第十一章
1
籐藤剛は周囲を見回した。昼食のピークを過ぎた学食は空いていた。
「ね。ここなら他人に聞かれる心配がないでしょ」
大和田紀秋はコーヒーにシュガースティックを二本注ぎ入れた。
「まぁそうですが。研究室でもよかったのでは」
「いまは先生が論文を執筆なさっているので。お客人をお連れするわけにはいかないのですよ」
「先生?」
「あ。お伝えしておりませんでしたね。私はいま、市東先生の研究室で机を置いて仕事をさせていただいているのですよ」
「市東……先生ですか」
「姉の研究室は既に閉鎖しました。大人しく講師用の職員室に戻ろうとしたのですが、市東先生が声をかけてくださったのです」
「ずいぶんと気にいられているのですね」
「前にお話ししたでしょう。先生にとってぼくは有益なんです。ぼくも先生の貴重な書架をお借りできるので五分五分です。それで、今日の御用は」
「また九相図のことでお聞きしたいことがありましてね」
「まぁ。そうなりますよね」
紀秋は五本の指を大きく開いてテーブルを叩きはじめた。
「ですが今さら九相図について聞いて何になるというのですか。事件は終わった……」
紀秋はぴたりとその動きを止めた。大きく見開いた目が籐藤に向けられる。
「まさか」
「大和田さん。九つ目の遺体がでました」
「九つ目。そんな馬鹿な。だって、だって姉が犯人なのでしょう。姉は逮捕されて、それはつまり……待ってください。誰なのですか。誰が殺されたのですか」
「兎走千沙さんです」
「嘘だ。だって彼女はヨーロッパにいるはずじゃないですか」
紀秋はシャツの第二ボタンをはずし、首まわりを乱暴にかきむしり始めた。
「出国記録がありませんでした。彼女は日本を出ていません。そして現場から……彼女だと裏付ける証拠が発見されました」
「そんなバカな」
紀秋は椅子のせもたれに力なくよりかかった。椅子が床を引っ掻き、不快な音を立てた。
「人骨でした」
「人骨?」
「骨です。骨だけです。骨だけが散らばっていたのです。骨壺に納まってさえいれば、『小野小町九相図』の第九相『古墳相』と読み取れないこともない。だけどそれは無理だ。あの人骨からは弔いの意志は感じられない。あれは絶対に『古墳相』じゃない」
「つまり、『小野小町九相図』ではないということですね」
「そうです」
籐藤は深くうなずいた。
「この新たな犯人は、大和田夏鈴が手掛けた一連の殺人を継承して、新たな九相図を作ろうとしている。私はいまその線で捜査を進めています。大和田さん。どうでしょう。これまでの八人+新たな一人の死。これらを体現する『九相図』は存在するのでしょうか」
「ちょ、ちょっと待ってください。えっと、復習がてらこれまでに発見された遺体の状況を教えていただけますか」
「わかりました」
籐藤は手帳をめくり、次のように説明した。
①東条都(21)。横断歩道橋の上で発見される。死亡推定時刻は死体発見の数時間前。
②垣本愛乃(21)。私立蓮本学園初等部校舎敷地内で発見される。腐敗ガスが体内で発生し、全身が巨人化していた。
③匙之宮琴音(20)。繁華街の裏路地で発見される。遺体の裂傷から血液が流出していた。
④林さゆり(20)。森林の中に設置されたテントの中で発見される。腐敗が進行し、肉が崩れ落ちはじめていた。
⑤龍首恵(22)。ゴミ捨て場で発見される。カラスが遺体を啄もうとしたが、第一発見者の米谷ひろこがこれを追い払う。遺体は腐敗が進行し、一部がミイラ化していた。
⑥加藤彩(19)。土手沿いに生えた草むらの中で発見される。身体の多くの部分がミイラ化。大和田夏鈴によって加藤彩の肉の味を教えられていたラルフ(家庭犬)が死体に飛びかかったが、飼い主の三上英雄が阻止する。
⑦鳥峰祭(22)。空き地内に立つ物置の中で発見される。骨だけが整然と並んでいた。
⑧片瀬双葉(21)。大和田夏鈴が鏡清寺に骨壺に収めた状態で持ち込む。大和田夏鈴は墓に収めようと奮闘したが、捜査員の手によって阻止される。
