第七章
1
熊代竜一と熊代竜二は地団太を踏んだ。
歩行者用の信号は二人が現れる直前に青から赤へとかわった。
右を見て、左を見て、もう一度右。
二車線の国道から車がやってくる気配はない。人通りは少なく、ビニール袋を掲げた主婦が二人に背を向けて小学校の方へと歩いていくだけだ。
兄弟は互いにこくりとうなずく。兄は右足から、弟は左足から赤信号の横断歩道を駆け足で渡った。
二人の背中で黒いランドセルがばたばたと揺れる。泥がこびりついた白のスニーカーは底が擦り切れはじめていた。
近所に同年代の子どもがいないため、年子の兄弟は二人きりで遊んでばかりいた。学校に友達がいないわけではない。だが、放課後となれば話は別だ。一つ屋根の下で暮らす二人は、夕食を口にしながら、湯船につかりながら、二段ベッドの上下に寝ころびながら放課後の算段を立てることができた。彼らの放課後は緻密だった。同級生たちのようにその日の思い付きで立てられた計画ではない。
目当ての場所まではもう少しだ。兄弟は歩道の縁石に片足を乗せ、不格好に走り続けた。
民家、民家、電気屋、十字路、民家、中華料理屋、民家、民家、駐車場、民家、公民館、そして――
二人は目的地にたどりついた。
そこは空き地だった。
空き地は二メートルに近い高さの雑草に覆われていた。小さな町に住み着いた小さなジャングルは近隣住民からは忌避の視線を向けられていたが、二人の少年にとってそこは厖大な好奇心を満たしてくれる特別な空間だった。
半年近く前のことだ。背の高い雑草をかき分けて進んでいくと、兄弟は空き地の左手奥に鉄製の物置を見つけた。塗装がところどころ剥げてはいるが、色がライトグリーンだったため、物置はその存在を周囲の雑草のなかにひっそりと隠していたようだ。
ガタついたスライド扉を開けて中をのぞき込む。かすかな日光が注がれる物置の中は三畳ほどの小さな空間だった。泥汚れは少なく、棚に工具箱や釣り具が置かれているだけで大きな荷物はなにもない。二人ぐらいの子どもが落ち着くには最適な空間だった。
兄弟はこの物置を自分たちの秘密基地にした。
彼らは家から使わなくなったい草のござを持ち込んだ。座椅子を持ち込んだ。ちゃぶ台を、ライトを、漫画雑誌などを次々と持ち込み、秘密基地を充実した環境として整えていった。
今日の放課後は秘密基地で携帯型のゲーム機で遊ぶつもりだった。学校へのゲーム機の持ち込みは禁止されているが、二人はカバンの奥底にゲーム機をこっそりとしまい込んでいた。
空き地に入ってほんの数メートルを進んだところで、背後から『こら』という声が聞こえた。
兄弟は目を大きく開いて振り返った。
歩道のところに、灰色のワイシャツを着た
男が立っていた。
「きみたち、ここは私有地だぞ。勝手に入り込むんじゃ……待ちなさい!」
兄弟は空き地の奥へと逃げだした。
見ず知らずの大人に咎められ二人はパニックに陥った。二人は男から隠れられる場所を求め、ライトグリーンの物置へとたどり着いた。
遠くから雑草をかき分ける音が聞こえる。竜一が右の扉を、竜二が左の扉を掴んでスライドさせた。
「あぁ、見つけた。逃げることないじゃないか。私は不動産屋の人間でね、この土地の所有者から査定を任されて……」
灰色のワイシャツの男――明石隆夫は、扉が開かれた物置の前で立ち尽くす二人に視線を送り、そしてその視線は、彼らが注視する物置の中へと送られた。
隆夫は竜一と竜二と同じようにその場で凍りついた。背中の発汗は氷のように冷たく、恐怖の触感を隆夫の脳裏に走らせた。
物置の中、い草のござの上に無数の骨が転がっていた。
三人にはそれが人間の骨だとすぐに分かった。頭蓋骨を物置の左側に置いたそれらの骨は、その全てが人間の身体の構造に従って置かれていたのだ。
隆夫は近づき、人骨を見つめた。
――本物じゃない――
隆夫の脳裏がそう言った。
――本物のわけがない。たぶんこれは、精巧に作られたレプリカだ。学校の理科室によくある人骨模型だ。きっとこの子どもたちがどこかから持ってきて――
不穏な羽音が隆夫の耳をかすめた。
扉から注がれる光の中を一匹のハエが飛び交っていた。ハエは物置のなかを周回し、その後、右上腕骨の上におり立った。
ハエが着地したところには、微かに紅色を含むどす黒い層が広がっていた。ハエはその層の上で前脚をすり合わせた。
隆夫はその層を見た。上腕骨だけではない。胸骨にも、座骨にも、大腿骨にも――全身のいたるところにその層はあった。
その層は語りかけていた。それがかつては魂の拠り所として物置の外の世界を走り回っていたことを、一つの生命として確かに存在していたことを必死になって語りかけていた。
2
九月二十五日 金曜日
籐藤剛と恒河沙法律が港区M町にある空き地にたどり着いたころには、その周囲は既に野次馬と報道陣で溢れていた。
歩道から空き地の左奥へと雑草をかき分けた道ができている。すでに何人もの捜査員が往復したのだろう。
籐藤と法律がその道を通っていくと、小さな物置の前に紺色の鑑識服に身を包んだ嶋田清和の姿を見つけた。他の捜査員に指示を出していた嶋田は、籐藤と法律の姿を視界に捉えると大げさに手を振った。
