第五章
1
米谷ひろこは目を覚ました。
不快な寝覚めだった。綿のパジャマに寝汗が吸い付いている。レースのカーテンは早朝のほの暗い光に染まり、陰鬱な雰囲気をかもし出していた。
そのカーテンの背後から耳障りな音が聞こえる。音というより声。理性なき獣の鳴き声。カラスだ。カラスが窓の外で狂ったように鳴き叫んでいる。夢の中で甲高い音を聞いた覚えがある。あれはカラスの鳴き声だったのか。
カラスの鳴き声はここ数週間におけるひろこの悩みの種だった。
十二年前にこの荒川沿いに三十年ローンで二階建てのマイホームを建てた。今年の春先、我が家の目の前に、区画整備の影響でごみ捨て場が設置された。
ごみ捨て場が設置されることそれ自体に不満はなかった。問題は、一か月以上もの間何度言っても破れたネットを新調しない区の担当者と、ネットの破れ目に気づいて生ごみをあさりに来るカラスたちだった。
「現地を見て採寸をしなければいけないので」
「区と契約を結んでいる納品業者の担当者が長期休暇に入ってまして」
「ネットではなく密閉型の収集ボックスを設置してはどうかというアイディアが」
「業者に収集ボックスの見積もりを取っています」
「予算の都合で収集ボックスの件は棄却されました」
「ネットは何色でしたっけ」
遅々として進まないお役所仕事。その間も週に三回の燃えるごみの日はカラスがごみを荒らしにやってくる。ごみ収集車は袋から漏れ出したごみは持っていってくれない。誰に頼まれるでもなく、ひろこはごみ捨て場の清掃を行っていた。
その日の朝ひろこの耳に届いたカラスの鳴き声は、それまで聞いたことのないほどの大きさのものだった。
カーテンを開けると、電線に二十羽を裕に超すカラスがとまっていた。割けんばかりにくちばしを開き、黒真珠のような瞳は興奮に輝いていた。
ぶ厚い雲が空を覆っている。文字通り『暗雲漂う』気配に、ひろこは汗をかきながらも寒気を覚えた。
壁掛けの時計に目をやる。四時二十二分。ひろこは様子を見るため外に出た。
カラスたちは何に興奮しているのだろう。朝早くから彼らの野性を焚きつける大量のごみが捨てられていたのか。
そんなひろこの疑問は、ごみ捨て場に目をやった瞬間に霧散した。
破れた青いネットの下にそれはあった。
ネットのすき間から黒々とした棒状のものが突き出していた。鈍く照り輝くそれは、先端が枯れ枝のように五つに分かれていた。
黒い棒はネットの内側へと続き、そこに一・五メートルほどの楕円形の物体が転がっていた。震恐の感情を呼び起こすその物体は、光の加減と反射の力でいたるところが青く照り輝いていた。先端にサッカーボールほどの球体がついており、その球体にはところどころに窪みのようなものが見てとられた。
ひろこは膝をつき、震えながらそれを見つめた。悲鳴をあげる余裕さえなかった。何十羽ものカラスたちが唱える狂気のコーラスがフォルテの小節に差し掛かった。一羽のカラスがひときわ大きな叫び声をあげながら、電線から飛び降りた。
カラスはネットのそばに着地すると、かちかちと爪を鳴らしながらそれに近づいた。いちど足を止め、再び叫ぶ。呼応するように、周囲のカラスたちが叫んだ。
その声にひろこは我を取り戻し、自身の心を鼓舞した。
彼女は立ち上がると、倉庫にある竹ぼうきを握りしめてごみ捨て場に戻った。
そしてひろこは、大きく掲げた竹ぼうきをカラスに向かって振り下ろした。
予期せぬ人間の強襲にカラスは驚き、羽ばたいて赤いポストの上に逃げた。カラスの瞳がひろこを見つめていた。ひろこもまたカラスを見つめた。先に動いたのはひろこだった。彼女はポストに向かって再び竹ぼうきを叩きつけた。
カラスは羽ばたき、仲間たちが待つ電線へと戻った。
五羽のカラスが一斉に舞い降りた。ひろこはそれらを竹ぼうきのひと振りで追い払った。続いて三羽がブロック塀から、二羽が電線から、四羽が隣家の屋根から飛び降りてきた。
ひろこは応戦を続けた。異変に気付いた近隣住民が警察に通報して、制服警官が現場に現れるまでの十五分間、彼女は竹ぼうきをふり払い続けた。
2
九月十七日 木曜日
「おい」
廊下を歩く籐藤の背中に、不細工なガマガエルをむりやり飲みほしたような声が突き刺さった。
給湯室から、検視官の万願寺権蔵が顔をのぞかせていた。
「おはようございます。なんだか久しぶりですね」
籐藤の皮肉を意に介さず、万願寺は丸太のような太い腕で籐藤を給湯室の中へと引きずり込んだ。
万願寺は籐藤の頭を両手でつかみ、万力のようにギリギリと力をいれた。
「い、いたいたいたい!」
人間というよりも動物。動物というよりも野獣。野獣というよりも怪物。そんな万願寺の二つの瞳が籐藤の全身を舐めるように見まわし――
「痩せてはおらんようだな」
怪物の両手が離れ、籐藤は床の上に崩れ落ちた。
「『ビッグ・アップル』の時は二日で四人。『夢裂邸』の時は三日で九人だったか」
「な、なにがですか」
「恒河沙に関わったストレスで辞職したやつ」
実質殉職だ。そうつぶやきながら万願寺はズボンのポケットに手を入れた。
「やる」
籐藤は差し出されたビニール袋を恐る恐る受け取った。
中には個包装された粉薬が大量に入っていた。
「胃薬だ。よく効くぞ。もっとも、飲みすぎて免疫ができたせいかおれには効かなくなったけどな」
巨体を揺らしながら万願寺は部屋をあとにした。
がさがさと音を立てるビニール袋を手に、籐藤は廊下へと出た。
「現場には来ないんですか!」
廊下の奥で豆粒のように小さくなっていた万願寺の身体がぴくりと震えた。
万願寺は振り返り、首を振ってから叫んだ。
「恒河沙のくそ野郎がいる限りごめんだ。桂さんからも許可をもらっている。おれは恒河沙のヤマにはぜっっっっったいに顔を出さんからな」
3
「ぼくの顔になにかついていますか」
助手席に座る法律は首をかしげた。
籐藤は横目の視線を正面に戻した。
「何もついちゃいない」
「本当ですか」
「本当だ」
「朝食に青菜ごはんを食べたので、歯にでもついてるのかなって」
歩行者用信号の青色が点滅を始める。籐藤はため息をつきながらハンドルを小刻みにたたいた。
万願寺について尋ねてみるべきかどうか籐藤は考えていた。こと人間関係においては無神経な万願寺がどうしてこの探偵をあそこまで嫌悪するのか。籐藤にはそれが謎に思えて仕方がなかった。
