第四章
1
青島悠一はあくびをした。
意識を夢の中に置き忘れてきたような、ふらついた足取り。右手にぶら下げたバケツの中では、半分に満たない量の水が小さな波を立てていた。
四角形のコテージの外をぐるりと囲う一階の回廊には木枠の窓が点在している。それらを水ぶきするのが悠一に課せられた朝の日課の一つだった。
青い羽根を持つ小さな鳥が手すりにとまって悠一を見つめている。都会では見たことのない鳥だが、今の悠一にとっては特別目を惹くものでもない。
壁のように四方にそびえ立つ緑深き森林。初めてこの地を訪れたその日、広大な自然は悠一の情動を揺れ動かした。しかし、アウトドア志向というわけでもなく、休日ともなれば都心の繁華街の娯楽施設に入り浸る大学生がこの自然の風情への興味をなくすには、一日の時間さえ要さなかった。
回廊の東側、物干しにぶらさがったぞうきんをバケツの水に浸す。冷たい水の中に手を入れながら悠一は瞳を閉じた。森の中からセミの鳴き声が聞こえてくる。目を閉じていればここは東京のアパートと何も変わらない。いや、この森林地帯も一応は東京都内だったかと悠一は思い出す。
『ぐぎゅ』と胃が空腹を訴えた。頭のなかで冷蔵庫を開いて朝食の算段を始める。冷凍のごはんを解凍するか、四枚切りのトーストをオーブンで焼くか。昨夜の酒が頭に残っていくぶん気だるい。金色の缶に入った高そうなお茶漬けをいただくことに悠一は決めた。
半分ほどしか覚醒していない脳味噌が二本の腕に『絞れ』と指示を出す。水気を多く含んだぞうきんで、悠一は窓をふき始めた。ガラスの上に透明な水滴がいくつも残る。なに、構わない。誰かが点検をするわけではないのだ。窓をふいたという事実で朝食をいただく建前には十分だ。
窓をふき、窓をふき、窓をふく。
単調な作業だ。一枚、二枚、三枚と窓をふいていくうちに手の動きは雑になっていく。
朝食を食べ終えたらどうするか。時間はたっぷりある。卒論用の資料とノートパソコンを持ってきてはいるが、悠一はこのコテージを訪れてから一度もパソコンを開いてはいなかった。二日後にはゼミの皆の前で卒論の中間発表をおこなう。そのためのレジュメは既に完成しているので、取り急ぎかからなければいけない作業はない。もっとも、そのレジュメは二年前の夏に作ったものだが。
回廊の東側の窓をすべてふき終えると、悠一はハーフパンツから煙草をとりだした。
「たしかに時給はいいけどよ、やることもねえんじゃまいっちまうよ」
手すりにひじを置きながら煙草に火をつける。紫煙のゆらめきが朝もやの中を昇っていった。
吸い殻を手すりの裏側にこすりつけて花壇に投げ捨てる。花壇の水やりも朝の日課のひとつだった。大した作業ではないが、悠一の呆けた頭にはそれさえも気だるく感じられた。彼はバケツの中に入ったにごり水を花壇にかけた。
バケツを回廊に転がし、濡れたぞうきんをもって北側の回路にまわる。悠一はもう一度大きなあくびをした。
そのあくびがピタリと止まった。
コテージの北側には野球グラウンドの内野ほどの大きさの庭がある。その庭は周りを森林に囲まれており、木々のすきまには黒く陰鬱な空間が広がっている。
悠一は回廊から庭をつなぐ三段の木階段を降りた。
ライトグリーンの芝生が生えそろった庭をサンダルで歩いていく。はっと気づき、悠一は木階段のそばに戻ると、立てかけてあるスコップを両手で握りしめた。
木々の間に赤いビニール布が見える。近づいていくうちに、それが何なのか分かった。
テントだ。三角型の小さなテントが木々の間に建っている。
悠一は昨日の記憶を洗い出した。夕方に芝刈りをしたときには、こんな赤いテントはなかったはずだ。たしかにビールを一本空けてから芝刈り機を動かしたが、これほど派手なものを見逃すほど酔っぱらっていたわけではない。
となると、このテントが建てられたのは昨夜ということになる。
昨夜――というかこのコテージに来てからは毎晩だが――悠一はコテージに用意されたビールや発泡酒、自分では絶対に買えない度数の高い高級洋酒に舌鼓を打ち、リビングのソファーで酔いつぶれていた。泥酔した自分の耳にペグを打つ音が聞こえなくてもおかしくはない。
「トラブルはごめんだぜ」
悠一はスコップの柄を強く握りしめた。テントのなかにいるのが何者かは知らないが、おとなしく退散してくれるのならそれに越したことはない。辞すことを渋るような相手ならばスコップを振り上げてびびらせてやればいい。私有地に勝手に入り込んで非があるのは間違いなく相手なのだから。
三角型のテントの入り口で悠一は足を止めた。テントの入り口に靴がないことに気づいた。靴をテントの中に持ち込んでいるのだろうか。雨の予報はなかったから、外に出しておいても問題はなかったはずなのに。
「おい。誰かいるのか」
返事はなかった。
「そこのコテージのものだ。おい」
返事はなかった。
業を煮やし、悠一はテントの入り口のチャックに指をかけ、『あけるぞ』と口にしてからチャックを下ろした。
そしてその手は途中で止まった。
