第十四章
1
「大和田紀秋さんが亡くなられました」
野上建太は平静を努めてそう言った。
「昨日一九時五九分。紀秋さんは徳和大学内第三校舎にて同建物に放火。犯行前にガソリンを校舎内に散布していたとみられています。弟さんは建物の中に自ら望んで残られ、その後同校舎は全焼。焼け跡から男性の焼死体が発見されました」
ご愁傷さまです。そう口にしながらも、野上は頭を下げなかった。
大和田夏鈴は膝の上に手を置いたまま沈黙を貫いていた。能面のように表情を凍らせ、その視線は自身の手元に向けられていた。
野上には窓のない取調室がいつもよりも息苦しく感じられた。ネクタイを緩め軽く咳ばらいをする。
「空気が乾燥していたこともあって、木造の校舎は火の回りが早かった。さらに山上の第三校舎へと続く唯一の車道には、大型バンが横に停まって通行止めをしており、消防車の侵入を妨害していました。紀秋さんの車です。第三校舎につながる道は裏にある車道と表側にある歩行者用の山道しかありません。山道の下にある噴水広場の消火栓から水を汲み、ホースをつないで山の上までつなぎましたが、とても間に合いませんでした」
夏鈴は何も言わない。何も反応を示さない。何も。何も。何も。
「あなたは……弟さんが焼身自殺されると知っていたんじゃないですか」
夏鈴のほほがピクリと動いた。
「匙之宮琴音さんの現場写真を見て、あなたは九相図じゃないと否定した。あの時あなたは弟さんが自分を欺き『摩訶止観』を見立てようとしていたことに気づいた。しかし『摩訶止観』を完成させるためには命が足りない。ゼミの外には迷惑をかけたくない。弟さんもあなたと同じ思いを抱いていたようですね。ゼミ生がすべて亡くなった以上、差し出される命は一つしかありません」
「……そうです」
夏鈴が口を開いた。その言葉には、深淵に沈みゆくような暗澹たる雰囲気が漂っていた。
「弟がご迷惑をおかけしました」
「迷惑。迷惑で済むお話しですか」
野上は冷ややかな言葉を返した。
「あなたがあの時点で弟さんが共犯者だと教えてくれれば、私たちは彼を救えた。弟さんはあなたを裏切った。それをあなたは知っていたのでしょう。それなのにどうして彼をかばったのですか」
「家族だからです」
夏鈴は顔をあげた。
「私とあの子は互いに残された唯一の家族だったんです。唯一の家族を裏切ってまで成し遂げたい夢があるのなら、私はそれを応援する」
夏鈴の瞳から冷たい涙が流れた。
「私は殺人鬼です。殺人鬼であると同時に、家族を愛する一人の人間です。家族を想って、いったい何が悪いというのですか」
2
「実家のお弁当屋さんなんだけどさ、新しいアルバイトを雇ったから絶対に帰ってくんなって言われちゃった」
桂十鳩副総監は小さな指で湯飲みを掴んだ。
「そんなわけでさ、私はしばらくこの因果な商売を続けなくちゃいけないわけよ。運がいいことに優秀な部下がこの難事件を見事解決してくれたおかげでクビにならずにすんだもんだ。本当にサンキューね」
「優秀でもなければ見事でもないと思いますけどね」
包帯を巻きつけた二本の指を見つめながら籐藤剛は言った。横にいた小田切刑事部長は部下の軽口に冷や汗を流していた。
「いまになってわかりましたよ。兎走千沙が遺体で発見されたあと、警視監は例外的に一人で捜査に挑むよう私におっしゃられた。わたしが再び法律と組むと予期していたわけですね」
湯飲みを机に戻し、桂はちろりとさくらんぼうのように赤い舌をのぞかせた。
「もう一度恒河沙理人に依頼する金はない。かといって実績のない恒河沙法律に捜査協力を依頼することもできない。だからあなたは法律が自主的に協力することを期待した。仮にそれで問題が起きても、知らぬ存ぜぬで押し通し、私の首を切ればそれで済むのですからね」
「知らぬ存ぜぬ? 恐ろしいことを言うねぇ籐藤くん。私はなーんにも考えてなかったよ。なーんにも考えず、優秀な部下が吉報を持ち帰ってくれることをふかふかの椅子の上で待っていただけだよ。いやはやさすが優秀な刑事さんだ。刑事ってのはやっぱり疑い深くなくっちゃねー。そう思わない? 小田切くん」
「おっしゃる通りです」
気をつけの姿勢を崩さず小田切は声をあげた。籐藤がジッと睨みつけたが、刑事部長は小さく頭を振るだけだった。
「で。そんな優秀な刑事さんに相談があるんだけどさ」
「はい」
