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第三章

 1

  「……うぇぷ」

  口腔に漂う胃液の臭いが再び嘔吐を誘った。昨夜からの汗と雨を吸い取ったシャツが背中にべったりとくっつき、八木田陽太やぎたようたの白い肌が感じる不快指数をぐいと上げていた。

  K町の繁華街は人込みにあふれていた。

  時刻は朝の七時を回り、ワイシャツ姿のサラリーマンや通学する学生のすがたが多く見られる。好奇と嘲笑の視線を向けるばかりで、陽太を介抱しようとする者は一人としていない。陽太自身もそんな期待はしていなかった。

  風が吹いて陽太のビニール傘が灰色の空に吸い込まれていった。罵声の代わりに小さなげっぷが陽太の口から漏れ出る。ポストを掴んでいた手が滑り、両膝が水たまりの中に落ちていった。

  「ぅあ。ちくしょ……」

  雨水に打たれてインディゴブルーのジーパンが黒く染まっていく。前髪から落ちる水滴が目に入る。濡れた手で両目をこすると、不明瞭な視界が悪化した。

  陽太はビルとビルのすき間に入りこんだ。人気のない路地裏。シャッターが閉じた左手の店先からモスグリーンの庇が伸びている。庇の下に座り込み、荒い呼吸を整える。庇を叩く雨粒の音がドラムロールのように鳴り響く。隙間風が奏でるシャッターの音はシンバルだろうか。

  胸に噴き上げる不快な感覚が陽太の身体を突き動かした。ジーパンのポケットに長財布が入っていることを感覚で確認する。とにかくコンビニだ。コンビニで傘を買って、早いところアパートに帰ろう。

 黒いほこりにまみれたシャッターに手をかけて立ち上がる。陽太はふらつく足取りで路地裏を進んだ。

 この路地裏にはシャッターが閉じた店舗が並んでおり、そのどれもが雨よけになる庇を設けていた。

  陽太は庇から庇へと身体を移し、雨を避けながら路地裏を進んだ。割れたビールケースや泥のついたビニール袋、壊れた自転車といったガラクタがいたるところに転がっている。どの店のシャッターもほこりが厚く積もっており、『かつての繁栄』なるものがあったのかどうかは定かではないが、飲み屋通りとしては廃れて久しいようだ。

  吐いてしまえば楽になるとはわかっていた。だが陽太は嘔吐だけはしたくなかった。彼は新潟県にある酒蔵の次男坊として生まれた。酒蔵の子どもが酒を吐き出すなどとんでもない。誰に教えられたでもなくそんな矜持を彼は胸に抱いていた。

  まぶたがのりで固められたように重い。前のめりになりながら体を動かす。庇から庇へ。庇から庇へ。庇から庇へ。庇からひさ――

  陽太は足を止めた。

  オレンジ色の庇の下に雨がふきこんでいた。陽太は視線を上げた。庇の一部がズタズタに割かれ、幅三〇センチほどの穴が空いている。この穴から雨がふきこんでいるのだ。

  「困ったなぁ」

  陽太は現実を見ようとしなかった。

  「これじゃあ濡れちまうじゃねぇか」

  陽太は視線を下げようとしなかった。

  「引き返すか」

  数秒前に視界に入った()()の存在を認めようとしなかった。

  「でも、ずいぶん歩いてきたぜ。いまさら引き返すなんて」

  こんなものがあるはずがない。凡庸な自分の人生に、こんなものが現れるはずがない。  

 そう自分に言い聞かせていた。

  ろうのように固まっていた両脚が踵を返した。しかし、脚はもつれ、陽太の上半身は庇の外側に倒れこんでしまった。

  降り続く雨が陽太の身体に突き刺さった。彼は片手をあげて雨を防ぐことすらしなかった。

  否。できなかった。

  彼の視界はそれを捉えた。

 倒れこみ、低くなった視線は、確実にそれを捉えた。

  庇の下に人間の遺体が転がっていた。

 青黒く腐敗した遺体。その頭が浸かっている水たまりは、生理的嫌悪感を引き立てる赤に染まっていた。

  陽太の腹がぐるりと奇怪な音を発した。

 そして彼は激しく嘔吐した。

 

 

