第一章
1
菅原鉄平が泥のような眠りから目覚めたのはほんの十分前のことだった。
左脳が割れるように痛む。全身の虚脱感は昨夜のアルコールが原因だ。
『明日は早くから搬入作業が。遅刻でもしたら職人さんに迷惑がかかりますので……』
鉄平の言葉を本社からきた重役たちは歯牙にもかけなかった。最近の若い者はたるんでいる。おれたちが若いころは現場に入れば二日酔いなんて醒めたものだ。酒との付き合いかたを教えてやる。
重役たちから解放されたのは深夜二時ごろだった。社宅前に停まったタクシーから降りる直前、車内で壮大に戻してしまい、『会社にクレームをいれるからな!』と運転手に怒鳴られたことを思い出し気が重くなる。
鉄平は腕時計を見た。五時〇八分。あと十分で電車が出てしまう。普段は徒歩十五分をかけている道のりだ。全力で走って間に合うか微妙なラインだった。
早朝の時点でうだるような暑さが人気のない住宅街を覆っていた。電線にとまるキジバトだけが鉄平のすがたを見つめていた。
「あ、ちくしょう!」
角を曲がると、三〇メートルほど先にある国道の歩行者信号が緑色に点滅しているのが見えた。この信号は色が変わるまでの時間が長い。人通りこそ少ないが、この時間にもなると数は少ないが通勤車両や工事資材を積んだトラックが駆けていく。
あと数メートルといったところで信号は赤に変わり、幾両もの車が『待っていました』とばかりに動き出した。
鉄平は足を止めて荒い呼吸を繰り返した。車の排気音をBGMに腕時計を見る。五時一三分。玉のような汗が二の腕から噴き出ていた。
鉄平の判断は早かった。彼は歩道橋に向かった。階段を足早に駆け上り、踊り場を鋭利な角度で回り込む。
クリーム色の歩道橋は風にあおられて揺れていた。奇妙な浮遊感に鉄平の心臓がドキリと鳴り、そして、彼はそれを見た。
歩道橋の中央地点、目隠しの板が張られた柵にそれは背中から寄りかかっていた。
白い下着だけを身に着けたそれは、四肢を無造作に投げ出し、鉄平の方に顔を向けていた。
首筋に蛇のような青黒い線が走っている。全身がだらりと弛緩しており、青鈍色のくちびるは何かを発するように微かに開いていた。歩道橋が揺れる衝撃でそれも揺れた。ガタガタと小刻みに震えながら首が右方向へ動いていき、虚無を見つめる剥き出しの目玉が鉄平を凝視した。
鉄平はその場に崩れ落ちた。悲鳴とも嗚咽とも区別がつかない声をあげながら彼は後ずさった。
「だ、だれか!」
答えるひとはいなかった。
「だれかいないのか!」
車のエンジン音だけが夏の空にこだましていた。
「ひとが、ひとが……」
答えるひとはいなかった。
「ひとが死んでる!」
答えるひとは、いなかった。
2
九月三日 木曜日
「籐藤さん、こっちです」
規制用のテープをくぐり抜けると、籐藤剛は頭上から聞こえる声に顔を向けた。
歩道橋の階段踊り場から初芝広大が手をふっていた。いつもは若者らしく整髪料で髪を固めているのに、今日ばかりはその時間がなかったらしい。水で無理やり押し込んだ黒髪は力なくへこんでいた。
「早かったな」
「籐藤さんより遅れるわけにはいきませんからね」
グレーのサマースーツを着込んだ初芝は、首回りの汗を素手で拭っていた。
スポーツ刈りの頭をコツコツと叩きながら籐藤は階段を上った。
「早朝からコロシか。最悪な寝覚めだ。朝飯を食う時間もなかった」
「うへぇ。食欲あるんですか」
「関係ない。飯をくわなきゃ力が出ない。刑事ってやつは体力仕事だ。事件の様相に関係なく食える時に食う。それが――」
籐藤は初芝の胸を軽くたたいた。
「巡査と巡査部長の違いだ」
階段を登りきると、二メートルの幅に満たない通路で捜査員たちが窮屈そうに這いずり回っていた。
