第九章
1
籐藤剛は深呼吸をし――
「いやだから深呼吸とかいらないってば」
音もなく開いた扉が籐藤の鼻先をかすめた。
驚きで見開かれた両目を下げると、桂十鳩副総監が籐藤を見つめていた。桂は籐藤を自室に引きずり込み、緋色のじゅうたんを踏みしめて自席に戻った。
桂の机の横で直立した小田切亘良刑事部長が恵比須顔で籐藤を見つめていた。
「とりあえず、ごくろうさま」
右耳の後ろをゴリゴリと押しながら桂は部下を労った。
「ありがとうございます」
「急いで葉山のお寺にひとを集めてくれなんて言うから何事かと思ったよ。神奈川県警も協力してくれてよかったね。ずいぶんたくさん人を割いてくれたみたいで」
「何人かは病院おくりにされましたけどね」
「刑事である以上しかたない。私からも頭下げといたからだいじょーぶ。ん。犯人は大和田夏鈴だったんだってね。ふぅん、意外」
「意外だったから、逮捕までこれほど時間がかかったのです。私たちは大和田夏鈴の手のひらの上で踊らされていました」
「自責の念は好きじゃないなぁ。人間にできることはできることだけだよ。できることをやらなかったら責めれられて当然だけど、できることをやったなら責められるいわれはないね」
「籐藤。大和田夏鈴の取り調べの進捗を」
小田切がピリッとした口調で言った。
「それが……非常に難航しております」
「へぇ。難航」
桂は手の甲を机の上にぺたりと寝かせた。
「どんなふうに難航しているの。キープだんまりとか?」
「自身の犯行については素直に認めています。江川富彦を含む九人を誘拐し、そのうち八人を殺した。ただ、彼女たちを連れ去った『隠れ家』については黙秘しています」
「江川富彦のことは殺していないと言ったんだよね」
「はい」
「監禁中の世話を大和田夏鈴自身がおこなっていたとしたら……」
「はい。急いで彼を見つけなければ大変なことになります」
「うん。それで風の噂に聞いたんだけど、精神鑑定を受けさせるんだって」
桂の問いかけに小田切は首を縦に降ろした。
「どんな感じなのよ」
「その日はじめて顔を見合わせたときは必ず『おはようございます』と頭を下げ、何時間にも及ぶ取り調べが終わると『ありがとうございました』と頭を下げます」
「ん。普通じゃん」
「殺害方法や被害者については流暢に話してくれるのですが、ひとたび『九相図』の話になると、『九相図をつくりたかった』と大声で叫びだし、九相図のレクチャーを一方的に始めます。一度こうなったら、気が済むまで放っておくしかありません。『隠れ家』についても同じです。被害者をどこに連れて行った。どこで彼女たちを殺したんだ。そう尋ねても、彼女はまともな答えを返してくれません」
「あぁ。それは壊れちゃってる気がするね。どう思う。責任能力は問えないかね」
「なんとも言えません」
「そっか。しかしどうしてだろうね」
桂は椅子を回転させながら首をひねった。
「隠れ家についての説明を拒む理由はなに。隠れ家で『何をしたか』については説明してくれるわけでしょ。もし彼女が犯行を否認して、それ故に隠れ家なんて知らないとのたまうなら筋は通っている。その隠れ家には犯行の証拠がごまんとあるだろうからね。だけど彼女は犯行を認めている。認めているならば、犯行現場を隠す必要だってないでしょう」
「証拠不十分で減刑となる可能性を狙っているのでしょうか」
「だったら片瀬双葉についての犯行だけを認めるはずだよ。彼女は片瀬双葉の骨壺を持って鏡清寺に現れただけなんだから」
人差し指を机に置いて椅子の回転が止まった。籐藤を見つめる桂の視線は針のように鋭かった。
