第十二章
1
十一月十三日 金曜日
「九相図じゃない?」
法律は驚きの声をあげた。
傘を差す手に血管を浮かばせながら籐藤はうなずいた。
「『大念佛寺本』ってやつかと思ったんだが違うらしい」
「それ以外は何を」
「あいつは兎走千沙の遺体が『小野小町九相図』を見立てるために、墓場に納められると思っていたようだ。ガレージに遺棄されていたと知ったら、ずいぶんとショックを受けていた」
「ぼくが東京に帰ってきたのは八月です。
それまでは世界中を転々としており、日本にも時々帰ってくることはありましたが、東京には一度も足を踏み入れていません」
「何が言いたい」
「犯人は恒河沙探偵事務所が入るビルに死体を遺棄した。これは偶然ではありません。犯人は捜査に関わっていた『恒河沙法律』を知っている。そしてぼくは八月に東京に戻ってきたばかりです」
「捜査中に出会った人物が犯人という可能性が高いというわけか。いやな話だな。これまで出会ってきた全員が怪しく見えてくる」
「『九相図じゃない』。大和田さんはそうおっしゃったんですよね。では、何か九相図以外の芸術作品という可能性が……」
「いや。大和田夏鈴は『芸術ではない』とも言っていたぞ」
「しかし犯人には何かしらの意図があったはずです。九相図を模した殺人事件のあとに、事件関係者が白骨化した遺体で見つかる。こんな奇怪な事態がただの殺人のはずがない。九相図とは別の何かを見立てていると考えられます。それが何なのかが分かれば、犯人の姿が見えてくるかもしれない」
「大和田くんの所に行こう。学者ってのは博識だろう。途中で警視庁に寄るから、匙之宮琴音の現場写真を見てくれるか」
「わかりました」
籐藤と法律は路地裏を出たところに停めておいたレガシィに乗り込んだ。
警視庁につくと、籐藤は法律を車の中に残し、匙之宮琴音の現場写真のカラーコピーを持って戻ってきた。
助手席に座る法律は、穴が空くほど写真を見つめていた。しかし法律には思いあたる所がないらしく、しきりに首をかしげていた。
「これ、預かってもよろしいでしょうか」
「コピーとはいえ捜査資料だぞ。まぁいい。事件が終わったら必ず返せよ」
二人が徳和大学に着くころには雨はあがっていた。一転した晴れ模様に幸先がいいと気をよくした籐藤であったが――
「紀秋先生なら授業中ですよ」
受付の女性にそういわれて籐藤は自分がアポを取らずに訪れたことに気づいた。
「午後はずっと授業です。うちの大学は広いので、授業と授業の間にも研究室に戻らず、直接次の教室に行かれるかと」
受付の中にあるアナログ時計は十三時五分を指していた。
「授業のあとは会議もあるので、ここに帰ってくるのは……六時は確実に超えますね」
「困った。ずいぶんと待たなきゃならん」
「そうだ。代わりと言っては失礼ですが……市東教授はいらっしゃいますか」
受付の小さな窓にすっと顔を突き出して法律が訪ねた。
「市東教授も博識です。あのひとならきっと……」
「市東教授も午後は授業と会議ですね」
二人は大人しく辞去した。
「いい教訓になりましたね。ひとと会うときは必ずアポをとる。いい歳をした大人なんですからそれぐらい気を利かせないと」
法律の嫌味を無視して籐藤は黙々と歩いた。
平日の午後。徳和大学は大量の学生たちの姿で溢れていた。
駐車場に戻り、レガシィのドアに手を置いたところで、籐藤は思い出したように口を開いた。
「そういえば。前に初芝とここに来た時、建物の陰からこちらを見ているやつがいたんだよな」
「そんなことがありましたか」
「あぁ。こちらが気づくと同時に逃げ出してな。二人で追いかけたんだが撒かれたよ」
「なるほど。まさに、あんな風にこちらを見ていたわけですか」
法律が走り出すのと籐藤が振り返るのはほぼ同時だった。籐藤は見た。校舎の陰にいた黒いスーツの男が踵を返して逃げ出したのだ。
籐藤も走り出した。本道に紛れ込まれたらおしまいだ。先ほど本道を通った際にも、スーツを着こんだ学生の姿は少なくなかった。
人気のない校舎の周りを介し、動物のオブジェが立つ不気味な広場を駆けていく。法律と籐藤の健闘もむなしく、スーツの男は本道の群衆の中に紛れ込んだ。
「逃げられたか!」
籐藤がかすれ声をあげた。
法律は坂道になっている本道に入り、学生の群れの中で周囲を見回している。
「まだです。籐藤さん。こっちへ!」
籐藤は本道に入り、法律の指示に従って坂道の下の方を向いた。
人込みの中、二人は背中合わせに立った。
「指を前に突き出して、一緒に叫んでください」
籐藤は法律の思惑を一瞬で理解した。そして二人は同時に叫んだ。
「「見つけた!」」