恒河沙法律は目下のところ、事件解決につながる目だった活躍をしていない。九相図に倣って遺体が遺棄されている点に気づいたことは彼の手柄ではあるが、それがなくとも、美術に通じている誰かしらかの警察関係者がこの事実に気づいたであろう。
しかし、恒河沙法律という男が桂副総監の信頼を得ていることは事実らしい。また、過去の名だたる怪事件の解決に尽力し、その報酬を受領している以上、桂を除く警察上層部もその存在を認知し、少なくともその手腕には信頼をおいていることは間違いない。
昨日の捜査会議において、席に座らず部屋の壁にもたれかかっていた桂は会議の最後にこう口を開いた。
「未解決事件にはしない。この事件は解決される。私は信じているよ」
『信じている』。その言葉の目的語は部下たちだけではなかったことに籐藤は気づいていた。恒河沙法律という探偵が動き出した以上、この残忍な事件の犯人は必ず逮捕される。桂はそう確信していたに違いない。
『狂人』。桂はそう呼んだ。狂人の論理は狂人にしか解けない。だから狂人を味方につける。
だが籐藤には法律に『狂人』のレッテルを貼り付けることはできなかった。横にいる物静かな青年は、事件の悲惨さに憂い、その早期解決に役立とうと必死になっているだけだ。これのどこが狂人なのか。
法律に尋ねたかった。過去に解決した事件について、彼が何をみて、何を感じ、具体的にどのような形で『狂人』を捕縛したのか、そのすべてを問いただしたかった。
それでも籐藤は自重した。事件とは関係のない会話をすることで、集中力を欠いていると思われることを生真面目な彼の本性が許さなかったのだ。
「あと十分くらいですかね」
車の後部座席で大和田紀秋がそう言った。大学講師は腰を浮かしてスラックスのポケットからスマートフォンを取り出した。
「次の交差点を右折して、あとはほとんど直進するだけです。道が空いていたので思ったより早く着きそうですね」
昨日の捜査会議に衝撃的な情報が飛び込んできた。
徳和大学の大和田紀秋講師を介して、今回の事件の重要参考人である兎走千沙の両親から連絡がきた。曰く、千沙の体調がいくらか回復したので、大和田紀秋を同席させるという条件のもとで、事件の聴取を受けるというのだ。
籐藤は気乗りしなかった。これから自分が為す仕事は明らかに今回の事件において大きな意味を持つことになる。だというのに、桂副総監と小田切刑事部長は、この仕事を実務的な立場にある野上ではなく、いわば秘密部隊である籐藤に任命した。大和田紀秋と行動を共にするという条件があるならば、彼と既に親しくなっている捜査員に任せるのが当然だ。そんな理由で副総監と刑事部長は籐藤に仕事を振った。建前だ。恒河沙法律と参考人を接触させる。それが真の目的だろう。
籐藤はふたたび横目で法律を見た。青年はフロントガラスの外に広がる街並みを見つめていた。
三人が兎走家のリビングに通されると、そこにはパジャマの上にカーディガンを羽織った兎走千沙が待っていた。
籐藤と法律は小さく頭を下げ、千沙と向き合う形でソファーに腰をおろした。紀秋は千沙が座る一人掛けのソファーの横にある椅子に落ち着いた。
籐藤は千沙の様子をうかがった。顔は青白く、両脚はカタカタと震え、生気のない瞳はあてもなく宙をさまよっていた。医者によると『これでもだいぶよくなった』らしいが、籐藤はその言葉をとても信じることができなかった。
「警視庁捜査一課の籐藤剛です」
「恒河沙法律です」
籐藤に続いて法律が名乗った。彼は自身が一介の探偵に過ぎないことを伝えはしなかった。探偵が警察に協力しているとなれば、説明がやっかいだし、ひとによっては警戒して口をふさいでしまうかもしれない。しかし、籐藤の自己紹介のあとに名乗れば、警察官であると誤解してもらえる。そう期待してのことばの奇術だった。
「事件の詳細はご存じでしょうか」
千沙は頭を振った。
「怖くて、ニュースは見てません」
「合宿に参加されたご学友と大和田准教授が失踪。その後、四人がご遺体となって発見されました」
「四人?」
千沙が擦れた声でそうつぶやいた。
「東条都さん。垣本愛之さん。匙之宮琴音さん。林さゆりさんです」
赤いテントの中で見つかった遺体はDNA鑑定の結果林さゆりのものだと判明していた。
千沙は両手に顔を埋めるとすすり泣きを始めた。彼女の心は治りきっていない。籐藤は一度撤退して、後日改めて話を聞きにきた方がいいのかもしれないと考えた。
「ほ、他の五人は」
涙と涙の合間に千沙が訊ねた。
「目下捜索中です」
「まさか死――」
「それはわかりません」
語気を荒げて籐藤が言った。思考をネガティブに染めてはいけない。強く否定の言葉を伝えることで、籐藤は千沙の心にエールをおくった。
「私たちの目的は四人を殺した犯人を捕まえること。そして、残り五人を無事保護することです。そのためにはあなたの協力が不可欠です。あの日、ゼミ合宿でなにが起きたのか、それを教えてください」
ティッシュで涙をぬぐってから千沙は口を開いた。
「だけど、特別なことなんて何も起きませんでした」
「かまいません。少しづつ、ゆっくりでいいので、ゼミ合宿でどんなことをしたのか教えてください」
籐藤はふところから手帳を取り出した。
千沙は呼吸を整えてから、小さな声で語りだした。
「初日はお昼十二時ごろに合宿所につきました。駅でタクシーを拾って合宿所まで。ご存じかと思いますが、合宿所には管理人さんはいなくて。私たちで玄関のカギを開けて入りました」
「カギはだれが開けたのですか」
千沙は少し考えこんでから首を横に振った。
「先生か片瀬先輩だと思います」
「合宿中はだれがカギを持っていたのですか」
「やっぱり、先生か片瀬先輩かと」
「合宿中は玄関のカギを開けておいたのですか」
「いえ。入ってすぐにカギを閉じました。不用心だし、誰かが迷い込んできたら大変ですから」
「なるほど。合宿所に着いてからは何をしましたか」
「教室に集まって、四年生の卒論中間発表をおこないました。全員じゃなくて、初日は龍首先輩のだけ。そのあと、大和田先生の授業を行って、夕方六時から夕食を作りはじめました。夕食のあとは自由時間で、お風呂に入ったり、おしゃべりしたり。垣本先輩と鳥峰先輩は明日の中間発表の準備をしていました。あとは眠くなったひとからベッドに入っていきました」
「なるほど。二日目は」