「そして九番目。九番目の遺体は、ビルの一階にあるガレージで発見されました。遺体は白骨化しており、七番目に発見された鳥峰祭さんの遺体に近い状態だったといえるでしょう。彼女の遺体ほど整然と骨が並んでいたわけではありませんが」
「犯人が九番目に発見された遺体を、第何相と捉えているのかが気になりますね」
「片瀬双葉さんの『古墳相』を失敗と捉え、九相図から排除する。つまり、九番目に発見された遺体を犯人は『第八相』と捉えている可能性もあるわけですね」
「もしくは、墓地の敷地内に遺骨を運び込んだだけでも『古墳相』として成立したと考えたかもしれない。その場合、九番目の遺体は『第九相』となるわけだ」
「はい。いちおう二つのパターンで考えてみますが……」
たっぷり一分ほどの沈黙を貫いたのち、紀秋は小さく口を開いた。
「『大念佛寺本』が近いですね」
どこかで聞いた覚えのある名前だ。籐藤は記憶を掘り返し思い出した。法律だ。鏡清寺で大和田夏鈴と対峙した際に彼はその名前を口にした。
「大阪の大念佛寺というお寺に収められている『九相詩絵巻』という九相図をわれわれは『大念佛寺本』と呼んでいます。この九相図は『小野小町九相図』とその構造がよく似ている。異なるのはたったの二点。一つは、『小野小町九相図』が『骨連相』から『古墳相』と終わるのに対し、『大念佛寺本』」では『骨連相』、『骨散相』、『成灰相』の順で終わります。『成灰相』とは『古墳相』と実質的には同じです。そしてもう一つは『生前相』の有無。『小野小町九相図』には『生前相』があるのに対し『大念佛寺本』にはこれがありません。他の多くの九相図と同じく『新死相』から始まります」
籐藤は手帳のページを一枚破り、二つの九相図の九相を書いてくれと依頼した。
小野小町九相図
1生前相 2新死相 3膨張相 4血塗相 5胞乱相 6青瘀相 7噉食相 8骨連相 9古墳相
大念佛寺本九相図
1新死相 2膨張相 3血塗相 4胞乱相 5青瘀相 6噉食相 7(白)骨連相 8(白)骨散相 9成灰相
籐藤の頭の中で火薬がさく裂する音がした。
大和田夏鈴は『生前相』をゼミ生たちが映った集合写真で見立てたが、それは新たな犯人の手によって粉々に破かれていた。これは『生前相』の否定。『小野小町九相図』の否定にして、新たな殺人の意図が『大念佛寺本』の見立てであることを強く肯定しているのではないか。
「姉と話してみるといいかもしれません」
紀秋は憂いた顔で提案した。
「罪人であることが事実であるように、姉が一人の優秀な学者であることもまた事実です。素直に答えてくれるかはわかりませんが」
籐藤はうなずき、冷めたコーヒーをひとくちで飲み干した。
もし新たな犯人の狙いが『大念佛寺本』の見立て殺人だとしたら――つまり、兎走千沙の遺体が第八相の『(白)骨散相』ならば『大念佛寺本』はまだ完成していない。最後の第九相として被害者がさらに出現することになる。
「大変参考になりました。ではこれで失礼します」
「お役に立てたようで何よりです。ところで、今日は恒河沙さんはご一緒ではないのですか」
「え、あぁ……」
籐藤は、目の前の紀秋の顔がみるみる怪訝なものに変化していく様を見た。
「大和田さんはずいぶんと口が堅いみたいですから、特別にお話しします。遺体の発見現場は法律が務める探偵事務所が入ったビルの一階でした」
「探偵?」
「彼は警察官ではありません。捜査に協力してくれていた私立探偵なのです」
「あ、あぁ。なるほど。どうりで。警察官らしくないというか、柔和な雰囲気というか。おっと、これは失言でしたね」
紀秋は両手で口を覆った。
「法律は被害者と個人的に親しくしていました。いま彼は、事務所でふさぎ込んでいます」
「それはかわいそうに」
「大丈夫ですよ。あいつだって大人です。時間が経てば立ち直れます」
そう口にした自分自身がその言葉を信じていないことに籐藤は気づいていた。時間が経てば立ち直る。本当にそうだろうか。時間が最良の医者であるなんて戯言を口にしたのはいつの時代のほら吹きだ。万病を治す薬が現実には存在しないように、時間がありとあらゆる傷を治癒してくれるわけではない。むしろ時間の経過と共に傷穴が広がっていくこともあるのではないか。