見つけてなどいない。ハッタリだ。そして、ハッタリは成功した。法律の背中が離れる。籐藤は振り返った。視界の先。数十メートル離れた坂道の上の方で、慌てふためいて走る黒いスーツの男が見えた。
法律が人込みをかき分けながら駆けていく。その動きは獣のように俊敏だ。
坂道を登りきると、開けた広場に出た。中央に噴水が建っており、その周囲に設置されたベンチで学生たちが談笑を楽しんでいる。
噴水広場の左手に六階建ての清洒な校舎が建っていた。籐藤がこれまで目にしてきた徳和大学の校舎の中でも群を抜いて小ぎれいだ。
「なんかいま、第三校舎の方に向かってすげぇのが走ってったぞ」
そんな声が聞こえた。第三校舎。顔を上げると、徳和大学が建つ山の頂上に木造建築の校舎があった。去年の六月、大和田ゼミの九人の学生が江川富彦と対峙する際に通った建物だ。
籐藤は広場を抜け、歩道ほどの幅しかない階段を登った。
左右に生い茂る木々が視界を黒く染めていく。長い階段を登りきり、平らな山道を抜けると、空を突くような大きさの第三校舎がそびえたっていた。
「籐藤さん。こっちです」
校舎の手前にある掲示板の下で、法律が黒いスーツの男を取り押さえていた。
「ごめんなさいごめんなさい! だっておれ! 今年こそは絶対に卒業したくて!」
男は顔を赤くしながら泣きじゃくっていた。籐藤は男の顔をよく見た。見覚えがある。ここ数か月で会ったはずだ――
「思い出しましたよ、籐藤さん」
息を切らしながら法律が言った。
「青島悠一さんです。市東教授のコテージで遺体を見つけた、第一発見者です」
2
籐藤は校舎の横にある駐車スペースの車止めの上に青島悠一を座らせた。
「黒髪に戻したのか」
籐藤は九月に会ったときの青島の金髪を思い出していた。
「就職活動かな」
「しゅ、就活はもう終わっています」
くぐもった声で青島は言った。小さな両目はルビーのように赤く染まっていた。
「いまは週に三回インターンシップで勉強をさせてもらってるんです」
法律は距離を置いてコンクリートブロックで作られた小さな塀に座っていた。
「どうしてこちらを見張っていた。しかも二回も!」
「見張っていたわけじゃありません。ただちゃんと言わなきゃいけないと思って。でもやっぱり、言ったら、会社にも連絡されて、内定が取り消されるんじゃないかって心配に」
青島は一度グッと鼻をすすると、両手と額を地面にこすりつけ始めた。
「すいません。おれ、嘘をついたんです。本当は警察に通報する三日前に死体を見つけたんです!」
「……三日前?」
籐藤の心中にフツフツと怒りの感情が沸き上がってきた。
「どうしてそんなことを!」
「だって、だっておれ、今年こそ絶対に卒業したかったんです!」
「籐藤さん」
籐藤の肩に法律の手が置かれた。
「彼の話を聞きましょう」
青島青年の主張は以下のようなものだった。
徳和大学法学部四年生の青島悠一が赤いテントの中にある林さゆりの遺体を発見したのは九月十一日の朝であった。
テントの中にある腐乱死体を見た青島は焦った。彼はその日から三日間、所属するゼミの合宿に参加する予定となっていた。警察に通報したら、事情聴取などで合宿に参加することはできなくなる。それは困る。彼にはどうしてもゼミ合宿に参加しなければならない事情があった。
青島青年がその日訪れる予定の合宿所は、『ここで夏合宿を行ったゼミの四年生は一人残らず無事卒業できる』というジンクスで有名だった。二度の留年を経験した青島青年は、今年こそ自分も卒業できると確信した。今年大学を卒業できなければ、四国にある実家に戻り家業を継ぐと両親と約束していた。都会の喧騒を愛していた彼は何としてもこの夏合宿に参加せねばならないと意欲を燃やしていたのだ。
九月十一日。夏合宿初日の朝。数時間後に出発するというタイミングで彼は林さゆりの死体を見つけた。そして彼は警察への通報を怠ってゼミ合宿に向かい、二泊三日の合宿を経て九月十三日の深夜にコテージに戻ると、その翌朝九月十四日に警察に通報したのだ。もちろん。『たった今死体を見つけた』と偽証して。
「合宿の直後に運よく内定がもらえました。だけど警察に通報をしなかったことがバレたら内定取り消しになるんじゃないかって。黙っていようと思ったけど、そのうちバレるかもしれない。自分から正直に言えば許してくれるかもと考えていたら、偶然刑事さんを大学で見つけたんです。後を追って声をかけようとしたけど、どうしても勇気が出なくて」
籐藤は青年の告白にあきれかえり、力なく両腕をぶら下げていた。
「青島さん」
法律はこつこつとこめかみを叩いていた。
