれさえも気にせず矢のように駆けていった。
無数の懐中電灯の光が闇を裂いて踊り狂っていた。一つの光のなかに夏鈴の姿が浮かび上がると、次の瞬間にはその姿が消え、男の悲鳴が聞こえる。その悲鳴の所在を確認する暇もなく、距離を置いて立ち上がる別の光のなかに、夏鈴の姿が現れる。
法律はおっとり刀で光の束のもとへと向かった。途中で二回、芋虫のようにうずくまる刑事の身体につまづきかけた。一人は白目を剥いて意識を失っていた。もう一人は脂汗で顔を湿らせながら呪詛の言葉を繰り返し、その右腕は曲がってはいけない方向に曲がっていた。
石柵に囲まれた一画。その中にある墓石の横に夏鈴がいた。
黒いタンクトップにジーンズをはいた夏鈴は、右腕に骨壺を抱え、二枚の卒塔婆ごと左手で墓石を掴んでいた。
その表情には、いまだに微笑みが残っていた。
刑事たちは、獲物に飛びかかる直前の虎のようにゆっくりと夏鈴との距離を縮めていった。
夏鈴は右足を石柵の上に乗せると、墓石から離した左手を大きく振り上げた。
「あぶない!」
法律の叫びとともに、夏鈴の左手から一本の卒塔婆が放たれた。槍のように直線の軌道を描く卒塔婆は、最前に立つ刑事の右ほほに直撃した。刑事の悲鳴とともに他の刑事たちの唸り声が解き放たれた。
目を血走らせた五人の刑事が同時に夏鈴に掴みかかった。しかし夏鈴は石柵に乗せた右足に力をいれると、体操選手のような跳躍を以って石柵の外側に逃れた。
夏鈴はその場で左手に持っていたもう一本の卒塔婆を後方に向かって大きく振りぬいた。衝撃音とともに卒塔婆は二つに割れる。闇の中から現れた黒いワイシャツの刑事がわき腹を抱えながらその場に倒れた。
二つに割れた卒塔婆のうち、左手が握りしめていた破片を、石柵を乗り越えようとする五人の刑事のうちの一人に向かって投げつける。自身の投擲の行く先から目をそらすことなく、夏鈴はその場に深く伏せ、宙を舞いながら地面に落ちてくるもう一つの破片を空いた左手で受けとめた。左斜めから振り下ろした腕の動きにつられて、身体が右に回転する。その勢いに逆らうことなく、二七〇度回ったところで、夏鈴は再び左腕を上げる。三度目の投擲弾が、彼女の左腕から放たれた。
二人の刑事が石柵に足を絡ませながら、その場に倒れこんだ。一人は真っ赤に染まった顔面を両手で押さえ、もう一人は倒れた際に、灯篭に頭を打ちつけて気を失った。
迫りくる三人の刑事に向かって、夏鈴は足元に転がる黒いワイシャツの刑事の身体を左手一本で持ち上げて投げつけた。
成人男性一人の重さとなると、卒塔婆の時のような勢いで投げることはできない。飛ぶというよりは『ホップ』という字面が似合う軌道で刑事の身体は三人の足元に襲いかかった。
三人のうち二人は足元をすくわれ、その顔面を石畳に叩きつけた。白い歯が数本流れ星のように闇夜を泳いだ。
もう一人の刑事は必死の形相で飛び跳ねてかわしたが、着地した瞬間、目の前にすり寄った夏鈴から急所蹴りを受けてその場に倒れこんだ。
「けん銃を持ってくるべきだったかもな」
法律の背後で野上がほぞを嚙んだ。
法律は墓石を飛び越えて夏鈴のあとを追った。香炉が転がり、添えられた白菊といっしょに踏みつけた花立ては奇怪な音を立てて折れ曲がった。
「大和田さん!」
直線に伸びる石畳の上に法律は着地した。
手を伸ばせば触れ合うことができるほどの距離に夏鈴はいた。彼女の後方では、ほんの十メートルほどの距離をおいて、ケヤキの木が枝を揺らしていた。
夏鈴は右腕で骨壺を抱えていた。その腕にギュッと力がこめられる。左手は空だ。
強風が曇天を吹き流し、黄金色の月が墓地を照らした。木々がざわめき、場内の卒塔婆がカタカタと揺れる。法律は夏鈴の顔を見た。彼女の顔には、変わらない微笑が浮かんでいた。
法律が右腕を伸ばして飛びかかった。五本の指は野獣の歯牙のように大きく開いている。掴み技。夏鈴の対応は落ち着いたものだった。左足をつき出し、ショートブーツの底で五本の指を受け止める。法律の指から硬質な何かが折れる音がした。
つき出した左足を少しだけおろす。右足で小さく跳ね上がり、身体をほんの少しだけ左に傾け、渾身の力を込めて左足をふり上げる。法律の右指は、痛みを訴える暇もなく次なる衝撃に襲われた。夏鈴の左足のハイキックが、法律の右手に直撃したのだ。
蹴り上げられた右手が、身体を巻き込むようにして左へ流れていく。法律は右足を前につき出し、相撲の四股のように石畳を踏みつけた。衝撃で石畳がカタリと浮かび上がった。探偵の身体は右側面を夏鈴に向けていた。その体勢から探偵は――右ひじを銛のように折り曲げると、横に飛んでそのひじを夏鈴の身体に突き刺した。