物置へと小走りで向かう籐藤であったが、その中から出てきた二人の姿を見て動きが止まった。
そこには、渋い顔をした野上建太と初芝広大の姿があった。
四日前のことだ。徳和大学八王子合宿所において参考人である兎走千沙と現場検証をおこなった際、野上は兎走に疑惑の目を向けていると公言した。
何故兎走は一人だけ誘拐されなかったのか。そうではない。彼女は犯人に協力してゼミの仲間を差し出した。彼女は誘拐されなかったのではなく、ただ一人自らの意志で合宿所に残ったのだ。
籐藤は野上の主張に賛同できなかった。確たる根拠があるわけではない。加えて兎走には動機もない。姉妹同様のゼミ仲間を裏切る動機を提示できずに犯人として告発することを、籐藤は憚らずにはいられなかった。
相反する主張を相手の心中に見た籐藤は野上と顔を合わせづらくなり、ここ数日は業務上必要最低限の言葉のみを交わすだけで接触を避けてきた。
初芝と野上が籐藤に視線を向けた。初芝はぺこりと頭を下げたが、野上は無表情のまま微動だにしなかった。
「おつかれさまです。恒河沙さんも、ご足労いただきありがとうございます」
「いえ、お気遣いなく」
「その中にあるのか」
籐藤はライトグリーンの物置を指さした。初芝はこくりとうなずいた。
籐藤と法律は小さな物置の入り口に立った。床に敷かれたシートをめくると、横たわった人骨がそこに転がっていた。
「骨がきれいに並んでいる、と」
「間違いありません。『檀林皇后九相図』第七相『白骨連相』です」
「初芝。第一発見者とその発見時の状況を教えてくれ」
「はい。第一発見者は二人。近くの三郷小学校に通う三年生の熊代竜一くんと二年生の熊代竜二くんです。兄弟です」
「子どもがどうしてこんなところに」
「この物置を秘密基地にしていたそうです。床に敷いてあるござや座椅子なんかは、この兄弟が持ち込んだものです。あ、それから。この兄弟から遅れて数十秒ほど、近くの不動産会社の明石隆夫がこの遺体を見ています」
「その不動産屋がここに来た理由は」
「この土地の持ち主から査定を依頼されたそうです。裏もとりました。現地を訪れたところ、空き地の中に入っていく熊代兄弟の姿を見て、注意しようと後を追いかけたとのことです」
「遺体は夜中のうちに運ばれたんだろうな。近隣住民への聞き込みはどうだ」
「いまのところは何も。この町内は夜中になると人通りが少なくなりますし、川を挟んだ反対側に四車線の国道がありまして、多くのドライバーはこちらの二車線よりそちらの道路を使うそうです」
「車の往来も少ないと。子どもたちが最後にこの物置を訪れたのは」
「昨日の夕方五時頃です。その時は骨なんてなかったと証言しています。昨日の深夜から今日の朝方までを重視して聞き込みにあたっています」
「で、骨のことなんだけど」
刑事たちの背後で嶋田がのそりと身体を揺らした。
「もしこれが女子大生失踪事件の被害者のうちの一人だとしたら、鳥峰祭さんだと思うよ」
「どうしてわかる。もうDNA鑑定が終わったのか」
「こんな短時間でできるわけないでしょ。骨の長さだよ。失踪した九人のうち、鳥峰祭は女性にしては身長が高く一七五センチあった。まだ見つかっていない片瀬双葉と大和田夏鈴は二人とも約一五五センチ。落ちていた骨をシートの上でおおざっぱに並べてみたんだけど、あれは一七〇センチ以上の人間の骨だよ」
「骨は全部あったのか」
「大きなパーツは全部ある。頭蓋骨から胸骨、腸骨から足の指骨まで。小さな骨はわからない。帰って詳しく調べてみるよ」
「二人以上の骨が混ざっている可能性もあるぜ」
野上がまぜっかえす様に言った。嶋田は一度鼻を鳴らして、『そりゃそうだ』とうなずいた。
「もちろんこのホトケさんが失踪事件と無関係って可能性もあるわけだ。とにかくDNA鑑定を急がせるよ。それより一課の君らに見てもらいたいものがあるんだ」
平行に並んだ二本の脚の骨のうち、左側のものを嶋田は指さした。
「たとえばこの大腿骨なんだけど」
三十センチほどの長さのその骨は、片方の端が丸まっており、もう片方の端は恐竜の足のように凹凸ができていた。ほとんど白骨化しているが、凹凸のすきまなど一部にはまだ赤黒い肉が薄い膜のように張り付いている。
「足の骨がどうした」
「よく見て。この骨、ところどころに刃物で削られた痕があるんだよ」
「刃物だと?」
野上が初芝を払いのけて大腿骨を凝視した。籐藤と法律も顔を近づけて観察する。白い骨の表面のいたるところに、刃物を押し当ててできたような、ささくれ立った傷跡がみえる。
「大腿骨だけじゃないよ。他の骨にもいくつか同じ痕がある。ぼくはこれまでに何度も白骨化した遺体を見てきたけど、こんなのは初めてだ。これも九相図ってやつなのかな?」
「いいえ」
法律が答えた。
「九相図には骨を切り刻むなんてことは……骨?」
法律は口元に手を当ててから『そうか』とつぶやいた。
「骨じゃない。肉を切ったんだ」
「肉だって?」