「教えてほしいことがあるんです。落ち着いて。よく思い出してください。九月十一日。あなたがテントの中で見た遺体は、どんな様子でしたか」
「十四日に見せられた遺体と変わってなかったですよ。裸で、青黒くて、膨らんでいて、どろっとした肉から血が流れていて……」
「体勢は?」
「あお向けでした」
「遺体はテントのどこにありましたか」
「入り口の前です。チャックを下げたら目の前に顔がありました。あのグロい死体はこっちを見ていたんですよ」
3
石を飲み込んだように黙り込んだ青島をレガシィから降ろすと、警視庁の中から初芝が小走りで駆け寄ってきた。
「籐藤さん。お疲れ様です!」
上司への敬礼もそこそこに、初芝は法律の方を見て破顔した。
「恒河沙さん!」
初芝は法律の背中を大げさにたたいた。法律は苦笑いを浮かべながら人差し指でほほを引っ掻いていた。
「その節はどうも。お恥ずかしいところをお見せしまして……」
「そんな、恥ずかしいところなんて。なんにしても戻ってきてくれてよかったです。いやぁ本当によかった!」
「やかましい。さっさと行くぞ」
四人は警視庁の中へ入った。
「初芝」
エレベーターを降りたところで籐藤が言った。
「野上はいるんだろう。先に始めててくれ。概略はさっき電話で話した通りだ」
「籐藤さんは?」
「部外者を取調室に入れるわけにはいかん
適当にどこかに放ってくる」
青島を連れて初芝は取調室の方へと向かった。
「近くの喫茶店にでも行ってますよ」
「いや。それよりも先にお前の意見を聞いておきたい。三日間のずれについてどう思う」
「九相図という観点から考えると大きな意味はないように思われます。林さゆりさんの遺体が見つかったのが九月十一日だとしても、一つ前の匙之宮琴音さんの遺体が見つかったのは九月九日です。遺体発見の順番は変わりません。それに、九月十一日時点の林さゆりさんの遺体の状況は、十四日に見たものと大差ないようですし」
「『胞乱相』だったな。犯人は本来遺体を十一日に見つけて欲しかったが、青島のせいで三日間ずれた、と」
「車の中で青島さんが言っていましたが、十日の夕方の時点では赤いテントはなかったそうです。つまり犯人は、十日の夜から十一日の朝方にかけて遺体を遺棄したことになります」
「その時間帯の目撃証言を集める必要があるな」
「それよりもぼくは匙之宮さんの写真の方が気になります」
法律がカバンから写真のコピーをとりだし
眺めていると、廊下の向こうからブルドーザーが迫りくるかのような轟音が聞こえてきた。
「おぉぉぉい! とぅぉーどぉー! とぅおーぅうどうぉーう!」
轟音の正体は声だった。プロレスラーと見まがう巨体の万願寺権蔵が手をふりながら近づいてきた。
「……ん? そこにいるのは法律か!」
鬼のような恐ろしい笑顔を浮かべた万願寺は、法律の頭をクシャクシャとなでまわした。
「法律! 本当に法律じゃねえか!」
「ご無沙汰してます。万願寺さん」
好きにされるがままで探偵は言葉を返した。
「籐藤! なんで法律が現場に来てるっておれに言わんかった!」
「万願寺さんが勝手に避けてたんですよ」
「親父の『恒河沙』だと思ったからだよ」
「しいて言うなら責任は誤解を招く行動をとった法律にあります。そいつはおれたちを騙して現場に潜りこんだわけですから」
「まぁいい。積もる話もあるだろう。どっかで話でもせんか」
「いえ。ありがたいのですが……」
「ん? なんだそれ」
万願寺は法律の手から写真のコピーをむんずと奪い取った。
「臨場の写真か。噂になっとる女子大生のやつか。これがどうかし……ん?」
印刷された写真を見ながら万願寺は首をかしげた。
「これおかしくないか」
籐藤と法律は同時に『え』とつぶやいた。
「どこがおかしいんですか」
籐藤は身を乗り出して訊ねた。法律は万願寺の横に移動して写真を見つめている。
「よく見ろ」
万願寺は一枚の写真を指さした。腐敗した匙之宮琴音の遺体がコンクリートの地面に横たわっている。膨張によって生じた裂傷から赤い血が流れており、首から上が浸った浅い水たまりが赤黒く染まっている。
「それから、こっちだ」
万願寺は別の写真を指さした。赤黒い水たまり。コンクリートの地面。庇の下にあるため、雨がそれほど当たらなかったコンクリートの上に残った、直径五センチほどの赤黒い小さなシミ。その写真は被害者の遺体が運ばれたあとに撮られた、遺体が寝転がっていた場所を収めたものだった。
「え。あのこれが何か」
「わからんのか。血の量だ。こっちの水たまりはどうしてこんなに赤く染まっとる?」
「どうしてって、血が流れこんでいるからでしょう。顔から血が流れているじゃないですか」
「ありえん」