「犯人が捕まったところで全ての謎が解決したわけじゃない。大和田夏鈴がゲロるまで取り調べはしつこく続けて。それから世間一般の価値基準では好青年とは言い難いとはいえ、江川富彦はカワイソーな被害者だ。一刻も早く彼を保護するよう、捜査員一同心してかかって」
「はい!」
籐藤は両足を閉じて、敬礼をした。
「ところで。今回の事件で『恒河沙』についてはどう思った」
桂は机に両肘をつき、卓上カレンダーを持ち上げた。
「少しばかり変わった性格をしていますが――」
籐藤はくすりと一度だけ笑った。
「誠実でいい男という印象です。警視監が期待されるのも頷ける聡明ぶりで、此度の犯人逮捕に大きく貢献してくれました」
籐藤は自分が口にした言葉を反芻してみた。誠実。聡明。法律という男を表象するのには適した言葉であるとうなずいた。
だが――そんな籐藤の言葉を耳にした桂と小田切は、顔を曇らせて互いに視線を交わしていた。
「聡明って言葉は納得できるけどね」
椅子から降りた桂の視線が蔑視を含んで籐藤に向けられた。
「あの男が……誠実?」
その言葉に呼応するように小田切が鼻を鳴らした。
籐藤の心の中で何かがピシリと小さな音をたてた。ネズミの心音のように小さなその音の正体は何なのか、彼は五秒の間隔をおいてそれを理解し、知らぬ間に両手を強く握りしめていた。
「自分は間違ったことを言ったつもりはありません」
「籐藤」
小田切の小さな瞳が桂と籐藤の間を左右する。しかし籐藤は刑事部長の視線を無視した。
「どうして彼をそこまで嫌っているのですか。お二人は『狂人』を捕まえるために『狂人』に頼るとおっしゃいました。ですが私には彼が『狂人』だとは思えません。彼は誠実な男です。正義を愛し、正義のために戦う立派な男です。狂人なんかじゃない」
「あの男について悪い噂を聞いたことはないの」
L字に曲がった鏡面塗装のテーブルに寄りかかりながら桂は訊ねた。
「それは……」
ない、とはいえない。明快闊達な検視官の万願寺があそこまでひとを毛嫌いしているのを見るのは初めてのことだった。
「聡明という点は私も認める」
小田切があずき豆のような目をこすりながら言った。
「だがあの男は、聡明であると同時に傲慢で、傲慢であると同時に非道だ。あの男が事件に現れると、必ず警察を辞めたがるやつが出てくる。本当にいい迷惑だよ」
「彼は変わったんです。お二人が最後に出会ったのは何年も前でしょう。ひとを変えるのに何十年と言う時間が必要というわけではありません。彼は……」
「もういい」
桂は小さな右手で指を鳴らした。
「もういい。この話は終わり。それより、籐藤くん。恒河沙探偵事務所からの協力は『犯人逮捕まで』と契約書に記載しておいた。大和田夏鈴を捕らえた今、これ以上あの男を事件に介入させるわけにはいかないからね」
「『逮捕まで』って……」
籐藤は顔いっぱいに口を広げた。
「まだ江川富彦が見つかっていないのですよ。『隠れ家』の捜索も手伝ってもらったほうがいいのではないですか」
「だめ」
桂は力強く首を横にふった。
「これ以上の恒河沙の介入は許さない」
頑ななもの言いに籐藤は反論する気持ちをなくし、枯れた花のように頭を垂れた。
2
「じゃあ恒河沙さんはもう捜査に加わらないってことですか」
ハンドルを握る初芝は口もとをすぼめた。
助手席に深く身を沈めた籐藤は返事をすることなく、青空を泳ぐうろこ雲を見つめていた。
「警視監も刑事部長もどうしてそんなに恒河沙さんを嫌っているんですかね。今回の事件で彼と関わって気分を害したひとなんていないでしょう。過去の事件では退職者が続出しただなんて信じられませんよ」