「朝食を終えてから、垣本先輩と鳥峰先輩の卒論中間発表をおこないました。鳥峰先輩の卒論は、難しくて、発表時間も長くて、知っていますか、鳥峰先輩は大学院に進んでゆくゆくは美術史の研究職に就こうと思っているんです。鳥峰先輩の発表で午前中は終わる予定だったんですが、お昼ご飯をはさんで午後まで続きました。片瀬先輩が感化されたのかヒートアップしちゃって、質問というより詰問でした」
「ふむ」
「片瀬先輩も大学院を目指しているんです。片瀬先輩と鳥峰先輩がうちのゼミのトップツーなんですよ」
「それで、午後からは」
「先生の授業のつづきをやりました。授業は午後六時ごろに終わって、その後は食事をして、軽くお風呂に入ってから宴会をしました」
「宴会ですか」
「大したことじゃないんです。お酒とかおつまみを教室で広げるだけ。合宿三日目も午前中は少しだけ勉強をするので、べろんべろんになるまではのみませんでした。未成年の子も……ちょっとだけ飲んでました」
千沙は心苦しそうに顔を歪めた。
「別に咎めるつもりはありませんよ。それで、あなたは気分が悪くなって宴会を抜け出した。そうでしたね」
「はい。何だか頭がくらくらしちゃって、寝室に戻って眠りました。それで、朝になって起きたら……」
「誰もいなかったと。わかりました。あなたはどう思われます。なぜ、皆が消えたのか」
「……誘拐」
千沙の右まぶたがひくりと痙攣した。
「そうですね。九人があなたを残して自分たちの意志で失踪したとは思えない。では、だれが誘拐したと思いますか」
「それは……」
千沙は口ごもり、足元を見つめた。その口の中に一つの名前が込められているのは確実だった。ただ彼女の良心は、根拠もなく一人の人間を犯人扱いしていいのかと考え込んでいるようだ。
「江川富彦ですか」
籐藤がそう訊ねると、千沙は顔を上げて目の前の刑事をまじまじと見つめた。
「江川という男が大和田ゼミに所属していたことを既に私たちは把握しています。そして、あなたたちは数か月前、この江川富彦に何かしたらしいですね」
「そんな!」
千沙の視線は紀秋に移った。紀秋は不自然に咳ばらいをした。
「私たちは悪くない。もともとはあの男が、匙之宮先輩を追い回したあの男が!」
「匙之宮琴音さんがストーカー被害にあわれていたことは存じ上げています」
千沙の目が反抗の色に染まった。
「警察に相談しても何もしてくれなかった。民事不介入だのなんだのって。それが今になって『ストーカー』なんて言葉を口にするんですか。匙之宮先輩は亡くなったんですよ。ここまで大事にならないと、警察は事の重大さがわからないんですか!」
怒声が部屋を飛び交かった。千沙は籐藤を睨みつけ、籐藤は顔色を変えずに目の前の女子大生を見つめていた。
「申し訳ありません」
籐藤は深く頭を下げた。
「警察官の一人として心からお詫び申し上げます」
「いまさら謝られたところで……」
「あなたはゼミの皆さんを愛していらっしゃるようですね」
法律の問いかけに千沙は『はい』とうなずいた。
「ゼミの仲間たちは姉妹みたいなものです。他のゼミよりも人数が少ないせいか、不思議な一体感がありました。それなのにあの男は――」
「江川富彦は現在、逃亡を続けています」
「え?」
「大和田ゼミについて事情を聞こうと彼のアパートを訪れたのですが、その日のうちに彼は姿を消しました。大学にも、実家にも姿を現していません」
「そうなんですか」
「私たちは江川富彦について知る必要がある。お願いです。教えてください。あなたたちは、江川富彦に何をしたのですか」
4
六月最初の日曜日。日曜日だったことは確かです。休日に学校にいるひとは少ないから、日曜日がちょうどいいってみんなで決めたんです。
午後の四時に第三研究棟の談話ルームにみんなで集まり、大和田先生のところに行きました。先生にだけは私たちが何をしようとしているのか伝えた方がいいだろうと思ったんです。先生は休日返上でたまった事務仕事を片付けていると聞いていました。
研究室に九人も入ることはできないので、鳥峰先輩と片瀬先輩、それから匙之宮先輩の三人が入りました。ものの数分で三人は出てきました。『黙認する』。先生はそう言ってくれたそうです。
それから私たちは研究棟の外に出て、第三校舎へと向かいました。朝から続いていた曇り空は、正午を過ぎると、どんどんとその色を濃くしていきました。暗い雲を見て、『降る前に済ませたいですね』ってさゆりが口にしたことを覚えています。
刑事さんたちもうちの大学の第三校舎はまだ見たことはないんじゃないですか。第三校舎は徳和大学の校舎の中でいちばん古く、敷地のいちばん奥……山頂にある六階建ての建物です。うちの大学は、あの地域一帯に連なる山のうちの一つを切り崩して建てられました。敷地内のいたるところに坂道があるのはそのためです。エアコンが壊れていて、立地も悪いから今は使われていません。つまり、第三校舎とその周りはいつも人気が少ないんです。
第三校舎の裏側にある細い砂利道を三〇メートルほど下っていくと、大学建設当初に作られた屋外ステージが建つ広場に出ます。立地条件の悪さから十年ほど前に大学の地図上から消え、一部の大学関係者しかこの場所を知りません。
ステージの東側、校舎とは反対の方は傾斜になっています。傾斜の向こうには一面の緑地が広がっていて、建造物は何もありません。
私たちはこの屋外ステージに江川を呼び出しました。いえ、『私たち』というのは語弊ですね。正確には『匙之宮先輩』です。愛する匙之宮先輩からの連絡なら、あの男が訝しんで呼び出しを断るなんてことはないと考えたからです。
「予定通りにおねがいね」
鳥峰先輩がそう言いました。
「あいつと直接言葉を交わすのは私の仕事。みんなは計画通りに動いてくれればそれでいい」
「うまくいくと思います?」
さゆりが不安そうな声色で周囲を見回しました。二十歳にもなって中学生と見間違えられるような体型のさゆりは、性格もファッションセンスもこどもっぽくて、私たちの中では末っ子のような存在でした。そんなさゆりの頭を東条先輩がやさしく撫でました。
「大丈夫だよ。いざとなったら、私と加藤と祭先輩で何とかする。ね?」
東条先輩にウィンクを投げかけられた彩は、いつものクールな表情のまま、組んでいた両腕を脇に引きました。
「私たちはあくまでも防波堤。それをちゃんと心得て」
鳥峰先輩が苦言を呈しましたが、東条先輩は気にもせず、足元に落ちていた木の枝を拾いました。