「ありえんって……実際に赤く染まっているじゃないですか」
「たしかに血は流れてる。だがこんな微量じゃここまで赤く染まりはせん。おれの経験がそう言っとる」
「水たまりの上にある部位の傷は……一、二、三、四本だけですね」
「たしかに血は流れとるが、それも写真でギリギリ視認できるくらい細い。この写真を撮ったのは何時だ」
「朝の八時は回っていなかったはずです」
「遺体が遺棄されたのは?」
「深夜ということしかわかっていません。現場に雨が降り始めたのは四時です」
「よくて四時間か。ありえん。こんだけの出血量で水たまりが梅干しみたいに染まるはずがない。警察手帳を賭けてやってもいいぞ」
「わかった。後ろですよ。写真には遺体の表側しか映っていません。頭の後ろには膨張してできた傷がたくさん――」
「こっちの写真を見てみろ」
万願寺はもう一枚の写真の、水たまりから三十センチほど離れた位置にある直径五センチほどの赤黒いシミを指さした。
「これはなんだ。言ってみろ」
「血痕です。匙之宮琴音の遺体には膨張からできた傷跡がありました。この位置には匙之宮琴音の腹部があったはずです」
「そうじゃ。だから、ありえん。腐敗ってやつはタンパク質が細菌によって分解され、タンパク質を形成する何万というアミノ酸がバラバラになることで生じる。細菌群が多いところほど腐敗は早く進行することになるんだ。で。人間の身体の中で細菌群が最も多く常在しているところってのはどこかわかるか」
「あ」
法律はとっさに腹を抑えた。その表情を見て万願寺はニヤリと笑った。
「そうだ。腹だ。消化管だ。人間の身体ってのは腹から腐り始めるんだ。膨張ガスで肉が膨れて、傷ができるのは腹が一番最初だ。頭や手足よりも、腹の方が傷は多くなるんだ」
「下腹部からも出血はしています。だけどこんな小さなシミをつくるほどしか流れていなかった。首から上の出血量は下腹部からのものを下回るはず。それなのに、頭の下の水たまりはこんなにも赤く染まっている」
「この水たまりは本当に血で染まってるのか?」
「絵の具や動物の血ではありません。間違いなく被害者の血です」
「匙之宮琴音さんは誘拐されていました。殺害前に拘束した匙之宮さんから血液を採取して保管する。遺体を路地裏に置いたあとに、水たまりに保管しておいた血液を流す。これならつじつまはあいます」
「だが……こんなことをして何になるっていうんだ」
「大和田夏鈴さんを騙すためですよ。大和田さんはこの写真を見て平静を失った。水たまりがあまりに赤く、お腹の下の血液があまりに少ない。学者は博識だって籐藤さんもおっしゃってましたよね。准教授だった大和田さんが腐敗のメカニズムについて詳しくても何も不思議なことはありません」
「大和田夏鈴はどうして今になってそのことに驚いたんだ。彼女は犯人なんだろう。匙之宮琴音の遺体をあの路地裏に置いたときに気づくはずじゃないか」
「おっしゃる通りです。その論理は至極正しい。論理が正しければ事実が間違っている。大和田夏鈴は匙之宮琴音さんの遺体を遺棄していないのです」
「犯人じゃないということか?」
「犯人です。彼女は犯人しか知りえないことを多く知っていました。大和田夏鈴さんには共犯者がいるんです。匙之宮琴音さんの遺体は共犯者があの路地裏に遺棄し、大和田夏鈴さんはその場にはいなかった。そして共犯者は匙之宮琴音さんの遺体を水たまりの上に置いた後、持っていた血液を水たまりに流したんです」
「その共犯者ってやつが……」
「おそらく、兎走さんを殺した犯人です」
「兎走千沙を殺したのも匙之宮琴音の遺体に手を加えたのも、共犯者の目的のためだったのか。どんな目的なのかは知らないが……いや、待てよ。どうして大和田夏鈴はその共犯者のことをおれたちに言わないんだ。共犯者は大和田夏鈴を裏切ったわけだろ。それなら警察に捕まったいま、『あいつはわたしの仲間です』て告発するのが当然じゃないか」
「それはわかりません。だけどそうとしか……つまり大和田さんは……だけど……」
法律は廊下の壁にもたれかかり、ぶつぶつと独り言を続けた。やがて彼の身体は沈み込み、床の上に座り込んだ。
「馬鹿。立て。こんなところを誰かに見られたら……」
籐藤は法律を起こそうとしたが、恵体の探偵の身体はそう簡単に持ち上がらない。探偵は伏し目になりながら不明瞭な言葉を繰り返している。
「おい、こっちを見ろ。法律。こっちを見ろ!」
籐藤は顔を法律の高さに合わせて探偵の身体を揺さぶった。すると探偵は目を大きく開いて『え?』とつぶやいた。
「『こっちを』……『見ていた』?」
4
籐藤はドアを二回ノックし、返事を待たずに中に入った。
「籐藤さん」