 2

 九月九日 水曜日


  神保町駅の北口から白山通りを三分ほど北上。青い看板の豆腐屋と赤い看板のラーメン店が入り口にある横道をしばらく直進すると、ほどなくして一風変わったビルが見えてくる。

  三階建てのビルはそこそこの築年数を経ているらしい。クリーム色の外壁にはところどころにひび割れが走り、二階部分を装飾しているタイルはいくらか剥がれ落ちている。このビルを特徴づけているのは、建物の左手にある巨大なクスノキだ。庭に生えた幹周が十二メートルはあろうかというそのクスノキは、ビルと同じほどの高さを誇り、枝がビルの外壁をつたって伸びている。

  「ここか」

  ビルの前に立つ籐藤剛とうどうつよしはカバンからペットボトルのお茶を取り出して喉を潤した。

  腕時計を見る。八時三〇分。雨上がりの空は青く澄み渡り、白く小さな雲が点在していた。

  一階部分には中央に仕切りを挟んで二枚のシャッターがおりていた。シャッターの右手にある開きっぱなしの両扉をくぐり玄関に入る。四畳ほどの空間。年季の入った集合ポストが壁にかかっている。ポストの口は六つあったが、一つを除いて緑色のテープで塞がれていた。

  音を立てながら灰色の階段を上っていく。二階の廊下は閑散としていた。フロアタイルはひび割れ、壁の白いペンキは黒ずんでいる。まるでドラマに出てくる不良学校のようだ。

 廊下の壁が途切れたところでは緑のテープが×印をつくり侵入を拒んでいた。テープの向こうには細い廊下が伸びており、中央が十字路になって別れていた。雑居ビルのようなつくりだ。十字路の右手から左手を一匹のヤモリが走っていった。

  三階への階段を登りきると、目の前に一枚のドアが現れた。ドアの横には『恒河沙探偵事務所』と書かれた木製のプレートがぶら下がっている。

  籐藤はドアを開けて部屋の中に入った。ウェルカムマットの向こうには予想に反して小ぎれいな空間が広がっていた。

  白い壁紙に囲われた室内は窓からの陽光が降り注いで黄色く輝いていた。三十畳ほどの広間の中央に四つの机を固めた島が作られ、その背後、籐藤が立つ入り口と向き合う形で、横に長い机が窓ガラスを背にして置かれていた。

  その机の前に、若い男が立っていた。

 稲穂のように背の高いその青年は、細い目をしばたたかせながら呆けた表情で机を見つめていた。

  青年は籐藤の存在に気づき、目をしぱしぱとまばたかせた。

「あ、どうも。えっと、お客さんですか」

  清流のような美しい声色が籐藤の耳に流れ込んだ。

  「あ、あぁ」

  肯定の言葉を口にしながら、さて返事は肯定でよかったのかと籐藤は首をかしげた。探偵に用があって訪れたことは間違いない。しかし、それは彼らが通常請け負っているような『正規』のルートによるものではない。ある意味では『肯定』であり、ある意味では『否定』が正解だ。

  ベージュのチノパンにスカイブルーのネルシャツ。シャツの胸ポケットから黒いG―ショックを取り出して、青年はそれを左腕に装着した。青年の視線がちらりと時計に注がれる。籐藤はゆさぶりをかけるつもりで約束よりも三十分早く訪れてみた。相手がどんな反応を見せるのかが気になったのだ。

  しかし青年は、時計を見ても顔をしかめることさえしなかった。

  細く長い腕を伸ばし、『どうぞ』と衝立の一角へと籐藤を促した。

  「そちらにソファーがあります。いま飲み物をお持ちしますので。コーヒーで……」

  「いらない。ことは一刻を争う。手早くすませよう」

  ここまできて籐藤はやっと自分の勘違いに気が付いた。

  この青年はかつら小田切おだぎりが言う『探偵』ではない。地味な服装と高身長から見誤っていたが、青年は所詮青年(若造)だ。警察の捜査に協力するほどの手練れだとは思えない。おそらく、この事務所の雑用係か何かだろう。