匙之宮先輩は唇を真っ青にして震えていました。横にいた私が先輩の小さな右手を握りしめると。氷のような冷たい手が握り返してきました。
垣本先輩と龍首先輩が小声でぼそぼそと言葉を交わしていました。二人は愛する後輩を苦しめる江川を憎んでいるという点では他の皆と一致していましたが、あまり大事にはしたくなかったみたいです。四年生というだけあって大人でした。
「そろそろですね」
腕時計から顔をあげて片瀬先輩がぐるりと皆を見つめました。その視線が鳥峰先輩のところで止まると、二人は同時にうなずきました。
「琴音。安心して。今日でおしまいにしましょう」
片瀬先輩のその言葉を合図に私たちは散りました。すいません。わかりにくい日本語ですね。隠れたんです。ステージの裏手、詰まれた木箱の陰、生垣の向こう側。私はステージの袖に隠れました。うす暗くて、ほこりっぽくて、小さな蜘蛛が足元を歩いていました。
匙之宮先輩が一人でステージの前に立ちました。匙之宮先輩が呼び出したのですから、彼女は目に見える位置にいなければなりません。
それから十分ほど経ったでしょうか。約束の時間が過ぎていましたが、あの男が遅刻するなんてことは予想の範疇です。女との約束なんて、むしろ破るのが男の甲斐性みたいに考えてるんです。
足音の方に視線を向けると、坂道を江川が歩いてきました。ぶかぶかのパーカーのポケットに両手をいれながらふらふらと歩く姿は、落ち着きがなくて、とても二十九歳には見えませんでした。
江川は気味の悪い笑顔を浮かべながら、匙之宮先輩に向かって右手をあげました。ちょうどその時ですね、ポツポツと小雨が降り始めたのは。
「待った?」
遅刻したことへの謝罪なんてありませんでした。江川は歯の浮くような言葉をたたみ掛けましたが、匙之宮先輩は力なくうなずくばかりで、怯えているのは一目瞭然でした。計画では最初に出てくるのは東条先輩だったのですが、がまんできずに私はステージの袖から飛び出しました。
匙之宮先輩に駆け寄ると、先輩の手を引いて江川から距離をとりました。
江川は鼻の穴を大きく開いて私を睨みつけました。今にもその口から罵声が飛び出そうという次の瞬間、他の七人も飛び出してきました。
私たち九人は江川をぐるりと囲いました。不快感と物怖じの気持ちが入り混じった表情で、あいつは私たちを見ていました。
あの男は意気地なしです。無言のままその場から立ち去ろうとしました。坂道の方に立つ彩に向かって歩き始めた江川の胸を、さゆりの横にいた鳥峰先輩が前に出て突き放しました。
そんなに強い力で押したわけではありません。だけど、江川はおびえ切っていたのか、足をバタつかせながら後ずさりして、円の中央で尻もちをつきました。
「な、なんだよ。お前らいったい……」
「言葉を交わすだけで吐き気がする」
鳥峰先輩のほほがひくりと痙攣しました。
「手短に言うぞ。二度と琴音に近づくな。約束するまで、ここから帰さない」
江川は舌打ちをしなら立ち上がると、振り返って匙之宮先輩の方を見ました。
「これはきみの意志じゃない。こいつらがぼくの才能に嫉妬して……そうだろう。そうなんだろう。おい、何とか言えよ!」
足元に唾を吐きつけ、江川はさゆりの方に歩み寄りました。狡猾な男です。身体の小さなさゆりなら怖がって道を開けると思ったのでしょう。実際、さゆりは怯えていたのか、うさぎのように一度その場でぴょんと飛び跳ねました。するとさゆりの横にいた東条先輩が前に歩み出て、手にしていた木の枝を江川の前で素早くふり払いました。
江川は小さな悲鳴をあげながら後ずさりました。
「だから言っているだろう。二度と琴音に近づかないと誓うまで、ここから帰さない」
鳥峰先輩の口調が鋭さを増していきました。うんざりしていたんだと思います。あの男、子どもみたいに地団駄を踏んで、本当にみっともなかったんです。
「い、いやだいやだ。絶対に認めないぞ。社会的自由の侵害だ。ぼくには好きに生きる権利がある。お前らみたいな生意気な女に指図される覚えはないんだよ!」
江川はポケットからスマートフォンを取り出しました。私は嫌な予感がしました。一人を取り囲む九人の姿を写真に収めるつもりなのか、それとも助けを呼ぶつもりなのか、少なくとも私たちにとって不利な事態になると考えたのです。
そんな不安は次の瞬間に杞憂と化しました。
あまりの素早さに、私の意識は何が起きたのかすぐには把握できませんでした。江川が手にしていたスマートフォンが円を描きながら飛んでいき、生垣を超えて傾斜の下まで落ちていったのです。
苦悶の表情で右手を抑える江川の横に、彩がいました。いつもの冷たい表情のままで、すらりと長い右足を前に突き出していました。
前蹴りです。彩は小学生のころから高校を卒業するまで空手を習っていました。全国大会で入賞するほどの実力者だったんです。
江川を取り囲む私たち九人のうち、三人は武術の有段者でした。彩は空手、東条先輩は剣道、鳥峰先輩は柔道です。
男相手でも腕っぷしで勝る三人を等間隔において私たちは江川を取り囲みました。江川がこの包囲を無理やり抜けようとしたら、けがをさせない程度に三人が痛めつける。そう決めていたんです。
「くそ、暴力なんて。お前ら何様のつもりだ。おれが教えてやらなきゃ何も知らない馬鹿どものくせに。何様のつもりだよ。おれは京橋の院を出てるんだ。お前らとは頭のできが違うんだよ。おれが親切に教えてやっても、感謝の一つもしない。どうしてそんなに生意気なんだ。近づくなだと。ふざけるな。女に指図される筋合いなんかねぇんだよ」
無理です。救いようがありません。江川と私たちは前提からして違うんです。あの男にとって女が男に傅くのは、朝になれば太陽が上るように自明の理なんです。
強く降り始めた雨の中で、私たち九人は微動だにせず江川が『二度と近づかない』と口にするのを待っていました。
「どうして男を認めないんだ。どうして男を毛嫌いするんだ。大和田ゼミに男がいてなにが悪いんだ」
「閉鎖的な事はいけないと思っている」
雨で額に張り付いた前髪をはがしながら鳥峰先輩が言いました。
「男子禁制なんて馬鹿げた話だ。志を同じにするものならば、性別に限らず迎え入れる準備はある。だけどお前は違う。お前は邪心の塊だ。調和を乱す無法者を受け入れるわけにはいかない。約束しろ。二度と琴音に近づくな」