初芝が声をあげた。部屋の中央に置かれた机を間に、野上と青島が座っていた。
「いいか?」
「いいぞ」
野上はすっと立ち上がると、大げさに革靴の音を立てながら青島の背後に回った。
「市東教授のコテージ管理のアルバイトを誰に紹介してもらった」
籐藤の鋭い口調に青島は怯えの色を見せた。
「だ、大学の事務課にアルバイト募集の掲示板があるんです。毎週第二月曜に更新されるのを見にいくのがぼくの習慣で、これは前に説明した通りです」
「それは『どこで』への答えだ。おれが聞いているのは『誰に』だ。掲示板をみてきみはアルバイトに募集した。その時きみは、誰と話をしたのかな」
「事務員さんが掲示板の前で声をかけてきたんです。教授が知り合いの生徒に仕事を任せてしまうかもしれないから、今すぐ教授のところに行きなさいって。教授のところに行って仕事の説明を受けました。ゼミ合宿と期間が重なっていましたが、三日間くらいなら空けてもいいと教授はおっしゃいました」
「その事務員の身なりは」
「お、覚えてません」
「性別は」
「それは覚えてます。男です」
「年齢は。アバウトでいい」
「あの教授ほどおじいちゃんではなかったと思いますけど。だめです。思い出せない」
籐藤は無言で立ち上がり、部屋の外に出た。
「待て」
後ろからついてきた野上が腕をつかんだ。
「今の質問は探偵さんの入れ知恵か」
「そうだよ」
野上の腕を睨みつける。腕は即座に離れた。
「大学の事務員を調べてどうする。あのガキは嘘をついていない。市東教授は毎年夏になると大学を介してアルバイトを募集している。今年もそうだ。裏付けはとってある」
「別にあいつが嘘をついていると思っているわけじゃないよ。その事務員ってのがどんなやつなのか、我らがホームズ殿は気になっているみたいでね」
籐藤と法律はレガシィに乗って再び徳和大学に戻った。
「ここか」
事務課は青島を追いかけた時に前を通った六階建ての校舎――第九校舎の一階にあった。
左右に伸びた廊下に木製のカウンターとガラス張りの窓口が並んでいる。籐藤は一番近くにあった窓口に声をかけた。やがて一人の男がカウンターの向こうにある事務室から現れた。
「おや。前の刑事さんとは違う方ですね」
日焼けした肌の事務員はそう言った。ムースで固めた針のような黒髪を頭の後ろに流しており、大きな額が照り輝いていた。
「担当している仕事が違いましてね。少しばかりお時間をいただいても?」
警察手帳を見せながら籐藤が言った。城田渉と名乗ったその事務員は大げさなそぶりでうなずいた。
「市東先生のコテージのバイトですか。毎年夏に募集をしているんですよ。芝生を刈ったり掃除をしたり。仕事はたくさんあるので何日間も泊り込みです。時給がいいし、何よりお酒や食事が用意されている。先生も生徒の方にはこだわりがないみたいなので、採用は実質先着順です」
「他に募集にきた学生はいらっしゃいますか」
「個人情報はできればお伝えしたくないのですが。去年学生の履修情報が外部に漏出して以来、当校はコンプライアンス遵守を徹底しているのです」
「失礼。どうしても教えてもらう必要がありましたらまたお伝えします。コテージのアルバイト募集のチラシは毎年ここの掲示板に貼られるのですか」
「はい。あ、違います。この校舎は今年の春に新設した建物でして、事務課も開設の際に移ってきたんですよ。前のアルバイト募集の掲示板は第四校舎の一階にありました。この校舎のなかでコテージのアルバイト募集のチラシが張られたのは今年が初めてです」
揚げ足取りのような説明に籐藤は苦笑した。
「なるほど。さすがに綺麗な校舎ですね」
法律は周囲を見回した。
「一階はご覧の通り事務課のエリアとなっております。二階から六階は理工学部の研究棟となっており、格物究理の実験がいまこの瞬間も私たちの頭上で行われているわけです。わたしは文学部出身なので実験内容のことは説明できませんがね」
「青島くんは掲示板の前で事務課の方にアルバイトを紹介されたらしいのですが、彼に声をかけた職員の方はわかりますか」
城田は口をすぼめてあごをさすった。
「わたしが所属する学生支援課のスタッフだと思いますが、具体的に誰が対応したかまでは記録していません。青島くんは覚えていないのですかね」
「男性であることしか覚えていないと」
城田は苦笑いを浮かべてダイヤモンドのように輝く歯をみせた。
「男性スタッフは今日全員おりますので、少々お待ちください。とはいえ、掲示板を見ている学生に声をかけるのは日常茶飯事でして、覚えているかどうか」
五分ほどすると城田は戻ってきた。日焼け肌の事務員は両手を大きく掲げて首を横に振った。