野上が怪訝な顔で探偵を見つめた。彼はその言葉の意味をすぐに理解した。
「骨にまとわりついた肉を削り落とす。そういうことだな」
「そうです」
法律が大きくうなずいた。
「『檀林皇后九相図』の順番でいけば、このご遺体は第七相の『白骨連相』です。『白骨連想』は肉が落ちてむき出しになった白い骨が整然と並ぶ状態を表しています」
「犯人はこの遺体をより『白骨連相』に近づけるために、骨にこびりついていた肉片をそぎ落したというわけだ」
「だけど……どうしてそんなことをしたのでしょう」
「どうしてって。だから『白骨連相』を完璧に再現するため――」
「だったら、待てばいいじゃないですか」
法律は野上の言葉を遮った。
「犯人が『檀林皇后九相図』の見立て殺人を行おうとしていることは明らかです。ですが、肉が完璧に削ぎ落ちた白骨を見立てるなら、自然とその状態になるまで待てばいいじゃないですか。なのに犯人はそうはしなかった。そこに何か、何か理由があると思うのですが……」
3
翌日の早朝。
刑事課のデスクで一晩を過ごした籐藤のもとに、科捜研の若手技官が茶封筒をもって現れた。
封筒の中を検めた籐藤は、渋面を浮かべながら『ありがとう』とつぶやき、机の上に置いてある封の開けていない缶コーヒーを若手技官に押しつけた。
電話の受話器を握り、慣れた手つきでダイヤルを押す。数コールで相手は電話に出た。向こうが口を開く前に、籐藤が話の口火を切った。
「DNA鑑定の報告がきたぞ。遺体は鳥峰祭のものだ」
受話器の向こうで深い沈黙が返事をした。沈黙はため息に変わり、ため息は『そうですか』という感嘆に変わった。
「遺族への報告は野上と初芝に任せる。おれたちはどうする」
「でしたら、秋紀さんのところに伺いませんか」
法律の言葉を聞きながら籐藤は窓の外を眺めた。ビルとビルの間から顔をのぞかせた朝陽が憎たらしい笑顔を浮かべていた。
「彼にも報告しておくべきです。それに、もう少し確認しておきたいことがあります」
「わかった。アポはおれがとっておく」
電話を切り、壁にかかった時計を見つめる。朝の五時半。九時まで仮眠をとって、それから紀秋に連絡しよう。
籐藤は机の上に顔を伏せた。
しかし、眠気は訪れなかった。
籐藤の身体は休息を欲していた。脳は睡眠を要求した。
それでも思考がそれを許さなかった。思考は刑事としての矜持を抱き、犯人を野放しにしている自身を糾弾していた。ふらふらと歩く死体のように喫煙室へ向かい、思考の罵声を浴びながら籐藤は紫煙を揺らした。
4
来客用駐車場に停めたレガシィから降りると、法律はスマートフォンを取りだして時刻を確認した。十二時四十五分。紀秋との約束の時間は前回と同じく十三時だった。
「少し早かったかもしれませんね」
「刑事のくせだ」
「くせ?」
法律は助手席の扉を閉じながら首をかしげた。
「約束した時間よりも早く着くと、相手は焦って嘘やごまかしがうまくできなくなる。このくせはおれの細胞レベルまで染みついているらしく、公私関係なく待ち合わせとなるとこんなふうに早く着いちまう」
大学の本道から一本逸れた道を進む。第三研究棟の白い壁は夏の太陽に照らされて輝いていた。
受付の初老の女性に会釈を向ける。警察手帳を取り出そうと籐藤はポケットに手を入れたが、女性は不要とばかりに手を振った。
猫の額ほどのホールを抜け、上階へと続く階段を上る。左手の廊下を進み、大和田夏鈴/紀秋の研究室へと向かうが、いつぞやと同じく、途中の談話ルームに紀秋の姿があった。
「ひゃ、ひゃれ?」
紀秋はこれまたいつぞやと同じくテーブルの上に弁当箱を広げていた。弁当箱の中はふりかけのかかったごはんとプチトマト、真っ黒に焦げた焼き肉がおさまっていた。
口の中に含んでいたものをごくりと飲み込み、紀秋はその場に立ち上がった。
「す、すみません。またお見苦しいところを……」
「道が思ったよりも空いていたので早く着いてしまいました。こちらの談話ルームで待たせてもらおうかと思いましたが……」
「いつもこちらでお弁当を?」
法律が訊ねた。
「えぇ。研究室はあの通り散らかっていますので、ゆっくり食べられませんからね」
「外で待ちましょう」
「いえ、いいんです。もうほとんど食べましたから」
そういって紀秋は半分ほど中身が減った弁当箱のふたを閉じた。
三人は大和田姉弟の研究室に向かった。
「それで、今日はどういったお話を?」
ソファーに座りながら紀秋が訊ねる。
「実は……」
籐藤は、昨日の夕方港区M町の空き地で白骨化した死体が見つかったことを紀秋に伝えた。
「DNA鑑定の結果、見つかった遺体は鳥峰祭さんと判明しました」
「鳥峰さん……」
紀秋は両手で顔を覆い、深く息を吐いた。
「すばらしい生徒だったのに。これからの学会に必要なのはああいった気骨稜々な人材なんです。鳥峰さんの遺体について具体的に教えてください。つまり、その白骨化した遺体は――」
「えぇ。ご想像の通りです。白骨は空き地の中にある物置の中に整然と並べて置いてありました。まるで人骨模型がそのまま床に転がっていたかのようでしたよ」