薄暗く、熱気のこもったテントの中、銀色のマットの上でテントの入り口に頭を向けてそれは横たわっていた。
チャックを下げた悠一の手のほんの数センチ先で、青黒い顔から飛び出した二つの目玉が悠一を見つめていた。
青黒いのは顔だけではなかった。その全身が陰鬱な色に濁り、全身に走る裂傷から赤黒い血液が染みだしている。蝋のようにどろりとした光沢を放つ裸体。裸体の両脚は湾曲を描き、膨張したこともあって巨大なカエルを悠一に連想させた。
テントにこもった熱風が形容しがたい悪臭を伴って悠一の鼻腔に侵入した。悠一は土のうえに尻もちをつき、全身を小刻みに震わし始めた。
その全身を恐怖が支配しながらも、悠一は視線を目の前のものから逸らそうとはしなかった。否。できなかった。彼は囚われていた。人間の生命を踏み越えたその存在に精神は囚われ、喉元を掴まれ、神経が氷のように固まっていたのだ。
2
九月十四日 月曜日
『徳和大学第三研究棟』と書かれた木札を一瞥してから、籐藤剛と恒河沙法律はその横長の建物に入った。
両開きのドアを抜けると猫の額ほどのホールが開けていた。ホールの正面には上階へ続く階段があり、左右には建物を横断する長い廊下が伸びていた。
ホールの右手の壁に小さな小窓がついている。小窓の下には幅三〇センチほどの台があり、ノートと二本のボールペン、『受付』とかかれたプレートが置かれていた。
籐藤が小窓を叩くと、中からぶ厚いめがねをかけた初老の女性が顔をのぞかせた。
籐藤は警察手帳を見せて要件を述べた。事前に大学側にアポイントメントを取っていたため、手間取るようなことはなかった。
籐藤と法律はこの研究棟にとある研究者を訪ねていた。その人物は今回の事件に無関係というわけではなかったが、二人が彼を訪ねたのは、むしろ彼の持つ専門知識に用があったからだった。
とはいってもこの来訪を熱望したのは法律であり、籐藤はその理由をまだ法律から詳しく聞き出してはいない。『日本美術史に詳しい』『失踪した大和田准教授と親しい』。法律がこだわったのはこの二点であり、籐藤はそれらに適した人物のアポイントメントを得たに過ぎない。
籐藤と法律は階段に向かった。
夏季休暇期間中のため、キャンパス内に学生の姿は少なかった。ここ第三研究棟にも人の気配は感じられない。
「静かだな」
籐藤の言葉に法律は無言でうなずいた。
法律は昨日、匙之宮琴音の遺体を目にしてから必要最低限の言葉しか口にしていなかった。他の六人はおそらく既に亡くなっている。彼は昨日そんな言葉を漏らした。その根拠について語ることもなかった。
二階に上がり、左手の廊下を進む。廊下の左右には等間隔でドアが並んでおり、ドアの右にはその部屋の主の名前が書かれたプレートがかかっていた。
籐藤の革靴が立てる硬い音と法律のスニーカーが奏でるやわらかい音が交互に廊下に鳴り響いた。
ドアを五枚ほど超えたところで、左手の壁が途切れ、ぽっかりと開いた空間が現れた。
四角いテーブルが三つ置いてあり、一つのテーブルにつき四つの椅子が備え付けてある。部屋の隅にはコピー機と自販機。廊下と向かいあう位置の窓にはブラインドがぶらさがっていた。
籐藤は壁にかかった『談話ルーム』とかかれたプレートが見た。大学関係者たちがちょっとした雑談や打ち合わせの際に使う場所だろう。
その談話ルームに一人の男がいた。
そしてその男こそ、籐藤と法律が訪ねた人物であった。
「ひゃれ?」
男は咀嚼する口を右手で隠しながら立ち上がった。
籐藤は苦笑いをしながら男に近づいた。
「すみません。お食事中でしたか。早く来てしまって申し訳ない」
籐藤は壁に備え付けられたアナログ時計に目をやった。十二時五十分。約束の時間は十三時だ。
男はペットボトルのお茶を一口のみこんでから『ふぅ』と息を吐いて深々とおじぎをした。
「お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありません」
「いえいえ。お忙しいところお時間を作っていただき恐縮です」
「そちらの方も刑事さんですか?」
「いや、彼は……」
法律がすっと前に歩み出て頭を下げた。
「恒河沙法律と申します」
「恒河沙。すごい名前ですね。十の何乗だったかな」
恰幅がよく、眉の濃い童顔。どこか日本人形を連想させる外見をしている。日に当たる機会が少ないのか、肌は幽霊のように蒼白だ。
男は緩んでいたストライプ柄のネクタイを絞めなおした。
「どうもはじめまして。大和田紀秋と申します」
大和田夏鈴准教授の実弟、大和田紀秋はひとなつっこい笑顔を法律に見せた。
3
紀秋は弁当箱をそそくさと片づけ始めたが、ふたを占めるのに苦戦していた。
「どうもすみません。子どものころから使っているお弁当箱でして。ゴムの部分がうまくはまらないんですよ」
「お弁当はご自身で作られたのですか」
籐藤は紀秋の薬指――指輪はない――を見てから訊ねた。
「えぇ。子どもの頃からの趣味です。得意なんですよ」
「外で待ちましょう。お食事を終えてからでも」