5
運転席の籐藤は進行方向を見据えた。小雨が降り始め、ワイパーが左右に揺れている。
法律は不自然な沈黙を貫いていた。その沈黙に耐えられず、籐藤は一度咳ばらいをした。
「何を考えている」
「……犯人は、九月十一日に遺体を見つけた青島さんが、警察に通報せず合宿に出発すると予想していたのではないでしょうか」
籐藤の人差し指がハンドルを叩いた。
「そんなこと予想できるか?」
「青島さんの性格と事情、それからゼミ合宿のジンクスを把握していれば可能です」
「前者を把握しているのは青島の身の回りの人間だけだろう。そこを洗えば犯人が出てくるのか」
「いえ。二年の留年なんてそう簡単にできるものではありません。それに彼は今年の夏まで髪を金色に脱色していました。学内でその名が知れ渡っていたとしてもおかしくない。大学とは広くて狭い場所ですからね」
「合宿所のジンクスも大学に在籍していれば十分知り得る。となると犯人は大学内の人間か」
「確実にそうとは言えません。現に我々もこうして既知にあるわけですから」
「犯人はコテージに泊り込むことになった青島に目を付けたというわけか」
「違います。犯人は青島さんだからコテージのアルバイトを依頼したのですよ」
「犯人は市東透か!」
「違います。青島さんの方から市東教授の元を訪れたんです。アルバイトの件で最初に青島さんに声をかけた人間――掲示板の前で青島さんと言葉を交わした人間が犯人です」
「となると、事務課の人間か?」
「否定はしません。ですが、掲示板の前で声をかけることは誰にでもできます。学生が事務課の職員の顔を把握しているとも思えませんしね」
「犯人は青島の留年事情と合宿所のジンクスを知っていた。更に彼が毎週第二月曜にアルバイト情報を得るために掲示板のもとを訪れると知っていれば……」
「先ほど『予想』と言いましたが、これは適切ではないですね。犯人は、青島さんが十一日の遺体について通報せずに合宿に赴くようコントロールしたのです」
「まて、目的はなんだ。仮にお前の推理が正しかったとして、三日間のずれが生じることで犯人にどんなメリットが……」
籐藤の脳髄に氷刃の如き衝撃が突き刺さった。
籐藤は慌ててブレーキを踏むと、車を路肩に停めた。
「犯人の目的がわかったのか」
籐藤が訊ねた。その瞳は煌々と輝いていた。
法律は弱々しく微笑んで窓の外に視線を逃がした。
「ただの仮説です。確実じゃない。ですがこの仮説が正しければ……掲示板の前で青島さんに声をかけたことも、匙之宮琴音さんの遺体に細工をしたことにも説明ができます」
「言ってみろ」
「いやです」
「おい」
「ぼくはまだ真実にたどり着いていない。これが本当に正しいのかわからないんです。ぼくを肯定してくれる証拠がたりない。わかってください。ぼくはまだ言えないんです」
「だがそれが何かの手がかりに……」
籐藤は息を呑んだ。背中を向ける法律の肩が震えている。手でそっと顔を覆い、探偵は悔やむように涙をこぼした。
「ぼくが……もしぼくが事件の真相に気づいていれば兎走さんが亡くなることはなかった。大和田さんの背後に潜む真犯人の姿を見抜いていれば、彼女は死ななくて済んだんです」
「法律……」
籐藤は手を伸ばして――その手を止めた。
言葉がなかった。じぶんが何を言えばいいのか。何を言うのか正解なのか。それがわからなかった。
「ぼくの安易な推理が兎走さんを殺した。焦ってはいけない。自分自身に幾度となく問い直す。これは本当に正しいのかと、呆れかえるほど問いかける。ぼくはもう誰も傷つけたくない。死なせたくないんです。だから、お願いします。ぼくが完璧な答えを出すまで待ってください」
「……わかった」
籐藤はアクセルを踏んで車を車道に戻した。
「いまは聞かない。だけど約束しろ。全てがわかった時は、誰よりも先におれに教えると」
6
その日の夕方、2tトラックからの落下物の影響で車線規制を敷いていた首都高速3号渋谷線は渋滞に見舞われていた。
籐藤の運転するレガシィが霞が関出入り口を降りるころには、西の空から太陽は消え、夜の帳が支配する世界が背後から歩み寄っていた。
「おれは警視庁に向かうが、お前はどうする」
「ぼくもいっしょに行きます」
「まだ何か聞きたいことがあるのか」
「いえ。万願寺さんと食事の約束をしましてね。籐藤さんもご一緒にとおっしゃってましたよ」
「じょ、冗談じゃない。あの人の酒豪っぷりときたら……」
「お酒強いんですか」
「強いだけならまだマシだ。あの人の場合は他人にも無理やり吞ませて、満足したらイビキをかいて寝始めるんだ。アルハラでどっか地方に飛ばされてほしいよ」