「『白骨連想』。『檀林皇后九相図』の七相目ですね」
「間違いありません」
籐藤はうなずいた。
「被疑者は『檀林皇后九相図』を見立てながら遺体を遺棄しています。ゼミの九人に恨みを抱き、かつ九相図に通じた人物。やはり、犯人は江川富彦です。疑いようがありません」
「江川くんはどこにいるのでしょう。警察の皆さんはもちろん彼を探しているのでしょう。どうしてまだ見つからないのですか」
紀秋の口調に悪意は感じられなかった。それは悪意ではなく、世界に名だたる日本警察が、一人の男の行方を捉えきれないという事実が心底不思議で仕方がないといった雰囲気を帯びていた。
「その江川さんについて聞きたいことがあります」
法律が椅子に深く座りなおした。
「少しばかり、捜査に関わる事実をお話しします。紀秋さん。くれぐれもご内密に」
「え、えぇ。わかりました」
紀秋はごくりと唾をのんだ。
「『檀林皇后九相図』を見立てていくなかで、犯人は一つだけとある失敗を犯しています」
「失敗?」
「第五相の『噉食相』です。噉食相は腐敗した遺体を獣が食べている様子を表しているのでしたよね」
「その通りです」
「前に兎走さんのお宅から帰る際にお話ししましたが、第一発見者のおかげで、五番目の遺体――龍首恵さんはカラスに傷つけられずに済みました」
「そうでしたね。たしか竹ぼうきを振り回してカラスを追い払ったとか。なるほど。それはそうだ。カラスに食べられていないなら『噉食相』は成り立っていないことになる」
「そこなんですよ」
法律はぐっと身を乗り出した。
「もし犯人が江川富彦だとして――彼はなぜあのごみ捨て場に龍首恵さんの遺体を捨てたのでしょう」
「なぜって。それほど深い理由はないのでは。カラスが日ごろから集まるごみ捨て場をリサーチして、それがたまたまあの場所だっただけでしょう」
「しかし、この第一発見者は米谷ひろこさんなんですよ」
紀秋は一度大きくまばたきをしてから口を開いた。
「米谷ひろこ? あれ。その名前……」
「一年前までこの学内にあるコンビニエンスストアで働いていた女性です」
籐藤が言うと、紀秋は身体に火が付いたかのごとく飛び上がった。
「あのおばちゃんか!」
「ご存じですか」
「もちろんですよ。だって彼女は江川くんと……え、え、あれ?」
「そうなんです」
壁のアナログ時計の分針がかちりと音を立てた。
「江川富彦は、こともあろうにトラブルを起こした相手である米谷ひろこの家の前に遺体を遺棄したことになるのです。ですが、この点にぼくは引っ掛かりを覚えます。江川富彦は米谷ひろこの性格を把握しているはずです。正義感の強い彼女が、カラスが群がる遺体を目のあたりにしたら、カラスを追い払おうと立ち向かうことになる……つまりは『噉食相』が成り立たなくなるとは予想していなかったのでしょうか」
「江川君は……」
紀秋はごくりと唾をのみこんだ。
「彼は完璧主義者でした。試験は満点でなければ気が済まず。失敗というものをひどく嫌っていた」
「そんな彼がどうして米谷ひろこさんの家の前のごみ捨て場に遺体を遺棄したのか。その家が米谷ひろこのものだとは知らなかった? いいえ。事件の一連の流れを見る限り、犯人は冷静沈着に犯行を重ねています。どれほどの注意を払って現場の下見をしたら、一人の目撃者もなく遺体を遺棄できるというのか。その注意深さを、なぜこの噉食相に関しては発揮しなかったのか。ぼくにはそれが不思議に思えてしかたがないのです」
「念のために言っておくと、私はそれほど気にかけてはいないがね」
籐藤が両腕を胸の前で組んだ。
「江川富彦はコンビニでトラブルとなった米谷ひろこを恨んでいた。そして彼は、今回の事件で彼女への恨みをもついでに晴らしてやろうと画策した。グロテスクな遺体を家の前に放置するだなんて、普通の精神ならショッキングどころの話じゃない。しかし米谷ひろこは江川の予想をはるかに上回る強靭な精神の持ち主だった。彼女は江川の期待を裏切り、遺体に群がるカラスに立ち向かった。それだけの話です」
籐藤の説明は捜査員たちが共通して抱いている考えだった。そこには矛盾や不自然な要素は一つとして含まれていなかった。
龍頭恵の『噉食相』に関する話はここで終わった。法律の疑問は紀秋の『江川富彦は完璧主義者だった』という証言によって一応の正当性を得たが、籐藤を含む捜査員たちの見解の方が説得力はあるように思われると紀秋は言った。
「私からも一つお尋ねしたいことがあるんですがね」
籐藤は咳ばらいをしてから瞳を輝かせた。
「兎走千沙さん。彼女は……何かゼミの中でトラブルを巻き起こした経験なんてことはありませんか?」
「籐藤さん」
法律が非難の視線を投げかけた。籐藤は首を横に振りその視線を打ち消した。
「トラブルですって。おおよそ兎走さんとは結び付かない言葉ですね。彼女は素直ないい子です。何か厄介ごとを巻き起こしたり誰かを怒らせたりするようなことなんてありえません。絶対にね。というか……どうしてそんなことをお尋ねになるのですか」
紀秋は首をかしげて訊ね返した。