籐藤が弁当箱を見つめながら言った。青い弁当箱のふたには、頭から三本の毛が生えている少年が草原の上を大股で歩いているイラストが描かれていた。
紀秋は『いえいえ』と首を振ると、弁当箱を無理やり片付け、廊下の奥へと二人を促した。
「私の研究室でお話をうかがいましょう。いえ、厳密にいえば私の研究室ではないのですが」
法律が疑問符を込めた流し目を送ると、籐藤は肩を浮かした。
「大和田さんはお姉さんの研究室を間借りしているんだ」
籐藤は今回の事件の被害者家族として既に紀秋と会っていた。
「徳和大学では准教授から個室の研究室が与えられます。私は講師ですので、研究室などもちろんありません。ただ姉と私は研究内容もほとんど同じですし、資料の共有などもできるので間借りさせていただいているわけです。議論の相手がいつでも目の前にいるというのはなかなか有意義なものですよ」
大和田姉弟の研究室は廊下の最奥左手にあった。十畳ほどの広さの中、部屋の中央奥に二つの机が向かい合って並んでいる。どちらの机もその上にはパソコンが一台と、ノートや紙片、さまざまな大きさの書籍が置いてある。
部屋の両端は天井まで伸びるスチール製の本棚が並んでいる。縦に収まった本の上に横倒しの本が乗りかかって収まっており、それでも収容限界は既に達したらしく、本棚の手前の絨毯の上には、いたるところで蟻塚のように本が積まれていた。
「いまお茶を用意しますので」
小型冷蔵庫からペットボトルの緑茶を取り出しながら紀秋が言った。
「どうぞ、おかまいなく」
丸いいテーブルをはさんで二つのソファーが向かい合っている。籐藤と法律は左のソファーに座った。紀秋は三つのグラスをテーブルに置き、反対側のソファーに腰を落ちつけた。
「五日間もお待たせしてしまい申し訳ありませんでした」
「いえ、出張でしたら仕方ありません。こちらとしてもほんの参考程度にお話を聞きたかっただけですので」
匙之宮琴音の遺体が発見されてから既に五日が経過していた。
「昨日も遠くで講演会がありましてね。あ、講演会といっても私が壇上に上がったわけではありませんよ。本当は美術史と関係ない分野で、徳和大学の人間が出席したという事実が必要だったんです。こんな仕事ばかりで参ってしまいます。大学教師だなんていっても、組織に所属している以上は一介のサラリーマンに過ぎませんよ」
紀秋はグラスの緑茶でのどを潤した。
「それで、今日は何をお話しすればよいのでしょう」
「匙之宮琴音さんのご遺体が見つかったことは、電話でお話ししましたね」
紀秋はため息をつくと、ソファーに深く腰を埋めた。
「はい。これで三人目ですか。なんて恐ろしい」
「大和田さん。私はあなたに、東条さんと垣本さんのご遺体が見つかったことを以前お話ししました。しかし、守秘義務から彼女たちのご遺体の様子について詳しくお伝えすることはできませんでした」
紀秋は大きくまばたきをすると、『えぇ』とかすれた声を出した。
「首を絞められたと聞きましたが」
「そうです。しかし、私はもっと詳しくあなたにお伝えするべきだったかもしれない。美術史の専門家であるあなたに、ね」
紀秋の眉間にしわが寄った。籐藤はグラスに手を伸ばすと、もう片方の手で法律の肩をたたいた。
法律は一礼してから口を開いた。
「匙之宮琴音さんは全裸体で見つかりました。その身体は、体内で発生した腐敗ガスが体外に漏れ出るほど腐乱が進行していました」
「なるほど」
「死体内で発生した腐敗ガスは表皮を破り体外に漏出します。破れた表皮からは血がしたたり落ち、彼女の遺体が浸かっていた水たまりは赤黒く染まっていました」
「むごいですね。だけどそれがどうして美術史と……」
「一人目の被害者である東条都さんの死亡推定時刻は、発見時刻から遡ること一、三時間以内とみられています。彼女は、死体が発見される数時間前までは生きていたのです」
「……はい?」
紀秋が身を乗り出し、食い入るように法律を見つめた。
「そして、二人目の被害者である垣本愛之さんは腐乱がすすみ、全身は腐敗ガスで膨張していました。しかし、体内の腐敗ガスはまだ体外に漏れ出てはいなかった。彼女の肌に傷はなかったのです」
「なんてこった」
紀秋はグラスの緑茶を一気に飲みほした。叩きつけるようにグラスを置くと、左の耳を揉みしだきながら右足だけで貧乏ゆすりをはじめた。
「九相図。それじゃあまるで、九相図じゃないか」
「そうです」
法律が紀秋の瞳を見つめた。
「何者かが、大和田ゼミの人間で九相図を作り上げようとしているのです」
4
「そこで大和田さんに九相図についてご教授願えないかと思ってお邪魔したわけなんです」
籐藤は居住まいをただすと、深く頭を下げた。
「私はなにぶん学がないものでしてね。九相図といわれてもさっぱりだ」
「わかりました」
紀秋は立ち上がると、本棚からA4サイズの資料集をとりだした。
「まずは実際に見ていただくのがわかりやすいでしょう」
開かれた資料集のページには、絹本着色の仏教絵画があった。縦に長いその絵には、上段から下段にかけて、横たわる九つの死者の姿が描かれていた。