「籐藤。はよ来んか!」
およそ早朝にふさわしくないがなり声が鼓膜に響いた。他の鑑識課員と同じ紺色の鑑識服を着込んではいるが、プロレスラーのような体躯ばかりは同じとはならない。検視官万願寺権蔵のその声は、青年時代にヤクザとのケンカでのどぼとけが潰れたためと噂されている。
「万願寺さん。おはようございます!」
籐藤も負けじと大声を張りあげた。
「無駄口はいらん。おれは腹がへってるんだ。とっとと終わらせるぞ」
「さすが。万願寺さんは警視でしたね」
「あの人の場合は野獣の食欲とかわらないだろ」
うら若き乙女の死にざまを前にして、籐藤は一度ため息を吐いてから両手を合わせた。
「これだな」
万願寺は遺体の茶色い髪をかきわけた。首筋にくっきりと索状痕が走っている。
「特に疑う余地もない。絞殺だ」
「きれいな線だ。ロープですかね」
「おそらく。おれたちがここに来たのは六時頃で、その頃には死後硬直が始まっていた。死亡推定時刻は深夜二時から四時ってとこだ」
「第一発見者は」
遺体から目を逸らさず籐藤がたずねた。初芝が懐から手帳を取り出す。
「中堅ゼネコンD建設社員、菅原鉄平二十三歳です。ここから徒歩数分の社宅に住んでいて、通勤途中にこの歩道橋を渡ろうとして遺体を発見したとのことです」
初芝の説明に『そうか』と籐藤はうなずき、立ち上がって手すりから身を乗り出した。国道沿いは閑散としている。シャッターが閉じた建屋が数件と、雑草が生い茂った空き地が見えるだけだ。コンビニも見当たらない。深夜ともなれば人通りは皆無といって差しつかえないだろう。
「目撃者は出ると思うか」
「聞き込みはしてみますが、どうでしょうかね。それと、遺体は御覧のとおり、下着以外に衣服を身に着けておらず、身分がわかるものは一切所持していませんでした」
――だけど――と初芝は続ける。
「年齢は二十歳前後といったところです。例の女子大生失踪事件の一人じゃないですかね」
「あぁ」
失踪事件発生直後、第二班を手伝ったほんの短期間のことを籐藤は思い出していた。
「連絡はしたか」
「野上さんに問い合わせました。まもなく返事がくるかと」
「わかった。たぶん、合っている気がする」
くるりと振り返り、籐藤は再び遺体を凝視した。
「殺された。それじゃあほかの八人も……」
3
八月十八日。東京都多摩地域八王子市山中に位置する『私立徳和大学 八王子合宿所』において、ゼミ合宿のためこの合宿所に宿泊していた九人の女性が一夜にして姿を消した。
東条都(21)
垣本愛乃(21)
匙之宮琴音(20)
林さゆり(20)
龍首恵(22)
加藤彩(19)
鳥峰祭(22)
片瀬双葉(21)
大和田夏鈴(32)
事件当日、八王子合宿所は大和田ゼミの合宿参加者以外には利用者及び同合宿所管理人は一人もいなかった。
八月十六日より二十日にかけて管理人夫婦が私用のため外出することになっており、夏休み期間ではあるが同合宿所は閉鎖される予定となっていた。
しかし、大和田ゼミは同合宿所を長期休暇のたびに利用しており、施設の利用方法を熟知していた。大和田女史が管理人夫婦と円満な関係を抱いていたことも加味され、同ゼミは特別に合宿所の鍵を貸し与えられていたのだ。
管理人がいない合宿所の利用は徳和大学の規則で禁止されている。しかし、大和田女史は若くして准教授にたどり着いた徳和大学における『名物』学者の一人であった。広告塔でもある女史からの嘆願を受けて大学総務部はこの違反行為に目をつぶったとみられている。
九人を最後に目撃したのは、同ゼミに所属する兎走千沙(19)だった。彼女もまたゼミ合宿の参加者の一人として合宿所を訪れていた。