「では、籐藤さんは遠慮されますか?」
「当然だ。どこで待ち合わせしてるんだ。うまいこと避ける」
正面玄関とのことだった。少し距離を置いたところで法律をおろして、籐藤は警視庁の地下駐車場へ向かった。レガシィを停めて、ドアの外へ出たところで、何者かが籐藤の頭をボーリング玉のように掴んだ。
「ははは。逃がすと思ったか」
ストライプのスーツを着こんだ万願寺の後ろで、法律が顔をすぼめてしきりに頭を下げていた。すべてを諦め虚無の表情で万願寺の右手に掴まれた籐藤であったが、見ると万願寺の左手には籐藤と同じく虚無の表情を浮かべる野上の姿があった。
四人は東京駅の近くにある籐藤行きつけの割烹料亭に入り、奥座敷で約三時間もの間酒を酌み交わした。
タクシーの中に高いびきをかく万願寺の巨体を押し込んだあと、三人は赤ちょうちんとネオンが浮かぶ通りを、奇妙な疲労感を全身に覚えながら歩き続けた。
「しかし探偵さんは強かったなぁ。墓場での立ち回りは本当にしびれたよ」
野上が感嘆の言葉を漏らした。
「でもぼくは大和田さんには負けましたよ。功労賞を与えられるのは初芝さんです。彼が大和田さんを取り押さえたのでしょう」
「え、いや。違うぞ」
野上は頭を振った。
「あいつは二番目だ。一番目は神奈川県警の刑事だよ」
「神奈川県警の? それは初耳だな」
籐藤は右耳に人差し指を突っ込んだ。
神奈川県葉山群に位置する鏡清寺での大捕物の際、警視庁は神奈川県警に捜査協力の依頼をだした。同県警は要請を受諾し、捜査第一課十六名が大和田夏鈴の逮捕にあたった。
「『犯人確保』って叫んだのは初芝さんでしたよね」
「あぁ。あとになって誰が最初に捕まえたのか初芝に確認したんだが、うちの刑事じゃなかったらしい。となると神奈川県警だろ。あそこは屈強なやつが多いから黒帯に勝てるやつがいてもおかしくない。それでも探偵さんがいくらかダメージを与えてくれたから逮捕できたようなもので……そうだ。御礼にスニーカーをプレゼントしてやろうか」
「え?」
野上の唐突な提案に法律は首をひねった。
「そのスニーカー。大和田夏鈴を逮捕するときに履いていたものだろ」
三人の視線が法律の足元に集まった。法律の右足が履いているよれた白いスニーカーには黒いシミがこびりついていた。
「あぁ……これ。洗ってもなかなか落ちないんですよね」
「おれは靴を集めるのが好きでね、ひとと会うと靴ばかりに目が行っちまう。家に新品のスニーカーがごまんとあるから、サイズが合えば好きなやつを……おい。何してんだ!」
コンクリート敷きの地面の上で、法律は両足のスニーカーを脱ぎだした。
「このシミ。調べてください」
側面のシミを指さしながら法律は籐藤にスニーカーを押し付けた。
「は?」
「大至急。お願いします」
そう言い終えるが早いか遅いか、法律は靴下のまま国道の方へと姿を消した。
「……左の靴は渡さんでもいいだろ」
籐藤は警視庁へと戻り、科捜研に残っていた若い技官にスニーカーの分析を依頼した。
そして翌日。科捜研からの報告書に目を通した籐藤は、驚きのあまり椅子から飛び上がると、そのまま人気の少ない場所に移動して法律に電話をかけた。
「やっぱり、そうでしたか」
「そうでしたかだと? お前あれをいったいどこで付けたんだ」
声量を抑えることはできたものの、怒気を抑えることはできなかった。籐藤は握りこぶしを何度も壁に叩きつけた。
「どうしてお前の靴から、動物性たんぱく質が検出されるんだ!」
法律は答えない。電話越しに唸り声が聞こえた。
「生ごみの上でも歩いたのか? おい。念のために……あぁくそ。聞くのも恐ろしい。いいか。念のために訊くぞ。あれはDNA鑑定にかけたほうがいいのか」
「お願いします」
即答だった。
籐藤は廊下にへたりと座り込んだ。
「……誰のものだと思う」
再び法律は即答した。
「片瀬双葉さんのものです」
鑑定の結果は法律が予想した通りのものだった。
7
探偵事務所のソファーに腰をおろし、恒河沙法律は黙した。
朝は金星と共に黙し、昼は太陽と共に黙し、夜は月と共に黙した。
黙して黙して黙して黙した。
否。
彼は考えていた。
知識を用いて、思考を巡らせ、直観を呼び覚まし、論理を武器に、記憶に潜った。
十一月十六日早朝。彼は幽霊のように室内の空気を切って事務所を出た。
午後になると、落胆のため息をつきながら彼は事務所に帰ってきた。
彼は再び黙し、壁にかかっていたカレンダーから一枚を剥がしとると、その裏面に鉛筆を走らせた。