籐藤は警視庁に戻り、既に目に焼き付いたといっても過言ではない書類を確認した。
午後十時三十分。科捜研からDNA鑑定の報告が届いた。
ささくれ立った心境で書類に目を通す。
検査結果に吃驚することはなかった。誰もが予想したとおりの結果だ。白骨化した遺体は兎走千沙のものだった。
2
ドアの開く音を耳にすると、籐藤は閉じていた目をキッと見開いた。
「そこに座って」
初芝の言葉に彼女は粛々と従う。
「おはようございます。本日もお勤めご苦労様です」
籐藤は言葉を返さない。腕を組んだまま石のように固まり、灰色の机を見つめていた。
「籐藤さん?」
記録係を務める初芝が首をひねった。部屋の隅で腕を組み、彼女の背中を見つめていた野上も怪訝な表情を浮かべた。
「兎走さんが亡くなったのですね」
彼女――大和田夏鈴の言葉に、取調室の空気が色を変えた。
「……どうしてそう思う」
「お三方の雰囲気です。今まで何度もこの部屋にお連れいただきましたが。はて。このように凍った雰囲気は初めてです」
「凍ったとは珍しい形容だ」
「凍っています。意志が、思考が。戸惑っていますね。理解の範疇を飛び越える事態が生じた。その事象が私をこの部屋に呼び寄せた。ポジティブな事態なら言葉を詰まらせることはありません。ネガティブな事態が生じたのですね。わかりました。殺人です。ここに事件の犯人がいるはずなのに、新たな殺人事件が起きた。それも九相図を体現する事件です。殺されたのはだれか。兎走さんでしょう。私のゼミの最後の生き残り。殺されるとしたら彼女しかいない。彼女しか残っていないのです。あはは。表情が変わった」
籐藤は軽い頭痛を覚えながら濁った息を吐いた。
「兎走さんの遺体が発見されたのは。昨日の朝でしょう」
陶酔したような微笑を浮かべながら夏鈴は続けた。籐藤は口を閉ざしたままだ。
「人目に付かないよう死体を運ぶのは夜中。これは子どもでもわかる推理です。夜中に持ち運ばれた遺体が朝になって見つかった。お三方の焦り具合から、発見されたのが直近だということは確実です。事態が事態だけに一刻も早く私を取調室につれていく必要がある。ではなぜ遺体が発見されたのは今日ではなく昨日なのか。私にはわかります。遺体は白骨化した状態で見つかった。その白骨が誰のものなのかを調べるためにはDNA鑑定を行う必要がある。朝に遺体が発見されて早急に行ったとしても結果がでるのは半日後。刑事さんたちのところに検査結果が上がってきたのは夜でしょう。そんな時間から取り調べを始めるわけにはいかない。昨今は警察官の横暴な取り調べが社会問題になっていますからね。ふふふ。組織の実状を知らない目腐れが現実的ではないコンプライアンスを敷くのは大学組織といっしょですね」
「どうして遺体が白骨化していたと思う」
「私の九相図を継いでいるからですよ」
夏鈴は両ほほを大きく上げて笑った。その笑顔は夏鈴の整った顔立ちと相まって、外国のアンティーク人形のような不気味さをそなえていた。
「私にはわかります。兎走さんはお墓で発見されたのでしょう」
組んでいた腕を解き、野上が苦い顔をした。眼鏡のつるを二本の指で揉みしだいている。
「『小野小町九相図』は『古墳相』でそのすべてが完成する。本来ならば片瀬さんのご遺骨ですべてが終わるはずだったのに、皆さんのせいで私の計画は失敗した。片瀬さんのご遺骨は既にご家族のもとに返されたでしょう。ならば、九相図を完成させるためには『新たな死』が必要となる。大和田ゼミの最後の一人、兎走千沙さんの『死』が……」
夏鈴は感嘆のため息を漏らした。背もたれに身体を大きく預け、乾いた笑いを繰り返す。
「すばらしいとは思いませんか?」
両目をむき出しにしながら夏鈴は叫んだ。