「信じられんが事実は事実だ。小田切さんに言わせると昔のあいつは『傲慢』で『非道』な男だったらしい。八年間のうちにあいつは成長したんだろう」
「だけど……警視監のおっしゃることも間違ってはいないですよね。本来捜査はぼくたち警察の仕事です。手におえない事件だから、恒河沙さんは呼ばれたわけでしょう。犯人は捕まりました。大和田夏鈴の逮捕前の足取りを追えば隠れ家は見つかります。わざわざ恒河沙さんの力を借りることありませんよ」
「ひとの命がかかっているんだぞ」
「捜査会議で小田切さんも言ってたじゃないですか。大和田夏鈴は江川富彦も殺害した可能性が高い。稀代の殺人鬼と化した彼女が、自身の犯行を知る江川を生かしておくとは思えない、て。大和田夏鈴は江川殺害を否定していますが、それは九相図を見立てようと目論んでいた以上、九相図とは関係のない殺人を認めるのは格好がつかないからですよ」
「生きている可能性が否定されたわけじゃないだろ」
返事を待たずに籐藤は目を閉じた。思考をしたかった。自分が感じている困惑を沈黙の傘の下で整理しておきたかったのだ。
整理が終わる前に目的地に着いてしまった。二人は来客用駐車場から徳和大学第三研究棟に向かった。
リノリウムの床に革靴の音が響いた。第三研究棟の二階に上がり廊下を進む。途中にある談話ルームに、二人の男が待っていた。
「お待ちしておりました!」
籐藤の姿を視界にいれると大和田紀秋は勢いよく椅子から立ち上がった。
紀秋の尻に押されて倒れかけた椅子を、横にいた男がそっと手でおさえる。男は猛禽類のような目で紀秋を見つめたあとに咳ばらいをした。
「どうぞ、お座りください」
市東透教授のバリトンボイスが白い壁に跳ねた。紀秋が二人の刑事のために椅子を引こうとしたが、籐藤はそれを制した。
籐藤には紀秋の狼狽が手に取るようにわかった。両手はせわしなくテーブルを叩き、視線は四方八方を飛び回っている。
「このたびは姉が、私の姉が……本当に申し訳ありませんでした!」
紀秋は膝をつき、床に頭をこすりつけた。頭の後ろに数本の若白髪がはえていた。
「頭を上げてください。私たちは、そんなことをしてもらうためにここに来たわけではないのです」
手帳を取り出しながら籐藤が言った。その言葉は自責の念に囚われた加害者家族を宥めるために発せられたものではなかった。残された謎に関する答え。ただそれだけを籐藤は求めていた。
「いいから座りなさい。話が進まないだろうが」
老教授に苦言を呈され、紀秋は首をすぼめながら椅子に戻った。
「ご存じの通り、三日前に大和田夏鈴を死体遺棄の現行犯逮捕しました」
「殺人罪は?」
市東の問いかけに籐藤は曖昧に首をふった。
「彼女は我々の前で殺人を犯したわけではありません。とはいえ、八人の殺害は本人も認めていますし、裏付け捜査さえ終わればすぐに殺人罪も適用されるでしょう」
「なるほど。裏付けか。今日はその目的でここに来たわけだ」
「はい。ところで、紀秋さんの処遇について学校側はなにか?」
「当たり前といえば当たり前なのですが、学長からは遠回しに辞職するようにと申しつけられました」
二人の刑事は唸り声をあげた。紀秋自身に咎められる罪はない。しかし同じ研究室で仕事をしていた実姉が、こともあろうに慕っていた生徒に手をかけたのだ。大学のイメージを保つためにも実弟である紀秋を学内に残すわけにはいかないのだろう。
「学長は自主退職を促したようだが、もちろんこれは不当にして不正にして不法だ。そこで私を含む幾人かの教授陣が、学長に次のことを申し付けた。大和田紀秋氏が退職するというならば、私たちも揃って徳和大学を退職すると」
「それはまた、英断ですね」