「一部の捜査員が、兎走千沙さんが今回の事件に加害者の側から関与しているのではないかと疑っています」
紀秋は顔を引きつらせ、『ばかげている』とつぶやいた。
「兎走千沙は今回の事件で一人だけ合宿所に残された。この事実は何を意味するのか。犯人は兎走千沙を見逃したわけではない。兎走千沙は犯人側の人間だから誘拐されなかったというわけです」
「兎走さんが大和田ゼミの人間に恨みを抱いていたというのですか。江川くんと手を組んで、実の姉妹のように仲良くしていたゼミ生たちを誘拐し、その殺戮に手を貸したと言うのですか」
「可能性の話です。あなたは『ない』とおっしゃいましたが、女性には女性にしか見えないものもありますよね」
籐藤は兎走が加害者の側に属するとはこれっぽっちも思っていなかった。ゼミの仲間の写真を前に彼女が流した涙が偽りだとは到底信じられなかったのだ。
だが、野上の提示した主張は充分な可能性を内包していた。そこに『ありえない』と鉄槌を下すことを、籐藤の論理的な思考は認めなかった。
だから彼は尋ねた。
兎走犯人説を否定する証拠を求めて彼はこの説を口にした。紀秋からの反感を買うことは覚悟していた。捜査陣には比較的友好的な態度をとっている紀秋が反感を抱いて貝のように口を閉じてしまう可能性を考慮しても、籐藤は前に進むことしかできなかった。
「恒河沙さん。あなたもですか」
槍のような視線を据えて紀秋は言った。
「あなたも兎走さんが犯人だと、そう考えているのですか」
法律はすぐには答えなかった。彼はゆっくりと右手をあげて、こめかみのあたりを人差し指でたたき始めた。
「ぼくは――」
こめかみをたたき続ける手は止まらない。
そしてその目線が下に傾いたとき、窓際から乾いた崩壊の音が轟いた。
「わ、わぁ。やっちゃった!」
紀秋が大声をあげ、窓際で向かい合って並ぶ二つの机に飛びついた。
右側の机の上に置かれた書類の束が、なだらかな傾斜をつくり、左側の机の上に崩れ落ちていた。積まれていた紙の量は相当のものだったらしく、左側の机は書類の海に埋もれていた。
法律と籐藤が立ち上がり、紙束が散乱する机に近づいた。籐藤はちらりとその紙束の文面を視界にいれた。大学からのお知らせ、指導要領のプリント、乱筆で書かれたメモ、クリップでとめられた文献のコピーの束。
それらをかき集め、まとめていた法律の手の動きが止まった。
静止画のようにぴたりと動かない法律の様子に、籐藤は眉をひそめた。
「おい……」
「これはお姉さんの机ですよね」
法律がたずねた。
「えぇ。そうですよ」
紙の束を乱雑に掴んで自分の机に戻しながら紀秋は答えた。法律は机の上の一点を凝視していた。
「どうした。何かおもしろいものでも……」
籐藤が言い終えるまえに、法律はその手の紙束を机の上に叩きつけ、部屋の反対側にある入り口のドアに向かった。
「お、おい。どうした。帰るのか」
「籐藤さん、早く」
ドアノブを掴みながら法律が叫んだ。その声は焦燥を帯び、彼の瞳は充血していた。
「早くしてください。急いで行きたいところが――」
法律の声は扉の向こうに消えていった。
目を丸くしてドアを見つめる籐藤の横で、紀秋が小首をかしげていた。
籐藤は左の机、大和田夏鈴が使っていた机の上をみた。
ペン立て。ライトスタンド。電子手帳。パソコン。卓上カレンダー。たったいま法律が集めた紙束。
机の上にはこれといって珍しいものは見当たらなかった。しかしそこには何かがあったはずだ。法律の心を捉えた何かが――
籐藤の目があるものを捉えた。
それは机の上のグリーンのマットと、その上にひかれた透明なマットの間に挟まれていた、はがきサイズの小さな絵だった。
無機質に広がる象牙色を背景に、その女性は背を向けて一人たたずんでいた。
触れたらその場で霧散してしまいそうな淡い筆づかい。その女性は朱色の装束を身にまとい、黒く清らかな垂髪を横に流していた。右を向いた女性の顔は前髪がかかって臨むことはできない。だがその不可視性が、この和装の女性の神秘的な一面を強調し、籐藤はそこに不可思議な胸の高鳴りを覚えた。
「籐藤さん」
その呼び声に籐藤は我を取り戻した。
見ると紙の束を胸に抱きあげた紀秋が、目を丸くして刑事を見つめていた。
「恒河沙さんはどうしたんでしょう」
「すみません。私も失礼させていただきますよ」
妙な気恥しさを覚え、籐藤は研究室をあとにした。
5
レガシィのボンネットに手をついた法律は、右手の指を噛みながら足元を凝視していた。
「おい」
籐藤はペットボトルのコーヒーを放り投げた。ペットボトルは法律の胸に当たってコンクリートの駐車場に落ちた。
「米谷ひろこが働いていたコンビニで買ってきた」
「遅いはずですね」
法律はかがんでペットボトルを拾い上げた。その目はまだ充血していた。
「遅いなんてことないだろう。あの研究所の近くにあったんだ」
ドアロックを解除すると、法律は機敏な動きで助手席にすべり込んだ。
「どうした。何に気づいた」
法律はペットボトルのふたを開けて、一気に半分ほど飲みほした。