「九相図は古くは後漢から伝わる『九相観』という仏教思想と大きな関わりをもっています。『九相観』では人間の死後の姿を九つの段階に分けて瞑想を行うことで、美しい容姿の内側には醜い本性が隠れていると悟り、淫欲を防ぐことができるとされています。とはいえ九つの段階に分かれた死体を頭のなかで思い浮かべろと言われても無理がある。そこで昔は実際の死体を観察してからお堂に戻って瞑想に励んだらしいのですが、死体などそう都合よくそこいらに落ちているものではありません」
「現代と違って戦争は比較的多かったでしょうが、それでも死体が近所に都合よく転がっているわけではありませんからね」
「そこで作られたのが九相図です。人間の死後の姿を『九相観』の教義に従って絵画にすることで、実際の死体を観察することなく容易な瞑想を可能にしたのです。日本で作られた九相図は主に『摩訶止観』という中国隋の講話本に書かれた九相観をベースに作られています」
紀秋はページに載った仏教絵画の最上段にある死体を指で差した。
「第一相の『新死相』では、死後間もない死者の姿が描かれています。敷物の上で横たわる死者は、まだ肌も白く、生前とその姿は大きく変わりません。しかし――」
指が左下へとゆっくりと動いた。
「第二相は『膨張相』。死後体内で発生した腐敗ガスが全身を膨らませます。黒ずんだ死体が巨人のように膨れ上がっていますね」
『膨張相』の死体の上では桜の木が風になびいて花びらを散らしていた。下段に並ぶ死者の背景には、新緑や紅葉、冬の寒さを表す枯草などが描かれている。これら植物がこの絵画に時間という性質を持ち込んでおり、移ろいゆく死体と並べることで、死後の変化が時間と同じように止めどないものであるという無常の理を語っていた。
「次が『壊相』。割けてできた傷口が開き始め、赤黒く血液がにじんだ筋肉が見えています。そして次が第四相『血塗相』。傷口から漏れ出てきた血液が身体を滴って赤く染めていきます」
「死者をこんな風に並べるとは。なんともグロテスクなものだな」
籐藤は口元を手で押さえた。その横で法律は九相図に視線を固めていた。
「グロテスクですか。そうですね。そして、それこそが九相図における本質でもあるのです」
「本質?」
籐藤の問いに紀秋はほほえみで返した。
「あとでお教えします。そして次が第五相の『膿爛相』。肉が剥がれ落ちていき、身体のいたるところに骨が見えてきます。白い点が身体のいたるところにありますが、これは蛆虫です。第六相は『青瘀相』。乾燥がすすみ、黒ずんだ表皮の一部は青く変色する部位も現れます。頭髪も剥がれ落ち、ミイラ化というとわかりやすいでしょうか」
――そして次が――と言ったところで、紀秋は腕を組んで『ふぅむ』とうなった。
「第七相は『噉食相』。ここでは、カラスや犬といった獣が死体の肉を貪り食っています」
「それはおかしくないですか」
法律がページから視線を逸らさず言った。
「第六相の『青瘀相』で死体の肉は剥がれ落ちたのでしょう。なくなった肉を食べるだなんて、順番が逆行しています」
「いえ、これでいいんですよ」
苦々しい笑顔を浮かべながら、紀秋は腕を組んだ。
「九相図はいまお見せしている『人道不浄相図』だけではありません。ほかにもいろいろな種類があるのですが、室町時代以前の九相図はその多くが『青瘀相』から『噉食相』へと続いています。これはもちろん、彼らが死体の変化をよくみていなかったというわけではありません。多くの修行僧は、九つの相にはそれぞれに該当する欲があり、取り除きたい欲に従って瞑想すればよい、つまり厳密にいえば九相観は一から九まで順番に瞑想を行わなくてもよいと説いています。そして、九相図の場合には、この順序を変えることにもうひとつ大きな効用があると私は考えています」
「はぁ、効用ですか」
籐藤の呆けた声に紀秋は大きくうなずいた。
「先ほどお話しした通り、九相図にとって大切なことは容易に『九相観』という瞑想を行い得ることなのです。人間の死体の変化は、序盤は生前の面影がある姿が朽ちていくことで大きなインパクトを与えます。しかし後半になると、黒ずんだ死体と白骨という地味な絵面が続きます。そこでこの『人道不浄相図』は、まだ皮膚が黒ずんでいない死体が動物に食べられているという、いわば生前の面影のある死体が食べられるというグロテスクの極みである相を後半に与えることで、九相図全体のバランスを取ることを図っているわけなんです。九相図という一つの絵画が持つインパクトを強めることで、瞑想が容易になる。私はこれこそが『九相図』における『噉食相』後位性の効用だと考えています」
紀秋は『噉食相』のイラストを指しながら熱弁をふるった。彼の指先では、髪を振り乱した白い裸の女性が、野良犬とカラスに餌食まれ、鮮血に染まった筋肉と肋骨を露出していた。
「籐藤さんがグロテスクだと思われたのは正しいわけです。グロテスクであるとはインパクトがあることに他なりません。禍々しい死の実像を与えることで、瞑想が容易となる。だからこそ、グロテスクとは九相図の本質なのです。説明を続けましょう」