  部屋の左手には衝立で囲われた一画があった。そこには黒いソファーとローテーブルが置かれていた。

  衝立の中に入る直前、籐藤は振り返って青年を見た。

  青年は、窓際に置かれた机の椅子に腰をかけると、引き出しを開けてルーズリーフの束とボールペン、そして机の上から一枚の名刺を持ち出した。

  籐藤は自分の心臓が焦燥のリズムを奏でていることに気が付いた。

  雑用係が上司の机に座り込むなんて、そんなことがあり得るのか。それに加えて、名刺とルーズリーフだと。まるで『これから私が話を伺います』と言っているようなものではないか。

  その行動が、絵に描いたような礼儀知らずな若者のものなら話はわかる。しかし、ほんの数分に満たない間とはいえ、籐藤の青年に対する印象は『好』を頭に付けたものとなっていた。礼儀を知らない男だとは思えない。少なくとも、約束の三十分前に現れる男と比べたら。

  青年は衝立の陰に立つ籐藤に気が付くと、軽く口を開けて花のような笑顔を見せた。

  黒い革製のソファーに腰を落とす。籐藤はシャツの第二ボタンを外した。ローテーブルをはさんで反対側のソファーに青年が音を立てずに座り込んだ。

  名刺を差し出そうとする青年に先んじて、籐藤は警察手帳を開いて見せた。

  「警視庁捜査一課の籐藤剛だ。話は聞いてるな」

  威圧感を醸しだすため籐藤は低音でそう言った。しかし、そんな声色も青年にはどこ吹く風。彼は小さく口を開いて籐藤を見つめていた。

  「はぁ。警察の方ですか」

  「話を聞いてないのか。うちの桂か小田切から連絡は……」

  二人の名前を出した途端、青年は肩を降ろしてため息をつき、憂いた視線を足元に投げつけた。

  「そういうことでしたか。あのひとはまた勝手なことを」

「勝手なこと? きみはいったい」

  籐藤はローテーブルに置かれた青年の名刺を手に取った。

  「ごあいさつが遅れて申し訳ありません」

  顔をあげて胸に手を置く青年の姿を、籐藤は名刺越しに見つめた。

  「私、恒河沙ごうがしゃ探偵事務所所長を務めます、恒河沙法律(ほうりつ)と申します」

  以後お見知りおきを。法律はそう付け加えた。

 

 

 3

  「日本の警察は検挙率が高いなんて市井の皆々様は鼻高々におん語られますが、実際のところ例えば昨年度の凶悪犯罪の検挙率は八割で八割ってことは十回やれば二回は相手を殺しても逃げおおせるってわけだよね。率としては悪いもんじゃないよ。絶世期を終えた中堅プロ野球選手の打率と同じくらいって感じ。彼がヒットを打つ確率とひとを殺めて逃げおおせる確率はほぼいっしょ。そう考えると警察をほめる気持ちになんてとてもなれない気がするよね。がんばってます。がんばってます。おまわりさんたちがんばってます。おや、十発の銃声。お二人がお亡くなりになられました。十人のうち八人が助かったので、二人が凶弾に倒れても誰も咎めない。私たちは安心してお給料をいただいて、その日の晩ご飯をおいしくいただく」

 桂は机の上で腕を組み、大きな目玉をゴロリと回した。

  「本当にそうかな。私たちは二つの遺体を前にしておいしくカレーライスを食べられるのかな。もちろん違う。私たちは十割を目指している。この世にはびこる全ての悪を刈り取らんと尽力している。それでも私たちの両手から悪人は逃げ出す。粒子の細かい砂のように、掴んでも掴んでも悪人は逃げていく。ねぇ籐藤くん。どうしてだろう。どうして私たちは二割の悪人を取り逃がしてしまうんだろう」

  カーテンの閉め切った室内で空調の音だけが静かにうなり声をあげていた。

 籐藤の返事を待たず桂は言った。

  「それはね、私たちが『常人』で、やつらが『狂人』だからだよ」

  「狂人?」

  桂は椅子から立ち上がると、部屋のすみに置かれた観葉植物をなで始めた。

  「ひとは論理のなかに生きている。論理から外れた道をひとは選ぶことができない。事実として私たち『常人』には『狂人』の論理が理解できない。それは未知なる言語で書かれているのかもしれない。では『狂人』を捕らえるにはどうしたらいいのかな。『狂人』の論理を読み解くためにできることとは何か。答えは、わかっているね」