「ただの脅迫さ。私といっしょに退職をちらつかせた教授たちは国外でも名の知れた研究者たちだ。新入生を呼び込むための客寄せパンダたる大物教授たちが連なって退職すれば学校経営に大きな支障をきたす。それに、世間は忘却という性質を持ち合わせている。ひとは忘れるんだよ。数年の間がまんすれば今回の事件のことなんてみんな忘れる。元通りになるんだ」
籐藤は腕を組んで深くうなずいた。
「それで、その脅迫はどうなったのですか」
「通ったよ」
「市東先生は大和田さんを気にかけているんですね」
ほがらかな笑顔を浮かべながら初芝が言った。しかし市東は無表情のまま『いいや』と
そっけなく口にした。
「別に私は、紀秋くんに同情したわけではないよ。もったいないと思っただけだ」
「……もったいない?」
「えぇ」
市東は立ち上がり、談話スペースの隅にある自販機に向かった。
「研究職は基本的に一人で取り組むものだが、時には研究者同士言葉を交わして刺激しあうことが大切だ。紀秋くんは優秀な研究者で、私の益になる。だから手放したくない。辞職を申し出た他の教授たちも同じ意見だよ」
――同情したわけではない――
非情ともとれる言葉を耳にして紀秋は何を思うのか。
「まったく同感です」
籐藤の意に反して、紀秋はほがらかに笑った。
「ぼくが優秀な研究者という点は同意しかねますが、有益な研究者がそばにいてほしいという考えは理解できますね」
籐藤は鉄の塊を飲み込んだような違和感を覚えた。
二人の学者の口調は自然なものだった。彼らはその言葉の裏に何かしらの思惑を隠しているわけではない。市東教授は実益のために紀秋を必要とし、紀秋もまたそれを是としていた。
――常識がまったく通じない――
籐藤は頭の中でそうつぶやいた。
それは籐藤が大和田夏鈴に抱いた印象に近かった。
大和田夏鈴は八人の生徒を殺害し、彼女たちを自らが望む芸術の材料とした。
彼女にとって芸術の創作が何よりも優先されるべき事態で、それは世間一般の常識とは相容れない論理――狂人の論理を体現した事態だった。
――常識を持たないことそれ自体は罪ではない――
籐藤は自販機に向かう市東の背中を見つめた。
――だが彼らも、大和田夏鈴と同じく狂っている――
「それで、今日は紀秋くんのことだけを聞きに来たわけじゃないんだろう」
「え、えぇ。はい」
初芝は膝の上に置いていた手帳を胸の高さまで持ち上げた。
「お姉さんはゼミ生八人と江川富彦を誘拐した後、どこかに監禁したと思われます」
「誘拐後すぐに遺体が発見されたわけはないですからね」
「彼女たちをどこに隠したのか、心当たりはないかと訊きたいんじゃないか」
自販機から戻ってきた市東が言った。
「そのとおりです。お姉さんは隠れ家について口を割ろうとしません」
籐藤はテーブルの下で軽く拳を握った。会話の主導権を握られるのは好かない。
「私は知らないよ。プライベートな話はあまりしなかったしね」
視線が自然と紀秋に集まる。血のつながった弟だからこそ知っていることがあるのではないか。しかし紀秋は鈍重な唸り声をあげるばかりだった。
「まったく見当がつきません。刑事さんたちは不動産を調べましたか?」
「はい。法的な契約を介して物件を入手した記録はありません」
「となると、私的な契約か、不法侵入か」
「東京を中心にそういった場所を探しているのですが、いまだに見つからないのです」
「うーん。難しいなぁ」
紀秋は下唇をつき出しながら首を横にふった。
「お姉さんには犯行を手伝ってくれるご友人はいらっしゃいませんか」
初芝が訊ねた。唐突な質問に紀秋は吹き出した。
「八人もの女性を家に監禁させてくれる友人? そんなのいるはずがありませんよ」