「警視庁は恒河沙理人と手を切って、代わりに恒河沙法律と手を組もうと思う」
「……はい?」
「あの子がどれほどの請求書を叩きつけてくるかはわからないけどさ、親父ほど強欲ってわけじゃなさそうだし」
「反対です」
「……え? なんて言ったの」
「反対です。おれはあいつには捜査の重荷を負わせたくない」
小田切が口を開けて何かを言いかけた。桂は手をあげてそれを制すと、椅子から飛び降りて籐藤のそばに寄った。
「重荷ってどういうこと」
桂が訊ねた。
「生半可な捜査をすれば、無実の人間が罰をうけることになるかもしれない。他人の人生を狂わす悪人を野に放つことになるかもしれない。私たち警察には社会秩序を守る行政機関としての責任と覚悟があります。この責任と覚悟は重荷という言葉にも換言できる。人間は間違える生き物です。ですが警察は間違えてはならない。重荷がそれを許さない。人間でありながら人間であることをやめた存在。それが警察です。私はそんな重荷を、彼に背負わせたくない」
「なに。それじゃあ恒河沙を警察の正規職員として採用しろっての。無理だよ。理人はこれまで数えきれないほどの偉業と共に悪行を重ねてきた。仮にその子どもが聖人君子だとしても警察はその参入を渋る。純粋なる正義の血に極濁悪の血を混じらせるわけにはいかない。どうしようもない時にだけ金を出して頼りにし、どうしようもなくなったら無関係だと手を離す。恒河沙とはそういう付き合い方をするしかないの。それにこれは……恒河沙法律を守ることにもなるんだよ」
「あいつを……守る?」
「恒河沙理人は後継者を求めている。あの男は実子の法律を後継者と見込んで育ててきた。だけど十年前の事件で彼を見限った」
「それがいったい……」
「恒河沙理人にはあと四人の実子がいる。その四人はもうすぐあの事務所に帰ってくるそうだよ」
「四人……」
籐藤の脳裏に恒河沙探偵事務所の風景がよみがえった。窓際に置かれた横長のテーブル。その前には四つの机が集まって島を作っていた。
「恒河沙理人は法律を見限った。そして彼はいま、他の四人に目をつけている。自身の後継者にせんとあいつは必ずその四人に接触してくる。法律は理人の魔の手から妹たちを守ろうと奮闘するだろうね。絶対」
「け、警視監。妹たちではありません。一応あの子は……」
小田切がハンカチで汗をふきながらもごもごと口を鳴らした。
「いいんだよあれも妹で。ね、わかるでしょう、籐藤くん。私たちが恒河沙法律と手を組むことで法律はきみを頼りにしてくれる。きみは法律を守ることができるんだ。これほどすばらしいアイディアはないと思わない? 法律くんだけじゃなく、四人の妹とも契約する。恒河沙の兄妹が日本の正義を守る。もう一度言うよ。これほどすばらしいアイディアはないじゃないか!」
「……わかりました」
籐藤はぺちりと自分の首をはたいた。
「あいつを守れるなら、異存はありません」
「ん。よっしゃ」
桂は籐藤の腰を叩いた。小さな身体の小さな一撃。その掌の重みは籐藤の身体に強く響いた。
「籐藤くんには今までの業務に加えて、恒河沙探偵事務所とのパイプ役を任せたい。役職名はないよ」
「トカゲのしっぽ切りのためですか」
「結構結構。それぐらいの皮肉精神がないと、この糞みたいな仕事はやってけないよ」
3
恒河沙法律は目を閉じた。
暗闇の中で彼は彼女のことを想った。
様々な言葉が脳裏をよぎった。事件のことは他の誰かが伝えただろう。だから彼は、心の底から伝えたい言葉だけを遺すことにした。『ありがとう』と『ごめん』の二つを。
「おまえ、スーツ似あってないな」
ゆっくりと目を開き振り向く。所々に緑の生垣が立ち並ぶ巨大な墓地の中で、ブラックスーツに身をまとった籐藤剛が花束を抱えて笑っていた。
「着慣れてないだけですよ」
法律は模型標本のように両手を広げた。彼のブラックスーツの袖は短く、シャツのボタンが外に出ている。ネクタイのノット部分は不格好な台形を造っていた。
「……かわいそうにな」
籐藤は目の前の墓石を見つめた。彼の乾いた言葉は秋の空に吸い込まれていった。
「まだ十九歳だったんだ。これからの人生、楽しいことがたくさんあっただろうに」
「らしくないですね。籐藤さんはもっとこう、ニヒルに構えていたほうがいいですよ」
「勤務時間外だ。今ぐらいは許せ」
墓前には既にいくつもの花束が供えられていた。花々の間に模様の入った色とりどりのビニール袋が大量に供えてある。袋の中には故人が好きであったお菓子や、別れの言葉が記された便せんが入っている。