江川はわめき声を上げながら振り返り、匙之宮先輩に向かって突進してきました。
私は先輩の手を引いて身体を抱きしめました。両腕のなかで先輩は震えていて、そして私も、鬼のような形相で迫りくる江川を見て震えていました。
あとほんの数センチ。そんな距離まで近づいたところで、彩のひざがあの男のわき腹にめり込みました。
悲鳴をあげながら江川は生垣のそばに倒れこみました。垣本先輩とさゆりは江川を避けて、私たちの方へ駆け寄ってきました。
他のみんなも円を崩し、匙之宮先輩の周りでひとかたまりになりました。そこから彩と東条先輩と鳥峰先輩の三人が江川に近づきました。
生垣を背にして江川は立ち上がりました。全身が雨水に濡れて衣服が黒ずんでいます。終始叫び続けていましたが、もはやそれは支離滅裂で、意味のある言葉として聞きとることはできませんでした。
そんな野獣めいた雰囲気が、三人の加虐性を刺激したのかもしれません。腕を振り上げながら向かい来る江川に向かって、まず最初に東条先輩が木の枝を振り下ろしました。
木の枝は江川の左肩にあたり、衝撃で枝が折れました。それでもあの男は歩みを止めず、左腕をだらりと降ろしながら近づいてきました。
次に彩が靴底を前に突き出して江川の腹を押し込むように蹴りました。江川は後方に吹き飛びましたが、それでも数秒間動きを止めただけで、立ち上がると再びこちらににじり寄ってきます。
匙之宮先輩が悲鳴をあげ、私の腕の中でその場に崩れ落ちました。失神したんです。
「琴音!」
そう叫ぶと同時に、鳥峰先輩が身体を低く構えて江川に向かって突進しました。先輩の左肩があの男の腹に突き刺さり、そのまま生垣へ押し込んでいきました。
私の心臓が経験したことのない鼓動を刻み始めました。二人の身体が生垣の中へと割って入っていき、それでも二人は動きを止めようとしませんでした。
数人が先輩のそばへ駆け寄りました。パニックで誰だったかは覚えていません。とにかく、先輩の身体を生垣の中から引き剥がして――だけど、江川は生垣の向こうへと落ちていきました。
先ほどもお話した通り、生垣の裏側は傾斜になっています。江川は泥まみれになりながら傾斜を転がり落ちていきました。
生垣から下を見下ろすと、十五メートルほど下ったところで江川が横たわっていました。
死んだのではないか。そう訝しんだ次の瞬間、あの男は嗚咽をあげて叫びました。
「腕が!」
足の長い草の中で右腕を抑えて江川は悶絶していました。正直ほっとしました。憐憫なんてありません。あれはひとじゃない。怪物だ。世界の調和を乱す外界からの怪物。それを退治して安堵の息を漏らすのは、ひととして当然のことじゃないですか。
「行こう」
荒い息を吐きながら鳥峰先輩が言いました。
「助ける必要はない」
「だけど先輩……」
片瀬先輩がそうつぶやきましたが、頭を小さく振って『そうですね』と付け加えました。
「あれだけ叫ぶ元気があるなら大丈夫ですね」
「これって傷害罪になるんですか」
さゆりは怯えながらそう尋ねましたが、鳥峰先輩は頭を振りました。
「あいつは警察に通報なんかしないよ。あれだけ見下していた『女』にここまで恥をかかされたんだ。今日ここで起きたことを正直に話すとは思えない。賭けてもいい」
鳥峰先輩の言う通りでした。翌日、巡回中の大学職員に発見された江川は、足を滑らせたとだけ説明したそうです。
失神している匙之宮先輩を抱えて私たちは帰りました。雨の勢いはますます強くなり、照明のない周囲は足元が見えないほど暗くなっていきました。
坂道を登り始めたその時、背後から雨粒の間を縫って叫び声が聞こえました。
「殺してやる!」
江川でした。江川が憤怒の感情を込めて叫び声をあげていたのです。
「お前ら全員殺してやる! 女のくせに恥をかかせやがって。絶対に、絶対に殺してやるからな!」
5
過去に呼応するかのように、窓の外で雨が降り始めた。線の細い雨水が、寂寞とした空気を引き割いて地面に吸い込まれていく。空にかかった薄い雨雲は無気力な風に吹かれていた。
「殺してやる、ですか」
籐藤は右の太ももをコツコツと人さし指でたたいた。
「江川は殺してやるとあなたたちに言った。どうでしょう。あなたは、今回の事件の犯人は江川富彦だと思いますか」
千沙は否定の言葉を漏らした。
「刑事さんにはわからないでしょうが、あの男にひとを殺すような勇気があるとは思えません。突発的に激昂することはありましたが、その本質は臆病者です。『殺してやる』と口に出したところで、いざ実行に移すとなると怯えて何もできなくなる。物陰から罵声を浴びせるくらいが関の山ですよ」
「では他にだれか、大和田ゼミの九人を殺したいほど憎んでいるひとはいますか」
籐藤の問いかけに千沙は沈黙を返した。
「私たち警察は、誘拐された九人の過去を調べました。清廉潔白とでもいいましょうか。まったくもって後ろ暗いところのない九人です。周りの評判もよく、悪口を言う人間を探すほうが難しいくらいだ。ただし、江川富彦だけが消えた九人を恨んでいた。わかるでしょう。江川という男はわれわれの想像する犯人像にピタリと当てはまるのです」
「姉はみんなと一緒に江川くんを痛めつけたわけではないのに……」
紀秋が頭を抱えた。
「お姉さんはゼミ生の計画を黙認していた。江川にとってはお姉さんも恨むに値する存在なのですよ。加えて、かつて大和田ゼミに出席していた彼ならば九相図について知っていてもおかしくはないでしょう」
「九相図?」
千沙は目を細めた。
籐藤は一度咳ばらいをしてから、これまで見つかった四人の遺体が『壇林皇后九相図』を見立てた状態で発見されたこと、それ故発見されていない五人も既に亡くなっている可能性が高いことを説明した。
千沙は両手で口を覆い、絶句した。
「ゼミに出席していた江川くんなら九相図についての知識を持っていてもおかしくないからね。兎走さん。姉さんは合宿で『檀林皇后九相図』についての授業を行ったんじゃないかな」
紀秋が訊ねると、千沙は小さくうなずいた。
「やっぱり。合宿前に姉が言っていた通りです。姉は以前から『檀林皇后九相図』に興味をもっていて、多くの研究者に議論をふっかけていました」
「そのことを知っていた江川は、大和田ゼミの人間で九相図を作ることを思いついたというわけか」
籐藤は深い息を吐きながら頭を掻いた。
「兎走さん」
居住まいを正して籐藤が言う。