「これが私の『九相図』です。私が愛した嬋娟たる美女の死する姿が現代によみがえった。あぁ、なんと醜きこと。どうしてひとの死はあれほどまでに醜いのでしょう。何ゆえ神は人を、生命を、尊いままに終わらせてはくれなかったのか。何ゆえひとは美しく、何ゆえひとは醜いのか。わかりません。わからないのです。だがそこに真理がある。人間には避けることのできない無情がある。これが芸術です。世界の真理をあるがままに表現する。それが美なのです。そのために私は殺した。愛する生徒たちをこの手にかけた。ねぇ、刑事さん。わかってくれるでしょう。私は外道に堕ちながらも美を追求した。美を実現した。美をこの世界に残した。何人ものひとが彼女たちの醜い死にざまを目撃した。私は満足です。この歓喜に比べたら死罪なんて、喜んで断頭台に上がりましょう」
嘲笑が取調室にこだました。狂気の笑いが空気を暗黒色に感染させていく。
夏鈴は両手を大きく開いて天を仰ぎ見た。その瞳は彼女にしか見えない何かを見つめていた。十本の指が触手のようにうねりはじめる。
「残念だがあんたの九相図は完成しちゃいないよ」
投槍のような言葉が夏鈴の脳に突き刺さった。
夏鈴はゆっくりと首を下ろし、歪んだ笑顔で籐藤を見つめた。
「あんたのおっしゃる通り、昨日の朝兎走千沙の白骨遺体が発見された。ただし発見された場所は墓場じゃない。ビルの一階にあるガレージだ」
夏鈴の顔に陰がさした。
「骨壺になんか入っちゃいない。お世辞にもあれは『古墳相』とはいえない。『小野小町九相図』は完成しちゃいえないんだよ」
「そんな、そんな馬鹿な」
夏鈴は苦悶の表情で親指の爪をかみ砕き始めた。
「遺体のそばから細かく破かれた集合写真がみつかった。あんたが『生前相』として残していったあの写真だよ」
「写真が……」
「『大念佛寺本』」
籐藤がそう口にすると、夏鈴はキッと首をあげて刑事の口元を見つめた。
「『大念佛寺本』という九相図が存在するそうだな。兎走千沙を殺した犯人は『大念佛寺本』の九相図を見立てようとしている。そうは思わないか学者さん。兎走千沙を殺した犯人はなぜ集合写真を破ったのか。それは『大念佛寺本』には『生前相』がないからだ。『大念佛寺本』を見立てるためには、あんたが用意した『生前相』を否定する必要がある。だから破いた。『小野小町九相図』の第二相『新死相』から第八相『骨連相』までと、『大念佛寺本』の第一相『新死相』から第七相『白骨連相』までは内容が一致している。兎走千沙の遺骨は『大念佛寺本』第八相『白骨散相』だ」
夏鈴は何か熟慮をしているのか、親指の爪を噛みながら足元の一点をジッと見つめている。籐藤は夏鈴のその態度に気づかず言葉を続けた。
「つまり、この後にまだ『成灰相』が続くわけだ。そこであんたに訊きたいことがある。『大念佛寺本』を作ろうとしている真犯人に心当たりは――」
「匙之宮さんの遺体の写真を見せてください」
「……は?」
輪のように広げた籐藤の口から、呆けた言葉がこぼれ落ちた。
「死体発見現場で撮られた匙之宮琴音さんの写真をすべて見せてください。そう言っているのです」
「そんなものを見てどうする」
「見せてくれるまでは口を開きません」
そういって夏鈴は貝のように押し黙ってしまった。
籐藤は野上を見た。野上は小さくうなずき、取調室から出ていった。
数分後。青いファイルを片手に野上は戻ってきた。
夏鈴は落ち着いた様子で一枚一枚の写真に目を据えた。
籐藤も夏鈴の肩越しに写真をみた。
灰色のコンクリートが敷き詰められた路地裏。あおむけで横たわる匙之宮琴音の腐乱死体。体内で発生した腐敗ガスが青黒い身体を膨張させている。膨らんだ全身のいたるところから皮膚が裂け、血液や体液が垂れおちている。遺体の首から上が浸っている浅い水たまりは赤黒く染まっていた。
現場周辺を引いて撮った全景。不法投棄された家電ゴミ。ビルの壁に描かれた落書き。遺体周辺の写真もあれば、遺体が回収された後に撮られた写真など、時間と場所が異なる様々な写真がファイルには収められていた。
「もう結構です」
そういって夏鈴は視線を上げた。