「警視庁に戻ってください」
揺れる車内で法律が言った。レガシィは駐車場を出て、校内を横断する道路を下って行った。午後の授業が始まったので、生徒の数は来た時よりもいくらか減っていた。
「警視庁に戻ってどうする。具体的に言え」
「証拠品の保管倉庫に連れて行ってください」
「なんだと」
生徒が一人車の前に飛び出してきた、茶髪の男がペコペコと頭を下げながら道を横断していった。
「一度確認したい証拠品があります。みんなの……」
『みんなの』のあとの言葉は小さく、籐藤には聞こえなかった。
警視庁にたどりつくと、籐藤は所定の手続きを踏んで保管倉庫に入った。部外者の法律を連れていくわけにはいかず、かといって保管倉庫を管理している総務課に『副総監の権限で捜査の協力を依頼している……』などと説明するのも面倒だったので、取調室で待たせておいた。
「ほら。お目当てのものだ」
取調室の扉を開けながら籐藤が言うと、椅子に座っていた法律は、弾丸のような勢いで法律の手のものに飛びついてきた。
「あぁ。ありがとうございます。ありがとうございます」
QRコードが貼られたビニール袋を器用に開けて中身を取り出す。法律の手には籐藤が先に与えておいた白い手袋がはめられていた。
「失踪した九人と兎走千沙のもので十冊。勉強に関すること以外は何も書いてなかったぞ」
法律が籐藤に要請した証拠品とは、大和田ゼミの人間が合宿所に持ち込んだノートだった。
法律は十冊のノートを机の上に置き、一冊一冊の中身を検めはじめた。
籐藤には法律の目的が読めなかった。捜査員たちはノートの中に犯人逮捕につながるメッセ―ジがあるのではないかと期待して隅から隅まで読み込んだ。だが籐藤の言う通り、ノートの中には美術史の勉強に関わる以外のことは何も書かれてはいなかった。
そう。何もない。今さらこのノートから読み取れることなど何も――
「『地獄』」
一冊のノートを持ちながら法律はつぶやいた。
「なに?」
「『色欲』。『性』。『桜姫』」
「待て。待て待て待て。いったい何の話だ」
籐藤が法律の肩を掴んだ。しかし法律はノートから顔を起こそうとはしない。
「『十訓抄』。『髑髏』。『秋風』……そんな、そんな馬鹿な!」
法律は右手を机の上に叩きつけた。折り重なって置かれた九冊のノートがかすかに揺れた。
「おい。どういうことだ。そのノートがどうした」
籐藤は法律の手からノートを取り上げた。黄色い表紙のA4サイズ。その中に書かれている文字は針金のような鋭利な達筆だった。
そのノートは不自然な使われ方をされていた。文章がない。中に書かれている言葉は、すべて単語に限られていたのだ。
「『地獄』ってのは。あぁ、たしかにここに書かれてあるな。だがこれは美術史の勉強に関することだろう。おれも詳しいことは知らんが、宗教芸術に天国や地獄を題材にしたものは珍しくもなんともない。そしてこれが美術史に関するノートであることも確実だ。見ろ。前のページには『九相図』に関する言葉がいくつも書いてある。『檀林皇后』、『壇林寺』、『新死相』。別におかしなところなんて何もないぞ」
法律はなにもいわなかった。彼は白い手袋を外すと、机に肩ひじをつき、苦渋の表情でこめかみをたたき始めた。
「どうして、だけどこれはいったい……」
いちど大きなため息をついてから、籐藤は机の上のノートをビニール袋の中に戻した。
「なんだっていうんだ」
取調室に法律を残して、籐藤はノートを保管倉庫に返しに向かった。
ノートを返却し、取調室が並ぶ廊下に戻ると、勢いよくドアが開いて法律が飛び出してきた。
「どうした。もういいのか」
声を張り上げて籐藤が言うと、法律は眉間にしわを寄せ、声にならない声をあげた。
「ほかに見たい証拠品はないのか。どこに行くつもりなんだ」
「籐藤さん……」
法律は唇を紫色に染め、その唇を強く噛みしめた。
「今日のところはこれで解散にしましょう」
「は?」
脇を通り抜けようとする法律の腕を、籐藤は力強く握りしめた。
「待て。どこに行くつもりだ」
「どこって、帰るんですよ。今日はもう……」
「どうして嘘をつく」
『刑事の勘』などと言う苔の茂った言葉ではなかった。
その瞳が、その息遣いが、その身体の震えが、すべてが嘘であると物語っていた。
「だめです。籐藤さん。だめなんです。あなたは警察官で、ぼくは探偵だ。公権力をもったあなたにしかできない捜査方法があるように、ぼくには、ぼくにしかできない捜査方法がある。わかってください。桂さんの目的はこれなんです。あの人が『恒河沙』に頼る理由の一つは、ぼくたちにしかできない方法があるからなんです」
「それはつまり……」
籐藤はつばを飲みこんだ。
「違法捜査ってわけか?」
「いえ、違います」
法律は顔を伏せた。
「違法なんてかわいい言葉じゃない。あぁ、つまり。だめです。結果だけは必ずお伝えします。だから、『どうやったのか』なんてことは訊かないでください」
「そうかわかった」
籐藤は法律の腕を放すと、握っていたその手を法律の胸に突き立て、力強く壁に押し付けた。