紀秋の指がほぼ白骨化した頭部と大腿骨が転がる第八相へと動いた。
「第八相は『散相』。全身の筋肉はそのほとんどがなくなり、いくつかの身体の部位は既に消え失せています。そして最後に第九相の『骨相』です。完全に白骨化した死体には赤黒い肉の名残はまったくなく、骨は純白そのものです。以上、簡単にではありますが。九相図の基本についてお伝えさせていただきました」
カーテンのすき間から注ぐ光が紀秋の顔をなでた。専門分野について熱く語り終えたところで、彼は籐藤と法律が何のために自分を訪ねてきたのか、つまり、現実で何が起きているのかを思い出したのか、神妙な面持ちに戻った。
「九相図に描かれているのは九つの死体。そして、大和田ゼミから失踪したのも九人。つまりは、残りの六人もこの九相図を模した遺体となって発見されるというわけですか」
籐藤の現実主義者らしい言葉が狭い研究室に響いた。彼はいま、法律が匙之宮琴音の遺体の前でつぶやいた言葉の意味をやっと理解した。
『他の六人は、おそらく、既に亡くなっている』
東条都の遺体が見つかってから既に十一日が経っている。犯人はなぜ遺体を一つずつ置いていくのか。それは、手元にある遺体の腐敗を待っているからだとしたら。
「九月三日、歩道橋で見つかった東条都さんが『新死相』」
緊張の張りつめた声で法律が言った。
「九月八日、蓮下学園初等部で見つかった垣本愛之さんが『膨張相』」
「そして九月九日に下北沢で見つかった匙之宮琴音が『壊相』というわけか」
「……そうでしょうか」
法律が唇の先を尖らせた。
「たぶん、彼女は『壊相』じゃありません。大和田さん。先ほどあなたは『壊相』を『割けてできた傷口が開き始め、赤黒く血液がにじんだ筋肉が見える』と説明しましたね」
「え、ええ」
「そして、第四相である『血塗相』を傷口から漏れ出てきた血液が身体を滴っていくと説明しました。わかるでしょう。匙之宮琴音さんの遺体は傷から血を垂れ流していた。犯人は彼女の遺体で『血塗相』を再現しようとしたんです」
「それじゃあ『壊相』はどこにあるんだ。まだ見つかっていない遺体がどこかにあるっていうのか」
「いや、たぶん『壊相』はないんじゃないですかね」
紀秋は二つ並んだ机の左からピンク色のクリアファイルを持ってきた。
「先ほどすこしだけお伝えしましたが、九相図はこの『人道不浄相図』だけではありません。世の中には様々な九相図があり、そして、私の姉が夏合宿の授業で題材に扱っていたのがこれです」
籐藤と法律は紀秋が取り出したA4サイズのプリントに食らいついた。
横に並んだ四つの青白い雲が、四段の層をつくっていた。最上段では屋敷の一室で一人の女性が床に臥せており、その周囲には目頭をおさえる束帯姿の男性が一人と、緋色の唐衣をまとった三人の女性がいた。
二層目には三つの死体が、三層目にも三つの死体が描かれ、最下層の四層目には、右に白骨が、左には墓石が描かれていた。
「第五十二代天皇『嵯峨天皇』の皇后、『橘嘉智子』を描いた九相図です」
「平安時代の方でしたね」
「そうです。橘嘉智子は仏教の一派である禅宗に篤く帰依しており、京都の嵯峨野に日本初の禅寺である『壇林寺』を創建、やがて『壇林皇后』と呼ばれるようになりました。そのためこの九相図は『壇林皇后九相図』と呼ばれています」
籐藤は二つの九相図を見比べた。相違点もあれば、一致点もある。
「大和田さん。この九相図の解説をお願いします」
「はい。最上段を見てください。床に臥せているのは壇林皇后その人に他なりません。これは第一相の『新死相』です。そして次がこれです」
紀秋は二段目の右にある死体を指さした。
「これは膨張相か」
九相図に慣れ始めたのか、籐藤がそう口にした。
「正解です。第二相までは『人道不浄相図』と同じです。しかし、第三相を見てください」
二段目の中央の死体へと紀秋の指が滑る。
「横向きに倒れた死体の表皮は割け、血液が地面に向かって垂れ落ちています。これは『血塗相』です。壇林皇后九相図の第三相は『血塗相』なんです。『新死相』『膨張相』『血塗相』と続く九相図は決して珍しくありません。むしろこの流れが主流です。姉は以前からゼミ合宿ではこの九相図を題材に授業をおこなうと言っていました。『われ死なば、焼な、埋むな、野に棄て、やせたる犬の腹を肥せよ』。絶世の美女たる壇林皇后が色欲に囚われることなく、自身の遺体を死後は野に放てと遺言を残した伝承は逸話としていまでも語り継がれています」
「見立て殺人の題材としては最適というわけですね」
法律は大きな手のひらで顔をぬぐった。
「『血塗相』以降はどう進むのですか」
「はい。第四相は『胞乱相』。字は違いますが、これは『人道不浄相図』の第五相『膿爛相』と意味は同じです。第五相は『噉食相』で、第六相は『青瘀相』」
「『人道不浄相図』では『青瘀相』、『噉食相』の順番だったな」
「おそらく、作者はやはり自然の変化のまま描くのが正しいと考えたのでしょう」
「続きを」