十人は夕食後に軽めの入浴を済ませ、夜八時半から合宿所一階にあるA教室で宴会を始めた。宴会開始から約三十分後、体調不良を訴えた兎走千沙は席を外し自室で眠りについた。そして翌朝七時半頃、兎走千沙が目覚めると、九人は合宿所内から姿を消していた。
九人が自主的に蒸発する理由は見当たらない。警察は何者かが合宿所に侵入し、九人を誘拐したとして捜査を進めていた。しかし、緑深い山中にある合宿所周辺には監視カメラの設置個所は少なく、失踪から二週間が経過してもなお九人の行方は杳としてわからないままだった。
犯人からの身代金の要求などもなく、ただ『九人が消えた』という事実だけが取り残されていた。唯一の証人である兎走千沙は、ゼミの仲間が不可解な消失を遂げたことに精神的なショックを受け、自宅での療養を医師から指示されていた。警察が事情聴取のため兎走邸に伺っても、兎走千沙とその両親は面会謝絶といって警察を追い払ってしまう。合宿所内にも犯人の手掛かりとなるようなものは見つからず、事件はこのまま迷宮入りするのではないかと噂されていた。
しかし、事態は最悪の形で進展することになった。
4
初芝はポケットからスマートフォンを取り出した。
「さすが野上さんだ。仕事が速い」
失踪した九人の顔写真のデータが送られてきたらしく、初芝はジッと画面を注視した。
「あたりです」
初芝はスマートフォンを籐藤に差し出した。
陽光に反射する液晶画面に一人の女性の姿が映っていた。
肩口までそろえた茶髪。二重まぶたと右の眉毛の間にある大きなほくろ。ピンクのセーターを着こんだその女性は、テーマパークのような場所で両手を大げさに広げて笑っていた。籐藤はこの写真から『生』を減算してみた。間違いない。目の前の遺体はこの女性だ。
「東条都。徳和大学文学部の三年生です」
「野上は」
「こちらに向かっているそうです」
警視庁捜査一課第二班の野上建太巡査部長は、女子大生失踪事件の捜査員の一人だ。籐藤とは同期で、二人は何かと周りから比べられることが多かった。捜査に何の進展も得られないことに憤りを覚えていた野上には、この歩道橋の遺体は起爆剤として働くだろう。
捜査一課第四班に所属する籐藤と初芝は、女子大生失踪事件には関わっていなかった。東条都の件は野上に引き継いでおしまいだ。今後の展開が気にならないわけではないが、担当外の事件に首をつっこむほど暇ではない。
「どうして二週間も経ったのでしょう」
初芝が東条都の遺体を眺めながら言った。
「死亡推定時刻は二時から四時。昨日の夜まで彼女は生きていたわけですよ。失踪事件が起きてから二週間。彼女はいったいどこで、何をしていたのでしょう。何を見て、何を食べ、何を考えていたのでしょう」
若き刑事のことばがアンニュイな色に染まっていく。
「昨日の夜まで彼女は生きていたんですよ。ぼくも籐藤さんも昨日は残業して書類を片付けていましたよね。夜食のカップラーメンを買ってくるよう頼まれて、みそ味と塩味のどちらを食べるかで言い争いをしましたよね。あの時もこの子はまだ生きていたんですよ」
「感傷的な態度はやめろ。それで彼女が生き返るのか。お前の気が晴れるのか。そんなわけがない。何の意味もないんだ」
「すみません。わかっていても、どうしても……ほかの八人は生きているのでしょうか」
「生きていると信じて、全力を尽くすしかない」
「そうですね。もうこれ以上ひとが死ぬのはごめんです」
初芝の願いに反して、この失踪事件は残忍なる様相へと更なる勢いで加速していくことになる。東条都の遺体は、犯罪史に血染めの跡を残すことになる、陰惨な殺人事件の幕開けに過ぎなかったのだ。