「八人じゃなくて、九人です。江川富彦を忘れないでください」
籐藤は黒い髪に手ぐしを走らせた。多忙のためふた月以上床屋を訪れていない。
「あぁそうだ。江川くんで思い出した。今朝。大学の事務課に江川くんのお母さまがいらっしゃったんですよ」
「ほぉ」
籐藤の脳裏で江川雅美のマシンガントークが想起された。
「江川夫人とは一度お会いしたことがありますよ。それで、夫人はどんな御用で?」
「それがなんとも……無理難題を申し付けられまして。お母さまはすでに江川くんが亡くなったものとして諦めていらっしゃるようなのです」
「え」
籐藤の眉が八の字に折れた。
「江川雅美は長男の富彦にずいぶん執着していたのに、それにどうして大学の事務課へ。来るなら警察に……」
「富彦くんは死んだ。だから代わりに、横浜の塗装屋で働いている弟の勝彦くんを大学に通わせてほしいというのです」
「……は?」
「学費を払っている以上は授業を受ける権利はある。しかし江川くんはもういない。だから江川くんの代わりに勝彦くんを入学させて、授業を受けさせろ……と」
「は、はぁ。それはなんとも」
『なんとも』のあとに続く言葉が思いつかず、十秒ほどの思案を経て籐藤は「それはなんとも」とオウムのように同じ言葉を繰り返した。
「もちろんそんな無理難題を受け入れるわけにはいきません。弁護士を連れてくるといきまきながら帰っていかれましたよ」
「この事案に勝てる弁護士がいるなら、ぜひとも紹介してもらいたいものだね」
市東は薄い口髭をなでながら言った。
「籐藤さん。そろそろ」
「そうだな。最後に個人的な興味でうかがいたいのですが」
なんでしょう。紀秋は背筋を伸ばした。
「大和田夏鈴は。芸術を愛していると言いました。芸術の持つ美的性質の虜となり、それ故に『九相図』と言う芸術を作り出すために八人の命を奪ったのです。私は芸術について素人です。専門家を前にして失礼ですが、はっきり言って興味がない。ですがあなたたちはどうですか。あなたたち専門家は、同じく専門家たる大和田夏鈴の考えを理解できますか。人命を軽んじることが、芸術には許されるのですか?」
「そんなことはありません」
即答。紀秋の熱い瞳が籐藤に注がれた。
「そんなことは、絶対にありません。芸術は人命以上の価値を持たない。芸術のために命を奪うなど、あってはならない」
「私も同意見かな」
市東は腕を組んで背もたれによりかかった。
「芥川の『地獄変』では屏風絵を描くために生きた娘が燃え盛る車の中に閉じ込められた。子どもの頃からそうした美術至上主義的な考えは、これっぽっちも理解できなかったね」
「ひとは芸術を通してひとを知る。芸術を介して真理に触れる。芸術は触媒なんです。人類の求める姿に触れるための触媒。芸術そのものに価値はない。芸術の向こう側に価値はあるのです」
「紀秋くんの言う通りだ」
老教授は胸ポケットのボールペンを指揮棒のように降りまわし始めた。
「芸術はひとのためにある。ひとが芸術のためにあるわけじゃない。大和田くんはそこのところを理解していなかったようだね」
3
籐藤と初芝が辞去しようとすると、市東もいっしょに立ち上がった。
「昼食の時間だ。外まで一緒に行こう」
「わかりました。では、これで失礼します」
「また何かありましたら」
頭を下げる紀秋を残して、三人は談話スペースをあとにした。
「あんまり似てない姉弟ですね」
階段をおりながら初芝が言った。
「お姉さんはモデルっぽくてクールなのに、弟のほうはその真逆だ。野暮ったいというかなんというか」
「口が過ぎるぞ」
籐藤が刺すような視線を部下におくった。