籐藤はハッとした。夏鈴はその瞳から涙を流していた。右手で目元を抑え、嗚咽を漏らし始めた。
「今頃になって自分が何をしたのか分かったか」
冷たい口調で野上が言った。
夏鈴は涙を払って籐藤を見つめた。その瞳を見て籐藤の背筋に悪寒が走った。瞳には嘆きの感情が込められていた。夏鈴の瞳はこれまでに彼女が見せたことのない感情を訴えていた。
「『大念佛寺本』ではありません」
夏鈴はそうつぶやいた。
「九相図じゃない。芸術なんかじゃありません。刑事さん。あなたの推理は的外れもいいところです」
籐藤の思考は音を立てて凍りついた。
「ちょ、ちょっと待て! 新しい犯人は『大念佛寺本』を見立てるために兎走千沙を殺したわけじゃないっていうのか」
「そうです」
涼しい顔をして夏鈴はうなずいた。
「もう一度言います。九相図じゃない。そんなもの、芸術でもなんでもありません」
3
兎走千沙の遺体が発見されてから二日後。秋雨が降り続く東京は、ぶ厚い雲に覆われ、陰鬱な様相を成していた。
「あの……すみません」
ドアが開かれ、遠慮がちな声が人気のない事務所に吸い込まれていった。男は首をかしげた。カギは開いていた。なのに電気はついていない。
「すみません。どなたか、すみません」
ごそりと何かが動く音がして、男はそちらに足を進めた。四つの事務机が集まった島の前を通って、パーテーションで区切られた一画をのぞき込む。
「恒河沙さん」
大和田紀秋はほほを緩まして安堵の息を吐いた。
ソファーの上に座っていた長躯の男――恒河沙法律は、奇怪なうめき声をあげた。
「恒河沙さん。お邪魔してます。大和田です。恒河沙さん」
法律はゆっくりと頭をあげた。無精ひげの生えた生気のない顔が紀秋を見つめた。
「電気は……あそこか」
紀秋は壁のスイッチを見つけて押した。深海のように暗い室内に光が満ちる。法律は光から顔を逸らし、また顔を伏せた。
「兎走さんのことを聞きました。本当に、残念です」
法律は沈黙を貫き、静かに瞳を閉じた。
「恒河沙さんは探偵なんですね。なるほど、他の刑事さんたちとは雰囲気が違うと思っていたんですよ。探偵が警察に協力するだなんてまるでミステリー小説のようだ。子どもの頃はよく読んでましたよ。二階堂蘭子や九十九十九。江神二郎よりは火村英夫の方が好きでしたね」
紀秋の軽口にも法律は付き合わない。岩のように、死者のように、彼は動かない。
「辛いとは思いますが、どうか元気を取り戻してください。あなたがいたから姉を逮捕できたのです。あなたは立派な探偵だ。あなたがいれば兎走さんを殺した犯人も――」
「守れなかった」
かすれた声が探偵事務所に響いた。
それは法律の声だった。
「守れなかった。兎走さんを守れなかった」
「仕方がないことです。姉が逮捕されたあとも周りに気を払えだなんて無理な話です。あなたが気を負う必要は……」
「犯人を捕まえた。それで終わりだと思っていた!」
法律は白い手のひらをテーブルに叩きつけた。
「だけど……だけど誰もそれが真実だとは保証してくれない。だったら謎を解くことになんの意味がある。『真実』を疑い、怯えながら生きていくことに何の意味がある。額縁の中に納まった『真実』にどれほどの価値があるというのですか。何のために真実を追い求める探偵は存在しているのですか」
あたまを抱えて法律はうずくまった。身体が震え、いびつな嗚咽がのどの奥からこぼれ落ちた。
「ぼくは、こわい」
法律は言った。
「何もかもがこわい。進むことがこわい。謎を解くことがこわい。ぼくは――」
「……フロギストンをご存じですか」
乾いた声で紀秋が言った。
フロギストン。法律はいちどその言葉を口にしてから紀秋を見た。
「人類史において『火』が大きな役割を果たしてきたことは疑いようがありません。暖をとる。獣を追い払う。陶器を作り、武器を作る。人類は『火』から始まった。そして、人類は『火』によって滅びる。十億年後には太陽が膨張して地球は高温にさらされる。とても生物が生きてはいられない惑星になるのです。もっとも、そのころ地球に『人類』と呼ばれる生物がいるのかはわかりませんが」
