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第二章

 1

 加納鈴音かのうすずねはランドセルにふで箱を入れ忘れたのではないかと訝しんだ。

  登校している最中鈴音は持ち前の好奇心を発揮していたるところに寄り道をする。走る。止まる。飛び上がる。ブリキのふで箱が揺れると、中身が動いてカラカラと音が鳴る。鈴音の行動に付随して聞こえる軽快なこの音は彼女の登校におけるSEのようなものだった。

  それが今日はない。

  鈴音は深く息を吐いてローファーのつま先でアスファルトをつついた。

  そのふで箱は祖父からのプレゼントだった。誕生日に本革のふで箱を贈ろうと豪語した祖父の提案をはねつけ、近所の文房具屋で前々から目をつけていたものを買ってもらったのだ。

  ふで箱には五種類の動物の絵が描かれていた。

  「うさぎ、きつね、ねこ、コアラ、ライオン、おしまい。うさぎ、きつね、ねこ、コアラ、ライオン、おしまい」

  そう繰り返しながら鈴音は足を進めた。

  文房具屋で初めてこのふで箱を見たときのことだ。はじめ、少女は五種類の動物の共通項を考えていた。共通項などなかった。それらは『しりとり』という一定のルールに従ってふで箱の表面に散らばっていたにすぎない。集合を提示させられれば共通項を求める。そんな固定観念から解放された快感を――もちろん小学二年生の少女がそんな小難しい言葉を頭の中でひねり出したわけではないが――彼女は覚えて黄色い声をあげた。

  ふで箱は鈴音に世界の新たな一面を見せてくれた。少女はふで箱を愛していた。それを家に忘れてしまった。今日一日の授業はつまらなくなるに違いない。

  興が削がれ、鈴音は寄り道をせずに学校へと向かった。

  私立蓮下はすもと学園初等部の校舎は、文京区M町の高級住宅街にふさわしい瀟洒なたたずまいを町内にみせていた。

 学校の周囲に人通りは少ない。時おりゴミ出しに出てくる主婦や、会社に向かうのであろうスーツを着たサラリーマンが運転する高級外車が通るくらいだ。

  「うさぎ、きつね、ねこ、コアラ、ライオン、おしまい。うさぎ、きつね、ねこ、コアラ、ライオン、おしまい」

  鈴音は蓮下学園の西側にある正門ではなく、東側にある裏門から学校に入ろうとしていた。この裏門は登校時間が近づくと学校の用務員が入り口の鉄柵を開錠する。具体的には朝の七時半から四十五分の間であると鈴音は記憶していた。

  学校の周囲には成人男性の腰の高さほどしかない境界壁が走っている。その程度の高さでは部外者の侵入を容易に許すのではと心配する必要はない。蓮下学園は校舎自体が途切れることのない正方形の造りとなっており、グラウンドや昇降口がある正方形の内側には、一階に点在するアーチ型の通路からしか入れない。このアーチ型の通路には、高さ三メートルの堅牢な鉄柵が用意されている。緊急時に開放される非常口を除いて、このアーチの下を通らない限り学園内に入ることはできないのだ。

 鈴音の視界に鉄さくが入ってきた。鉄柵はまだ閉まっている。間もなく用務員さんが開けてくれるだろう。わざわざ正門まで回るのもおっくうなので、鈴音は鉄柵の前で待つことにした。

  腰壁の途切れたところを抜ける。足元はアスファルトから褐色と白色の馬目地パターンのタイル敷きに変わった。

  鉄柵の遥か向こう、体育館の横を通って用務員がこちらに向かってくるのが見える。鈴音は手を振った。用務員も手を振り返した。

  鈴音の遥か頭上を、一台のヘリコプターが音を立てて通過した。ヘリコプターは北から南に向かって飛び、少女の頭もつられて南側に向いた。

  ヘリコプターが視界の彼方に姿を消し、首を下げると、鈴音の視界が()()を捉えた。

  それは境界壁の内側に生い茂る草むらの中に、隠れるように横たわっていた。草むらの緑とそれの白と青紫が入り混じり、鈴音のゲシュタルトはなかなか固まろうとしなかった。

  「おはよう。今日も暑いねぇ」

  首にタオルをかけた用務員の井上隆三いのうえりゅうぞうは慣れた手つきで鉄柵の鍵を開けた。築七十年の校舎はガタがきており、スライド型の鉄柵はキュウキュウと甲高い叫び声をあげながら横に移動した。