「あなたの健康状態を承知した上でお願いしたいことがあります。どうか、私たちと一緒に、合宿所まで来ていただけませんか」
千沙の顔が蒼白に染まった。唇が震え、細く小さな右手が左の肩を握りしめていた。
「九人が失踪したあの日の夜、あの建物にいたのはあなただけなのです。あなたに現場を見てもらいたい。何かおかしなところが見つかれば、それが事件解決につながるかもしれない」
「い、いや……」
千沙はか細い声をのどの奥からこぼした。
「行きません。どうしてそんな、こわい」
「兎走さん」
横に座る紀秋が彼女の方に身体を向けた。しかし千沙はその身体を両手で突き離した。
「いやです。事件の捜査は警察の仕事でしょう。私は、私は関係ない。私はこの家から出ない。ここには殺人鬼はいない。私は、私は……」
大粒の涙が千沙の瞳からこぼれ落ちた。一粒、二粒と涙がカーペットに吸われていく。
「籐藤さん」
言葉を取り戻したかのように法律がつぶやいた。
「あれを」刑事は持参した大きな封筒をテーブルの上に置いた。
「兎走さん。中をご覧ください」
泣きじゃくる千沙に代わって、紀秋が封筒の中に手を入れた。
「これは……兎走さん!」
紀秋は封筒の中身を千沙に差し出した。
それは一枚の写真だった。
白を基調とした部屋の中で、八人の女性が並んでこちらに笑顔を投げかけていた。
ある女性はウインクをしながら両手を前に突き出していた。
ある女性は缶ビールを聖盃の如く高々と掲げていた。
ある女性は遠慮がちにピースサインを作っていた。
ある女性は顔を赤くして隣の女性に抱きついていた。
ある女性は身体をがっしりと隣の女性に掴まれて、必死に引きはがそうとしていた。
ある女性は右耳にかかった黒髪をなでつけていた。
ある女性は立てた両膝を両腕で抱え込み、首をこくりと曲げていた。
ある女性は細い目をできる限り大きく開き、不器用な笑顔を作ろうと必死になっていた。
その写真には大和田ゼミの八人の生徒が映っていた。場所は、合宿の二日目に宴会をおこなったA教室だ。
千沙は赤くなった瞳で、写真を食い入るように見つめた。大粒の涙が再び彼女の瞳から落ちていく。しかし、涙の温度は変わっていた。
「大和田ゼミでは毎回酒宴の際に集合写真を撮るのが習慣となっているそうですね。この写真は、あなたが床に入ったあとで大和田先生に撮ってもらったものでしょう」
ぽつりぽつりと諭すような口調で法律は言った。
「亡くなった方の人生は終わってしまいました。だけどあなたはまだ生きている。あなたの人生はこれからも続いていくのです。あなたは残りの人生を暗い部屋の中で過ごすつもりですか。残酷な現実に怯えて、何ものもあなたを害すことのない部屋の中で過ごすつもりなのですか。」
千沙は赤く腫れあがった瞳で法律を見つめた。
「世界は美しいものであふれている。世界には摩訶不思議な場所が点在している。世界には理解できない思想がある。これからのあなたの人生は出会いに満ちている。可能性の波が押し寄せて来るのです。あなたには素晴らしい友人がいる。彼女たちはその写真の中でたしかに生きている。あなたの友人たちは、今まで以上の幸福があなたに訪れることを祈っているはずです」
千沙は涙で濡れたその顔を一枚の写真に埋めた。
「同行していただけないのならば、それで構いません」
眉を八の字に曲げて口を開きかけた籐藤を、法律は制した。
「ですが、どうぞ立ち上がって自らその一歩を踏み出してください。あなたの幸多い未来を、僭越ながらこの私も祈らせていただきます」
6
「ご自宅まで送りましょう」
籐藤の提案にバックミラーの中の紀秋が首を横に振った。
「恐縮ですが大学までお願いできますか。まだ仕事が残っていますので」
籐藤は承知してレガシィを走らせた。
窓の外で夕刻に差し掛かった街並みが後方に流れていく。走り始めてすぐに雨は止んだ。
「あの写真は、どうしたのですか」
紀秋が訊ねた。
「現場に残されていた垣本愛之さんのデジタルカメラに残っていた画像です。兎走さんを元気づけられればと思って、印刷してきました」
「なるほど。さすがですね籐藤さん。写真のおかげで兎走さんの気持ちも少しは晴れるでしょう」
「思いついたのは私ではないですよ」
籐藤は助手席に座る法律を顎でさした。
「恒河沙さんのアイディアでしたか」
紀秋は感心したように深くうなずいた。
「兎走さんなら大丈夫ですよ。あの子はやさしい子です。きっと、合宿所まで一緒に行ってくれるはずです」
「籐藤さん。今のうちに大和田さんにもお伝えしておきましょう」
法律の提案に籐藤は渋面を浮かべ、赤信号で車が止まったところで『そうだな』とつぶやいた。
口をすぼめてまばたきを繰り返す紀秋に、法律は言った。
「五人目の遺体が発見されました」
紀秋はすぼめていた口を開き、呆けた表情をつくった。そして数秒後、その言葉の意味を理解したのか、唇を噛みしめながら自分の膝に握りこぶしを叩きつけた。
「今朝のことです。足立区のC町にあるごみ捨て場で、女性の腐乱死体が発見されました」
「ごみ捨て場?」
「えぇ。C町のその地区は、今日は燃えるごみの日でした。遺体を発見した主婦によると、その町内では最近、生ごみを漁るカラスの被害に悩まされていたそうです」
「カラス、五番目。そんな……」
「おわかりでしょう。『壇林皇后九相図』第五相は『噉食相』。何十羽ものカラスたちが、ごみ捨て場に置かれた遺体を狙っていたのです」
「それじゃあ遺体は……」
「大丈夫です」
法律は深く息を吐いた。
「第一発見者の主婦がとても気丈な方だったらしく、警察が駆けつけるまで竹ぼうきを振り回してカラスを追い払ってくれました。遺体は腐敗が進んではいますが、少なくともカラスがつけた傷は一つもないそうです」
「あぁよかった。遺体はだれのものなんですか」
「まだわかっていません。われわれはこのあと現場に向かいますが。大和田さんも一緒に行かれますか?」
「いえ、お邪魔になるだけですから。このまま大学まで送ってください」
紀秋を徳和大学の正門で降ろし、レガシィは再び走り出した。
太陽が西の空に落ち着き始めたころ、籐藤と法律は足立区のC町にたどり着いた。
ごみ捨て場一帯に張り巡らされた規制用のテープの中から、初芝がひらひらと白い手を振りながら寄ってきた。
「おつかれさまです。兎走千沙の方はどうでした」
「どうだかな」