紀秋はもう一度咳払いをした。
「人類は火とともに歴史を駆け抜けてきました。しかし『燃焼』という現象は紀元前から多くの科学者がその性質を解明しようと努めてきたにもかかわらず、十分な結論がでることはありませんでした。ある程度の説得力をもって迎え入れられたのが十七世紀の『フロギストン説』です。この説によると、可燃性物質の中には燃焼をつかさどる元素『フロギストン』が含まれており、この『フロギストン』は燃焼の過程で可燃性物質の中から外へと放出されていく。そしてフロギストンを完全に失った可燃性物質は燃焼を止めるのです。『燃焼』とはこのフロギストンの放出に他ならないと考えたのが『フロギストン説』です。もちろん。今ではこの理論は誤った理論として化学辞典に記されています。『燃焼』とは可燃性物質と酸素による酸化反応に他なりません。しかし、この『燃焼の酸素説』が受け入れられるまで約百年の間、多くの知識人たちは『フロギストン説』を真実として信奉していたのです」
紀秋はポケットからジッポライターを取り出し点火した。橙色の炎はふわりと彼の輪郭を揺らした。
「真実は相対的です。ある時点ではそれが真実と称賛され、別のある時点では虚偽として蔑まれる。私たち人間は絶対的な真実を求めますが、人間であるがゆえにそれは手にすることはできない」
――それでも――
「それでも、それでも進むしかない。間違いながら進むしかないのです。科学者たちは過ちを認めた。それでも彼らは歩き続けた。恒河沙さん。あなたも同じ人間だ。真実はつかめないかもしれない。だけど、真実を求め続けなければならない。それが恒河沙法律という探偵に課せられた使命であり、亡くなった人たちに対する供養になるのです」
「亡くなった人たち……」
紀秋はライターをポケットにしまった。
「ぼくはあなたに期待しています。あなたならできる。きっと、きっと犯人の正体にたどり着けるはずです」
5
人気のない寒々しいコンクリートに雨音だけが鳴り響いている。背後に広がる繁華街の喧騒との差異がその静寂をより一層のものにした。
シャッターが下りた軒先がいくつも続く。艶のない革靴を水たまりに濡らしながら、籐藤はこうもり傘をさして路地裏を歩き続けた。
一枚のシャッターの前で足を止める。穴が空いたオレンジ色の庇の下には、雨水を吸って黒く変色した菓子箱と、かすかにほこりを被った缶ジュースが置いてあった。半透明なビンが横たわり、その中に活けてあった白菊も地面に崩れ落ちていた。
膝を曲げたまま、籐藤は目を閉じた。
黙禱のために訪れたわけじゃない。
では何のために訪れたのか。
彼にもわからなかった。
足音が籐藤の耳に飛び込んできた。
ふり返ると、恒河沙法律がそこにいた。
雨音がその恵体を容赦なく叩きつけている。黒く滲んだデニムジャケットを羽織った探偵は、覆いかぶさるような態勢で両腕に何かを抱えている。花だ。虹の一部を切り取ってきたかのような大量の花束を彼は抱えていた。
「偶然ですね」
法律はゆっくりと歩き出し、庇の下に花束を手向けた。
「会えるとは思いもしませんでしたよ」
「どうしてここに?」
籐藤が訊ねる。法律は顔をあげ、籐藤を見つめた。
「ぼくにとってこの事件はこの路地裏から始まりました。あなたに誘われ、ここを訪れて、そこからこの事件が始まった」
「そうだったな」
籐藤の脳裏に法律と初めて会った日のことが思い出された。
「もう一度始めるためにぼくはここに来た。真実に立ち向かう。そのためにぼくはここに来たのです」
――お願いします――
「もう一度、捜査に協力させてください」
雨に打たれながら法律は深く頭を下げた。
籐藤はため息をついた。ここで探偵が捜査に参入することで事態が一転するとは思えない。一度は背を向けて逃げ出した若輩者だ。何を期待しろというのだ。
――それでも、それでもおれは――
籐藤は傘を差しだした。
「とりあえず、傘に入れ」