鈍い音が廊下に響く。廊下の端を歩いていた制服警官が『あ』と声をあげた。籐藤が蛇のような視線を投げつけると、制服警官は廊下の角に姿を消した。
「よくわかったよ。お前はおれを信用していないわけだな」
「し、信用はしています」
「ならどうしておれを置いていく。おれがお前の邪魔をするとでも?」
「邪魔はしないでしょう。それどころかあなたは……許可するかもしれない」
「それなら――」
「だからだめなんです」
法律が叫んだ。
「あなたはいい人だ。正義の心をもった心優しい警察官だ。だからこそ、あなたに許してほしくないんです。あなたには来てほしくない。外道を歩むのはぼくだけでいい。あなたはぼくを、ぼくを認めてはいけない」
法律は籐藤の腕を払った。
「未熟な探偵ですみません。だけど、ぼくにはこれしか思いつかないんです。この方法しか、ぼくには……」
永劫とも思われる時間を経て、先に口を開いたのは籐藤だった。
「おれは警察という職務に仕えているわけじゃない」
法律は息をのんだ。
「おれは正義に仕えているんだ。おれが思う正義に最も近いのが警察権力だったにすぎない。お前はどうだ。お前は正義に仕えているのか。お前がしようとしていることは正義に反することなのか。この殺人事件を解くために必要なことなのか。お前はそれで兎走千沙を救えると思っているのか。答えろ。答えるんだ!」
法律の視線が足元をさまよった。
天井の蛍光灯が明滅を繰り返す。廊下の端にある光取りの窓が風にふかれて音を立てた。
「ぼくも正義に仕えています」
ゆっくりと、法律はその顔をあげた。
「光を浴びる資格なんてぼくにはありません。だけどぼくは光を求める。ぼくは兎走さんを救います。そして、この事件の犯人を突きとめてみせます」
「……わかった」
籐藤は一歩前に踏み出し、法律の背中に手を添えた。
「それなら、おれとお前は同類だ。正義のため、光のために同じ道を進もう」
――そして、必要とあらば――
「お前といっしょに堕ちていこう」
5
ハンドルを握る籐藤は車外の景色に怪訝な視線を送っていた。
舗装されたばかりの墨色の道路にはごみ一つ落ちていない。縁石で区切られた歩道の上を清潔感のある服装の若者たちが微笑を浮かべながら歩いていた。
左手に続く白亜の壁の向こうには、これまた同じく白亜に彩られた巨大な建物がそびえ立っている。透明のガラスを隔てて見える三台のエレベーターが、上へ下へと休む間もなく稼働している。
「そのまま直進してください。そこの耳鼻科を右に」
助手席の法律が指さした先に、ひまわりのイラストで飾った立て看板が見えてきた。
『くすのき耳鼻科』と丸みのあるポップな字体で書かれたその看板の後ろに、二階建ての一軒家がみえた。一階部分を診療所として開業しているようだ。張り出し窓には、営業時間が書かれた黒板を抱いているテディーベアが座っていた。
籐藤は車外の景色を見回した。いたるところに『〇〇医院』、『××クリニック』、『△△薬局』と書かれた看板を飾る建物が建っている。
「そこのコンビニに入ってください」
ブレーキランプを灯したレガシィはコンビニの駐車場に向かって左折した。
「それで。何をするんだ」
サイドブレーキを起こしながら籐藤は言った。
「籐藤さんはここで待っていてください」
「おい」
「誤解しないでください」
ドアロックを開けながら法律は言った。
「彼からの指示なんです。古い友人。会いに行くのはぼく一人だけ。とても用心深い性格でして、仮に籐藤さんが警察でなかろうと同席は許可しませんよ。おねがいします。うまくいったらその時は必ずお話ししますから」
法律は足早にコンビニの向こうへと駆けて行った。籐藤はコンビニの中に入ると、ビン型のプラスチックに入ったラムネを買った。運転席に戻りラムネをかみ砕く。疲労を訴える身体が糖分の到来を歓迎した。
三十分ほど経ったころ、コンビニの向こうから長身の男が足早にこちらに向かってきた。
法律だった。
探偵は三毛猫がプリントされたトートバッグを持って戻ってきた。
「お待たせしました」
助手席に座り込んだ法律は震える手でシートベルトを締め始めた。
籐藤が法律の膝に置かれたトートバッグに視線を移すと、探偵は慌ててその口を閉じた。
「ネタばらしはもうちょっと待ってください。大丈夫です。危険なことはありません。いえ、危険といえば……まぁ、いますぐ我々に危害が加えられるという意味での危険はありません」
弁を並べる法律を無視して籐藤はレガシィのエンジンをかけた。法律がバッグの口を閉じる寸前、ほんの一瞬だけ籐藤はバッグの中を見ることができた。
そこには白い煙に包まれた青い物体が入っていた。
「それで次はどうするんだ。またへんぴなところに連れていくわけじゃないだろうな」
「へんぴなところって」
法律は苦笑を浮かべた。
「『白樺の街』に来るのは初めてですか」
「あぁ。品川に『白樺総合病院』が医大を建てたってのは聞いていたが……十年前か?」
「十一年です。順調に発展を遂げた白樺医療大学のおかげで、何の変哲もない住宅街だったこの町も、いまや関東圏で一、二を誇る医療街になりしました」