「いやいや。正直でよろしい。正直は美徳だ。たしかに似てないが二人は正真正銘の姉弟だよ。互いに互いが唯一の家族だから、それだけに紀秋くんとしては裏切られたと感じているのだろうね」
籐藤は初期の捜査会議で知らされた『大和田』の家庭事情について思い出していた。
二十五年前。大和田姉弟の母親が病死した。シングルマザーの母親は親族と絶縁状態にあり、夏鈴と紀秋は特別養子縁組制度によって子宝に恵まれない夫婦のもとにおくられた。
「義理のご両親も数年前に亡くなっているんですよね」
「うん。莫大な遺産は大和田くんが相続したが、彼女は義父のような豪華絢爛な暮らしは望まなかった。弟にもその遺産を分け与え、ずいぶんとつつましやかな生活を送っていたみたいだよ」
「そのご両親が、大和田夏鈴に空手を習わせたのでしょうか」
「あぁ、空手ね」
階段の下から市東がふりかえった。その口元はチェシャ猫のように大きく広がっていた。
「逮捕のときに何かあったかな」
「息ができなくなりましたよ」
籐藤は腹をさすった。
「夏鈴くんは黒帯だよ。紀秋くんは白帯だったかな。義理の両親の勧めで子どもの頃から空手教室に通っていたそうだ」
大学の本道に出たところで籐藤たちと市東は別れた。
レガシィの助手席に座ると、籐藤は初芝が運転席のドアを開けたまま立ちつくしていることに気づいた。
「籐藤さん。あの男、こっち見てますね」
「男?」
籐藤は助手席から降りて初芝の言う方向を見た。
駐車場に隣接する校舎の陰に、黒いサマースーツを着た男がいた。顔は見えなかった。籐藤がその男を視認したとほぼ同時に、男は背を向けて走り出したのだ。
二人の刑事は放たれた矢のようにスーツの男を追いかけた。
コンクリート敷きの駐車場を飛び出し、湿った土が敷かれた校舎の周りを駆けていく。 数秒前までスーツの男がいた校舎の角を曲がると、男は三〇メートルほど先にいた。何も持たず、両手を大きく振りながら全力疾走を続けていた。
「待て!」
男は一目散に逃げていく。校舎の前にある、動物を模したオブジェが設置された広場を通り、二人の刑事もそのあとを追って広場を出ると――
そこは大量の学生たちで溢れる大学の本道だった。
「畜生!」
悪態をつきながら籐藤は左右を見渡す。黒いスーツの男。黒髪だ。だが就職活動中なのか、スーツを着た学生は本道のいたるところに見受けられた。
「逃げられましたね」
初芝は両ひざに手をついた。
「いったい誰だったんだ」
「見覚えのある顔でしたよ」
「今回の事件の関係者か」
籐藤の問いかけに初芝は『たぶん』と答えた。
4
十月七日 水曜日
「恒河沙さん!」
法律は階段に乗せた右足を止めた。振り向くと、橙色に染まった道路に兎走千沙が立っていた。
「どうしたのですか」
軒先から飛び出して法律は首をかしげた。千沙の横には赤いスーツケースが置いてあった。
「まだ事件のことでお礼を申し上げていなかったと思いまして。ここが恒河沙さんの事務所ですか」
千沙は三階建てのビルを見上げて息を吐いた。クリーム色の外壁が夕陽に照らされて淡い輝きを発していた。
「お仕事中ですか?」
「開店休業中です。よければ中へどうぞ。それ、持ちますよ」
法律は千沙の後ろにまわってスーツケースを持ち上げた。軽い。中は空のようだ。
誰もいない探偵事務所に千沙を招き入れ、法律は彼女を応接セットの中に座らせた。紅茶と茶菓子を用意し終えると法律もソファーに座った。テーブルをはさんで二人ははにかんだ。
「このたびは本当にありがとうございました。籐藤さんから聞きました。恒河沙さんがいなかったら今回の事件は解決しなかったって」