「うぐ」
夏鈴はその場にうずくまった。その姿を見て法律の動きが一瞬止まる。油断か、それとも憐憫か、それらとは別の何かなのかは知らないが、殺人鬼はその瞬間を逃さなかった。うずくまっていた夏鈴は体勢をそのままに上空に向かって地対空ミサイルのように右足を放った。
垂直に飛び上がる夏鈴のかかとが法律のあごをとらえ、探偵はその場に背中から倒れこんだ。
夏鈴はゆっくりと立ち上がり、余裕の微笑を浮かべたまま『うぐ』とつぶやいた。
法律は両腕に力をこめて立ち上がろうとした。しかし、数センチ動いたところで腕から力が抜け、身体はその場に崩れ落ちた。
「強いですね」
汗の一滴もかかずに夏鈴は言った。
「探偵ってこんなにも強いんですね。そこらへんの刑事さんなんかより」
「大和田さん……」
法律の言葉は強風にかき消された。月の光が雲に隠れて、世界が再び闇に包まれていく。上半身を起こそうとするが、痙攣するばかりで身体は動かない。
「逃げるつもりはありません。この骨壺を置くだけです。『小野小町九相図』を完成させる。私の芸術を終わらせる。鑑賞者はあなたたちです。こんなすばらしい方々に私の芸術をご覧いただけるなんて、本望ですよ」
「あなたは自分がなにを言っているのかわかっているのか!」
「わかっていますよ」
夏鈴は口元に左手を添えた。その手を離すと微笑は消えていた。
「私は、わからないことは口にしない」
夏鈴は法律に背を向けた。
「そして私は、できることしかやりはしない」
ケヤキの木に向かって夏鈴は歩き出した。
法律は頭をあげてその背中を見つめた。石畳に貼り付けにされたかのように身体は動かない。視界だけが彼の全てだった。小さくなっていく夏鈴の背中。ケヤキの木の下で足をとめた大和田夏鈴。
そんな彼女に黒い影が飛びかかった。
夏鈴が悲鳴をあげた。
そしてその声に被って、耳をつんざく毀壊の音が響きわたった。
「今だ!」
法律は叫んだ。
「みなさん、早く! 確保だ!」
法律の横をいくつもの足音が駆け抜けていった。刑事たちの屈強な身体が、ケヤキの木の下でもみくちゃに暴れまわる二つの影に飛びかかる。
「確保!」
重なった人の山から立ち上がったのは初芝広大だった。初芝は両腕を大きく振りながら『確保確保。犯人確保』と叫び続けた。
「よくやったぞ、初芝!」
満面の笑みを浮かべた野上が大股で駆け寄ってきた。その顔にかかっている眼鏡が鼻の頭にずれ落ちていた。
「法律!」
よろめきながら現れた籐藤が、石畳の上に倒れこむ探偵を見て声をあげた。
「おい、誰か手をかしてくれ!」
「大丈夫ですよ、籐藤さん」
刑事の手をかりて法律はゆっくりと立ち上がった。中指と薬指が手のひらとは反対の方向に折れ曲がっている。探偵は左手で二本の指を覆い隠した。
二人はよろめきながらケヤキの木の下へと向かった。
薄暗い木の下で、背中に回した両腕に手錠をつけられた夏鈴は、先ほどまでの勢いが嘘のように大人しく座り込んでいた。
片瀬家の墓石が置かれた区画の数センチ手前で骨壺が粉々に砕け散り、中に入っていた片瀬双葉の遺骨が石畳の上に散らばっていた。
「墓におさめたわけじゃない」
籐藤が言った。
「これは『古墳相』にはならない。『小野小町九相図』は完成されなかった。最後の最後で、おれたちは犯人に抗ったんだ」
法律は籐藤の肩から離れ、夏鈴の前で足を止めた。
「どうしてですか」
法律はつぶやいた。
「実の姉妹のように仲がよかったのでしょう」
その声が涙にかすれた。
「兎走さんだけじゃない。ゼミのみんなが、あなたを慕っていた。なのにどうして。どうしてそんな彼女たちを手にかけることができたのですか」
夏鈴は顔をゆっくりと上げて法律を見つめた。
そこには微笑みがあった。
数分前に失ったはずの微笑みが、再び彼女の顔に舞い戻っていた。
「どうしてって。決まっているじゃないですか」
風がケヤキの木を揺らし、影が彼女の顔にかかった。
「姉妹のように仲がいいからですよ。こんなことに、他人を巻き込むわけにはいかないでしょ?」
そう言って夏鈴は、一度大きくあくびをした。
彼女は全てを享受していた。自身の失敗を――自身の現状を――自身の罪を――
それら全てを仕様のないこととして、享受していたのだ。
「あなたは――」
静かに身体を震わせながら法律が言った。
「あなたは、狂っている」