  籐藤は右手を握りしめた。その手の中にある名刺が抗うように籐藤の手を突き刺した。

  「『狂人』を味方につける」

  「正解」

  桂の瞳がにび色に燃えた。

  「『恒河沙』とは私たち日本警察の最終兵器だ。この探偵は法外な報奨金を代価に確実な結果を提供する。『ビッグ・アップル事件』『夢裂ゆめさき邸殺人事件』。『郡宮こおりみや市児童連続殺傷事件』。『数的概念事件』。『紅葉こうよう事件』。これまでも彼はあらゆる難事件を解決してきた。彼の前には『謎』が形をなさない。それゆえ彼はこんな俗称で呼ばれている。『反謎アンチミステリー』と」

 桂が挙げた事件には共通点が二つあった。

 一つは、そのどれもが日本犯罪史に名を遺した難解にして残虐な怪事件であったこと。

  そしてもう一つは、そのどれもが日本政府高官や財界の著名人、国外からの貴賓や、果ては皇室関係者といった種々多様なる大御所が関わっていたということ。スキャンダライズにして、事件の解決の如何によってはその後の警察人事に多大な影響を及ぼすことになる大事件だったということだ。

  『徳和大学女子大生失踪事件』もまたこの二つの要素をもつ事件であった。

  「この事件は何かがおかしい。表面上の情報をなぞると、私にはそれが難事件だとは思えない。証拠はいくらでもあるはず。失踪者はすぐに見つかるはず。だけどそうはならなかった。そうはならず、失踪した二人が遺体となって見つかった。私に言わせれば『あり得ない』事件だよ。君ら現場の人間を責めているわけじゃない。この事件を『あり得ない』と定義して、どうしてきみらを責められようか。そうだ。この事件は『狂人』による事件だ。『常人』のきみらでは解くことができない。だから『狂人』の協力を仰ぐわけだ」

  「しかし警察が民間人に捜査の協力を依頼したなどと表立って言うことができない。そこで私が秘密裡にこの探偵の窓口になって共に捜査にあたるというわけですね」

  「そうだ」

  小田切がうなずいた。

  「どうして私に白羽の矢が立ったのかはわかりませんが、警視監は私と恒河沙さんが協力すれば、事件が解決できると信じているのですか」

  「まぁね」

  桂もうなずいた。

  「『恒河沙』の存在は警察内でも一部の人間にしか知られていないトップシークレットだ。現場に連れ込むのは構わないが、彼のことを知らないものに怪しまれないよう、臨機応変に立ち回ってくれ」

  「小田切さんは、恒河沙さんのことを知っているのですか」

  籐藤がそう問いかけると、小田切は頬を引きつり上げ、苦虫を噛みつぶしたような顔を見せた。怒気のこもったその表情はさながら愚かな人間に神罰を与える本物の『天狗』のようだった。

 

 

          4

  「ほかにひともいませんし、どかしますね」

  法律はソファーから立ち上がると、周りを囲う衝立どかした。籐藤のつま先に窓から指す太陽の光が触れた。

  籐藤の頭の中で『狂人』の二文字が舞い踊り、その言葉が籐藤の目つきを不愛想なものに変えていた。

  ――警視監はこの男を『狂人』と呼んだ。刑事部長は態度でもって彼を忌み嫌っていることを表した――

  自分はどうなるのだろう。自分は恒河沙法律という男と出会い、言葉を交わし、彼にどんな評価を与えることになるのだろう。籐藤の胸中には経験したことのない奇妙な靄がかかっていた。