  その不快な音を耳にしても、鈴音の視線は一点に向けられたままだった。少女の様子を不思議に思った隆三は、アーチの外に出て少女の視線を追った。

  「ん。なんだ、よっぱらいか?」

  隆三はそれに向かって『おい』と声をかけた。

  返事はなかった。隆三はしゃがみこみ、そして、鉄柵に負けないほどの甲高い叫び声をあげた。

 

 

 2

 九月八日 火曜日


  「どう思う」

  「どう思うと言われましても」

  「率直な意見というやつだ」

  「率直な意見と言われましても」

  「忌憚のない意見というやつだ」

  「北? 東西南な意見……どういう意味ですか」

  「あそこだな」

  助手席に座る籐藤剛とうどうつよしはぽつりと言った。蓮下学園初等部校舎の入り口に人込みができている。

  「正門に規制用テープを張って野次馬を誘い込むと。所轄の刑事さん、やりますね」

  初芝が運転するダークグレイのレガシィは、住宅街を回って裏門の方へと向かった。

  境界壁のすき間に規制用テープが張られ、その中で鑑識課員たちが動き回っていた。

  裏門の方にも野次馬やマスコミがいたが、正門に比べると少ない。車から降りた二人は好奇の視線を無視して進んだ。

  「ごくろうさまです。警視庁刑事部の籐藤です。大塚署の絹代きぬしろさんはどちらでしょう」

  「あ、こっちですよ。こっち」

  規制用テープの中から声がした。見ると、糸のように目の細い初老の男が手をふっていた。長袖をめくったワイシャツに汗が黒くにじんでいる。

 籐藤はスッと前に出て頭を下げた。

  「警視庁の籐藤です」

「同じく初芝です」

  「お早いお着きで感謝しますよ」

  絹代はハンカチでひたいの汗をぬぐった。

  「ホトケさんはあのブルーシートの中です。先に言っておきますがかなりひどいですよ。朝ご飯は食べてしまいましたか」

 絹代は初芝を見ながら言った。童顔の初芝は口をすぼめ、その横で籐藤は『へっ』と声を出して笑った。

  「いや失礼。冗談で言っているわけじゃありません。私は今年で警察生活三十五年を迎えます。水死体やバラバラ死体、いろいろと残酷な死体を見てきましたけどね、つまり、こういう、何ていいますかね。難しいなぁ」

  「とにかく見せてもらいますよ」

  籐藤と初芝はヘアネットとシューズカバーを付けて、境界壁と校舎の間を覆うブルーシートの幕を開けた。

  ブルーシートの中に入ると、鼻腔にツンとした悪臭が潜り込み、二人は慌ててハンカチで鼻を覆った。

  「遺体はこの草むらのなかにうつ伏せになって倒れていました」

  絹代は境界壁の足元に生えた草むらを指した。長方形のシートが広がっている。草の背丈は四〇センチといったところか。境界壁に沿っていたるところに同じ草が生えている。

  「この学校の用務員は『男が死んでいる』と通報してきたんですよ。しかし、先ほどお伝えしたとおり、ホトケさんは女性です。この意味がわかりますか」

  「腐敗ガス……ですね」

  「御名算」

  絹代は足元のシートを剥がした。

  そこにあお向けに横たわった遺体があった。真っ白な肌のところどころが青紫色に変色している。四肢を曲げた遺体は、つま先から顔まで全身が風船のように膨らんでいた。

  「体内のバクテリアが細胞組織を破壊することで腐敗ガスを発生させ、そのガスが身体を膨らませる。法医学では巨人症なんて呼び方をするらしいですね。背中だけ見たら男性と間違えるのもわかりますよ。それに加えて、遺体は死斑で変色し、土や泥で汚れていました。いわゆる『女性の柔肌』とはほど遠い」