「それで、そんな医療街でお前さんは何をもらってきたんだ」
「詳しくは後で。次に行ってもらう場所は籐藤さんもご存じのところですよ」
「なんだ。どこに行けば……わかったぞ。米谷ひろこの家だな。お前さんさっきは龍首恵の遺体が『噉食相』を模していなかったことをずいぶん気にしていたからな」
「いえ、違います。行ってほしいのは、三上英雄さんのお宅です」
「三上英雄だと」
籐藤は髪の毛をかきむしった。
「六番目の遺体、加藤彩の第一発見者か」
「そうです。お願いできますか」
「もちろん。だが、今さら元プロ野球選手に何を尋ねるというんだ。そもそもこんな平日の昼間に家にいるかどうか」
「いえ。三上さんに用があるわけではありません」
「……なんだと? じゃあ誰に」
「ですから、ネタバラシはもうちょっと待ってください。おねがいしますよ」
「わかったよ。しかし。加藤彩の遺体ってのはあれか。大田区の土手見つかったやつだな。たしか第六相の『青瘀相』だ」
法律は返事をしなかった。探偵は両手が触れるトートバッグをじっと見つめていた。
6
コインパーキングにレガシィを停め、二人は足早に三上英雄の家がある通りに向かった。
法律は顔を白くしながら、ため息を繰り返した。
「できることなら徒労に終わってほしい。ぼくの推理が間違いであってほしいんです」
法律のスニーカーに蹴られた小石が、不規則な軌道を描いて排水溝へと落ちていった。
腰ほどの高さまで伸びた生垣が続く緑道を二人は歩いていく。左右に立ち並ぶ民家の入り口で生垣は途切れ、二、三メートルの間隔を開けてまた生垣が続く。
三上英雄が住む庭付きの一戸建てが籐藤の視界に入った。横で法律が深い息を吐くのが彼には聞こえた。
途切れた生垣の間を進む。五〇センチほどのブロック塀の上にステンレス製の柵が立ち並んでいた。
法律は柵と並行して備え付けられたインターフォン付きの門を無視して右に曲がった。生垣とフェンスの細いすき間に探偵はその大きな身体をねじこんだ。
籐藤は周囲を見回した。ひとの気配はない。手短に済ませてくれよ。そう祈りながら法律のそばに寄った。
法律はフェンスのすき間から、三上邸の庭を見つめていた。その視線の先、ライトブルーのペンキが塗りたくられた倉庫の前に、これまた同じくライトブルーの色をした犬小屋が建っていた。
犬小屋の前で一頭のセント・バーナードが眠っていた。巨犬は重いまぶたを上げると、日食のような二つの瞳で法律を見つめた。
「ラルフ」
法律が小声で呼びかける。芝生の上に身体を伏せている巨犬は、どろりとした瞳をそのままに、右のたれ耳をひくりと動かした。
橙色の首輪から伸びた鎖が倉庫の壁に付いたリングに結ばれている。その鎖は物置と巨犬との間で輪を描いて重なっていた。鎖の全長がいかほどのものかは、見た目からは判断できない。
再びのため息。そして意を決したかのように自身のほほを一度叩くと、法律はトートバッグの中に手を入れた。
青いビニールに巻かれた手のひらサイズの何か。トートバッグにはそれといっしょにドライアイスが入っていたらしく、バッグの中の水蒸気を冷やして白く可視化していた。
法律は手にしたものを柵とブロック塀のすき間に置いた。
ビニールの一片を人差し指と親指で慎重に引っ張る。ほんの一瞬、雲間からのぞく太陽の光がその物体を突き刺した。籐藤は息をのんだ。彼の脳裏に閃光が走る。視線はビニールの内側に注がれた。そこにあるのは赤黒く――
前触れなどなくそれは起きた。
目の前の柵が甲高い悲鳴をあげ、その音が籐藤の鼓膜を激しく揺さぶった。
ステンレス製の柵にアイボリー色の巨大な物体が覆いかぶさっていた。ラルフだ。巨大なセント・バーナードが柵に向かって体当たりをしかけたのだ。
重量車両のエンジン音に似た唸り声と、敵意がにじみ出る鋭利な叫び声が繰り返された。バットのような太い前脚が柵を何度もたたき、そのたびに柵は倒壊を連想させるいびつな音をあげた。
法律は青いビニール包みを取り上げて、柵の前で目を見開いていた。下唇を強く噛みしめ、鮮血があごの先まで一本の線を引いた。
柵に食らいつくラルフに籐藤は言葉を失った。巨犬は口を大きく開き、歯石がこびりついた黄土色の歯をむき出しにしている。
「ひとが来る。行きましょう!」
法律は踵を返して駆け出した。
籐藤もそのあとに続いた。錯乱が彼の脳髄を麻痺させたのか、コンクリートを踏みつける両足にその感覚はなかった。
レガシィに飛び乗り、目的地もなく走り出す。一つ、二つ、三つの信号を超えて、やっと二人の息が整った。
「籐藤さん」
法律は助手席の足元にトートバッグを降ろした。彼は両手で顔を覆い、数秒の沈黙を挟んでもう一度口を開いた。
「今日の最後のお願いです。ある人物について、調べてほしいことがあります」
「毒を食らわば皿までだ、ちくしょう。誰について調べればいいんだ」
再びの沈黙。赤信号で停まると、黄色い帽子をかぶった小学生たちが小走りで横断歩道を渡っていった。
「大和田ゼミ三年生。片瀬双葉さんについてです」