  法律は再びソファーに座りこんだ。

  「さきに、この事務所のことを尋ねてもいいか」

  籐藤の問いかけに法律は『どうぞ』と答えた。

  「ふだんはどんな仕事の依頼が」

  「えーっと。いろいろとやっていますよ」

  「あいまいな言い方だな。探偵事務所ってことは素行調査や保険調査が多いのか」

  「いえ。そういった仕事はしばらくはやってないですね」

  「じゃあ、最近は何を」

  「……猫ですね」

「は?」

「迷い猫の捜索とか、野良猫を保護して去勢手術を受けさせる活動のお手伝いとかをやっています」

  「……」

  籐藤はポケットから滅多なことでは吸わない煙草を取り出した。

  「耳がV字に切られた野良猫を見たことはありますか。あれは去勢手術を終えた証なんですよ」

  「他の従業員は」

  籐藤は部屋の中央に固まった四つの机をあごで差した。

  「いません。私一人だけです」

  法律の顔が強ばった。籐藤はその変化を見逃さず、前傾姿勢で探偵をにらみつけた。

  「おれは恒河沙探偵事務所が八年前に起きた『郡宮市児童連続殺傷事件』を解決したときいている。当時おれは警視庁にはいなかったから、お前のことは知らない。だがあの事件を解決に導いたお前さんのことをおれの上司はえらく評価している。今回の事件もお前に解いてもらえると期待しているわけだ」

  「ええ、もちろんです」

  表情は強ばったまま、しかし、その瞳は凛として籐藤を見つめていた。籐藤はその瞳に自分たち捜査一課の人間と同じものを見出した。つまりは、捜査に尽力し、事件の解決に献身するという意志の力を。

  「まずはこれまでの事件のことを説明しよう。先月の十八日のことだ。私立徳和大学文学部歴史学科のゼミグループが多摩地域八王子市山中にある同大学合宿所で合宿を行っていたところ、十九日の朝になってそのほとんどが失踪した」

  「『ほとんど』とは?」

  「合宿に参加していたのは大和田夏鈴おおわだかりん准教授以下九名の学部生。そのうちの一人の学部生を残して、他の九人が失踪した。失踪者の中に准教授も含まれているが、便宜上今回の事件は『徳和大学女子大生失踪事件』と呼ばれている」

  「わかりました。残された学部生は九人の失踪についてなんと言っているのですか」

  籐藤は半分ほど口を開いたところで押し黙ってしまった。口元を手で隠しながら小さな唸り声をあげ、法律の問いかけを黙殺した。

  「九人が失踪してから十五日後の九月三日。失踪した九人のうち一人が江東区で遺体となって見つかった。被害者の名前は東条都とうじょうみやこ。遺体は歩道橋の上で下着姿のまま放置されていた。死因は絞殺。それから五日後。文京区にある私立蓮下学園初等部の校舎内で垣本愛之の遺体が見つかった。死因は東条都と同じく絞殺だ」

  「小学校の校舎で?」

  「正確には境界壁の内側だ。その学校は変わった造りをしていてな、校舎と境界壁の間なら夜間でも入れるんだ」

  「大和田ゼミについて教えてください」

  「よし」

  籐藤は腰を浮かしてソファーに座りなおした。

  「大和田夏鈴は徳和大学の文学部歴史学科で教鞭をとる准教授だ。年齢は三十二歳」

  「その若さで准教授ですか」

  「あぁ。学会でも注目されている若手研究者だ。学生や同僚からの評判も高く、三十代にして教授就任の可能性もあるそうだ」

  「人から恨みを買うようなことは」

  「能動的にはしていないだろうな。ただし、勝手に恨んでくるやつが世の中にはわんさかいるものだ」

「その才能をねたんでいるひとも少なからずいるでしょうね」

  「失踪したゼミ生に関しても悪い噂を聞くことはなかった。学内や各々の地元の友人にまで聞き込みをおこなったが、特別彼女たちのことを悪くいう人間はいない。おっと。大事なことを忘れていた」

  籐藤は短くなった煙草をステンレスの灰皿に押し付けた。

  「失踪した八人は全員が女性だ。合宿所に残されたゼミ生も女性。大和田ゼミは女性だけで構成されている」

  「徳和大学は女子大なのですか」

  「共学だ。歴史学科の生徒は男女比半々だ。それなのに大和田ゼミの構成員は女性のみ。これは一種の文化だ。大和田ゼミは結成初年には数人の生徒しか集まらなかった。そのすべてが女子学生で、その時男子禁制のオーラを放つ女子特有の『絆』が形成された。翌年、翌々年とゼミ生の数は増えていったが、それらすべては女子学生だった。歴史学科の生徒たちの間では、大和田ゼミには女学生しか入ってはいけないという不文律が知れ渡っていたようだ」