  全身の筋肉組織はすでに崩壊し、死後硬直は終えていた。表情筋は緩んでおり、能面のようなのっぺりとした顔が境界壁の方を向いている。下半身は白い下着一枚だけまとっており、上半身は一糸まとわぬ状態だ。

  「おい」

  合掌を終えた籐藤は初芝のわきを小突いた。初芝は手元のファイルからホチキス止めの書類を取り出した。

  「あった。彼女だ」

  書類には、九人の女性の顔写真が並んでいた。そのうちの一つを籐藤は指さした。

  「垣本愛之。間違いない。大和田ゼミの行方不明者だ」

  現場にいる捜査員たちがざわついた声をあげた。無理もない。約半月前に起きた謎の失踪事件。その当事者が、目の前で遺体となって横たわっているのだ。

  「やはりそうでしたか。若い女性の変死体なのでもしやと思ったら……」

 絹代は再び遺体に合掌を手向けた。

  「死後数日は経っていますかね」

  「この暑さです。クーラーの下にでも置いとかなかったなら、そんなものでしょうねぇ」

  「死因は」

  「五日前の江東区の遺体ってやつと同じですよ。首に索状痕があります」

  「ロープでひと締めですね。これまたきれいなもんだ。東条都と垣本愛之を殺したのは同一犯ですよ。こいつは連続殺人事件だ」

  「マスコミのひとたちもかわいそうですね。朝から重たいカメラをかついできたって、こんな遺体はテレビには流せないでしょう」

  初芝はブルーシートの外に顔を出して境界壁向こうの野次馬を覗いた。パシャリとシャッターの音がしたあと、籐藤は初芝のベルトを乱暴に引っ張って頭をはたいた。

  「馬鹿な事してんじゃねぇ。それより、野上はどうした。おれ達が出る時は二班の机にいたよな」

  女子大生失踪事件は野上建太が率いる第二班が担当している。いまこの場に第四班の籐藤と初芝がいるのは、遺体が江東区で見つかった東条都のものと類似点が多かったため、その初動捜査を行った二人にお鉢が回ってきたに過ぎない。

  「なんか部屋を出る直前に小田切(おだぎり)さんに捕まってましたよ」

  「刑事部長に?」

  籐藤の心の中で不安の雲がごろりと雷鳴を轟かせた。

  「まぁいい。そのうち来るだろう。絹代さん。第一発見者は通報してきた男ですよね。ホトケを男と見間違えたっていう」

  「はい。あ、いえ。ちがうんですよ」

  絹代の顔に焦燥の色が浮かび上がった。

  「ちがう?」

  「通報してきたのは、用務員の井上隆三です。厳密にいえばこの男は第二発見者でして、第一発見者は……」

  「加納鈴音。この学校の生徒だ」

  槍のような鋭い声が飛び込んできた。

  振り返ると、ブルーシートの幕をめくって、フチなしの眼鏡をつけたやせぎすの男が入ってきた。その見た目にふさわしく、性格は極端に神経質。捜査一課よりは捜査二課、もしくは警務部向けと庁内で噂をされている野上建太のがみけんた巡査部長がそこにいた。

  「遅かったな」

  籐藤が声をかけると、野上はなぜか彼に向かって破顔をみせた。

  「なんだよ、きもち悪い」

  「いや本当。おれはお前の実力を買ってるんだぜ。性格は合わないし、休日を一緒に過ごすなんて絶対にごめんだが、刑事としての力量は認めている。そんなお前がどうして……本当に同情するよ」