自身の花束の置き場がなく、籐藤は墓石の側面にそれを立てかけた。
「どうしてひとはひとを殺すんだろうな」
合わせた両手を離しながら籐藤が訊ねた。
「苦しめる方法ならいくらでもある。謝らせる方法だってゼロじゃない。目的を果たすためには殺さなくちゃいけないのか。きっと他に方法はあるはずだ。殺したら、もうそれで終わりじゃないか」
「殺されないために殺すんです。紀秋さんにはこの世界が歪んで見えた。生を軽視し、死を歓迎する世界。彼は自身の正気を賭けて世界に戦いを挑み、そして世界から拒絶された。狂気の烙印を押され、存在価値を失ったのです。自分自身の価値がなくなる。誰の目にも触れられず、誰からも評価されることのない存在。概念としての死。だから彼は抗った。自分の生命を証明するために、殺したんです」
「だが殺意を抱いたすべての人間が実際に刃物を突き立てるわけじゃない。中には思いとどまり、殺すなんてとんでもないと思いなおす人だっているじゃないか」
「その時殺意を抱いていた『彼』はどこに行ったのでしょう。殺されたんです。『彼』は彼自身に殺された。自分自身からも評価を与えられず、心の奥底で闇に埋もれて息絶えたにすぎません。殺意を抱いた人間はどちらにしろ殺すんです。自己か他者のどちらかを、鋭利な思考で殺すんです」
法律の目は籐藤ではなく、底の抜けたような青空を見つめていた。
「それは正しいことなのか。人間である以上避けられないなのか。その心のシステムは正気なのか。狂気なのか。どっちなんだ」
法律は答えない。青空を見つめながら、彼は手首の数珠をポケットの中にしまった。
「警視監から連絡はあったか」
墓地の狭い通路を歩きながら籐藤が訊ねた。
「はい。ご迷惑をおかけすると思いますが、よろしくお願いします」
「妹が四人だって?」
「妹は三人ですよ」
苦笑しながら法律は訂正した。
「その四人は優秀なのか」
「優秀です。ぼくよりもずっと探偵に向いています。だからこそ恒河沙理人はあの四人から後継者を選ぼうとしているわけです」
「大和田紀秋が実の姉を他人と称した時、お前さん腹を立ててただろう」
「わかりましたか」
法律は表情筋を緩めてほほを一度はたいた。
「妹さんたちを愛してるんだな。おれも会えるのが楽しみになってきたよ」
「あの子たちも籐藤さんを好きになってくれるはずですよ」
「……なぁ、法律」
冷たい風が二人のほほをかすめた。
「十年前に何があった。おまえ、あの男に何をされたんだ」
法律の足音が止まった。籐藤が振り返ると、法律は二本の腕をだらりと降ろしたまま石畳を見つめていた。
「答えなくちゃいけませんか」
「答えなくちゃいけない」
力強い声で籐藤は答えた。
「それがお前の傷口だというのなら、おれはそれを見ておかなきゃならない。お前の心をどんな巨悪が食い散らかしたのかを、おれは知っておかなきゃならない。弱点があるならそれを教えろ。おれは全力で守ってやる。それができないなら、おれは降りる。あとはお前と桂さんで好きにやってくれ」
「……わかりました」
法律は語った。十年前に起きたある殺人事件。闇に葬られた真実。恒河沙理人の狂気がもたらした災厄。法律の心に残った深い傷跡。
籐藤は傍らにある階段の手すりに身体を預けた。立っていられなかった。信じられなかった。それが、それが実の子どもに対してすることか。
「恒河沙理人は自分が間違ったことをしたとは露ほども思っていません。彼の世界では彼の行いがすべて正しい。恒河沙理人がするから正しいのです」
「ありえない」
籐藤はかすれた声を出した。
「そんなことありえない。あってはならない。どうして、どうしてそんなことが――」
「ぼくは恒河沙理人と戦うために日本に戻ってきました。自らの過ちを認めさせたい。『悪かった』とひとこと謝らせたい。それだけなんです。ぼくの望みは、たったそれだけなんです」
法律は片手を差し出した。籐藤はその大きな手を握り、ゆっくりと立ち上がった。
その手のぬくもりが、籐藤の恐怖を優しく鎮めてくれた。
「わかった」
籐藤はうなずいた。
「おれは、お前といっしょに戦おう」
お読みいただきありがとうございました。
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