  「残された学生というのは何者なのですか。彼女と他の九人とは何が違ったのでしょうか」

  籐藤は能面のように表情を固まらせ、たっぷり二分は沈黙を貫いた。法律はその沈黙に付き合った。別の質問をするでも、乾いた相槌を打つでもなく、沈黙で返したわけだ。

  根負けしたのは籐藤だった。先ほどのようにごまかすことはできなかった。

  「……兎走千沙うばしりちさ。二年生。ゼミ合宿二日目、十人の合宿参加者は夜の八時半から宴会をひらいていた。乾杯から三十分後、兎走は体調を崩し寝室に向かった。彼女はそのまま眠りにつき、朝になって目覚めると、合宿所から全員の姿が消えていたことに気づいた」

  「なるほど。兎走さんは皆さんの失踪について何か心当たりはあるのでしょうか」

  「わからない」

  「はぁ、心当たりはないと」

  「いや、そういう意味じゃない。心当たりがあるのかどうか、おれたち警察にはまだわからないんだ。兎走千沙はゼミ仲間の失踪に相当なショックを受けたみたいでな、この半月近くずっと自宅で寝込んでいる。医者からも面会謝絶を言い渡され、おれたち警察は彼女から大した情報を聞き出せていないんだ」

  籐藤が兎走について語りたがらない理由はそこにあった。

  情報が得られないという点は同情に値する。しかし、実際問題として、失踪した人間は遺体となって白日の下に晒されているわけだ。周囲が非難するまでもなく警察の自責の念たるや余程のものであろう。

 事件解決のカギは兎走千沙が握っているはずだ。それなのに手を伸ばすことは許されない。彼女に非がないことはわかっている。それでも籐藤たち捜査員はいらだちの拳をふりあげずにはいられなかった。

「警察のみなさんは九人が誘拐されたと考えているわけですね」

「あぁ」

  「犯人からの連絡はないのですか」

  「皆無だ」

  「誘拐犯と殺人犯は同一人物でしょうか」

  「わからない。仮に同一人物ではないにしても、無関係ということはないだろう」

  「九人が自主的に合宿所を離れたという可能性もありますよね」

  「そうだな。誘拐犯なんて最初からいなかったわけだ」

  実際この線は説得力を持つのではないかと籐藤は考えていた。女性とはいえ、九人もの人間を本人の意志に反して連れ去るなど至難の業だ。彼女たちが自ら望んで合宿所を離れたと考える方が合理的ではないのか。

  もっともその場合は『どんな理由で』合宿所から離れたのかを説明しなければならない。何か合宿所に危険が迫っていたのだろうか。いや、現場検証ではそのような事態を示す証拠は見つからなかった。加えてこの場合、九人は病床の兎走千沙を置き去りにしたことになる。大和田ゼミの結束は強かったと籐藤は聞きている。そんな彼女たちが兎走を見捨てていくとは思えない。

  「九人全員が誘拐されたわけではないという可能性。九人のうち数人が、誘拐犯を手引きしたという可能性もあるわけですね」

  「もちろんだ」

  被害者が複数人いる場合、被害者のなかに、犯人への協力者がいるというパターンはそれほど珍しくもない。この場合既に死体となって見つかっている東条都と垣本愛之は協力者ではないということだろうか。必ずしもそうとは限らない。協力者はすべてを知っている。犯人にとって真実が露見する可能性を内包した協力者ほど危険なものはないのだから。

  「ふーん、なるほど。なるほどなぁ」

  法律は温厚な表情でそういった。籐藤はそれを見つめる。刑事の心中には絡まった釣り糸のように釈然としないものがあった。

 

 ――こいつが、『狂人』?――

 

  人間観察のプロフェッショナルである刑事の目からして、籐藤には恒河沙法律に『狂人』という不名誉な冠を被せることはできなかった。

  頭が回らないわけではなさそうだが、思考機械とでも呼ばれるような天才肌にもみえない。世間一般から逸脱した価値観を抱いているわけでもなさそうだが、探偵なんて変わった職業に勤めている以上『平凡』と呼ぶにも抵抗を覚える。