前傾姿勢で両手を組んだ法律が先を促す。
「第七相は『白骨連相』です。先ほどの『散相』とは異なり、肉の破片が骨に残っているということはありません。真っ白な骨が人の形のまま地面に転がっています。第八相が『骨散相』。風に吹かれて白骨が散らばっています。そして最後が『古墳相』です」
三人の視線が最下段左に書かれた五輪塔の墓石に集まる。
「朽ち果てて尽きた死者は墓石に収まることで終焉を迎えるというわけです。以上が『檀林皇后九相図』の簡単な説明になります」
「『新死相』『膨張相』『血塗相』」
籐藤が言った。
「『胞乱相』『噉食相』『青瘀相』」
紀秋が言った。
「『白骨連相』『骨散相』『古墳相』」
最後に法律が言った。
沈黙の帳が落ちる室内で、次の言葉が紡ぎだされるまでに長い時間がかかった。
5
「やはり、彼の仕業なのでしょうか」
紀秋の言葉に籐藤のほほがひくりと動いた。
「彼はまだ見つからないのですか」
返事はなかった。籐藤の沈黙が肯定を意味していた。
第一の被害者、東条都が死体として発見された時点で、一人の人物が捜査線上に被疑者として浮かび上がっていた。
男の名は江川富彦。徳和大学の歴史学科に所属する学部生だ。
「大和田さん。もう一度、江川という男について聞かせてもらえますか。大まかなことは籐藤さんから伺っていますが、あなたの口から直接お聞きしたい」
「わかりました」
紀秋はうなずいた。
「江川富彦。二十九歳。うちの大学の二年生です。国立京橋大学の大学院で歴史学の修士号を取得したあとに、徳和の学部に入学してきました」
「おかしな学歴ですね。京橋大学といえば国内でも指折りの名門校だ。失礼ですが、徳和大学と比べると……」
「いくつもランクは下がりますね」
「そんな人間がどうして徳和大学に入学したのでしょう」
紀秋はしどろもどろになり、シャツの襟もとをパタパタとはたいた。
「彼はその……京橋を卒院しただけあってたしかに頭のいい学生です。ただ、そうした経歴をひけらかすところがありまして、とにかく自己顕示欲が強いのです。徳和大学に入学したのも、自分より偏差値の低い学生と机を並べることで、自分が優秀な人間であることを自認したかったからではないかと」
「ばかげている」
籐藤が鼻を鳴らした。
「私もそう思います。ただ彼は徳和大学に入学した理由を聞かれると、美術史に興味があり、研究家としての姉を尊敬しているからだと言いました。そんなはずはありません。京橋の友人からきいたのですが、彼は学部の頃から一貫して戦国武将の研究に励んでいたのです。美術史だなんて畑違いも甚だしい。姉は三十代で准教授の椅子にたどりついた優秀な学者です。今後の美術史をけん引していく存在になることは間違いありません。だから江川くんは、そんな姉の周囲にまとわりついて、おこぼれをもらおうとしているのではないかと、そんなふうに噂されています」
「おれは高卒だからよくわからんが、大学院に行けるほどの頭のいいやつなら、順当にその道を進めば学者としての芽がひらいたんじゃないのか」
籐藤が苦々しい口調で言った。ワイシャツの胸ポケットに入った煙草を、左手がシャツの上からいじくりまわしていた。
「いいえ。学者にとって試験で満点を取ることは前提に過ぎません。学者を学者たらしめるのは『ひらめき』です。江川くんには『ひらめき』がなかった。教科書の中身を暗記するばかりで、彼は『ひらめき』を磨こうとしなかった。『ひらめき』をもたない人間は学会に入ることはできません。修士号を得るので精いっぱいでしょう。彼はどうやら京橋で周囲の『ひらめき』を目のあたりにして、自己顕示欲を著しく傷つけられたそうです。彼はそれを認めなかった。自身の傷を直視せず、周囲が自分を不当に認めないと思い込んで、徳和大学に入学したのです」
「自分より知識に劣る学生と交わることで、自分が優秀であると思い込むことにしたわけか」
「もちろん。どんな思い込みがあろうと、徳和大学に入学するのは彼の自由です。我々はそれを妨げるつもりはありません。そして彼が歴史学科の暗黙のルールを破って大和田ゼミに入ってきても、ぼくはそれを批判するつもりはありませんでした」
「暗黙のルール。男子禁制の大和田ゼミってやつですね」
「姉のゼミは開設当初、女学生しか集まらなかったのです。その後も自然と女学生が女学生を呼び、男子には入りづらい雰囲気が生まれました。ぼくも姉を手伝うつもりで一昨年からゼミに参加していますが、ぼくは彼女たちから見たら『おじさん』ですので気にならないみたいですね」
「その暗黙のルールを破ったのが、江川富彦というわけですか」
「はい」
紀秋はうなずいた。
「なんといっても彼は『大和田夏鈴に憧れている』わけですからね。もともと学内の友人が少なかったので、悪評を気にする必要もなかった。ゼミ生たちも暗黙のルールを押し付けるわけにもいきません。ぼくだってゼミに漂う鎖国的な雰囲気が払拭されるのではといくらか期待していました」
――だけど、だめだった――