人込みを脇によけながらテープの内側に入った。早朝に発見された遺体はすでに運び出され、破れたネットが傍らに避けられた黒いコンクリートの上に、人型の白線が描かれていた。
「遺体は解剖に回しました。といっても、これまでの遺体とたいして変わりません。絞殺ですよ。芸のない連続殺人ですね」
「写真を」
初芝は数枚の写真を籐藤に渡した。細い目でそれを見つめる籐藤の横から、法律がひょいと首を伸ばした。
写真にはごみ捨て場に横たわる腐乱死体が映っていた。全身を撮ったものが三枚、各部位を接写したものが十数枚。それらすべてを二人は注視した。全身が生命を感じさせない色に染まっている。手足の裂傷から零れ落ちる血液が禍々しい。腹部は水分が抜け始めているようで薄くなっていた。
残酷に変容したその遺体に生前の面影はなかった。
「おそらく龍首恵です」
「どうしてわかった」
「体型ですよ」
籐藤の問いかけに初芝は答えた。
「遺体の身長は約一四七センチ。龍首恵の身長と一致します。龍首恵の身長に一番近いのは、林さゆりの一四〇センチと、片瀬双葉の一五五センチです。もちろん、この遺体が大和田ゼミとは無関係の人間という可能性もゼロではありません。あとは科捜研の報告を待ちましょう」
「加えて細い」
「なんだって」
すいかの種のように飛び出した法律のことばに籐藤が喰いついた。
法律は籐藤の手から写真を取った。
「これまでの遺体と比べると、膨張した身体がいくらか細く見えます。生前の被害者はやせ型だったのでは」
「さすがですね」
初芝は目をしばたたかせた。
「恒河沙さんのおっしゃる通りです。健康診断のデータによると、被害者の生前の体重は三十九キロです。他のゼミ生に比べると、極端に痩せています。遺体の体型もそれが首藤恵であると判断する材料になりました」
「どうもどうも、暑いなかごくろうさまです」
背後から絹を裂くような声がした。
三人が振り返ると、ごみ捨て場の目の前にある民家の門にエプロンをつけた主婦が立っていた。
「お茶をお持ちしました。よろしければ皆さんでお召し上がりください」
「あぁ、すみません。籐藤さん。こちら、遺体の第一発見者の米谷ひろこさんです」
差し出された湯飲みを受け取りながら初芝が老女を紹介した。湯飲みには小さな氷が浮かぶ緑茶が満たされていた。
「捜査一課の籐藤です。ありがたく頂戴しますよ」
のどの渇きを潤しながら籐藤は米谷を見た。年齢は六〇といったところか。細い髪は兎のように白く、眼鏡は瓶底のようにぶ厚い。話し方は快活で頭の方はしっかりしているようだ。証言は充分信用できるだろう。
「一日中落ちつかなかったでしょう」
「いえいえ。暇を持て余した隠居老人ですからね。こんな刺激的なことが……あらあら、こんなこと言っちゃ不謹慎だ。それで刑事さん。あの遺体はやっぱり、ニュースでやっていた徳和大学の学生さんなのですか」
「まだ確定はしていませんが、おそらく……」
「そうでしたか。徳和大学の。では犯人は分かっていてここに捨てたのでしょうか」
「分かっていて?」
刑事の声が跳ね上がった。
「えぇ。あら、言っていませんでしたっけ。私、一年前まで徳和大学の中にあるコンビニで働いていたんですよ」
「な、なんですって!」
籐藤は歪んだ表情で初芝をにらみつけた。新米刑事はぶるぶると顔を震わせながら『初耳です』と応えた。
「えぇ。かれこれ十年近く働いていましたよ。一年前に腰を悪くしましてね、手術をしてよくなったのですが、再発したら困ると思って専業主婦に戻ったわけです」
「籐藤さん!」
二人の刑事の背後で法律が叫んだ。
籐藤はポケットから一枚の写真を取りだした。
「この男に見覚えは?」
米谷は突きつけられた写真をまじまじと見つめた。そこには江川富彦が映っていた。
「あぁ、覚えていますよ。徳和の学生さんでしょう」
「この男はよくコンビニに?」
「よく来ていたかどうかは覚えていません。何しろ、一日中学生さんはひっきりなしに来店されますからね。ただこの男は、私が辞める少し前のことでしたが、新人の若い女の子に強い口調でクレームをいれてきたんです。やれレジ打ちが遅いだの、商品を袋に入れるのが雑だの、それを見かねて私がこの男に注意したら口論に発展しました。大学さんと協議して、この男はうちのコンビニには出入り禁止にすると約束してくれました」
「ほう、出禁にね」
「大学さんは学生さんを擁護するのではと思ったのですが、理不尽なクレームを申す様子を見ていた他の学生さんや職員さんが証言してくれましてね。徳和の担当者さんも常識的な方でしたので助かりました」
「なるほど。どうもごちそうさまでした」
籐藤はお茶を飲みほしてお盆に湯飲みを戻した。一度頭を下げて自宅へと戻る米谷ひろこを見ながら初芝が言った。
「江川富彦は米谷ひろこを逆恨みしていたんですね」
「江川はコンビニの一件で大学側から注意を受けたに違いない。プライドの高い彼にとっては屈辱以外の何ものでもなかっただろう。そしていつか復讐をしてやろうと、米谷ひろこの自宅まで突きとめていたわけだ。ストーカーの未来を暗示させる行動だな」
「米谷ひろこの家はごみ捨て場の前にあり、そのごみ捨て場はここ数週間カラスが生ごみを漁りにくるトラブルに見舞われていた。『噉食相』を実現することと、あわよくばグロテスクな遺体を米谷ひろこに見せつけることで、コンビニを出禁にされた恨みを晴らそうとしたというわけですね」
「一刻も早く江川を見つけよう」
籐藤は江川の写真をにらみつけた。
7
玄関の上がり框に足を置くなり、籐藤が右手を、法律は左手をぐいぐいと引っぱられた。
「さぁさ座って、座ってちょうだい。本当にもう、こんな理不尽なことがありますか。あってたまりますか。みんな何にもわかっちゃいないんですよ。江川家の人間に限ってねぇ、人殺しなんてありえません。ありえませんとも。そう思いませんか、お母さま」
「まったくもってまったく。証拠もなく小娘のひがみで犯人扱いされるなんてたまったもんじゃないよ。富ちゃんはねぇ、それはもう勉強ができて心が優しい勉強ができる子なんだよ。あんたら警察はろくに調べもせずに富ちゃんを犯人扱いして。あの子はうちの長男だ。いずれ江川家を背負って立つんですよ。昔で言えば殿様だ。ちょっとマサちゃん。勝彦はいつになったら帰ってくるの。あの子にもガツンと言ってもらわにゃいけないよ」
「ちょ、ちょっと落ち着いてください。落ち着いてくださいってば」