  籐藤は法律のことをそう評価していた。

  「では具体的な話として、これからどうしますか」

  法律は背筋を伸ばし、両手を膝のうえに置きいた。

  「まずは第一、第二の遺体発見現場に行こう。鑑識が徹底して調べたから、何か新しい発見というわけにはいかないだろうが、お前さんにも現場を見てもらいたい」

  「わかりました。それから、先ほど被害者は絞殺されたとおっしゃいましたが、もう少しくわし……」

  籐藤のスマートフォンがポケットの中で揺れた。

  「失礼」

 ポケットから取り出し、画面を見る。『初芝広大はつしばこうだい』と表示されていた。

  「同僚だ。少し失礼するぞ。あぁ、どうした……なに」

  籐藤の表情が黒く染まった。刑事はポケットからすばやく手帳を取り出した。

  「世田谷の、もう一回言え。……わかった。すぐに向かう」

  通話を終えると、籐藤は一度大きく息を吐いてから法律を見据えた。

  「予定変更だ」

  「もしかして」

  「あぁ」

 籐藤はソファーから立ち上がり、手帳をポケットにねじ込んだ。

  「三人目の遺体が見つかった」

 

 

          5

  『鋭い』と描写されるべき晩夏の太陽光でさえ届かない薄暗い路地裏で、紺色の鑑識服を着た鑑識課員たちが右往左往していた。

  その路地裏は足元がコンクリートでできていたが、経年劣化が激しい。大小さまざまな大きさの窪みがいたるところにできており、夜中の四時ごろから八時前まで降り続けた雨によって水たまりができていた。

  その水たまりの一つに頭を浸して、遺体は横たわっていた。

  一糸まとわぬ青黒い身体は、垣本愛之かきもとあいののものと同じく、死後体内で発生した腐敗ガスのため全身を巨人のように膨らませていた。

  しかし、垣本愛之のものと決定的に異なる点があった。

  この遺体は死後の経過時間が垣本愛之のものよりも長いらしい。腐敗ガスは体内で限界まで充満し、それらは表皮を引き裂き、遺体の全身にむごたらしい傷跡を生じさせている。

 傷跡から重力に従って滴り落ちる血液が遺体の上に震える波線をつくり、首から上が浸った水たまりを赤黒く染め上げていた。

  「死因は」

  籐藤は遺体の横でハンカチを鼻に当てながら訊ねた。

  「ここまで腐敗が進んでいるので帰って調べないと確実なことは言えませんが……」

  「前置きはいい」

  初芝は肩をすくめて一度だけ咳ばらいをした。

  「前の二人と同じです。見にくいですが、首に索状痕が見られます」

  ハンカチをひときわ強く鼻に押し付けて、籐藤は遺体の首に近づいた。青と黒と白のグラデーションに染まった遺体の首筋に、線状の跡を見ることができた。

  「遺体発見時刻は七時五分ごろ。発見者は近くの明光大学Kキャンパスに通う八木田陽太十九歳です」

  「そいつが犯人の可能性は」

  「ありえません。八木田は未成年ですが昨夜のコンパで浴びるように酒を呑んだらしく、近くのバス停のベンチで一晩中酔いつぶれていました。バス停の前にあるコンビニの店員が横になって眠る八木田の姿をレジから何度も確認しています。それにこいつ、遺体を発見した時もベロベロで、あんなグロッキー状態で遺体を運ぶなんてできるわけがありません」

「遺体はいつ置かれたのか分かるか」

「深夜一時以降です。近くの通信会社の社員たちが駅までこの道を通ったらしいのですが、遺体なんて絶対になかったと証言しています」

「で、これは誰だと思う。やっぱり、大和田ゼミのやつか」

  「はい。ご覧のとおり、顔のパーツも膨らんで判別は難しいのですが、おそらく彼女かと思われます」

  初芝はスマートフォンに女性の肩から上だけの写真を表示させた。学生証か免許証を写したものなのだろう。画面の女性は口を閉じて真摯なまなざしで籐藤たちを見つめていた。

  「匙之宮琴音さじのみやことね。例のストーカーに付きまとわれていたゼミ生ですよ」

  スマートフォンを初芝の手から取り、遺体の横に構えて顔を見比べた。頬だけでなく唇も大きく膨らみ、腐敗ガスに押し出された目玉が閉じた瞼を圧迫している。額から鼻にかけても盛り上がっており判別は難しいが、なるほど匙之宮琴音に近いようだ。