九相図。大和田夏鈴。兎走千沙。徳和大学。第三研究棟。血塗相。合宿。星空。誘拐。睡眠薬。江川富彦。匙之宮琴音。死。古墳相。カラス。白い紙箱。歴史学科。掲示板。アルバイト。破かれた写真。青瘀相。鳥峰祭。土手。熊代兄弟。ラルフ。歩道橋。車。米谷ひろこ。蓮本学園初等部。柿本愛乃。神奈川県警。青島悠一。大念佛寺本。
彼はこの三か月間に捜査を介して知ることになった言葉を書き連ねた。その並びに規則性はなく、文字の大きさにもバラつきがあった。彼は脳内の知識を一枚の紙の上に吐き出した。全てを見つめる。そしてその中から真実を見抜く。彼は書いた。書き続けた。頭の中に現れた言葉がカレンダーの裏紙を黒く染めていった。
A教室。加納鈴音。骨散相。江川勝彦。嵯峨天皇。噉食相。野上建太。黒帯。白帯。桂十鳩。骨連想。コンビニ。三上英雄。第九校舎。スニーカー。ごみ捨て場。フロギストン。出禁。赤いテント。路地裏。生前相。東条都。アナログ時計。市東透。万願寺権蔵。小野小町。アルコール飲料。赤い水たまり。タクシー。美術史。スマートフォン。膨張相。ルーブル美術館。菅原鉄平。ノート。コテージ。新死相。大和田紀秋。カレー。林さゆり。八王子合宿所。土手。龍首恵。足跡。事務課。空き地内倉庫。噉食相。八木田陽太。鏡清寺。籐藤剛。胞乱相。加藤彩。理工学部。人道不浄相図。城田弘之。片瀬双葉。片瀬重昴。カエルのスマートフォンケース。カメラ……
その男が正面のソファーに腰を下ろしたのは二時間前のことだった。法律はその男の存在を認識していた。その上で男を無視した。
一心不乱に法律は書き続けた。男は何も語らず一枚の紙に向かう法律を見つめていた。
無数のビルでできた地平線の向こうに太陽は姿を消した。法律はデスクスタンドの白い光の中で書き続けた。全身を不快な汗が覆う。不穏な吐息が口からこぼれる。左耳にかかった髪をかき上げる。指の関節が音を立てる。
「くそ!」
法律は鉛筆をテーブルに叩きつけた。
思いつく限りのすべてを一枚の紙に書き記した。黒鉛の重みに歪んだ一枚の裏紙。宵闇の女神が住まうその混沌に法律の思考は潜りこんだ。混沌は法律をさらに奥深くへと引きずり込んでいく。混沌に溺れる寸前、抗い、現実で息を取り戻した法律は、テーブルに拳を叩きつけた。
「凡人の分際でしゃしゃり出るからだ」
ソファーに座る男――恒河沙理人は凛然とした態度で足を組んだ。
「人間は知り得ぬものに恐怖を覚える。正体の知らぬ鵺を何よりも恐れる。賢人としての正しきふるまいは何か。それは白痴になることだ。すべてを諦め、知り得ぬ事実を享受する。凡庸を受け入れろ。恒河沙の名前を捨てて、この世からその姿を消してしまえ」
「お断りします」
法律の視線は卓上の混沌に固定されていた。
「ぼくはもう退かない。このろくでもない世界に抗って生きていく。世界が醜く汚れていることをぼくは認めます。美しき世界だなんて軽率な言葉を口にするつもりもない。だからこそぼくは守らなきゃいけない。『恒河沙』の魔の手からあの子たちを守るために、あんたに自分の間違いを認めさせるために、ぼくは強くならなきゃいけないんだ」
法律は事務所の中央に置かれた四つの机に近づいた。固まって一つの島を形成する四つの机。彼はそこに震える両手を置き、祈るようにまぶたを閉じた。
「いいだろう」
理人は傍らに置かれた消しゴムを手にとった。
「かつての大師匠でもある恒河沙理人から、凡人たる草の根探偵への最後の贈り物だ」
理人は黒く染まった裏紙の上に消しゴムを滑らせた。白い消しゴムが黒鉛をそぎ落としていく。
「お前はこの事件を構成するたった一つの分子を見落としている。それが最後のカギだ。その最後の分子を得ることで、お前は謎という名の深き牢獄から解き放たれることになる」
――法律よ――
「この世のすべてを見通す瞳。その瞳であっても、見ることの叶わぬものが存在する。それは何か――」
理人は消しゴムを放り投げ、事務所の外へと向かった。
「今一度考えてみろ」
応接セットのデスクスタンドだけが煌々と暗闇の世界を照らしていた。
法律はおぼつかない足取りでその光に近づいた。
光の下に横たわる一枚の裏紙。幾多の文字で作られた黒鉛の闇が、消しゴムにかき消され、その軌跡が白い言葉を残していた。
――恒河沙法律――
その言葉を目にした次の瞬間、法律は全てを理解し、そして吐いた。
胃の中身を吐き出し、全てを吐き出し、吐くものがなくなってからも、彼は繰り返し空っぽの息を吐き続けた。
真実という名の毒が全身にまわる。
無形の狂気が五臓を蝕む。
有形の真実が精神を歪める。
吐き出せ、吐き出せと理性が叫ぶ。
取り込まれるな。抗え。吐き出せ。
吐瀉物に染まったシャツから酸の臭いがする。土気色の顔をした法律はスマートフォンを取りだし、震える指で電話をかけた。