籐藤は両手をあげて二人を制した。
「そんなまくし立てられては話もできません。というかまだ自己紹介もしてないのに」
「あらイヤだ。あなたたち刑事さんじゃなかったのかしら」
江川雅美は金色のチェーンでつながった眼鏡を指で押し上げた。金魚のように大きな目玉が籐藤と法律をかわるがわる見つめている。
「いえ、刑事ですが」
「だったらいいじゃないですか! とにかくね。あの子は由緒正しい江川呉服店の跡取りなんですよ。本来は呉服店を継いでもいい年ごろなのに自分の知恵を世間のために役立てたいという強い志をもって大学に通っているんです。それを! それを犯人扱いの上精神的に追い詰めて失踪させるとは。警察ってのはそんなにも非人道的なおこないができるもんなのですか。まったくもって信じられません。そう思いませんかお母さま」
「まったくもってまったく。私たちか弱き民の血税がこんなにも無駄な仕事に浪費されてると思うと、流す涙もありゃせんわ!」
「待ってください。本当に待ってください。本当に……」
法律は菓子皿に盛られた煎餅の小袋を手にとり、袋の上から二つに割った。
江川雅美と江川サチ子親子から江川富彦の情報を聞き出すのは難しそうだ。籐藤は既にこの二人からの聴取を諦めていた。仮に聞き出せたところで、かように色眼鏡をかけられては正確な情報を得ることは不可能だろう。
「まったく。なんて親子だ!」
江川家の玄関を背にしながら籐藤は声を荒げた。
下町風情が残る葛飾区K町の住宅地に江川富彦の実家はあった。青い瓦屋根が目立つ平屋は、遠目には昭和の香りが漂う立派な和風建築にみえる。ところが近づいてよく見てみると、外壁は雨水に汚れ、雑草が生い茂った庭の中央には黒くにごった小池でボウフラが身体をうねらせて泳いでいた。
「あんな親に育てられたんじゃ、ろくな大人になるわけがないな」
「籐藤さん。声が大きいですよ。誰かに聞かれでもしたら……」
「まったくもって同感ですね」
突然の声に籐藤は飛び上がった。声の方に目をやると、車幅のせまい道路に停めた軽トラックの中から、煙草をくわえた若い男が二人を見つめていた。
男は窓から身を乗り出してニカっと笑った。
「江川富彦のことを聞きに来たんでしょう」
「どちらさまかな」
毅然とした態度で籐藤は言った。男は運転席から降りてきた。七分袖の白シャツに紺のニッカポッカ。服だけでなく手の先や右ほほに塗料がこびりついている。坊主頭はきれいに刈り込んでおり、首からは金のチェーンネックレスをぶら下げていた。
「江川勝彦といいます。江川富彦の弟です」
「弟さん?」
法律は小さく口を開けて言った。
「えぇ。大学院まで言った賢い兄貴とは大違い。由緒正しき江川家に於いて、稀代のうつけものと蔑まれた江川勝彦でございます。微分積分糞くらえ。中学卒業後はペンキ屋修行の毎日ですよ」
籐藤は軽トラックの荷台に目をやった。そこには塗料の一斗缶や撹拌機といった塗装屋の仕事道具が載っていた。
「ご自宅にお帰りですか」
「自宅は横浜です」
「ではどうしてここに」
「おふくろから電話があったんです。これから警察が来るから急いで帰ってこいってね。冗談じゃない。現場を抜け出すわけにはいかないって言ってやったら、あのババアうちの社長に電話しやがった。警察と聞いて社長は大慌てですよ。おれの説明を聞きもしないで無理やり現場から帰らされたってわけです」
「で。どうしてこんなところに車を停めていたんですか」
「実家の敷居をまたぐつもりはなかったんでね。適当に時間をつぶして横浜に帰ろうと思ったんですが、興味がでた」
「興味?」
勝彦は小さくうなずいた。
「兄貴を追いかけてるマッポってのはどんなやつかなってね。どうせおふくろたちからはろくな話を聞けなかったでしょう。おれでわかることなら、いくらでも話しますよ」
8
三人は江川家の近くにある小さな公園に入った。勝彦と籐藤がベンチに座り、法律はコンクリートでできた水飲みに寄りかかった。
「子どものころはよくこの公園で遊んだもんだ。少子高齢化ってやつですかね。夕方だってのに子どもがいやしない。内緒話にはちょうどいいでしょう」
「内緒話だなんて。江川富彦がどんな男なのか、うかがいたかっただけですよ」
「どんな男か? くずですよ。おしまい」
勝彦はベンチの背もたれに寄りかかってけらけらと笑った。
「古典的な家父長制の江川家に生まれた兄貴は、ばあちゃんとおふくろに蝶よ花よと育てられた。弟のおれと違って兄貴は欲しいと言えば何だって買ってもらえた。漫画でもゲームでもお菓子でもなんでもね。わがまま放題に育てられた兄貴は長男であるというだけで家族を見下し、男であると言うだけで女を見下した。小学生のころから塾に通っていたおかげで学校の成績はよかったみたいですが、性格の面をみればくず以外に評しようがない」
「お兄さんとは仲がよろしくないようですね」
「嫌いですよ。子どもの頃はいじめられてましたからね。兄貴の将来については家族のみんなが必死になって考えてくれるのに、弟のおれに関しては放任主義だ。高校卒業後は家を出て塗装屋に就職すると言っても誰も止めませんでした」
「お兄さんと最後に会ったのはいつですか」
籐藤が訊ねた。
「正月。うちの社長は義理堅くて、正月と盆には必ず実家に顔を出せって社員に言うんです。そん時に顔を見たけど、会話はしなかった。おれは兄貴を軽蔑してたし、兄貴も中卒のおれを社会の落伍者と見下していた」
「お兄さんからあなたに連絡が行くことは」
「ないよ。一回もない。つーかおれ、あいつのスマホの番号も知らないですし」
「そうですか」
籐藤は手帳を閉じた。何か得るものがあればと思い江川の実家を訪れたが、収穫はなさそうだ。
籐藤は勝彦に名刺を渡した。
「何か思い出したら教えてください」
「スピード違反のときにこの名刺を見せたら許してもらえるかな」
「私が怒られるのでやめてください」
「冗談ですよ。それじゃ、これで失礼して――」
「あの、最後に一つよろしいでしょうか」
法律がほほえみながら言った。
「ん。何かな」
「お兄さんは、何か格闘技をなされていましたか?」
「格闘技?」
ぽかんと大きく口を開けたあとに、勝彦はゲラゲラと大声で笑いだした。
「あ、あの男が格闘技? 痛いことが大嫌いで拳の一つも握れないあいつが。まさか、ありえませんよ。あんな男に限って格闘技だなんて。絶対にありえない」