「は?」

  籐藤はポカンと口を開けた。

  「野上さん、おつかれさまです」

 初芝はぺこりと頭を下げた。

「おう、ご苦労だ」

「第一発見者は子どもですか。あれ。この名前ってどこかで……」

  手帳にペンを走らせながら初芝が首をひねった。

  「初芝。小田切さんからの辞令だ。お前は臨時で第二班に入って女子大生失踪事件の捜査を手伝え」

  「え、ぼくがですか」

  初芝は目を見開いて、野上ではなく籐藤の顔を見た。

  「それで小田切さんに呼ばれていたのか」

  籐藤には刑事部長の判断が妥当だとは思えなかった。初芝は警視庁刑事部に来てまだ二年目の新米だ。戦力にはならない。いや、新米だからこそ、この事件を以て鍛えようというつもりか。

  「上司命令じゃ仕方がない。それで、おれは野上大先生の下で働かなくてよろしいのでしょうか」

  野上は籐藤の軽口を黙殺した。その眼からはやはり……同情の意志が読み取られる。

  「籐藤。お前は、今すぐ本庁に帰れ。かつら警視監がお呼びだ」

  「は?」

  籐藤の視線がピンボールの玉のようにあちこちへと飛んだ。

  「副総監が……おれに?」

  「とりあえず、急いだほうがいいんじゃないか。な、同情するよ。まったく」

  「お、おい。副総監がなんだって俺に。なんだよ。おれは何を言われるんだよ。いいことか悪いことか、それだけでも教えてくれ」

  「『いいとか悪いとかを超越するよ』」

  野上が甲高い作り声でいった。

  「桂さんからの伝言だ。いいことか悪いことか、それだけでも教えてくれと訊かれたらこう答えろと言われた」

  「籐藤さん。とりあえず、行った方がいいんじゃないですか。桂警視監といえば警視庁の名物副総監ではないですか。ははは。そんな大物に呼び出されるなんて、うらやましいなぁ。あはは」

  明るい口調とは裏腹に、絹代は顔を青く染めながら、めくっていたワイシャツのそでをいそいそと手首まで戻していた。

 

 

 3

 重厚な木扉をたたくと、中から『どうぞー』と甲高い声が聞こえてきた。

  籐藤は一度深呼吸をし――

  「深呼吸とかいいから早く入ってよ」

  音もなく開いた木扉のすき間から、桂十鳩副総監が籐藤を見上げていた。

  心臓が口から飛び出す間もなく、籐藤は桂に室内へと引きずり込まれた。

  深紅の絨毯が敷かれた室内には桂のほかに小田切亘良(こうすけ)刑事部長がいた。人形のように長い鼻と、神出鬼没に現場を飛び回ることから、かつては『天狗』の通り名で日本中の犯罪者に恐れられた名物刑事であったが、管理職に昇進してからは、腹の膨らみと共に性格が丸くなったと籐藤は先輩刑事から聞いていた。

  空調の効いた室内だというのに、小田切はしきりにひたいから汗を流していた。見ると膝から下が小刻みに震えている。籐藤は首をかしげた。副総監を前にして緊張するというのはわかる。しかし、そこまで狼狽するものだろうか。

  「蓮下学園に行ってきたんでしょ。暑い中ごくろうさま。正直に言うとちょっぴりうらやましいよ。こっちはずっとクーラーの下にいるから汗腺死んじゃったよ。なつかしいなー現場ー」

  桂は革張りの椅子に正座の姿勢で落ち着いた。

  「あの、私に何の御用でしょうか」

  籐藤のことばを桂は黙殺し、卓上の電気ポットで三人分のお茶を淹れはじめた。

  籐藤は小田切に視線をおくったが、刑事部長は『あー。うん』と無意味な言葉を繰り返すばかりだ。

  「籐藤くんの実家ってなにしてるの」

  急須を傾けながら桂が訊ねた。

  「父親は定年退職したサラリーマンで、母親は専業主婦です」

  「私はお弁当屋さん」

  「……はい?」

  「私の実家はお弁当屋さんなの。学生時代はアルバイトしててね。はかりを使わないで二〇〇グラムのごはんを盛るのが私の得意技。大盛りだったら三〇〇グラム。でもこれははかりを使わないと無理。難しいのよ、これが」