「彼には礼節がなかった。他のゼミ生の知識不足をあざけ笑ったり、専門用語を並べるばかりでとんちんかんな質問を姉や私に投げかけてきました。議論になりませんでしたよ。協調性が欠けていた。勉強に対する愛が欠けていた。彼にとって勉強とは『優秀な自分』を表現するための道具に過ぎなかったのです」
「変わり者というか異端というか。まぁ、それだけなら問題にはならなかったわけだ。ただ、彼は匙之宮琴音に興味を示した。そうでしたね」
「……そうです」
紀秋の声が一オクターブ下がった。
「江川君はゼミ生の匙之宮さんに好意を抱いていました。それ自体に問題はないのですが、なんというか、彼の愛は偏執的だった。世間一般で言うストーカー行為を彼は働いたのです」
「具体的にどんな」
法律が訊ねた。
「匙之宮さんのバイト先を頻繁に訪れたり、自分が履修していないが匙之宮さんが履修している授業に出席したりとか。『恋人』と直接口にしたわけではないのですが、匙之宮さんと自分は『特別な関係』だと周りに吹聴したりもしていたようです」
「匙之宮琴音のアパートの周囲にも頻繁に出没していらしいですね。偶然を装って声をかけてきたそうだ」
「匙之宮さんは気弱なひとだった。はっきりと江川くんを拒絶できず、彼の行為は徐々にエスカレートしていった。五月のある日、匙之宮さんはゼミの最中に倒れてしまった。精神的ストレスからくる摂食障害に陥っていたのです。ストレスの原因はわかりきっています。江川君です。だから、匙之宮さんと姉妹以上の絆で結ばれているゼミ生たちは、皆で江川くんをゼミから排斥したのです」
「排斥……ですか」
「六月上旬頃のことです。具体的に何をしたのか、彼女たちは私には教えてくれませんでした。もっとも姉にだけは承諾を得ていたようですが。とにかく、彼女たちは江川くんに何かをした。その結果、江川君はゼミから姿を消しました」
「江川富彦は大和田ゼミに恨みを抱いている。被疑者と見なすには十分というわけだ」
「それで、どうなんですか。江川くんは見つかったのですか」
紀秋は同じ質問を繰り返した。それに籐藤は否定の言葉を返した。
江川富彦のストーカー行為は捜査の早い段階から警察に知れ渡っていた。捜査一課の刑事が江川のアパートを訪れ、話を聞いたところ、彼は明らかな動揺をみせ、何も知らないとアパートのドアを無理やり閉めた。
そしてその数時間後。アパート周辺でひったくり事件が起き、監視の目が緩んだ隙に江川は逃亡した。一週間以上たった今も彼の消息は杳として不明のままだった。
籐藤のスマートフォンが鳴った。野上からの電話だった。
籐藤は部屋の外へ出て、数分経ってから戻ってきた。
「大和田さん。私たちはこれで失礼します」
籐藤の顔には怒りの赤と憔悴の青が入り混じっていた。
「何かあったのですか」
紀秋が首を縮めながらたずねた。
「いずれあなたの耳にも入ります。先にお伝えしておきましょう」
ソファーの横に立つ籐藤はため息をついてから口をひらいた。
「四人目の遺体が見つかりました」
6
籐藤と法律は大和田夏鈴の研究室を辞すと、駆け足で建物の外へと向かった。
「殺されたのは誰ですか」
「まだわからん。予想通りというか何というか、死体の腐敗が激しく、そう簡単には判断できないらしい」
「場所は」
「八王子市山中にある個人所有のコテージだ」
「八王子? 九人が失踪した合宿所と同じ場所じゃないですか」
「合宿所から車で三十分ほど走ったところにあるらしい。決して近所とは言えないな。通報は朝だったらしいが、場所が場所なんで大和田さんとアポを取っていたおれたちには事後報告で済ま――」
「廊下を走るのはやめていただこうか」
張りのあるバリトンボイスが二人の右耳を突き刺した。
足を止めて声の方に顔を向ける。談話ルームの椅子にヒメシャラの幹のように細い体躯の老人が座っていた。
老人は黒いハードカバーをテーブルに置いた。よれた白いワイシャツに、ライトグリーンの宝石を付けたループタイがかかっている。白髪を頭の後ろにかき分けており、彫りの深い顔立ちのせいか、どこか猛禽類のようなたたずまいを見せている。
「お二人が噂の刑事さんか」
「はい、あの――」
「市東と申します。歴史学科の教授なんてくだらない役職に座るしがない老人さ」
市東は立ち上がると、矢のような速さで籐藤と法律の横を通り抜けた。
「あの合宿には私のゼミの東条くんも参加していた。彼女が亡くなって、私のゼミ生も悲しんでいるよ」
談話ルームから数えて一つ目の研究室のドアを市東は開いた。
「なにか聞きたいことがあったら来なさい。では、失礼」
言葉を返す間もなくドアは閉じられた。
籐藤と法律は一瞬だけ顔を見合わせ、早歩きで階段へと向かった。
7
八王子市山中の緑深き森の中、人目を避けるようにそのコテージは建っていた。ポーチの屋根が伸びて一階部分の周りを回廊で囲っている。
「ずいぶん立派なコテージですね」
車から降りた法律が三角屋根の上の風見鶏を見つめながら言った。周囲では何人もの捜査員たちが飛び回っていた。
「一番近くの食料品店まで車で三十分かかるらしい。こんな場所にコテージを建てるなんて、よっぽどの変わりものにちがいない」