  「そろそろ遺体を運ぶぞ」

  籐藤が振り返ると、そこにはワイシャツ姿の野上がいた。革靴が水たまりで濡れないように神経質に歩いている。

  野上の合図で遺体を運ぶ準備を始めた。

  その時になって籐藤は、現場に検視官の万願寺がいないことに気付いた。

  「万願寺さんは来てないのか」

  「代わりに嶋田しまだをよこしたよ」

  野上が向けた指の先に、万願寺の一番弟子である嶋田清和きよかずが、若手の鑑識課員に三角屋根の形をした数字板の取り扱いについて注意をしていた。

  「ちょっとおもしろい噂を耳にしたんですがね」

  初芝が肩をすくめながら近づいてきた。

  「万願寺さん、どうもあの探偵さんに会うのが嫌で嶋田さんに任せたらしいんですよ」

  「なんだって」

  籐藤と野上の視線が、遺体から数メートル離れた位置で腕を組んで立つ恒河沙法律に注がれた。

  「万願寺さんがあのガキにビビってるのか。そんな馬鹿な。おい籐藤、どうなんだよ。あの探偵さん、どんな具合だ」

  好奇心に輝く野上の目線に、籐藤はアンニュイな感情を抱いた。

  「普通の好青年だよ。だいたいまだ『初めまして』のあいさつを交わしてから一時間ほどしか経ってないんだ。あいつ、過去に何度か事件に協力してくれたらしいが、野上は一緒に捜査したことはないのか」

「ない」

  「若いですよね。十代の頃から警察を手伝っていたわけですか」

「おれは驚かないぜ。あの警視監殿ならそんな無茶苦茶だってやってみせるだろ」

  法律が長い足を伸ばして三人の刑事のもとへ寄ってきた。野上と初芝は嶋田に呼ばれて彼の方へと向かった。

  「籐藤さん」

  歩きながら法律は言った。

  法律の顔を見て籐藤はぎょっとした。彼の顔は遺体と同じかそれ以上に青く染まっていた。

  「籐藤さん。ぼくはまだ一人目と二人目の遺体について詳細を聞いてなかったですね」

  「あ、あぁ」

  法律の不気味な気迫に籐藤はひるんだ。

  「一人目の東条都は歩道橋の上で見つかった。下着を身に着け、歩道橋の手すりに寄りかかるように事切れていた。死因は――」

  「死後経過時間は」

  法律の言葉が乱暴に放たれた。

  「一時間から三時間といったところだ」

  「ということは、死体の腐敗は目に見える形では進行していなかったわけですね」

  「もちろんだ。それがいったい――」

  「二人目は」

  叫ぶように法律が訊ねた。周囲の捜査員たちが怪訝な視線で探偵を見つめた。

  「蓮下学園初等部の敷地内で見つかった垣本愛乃は――」

  「腐敗ガスが体内に充満し、全身が膨張していた」

  先回りをするように法律が言った。彼は重い頭痛に苦しむように右の手のひらを側頭部に押し付けていた。

  「その通りだ。知っていたのか。マスコミにはそこまで詳しく情報は流れていないはずなんだが」

  法律は首を横に振った。何度も何度も横に振り、そして一度大きく息を吐いた。

  「籐藤さん。大和田夏鈴さんは歴史学科の准教授だとおっしゃいましたよね。彼女の専門は、美術史ではありませんか」

  「その通りだ。おい、どうした。大丈夫か」

  「九相図くそうず……」

  ぽつりと法律がつぶやいた。

  「これは、まさかそんな。籐藤さん。大和田准教授の研究について知る必要があります。美術史、日本美術史に精通している方はいませんか。大和田准教授と親しい人がいい。なんとかして確認しなければ」

  法律の大きな身体が籐藤を覆い隠すように迫った。その瞳は焦燥に溺れ、かすかに充血していた。

  「落ち着け、落ち着けよ探偵さん。美術史の専門家だな。ちょっと待ってくれ」

  籐藤はスマートフォンを取り出すと、発信ボタンを押して相手が出るのを待った。

  「籐藤さん。事態は『最悪』かもしれない。他の六人はおそらく――」

  庇をつたって水滴が一粒落ちてきた。水滴は遺体が横たわる赤黒い水たまりに落ちてかすかな波紋をつくった。

  「おそらく、既に亡くなっています」


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