  L字に曲がった鏡面塗装のテーブルに湯飲みが置かれる。籐藤は隠しきれない警戒心と共にそれを手にとり、口をつけた。色で緑茶であることはわかるが、味なんてわかったものではない。

  「遺体の第一発見者。誰だか知ってる?」

  「はい。用務員の……」

  違う。籐藤は頭を振った。

  「同学校の生徒である加納鈴音です」

  「その子、加納先生のお孫さん」

  「……はい?」

  「警察庁長官OBの加納大善だいぜん先生。いまは代議士をやってるあの仙人みたいなおじいちゃんのことだよ」

  籐藤の手から湯飲みが滑り落ちた。毛の高い絨毯に緑茶が吸い込まれていく。

  「あの遺体の第一発見者が……加納先生のお孫さん⁉」

  「知っているか知らないかなんて関係ないんだけど、加納先生、鈴音ちゃんを目に入れても痛くないくらい、違うね。鈴音ちゃんになら、目ん玉を刺されて脳みそまで達して頭蓋骨を貫通して頭皮から飛び出しても痛くないってくらい溺愛してるの。あの先生通報があってから一時間とせずにここに飛び込んできたよ。『お前ら警視庁が誘拐犯を野放しにするから、鈴音が恐ろしい目にあったんだ‼』だって。怒ってた怒ってた。ちょー怖かったよね。小田切くん」

  小田切は赤べこのように首を小刻みに振った。

  「大きな声じゃ言えないけどね、加納先生は警察庁と内閣府の実質的なパイプ役を担っていて、その気になればうちの人事に口を出せる権力者なわけよ」

  籐藤の顔が灰色に染まった。

  「誘拐犯も簡単に捕まえられないような刑事部(烏合の衆)を刷新するのも辞さないだってさ。あー大丈夫大丈夫。きみらが辞めるときは私も責任をとって辞めたげる。私は実家に帰ってお弁当屋さんをやるよ。お腹すいたら食べにきてね。籐藤くんには大盛りごはんをサービスしちゃう」

  籐藤の口から乾いた笑い声が漏れ出た。声だけではなかった。顔も笑っていた。非現実を前にして、これは現実ではないと判断して、ならば何かと問われれば、おもしろい夢物語であると――

  「いやー夢じゃないんだなこれが」

  氷柱のような鋭い声が籐藤の首筋に突き刺さった。籐藤は自分の身体が小田切と同じように震えていることに気づいた。

  「しかし……どうして私を呼び出したのですか。女子大生失踪事件を担当しているのは四班ではなく二班です。野上巡査部長をこの場に呼び出すか、私を初芝といっしょに二班に編入するというならともかく」

  「ん。籐藤くんにも失踪事件の捜査に加わってもらうよ。ただし、第二班とは別の形。別も別。特()な形でね」

  「特別……?」

  籐藤は首をひねった。

  小田切が前に出て一枚の名刺を籐藤に差し出した。

  「なんですかこれは?」

  「明朝、お前にはその名刺に書かれた住所に向かってもらう。話はすべてつけてある。その名刺の場所にいる男と、二人で特別捜査を行え」

「特別捜査?」

 籐藤はさらに首をひねった。

  「どういうことです。刑事部の誰かをつけてくれるんじゃないんですか。それにこの名刺。こいつはいったい……」

  「籐藤。明日以降きみは、必要最低限の報告をしてくれれば、自由に動いてもらって構わない。私は一切干渉しない。というか、したくない」

  「小田切さん!」

  籐藤は声を張り上げた。そのような特別待遇は受けたことも聞いたこともない。彼はいま、自分が確実に出世という名の『みち』からはみ出して、ひとの寄り付かない魔性の森へ向かっていると確信していた。

  「いったいどういうことですか!」

  一枚の名刺を掴みながら籐藤は叫んだ。

  「この『恒河沙ごうがしゃ探偵事務所』ってのは、いったいなんなんですか!」


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