籐藤と法律はコテージを右回りに北にある庭へと向かった。
生い茂った芝生は何本もの木々に囲まれていた。コテージからまっすぐ進んで、木々を数本超えたところに捜査員たちが集まっていた。
「来たな、お二人さん」
サングラスをかけた野上が籐藤と法律に向かって手を挙げた。その横で初芝がぺこりと頭を下げた。
「おつかれさん。被害者はあの中か」
籐藤は森の中にある赤いテントをあごで差した。
「あぁ。見てみるか。かなりえぐいから覚悟しな」
籐藤は捜査員をかき分けてテントの中をのぞいた。熱気のこもった腐臭に鼻を曲げながら一度だけうめき声をあげた。
仰向けになった全裸の死体は、入り口の目の前に頭を置いて転がっていた。
頭からは頭髪が束となって抜け落ち、眼窩から飛び出した二つの目玉は神経群を引っ張って顔の横に垂れていた。両脚はカエルのように内側に曲がり、全身が青黒く膨れ上がっている点は前の二つの死体と同じだった。
「法律……」
「そうですね」
シャツの袖で口周りを抑えながら、法律は死体を注視した。
「腐敗が進んで肉が剥がれ初めています」
死体の腹部にできた巨大な裂傷から、その部位の肉がだらりとテントの床にこぼれ落ちかけていた。
「『胞乱相』です。間違いない。犯人は『壇林皇后九相図』を作り上げようとしているんだ」
仮説が真説へと様相を変えていく。
頭のなかで無尽蔵に泳ぎ回る可塑性の思考が、音を立て、色を持ち、形となって、その動きを止めた。
違う。止まってはいない。
思考は揺れ動いていた。カタリカタリと微動を繰り返し、一人の探偵の心を揺さぶる。
謎は解けていない。犯人は誰なのか。目的は何なのか。この酔狂なる事態に、一体犯人はどんな価値を見出しているのか。
「籐藤くん」
背後から声をかけたのは、検視官の嶋田清和だった。ヘアキャップとマスクのすきまに見える肌には玉のような汗がへばりついていた。
「被害者についてちょっと話したいんだけど」
まるまると太った身体を揺らす嶋田と連れ立って、籐藤と法律はコテージの方へ歩き出した。
「今日も万願寺さんは来てないんだな」
階級は嶋田の方が上だが、同年代という点と嶋田のフランクな態度から籐藤は敬語を使わなかった。
「うん。なんかこの事件には関わりたくないみたい。全部ぼくに押し付けてきたよ。万願寺さんの娘さんも被害者と同じくらいの年頃だし、感情移入しちゃうのかもね」
芝生を踏みながら籐藤は何度も深呼吸をした。テントの周囲を漂う腐臭もコテージのそばまでは漂ってこなかった。
「ふぅ。こんな暑い日に外での仕事はいやになっちゃうよ」
嶋田はウェストポーチからハンカチを取り出して、顔を覆う汗を丹念にふいた。
「で、被害者は誰だ。やっぱり、大和田ゼミの人間か」
「たぶん、林さゆりって子だよ。腐敗がかなり進んでるから外見だけで判断するのは難しいけどね。でも、二十歳前後の女性であることには間違いない。DNA鑑定を依頼しておいたから、結果が出れば誰なのかわかるよ」
「死因は」
「しっかり解剖しないとなんとも言えない。ただ、首に索状痕が残っていたね」
「前の三人と同じだな」
「その点もふまえて、やっぱり失踪事件の一人だと思うよ。ところで……」
好奇心に満ちた嶋田の視線が籐藤の後ろに立つ法律に注がれた。
「馬鹿。じろじろ見るんじゃねぇ」
籐藤が嶋田の頭をキャップ越しに叩いた。
「失礼失礼。どうも噂の探偵さんっていうのがどんな人なのか気になってね。ふぅん。こんな若いひとだったんだ。まだ二十代じゃないの」
「籐藤さん。恒河沙さん」
コテージの左手から初芝が姿を現した。
「第一発見者の事情聴取が終わりました。簡単にまとめたので報告させていただきます」
後方にあるベンチに若い男が座っていた。金髪を肩まで伸ばした幼い顔立ちの青年だ。青白い顔で落ち着きなく周囲を見回している。
「テントの中の遺体を発見したのは、青島悠一、二十七歳の大学生です」
「うしろにいるあの兄ちゃんか」
「はい。このコテージの管理人として住み込みのアルバイトをしていたそうです。起床後日課の窓ふきの掃除をしていると、森の中に赤いテントを見つけたそうです。外からテントに向かって呼びかけるが返事はない。仕方なくチャックを開けて中をのぞき、遺体を発見したそうです」
それから――と口にして、初芝は口をへの字に曲げた。
「なんだ。はっきりと言え」
「は、はい。それからですね、この青島悠一なんですけれど、彼が通っている大学というのが、徳和大学なんですよ」
「なんだと」
籐藤は眉間にシワを寄せた。
「徳和大学の学生なのか」
「はい。学部の四年生です。もっとも、大和田ゼミとは関係のない法学部の学生ですが。ただ、このコテージのアルバイトを募集したオーナーがですね、市東透という徳和大学歴史学科の教授なんですよ」
「な、なんだって!」
籐藤の叫び声が山中に響いた。
法律は彼を横目で見ながら、小さな声でつぶやいた。
「まぁたしかに。あの老人は変わりものといった感じでしたね」