千沙は深く頭をさげた。法律は『どうも』と曖昧な言葉を漏らした。
「私、刑事さんに犯人の仲間じゃないかと疑われて本当にショックだったんです」
千沙の脳裏に合宿所での野上刑事の怒声がよみがえった。
「ゼミのみんなが消えて、心細くて、私は部屋にひきこもっていました。だけど恒河沙さんがみんなの写真を見せてくれて勇気が出ました。みんなが写真の中から応援してくれている。みんなのために警察に協力しなきゃって、そう思ったんです」
――だけど――
「あの刑事さんは私を疑っていた。警察は私の仲間なんかじゃなかった。私はやっぱり一人なんだ。この世界に私の味方はいない。悲しかったです。怒りとか、呆れとか、そんなものはなかった。ただただ自分は一人だっていう事実が目の前に広がって、悲しくて悲しくて、悲しかったんです」
「兎走さん……」
「でも、恒河沙さんはちがった」
千沙の黒い瞳が法律を見つめた。
「恒河沙さん私を信じてくれた。ゼミのみんながいなくなっても、私は一人じゃないってそのとき気づいた。私を信じてくれるひとが目の前にいる。それがとっても嬉しかったんです」
法律は不自然にせきばらいを繰り返した。
「け、警察は一つの可能性を検討したに過ぎません。ぼくだって同じです。複数の可能性の中から一つの可能性を――」
「じゃあ、どうして恒河沙さんはその可能性を選んだんですか?」
千沙の問いかけに法律は飴細工のように固まった。
「いくつもの可能性の中から、どうして私が犯人じゃない可能性を選んでくれたんですか?」
「それは……」
「恒河沙さんが私を選んでくれて、とってもうれしかった」
窓に向かって一羽のハトが飛んできた。
ハトは幅のひろい窓の淵に降り立ち、羽を広げて毛づくろいを始めた。
「じつは私、五日後ヨーロッパに行くんです」
「え」
「ヨーロッパに行って、美術館めぐりを……いえ、美術館だけじゃありません。公園にある小さなオブジェとか、湖のほとりでキャンパスに描かれている水彩画とか、いろんな芸術を見てみたいんです。籐藤さんには許可をもらいました。現時点で訊けることは全て訊いた。確認したいことがあったらメールをくれるそうです。どうしても日本に帰らなければならない事態になったら、すぐに帰国するとも約束しました」
「そうですか。それは……えっと、どなたがご一緒されるのですか?」
「私一人です」
「へ?」
「心配しないでください。私これでも、英語とフランス語には自信があるんです。明るいうちにホテルに入りますし、危ないところには絶対に行きません」
「しかし女性一人だなんて」
「それじゃあ恒河沙さん、ご一緒してくれますか?」
「い、いえ。それもまた別の問題が……」
「冗談ですってば」
くすくすと笑う千沙を横目に、法律は紅茶に口をつけた。
「まずはフランスのパリに行きます。ルーブル美術館とオルセー美術館に行って……ルーブル美術館って展示物を全て見るとどれくらい時間がかかるかご存じですか?」
千沙は瞳を輝かせながら旅程について語った。法律は笑顔を絶やすことなく彼女の話を聞き続けた。
窓辺から差し込む夕陽がゆっくりと角度を落としていく。
『失礼』といって法律は窓辺へ近づく。彼のその動きで、千沙はハッと壁にかかった時計に目をやった。
「ごめんなさい。私ってば、ずっと喋りっぱなしで」
「いいんですよ」
ブラインドを降ろしながら法律は言った。
「とてもすてきなお話でした。兎走さんの芸術への愛情には感服いたします」
「ありがとうございます」
「だけど、私にはわかりません」
法律はブラインドを強く握りしめた。
「あなたは今回の事件で心に傷を負われた。事件の発端には犯人の芸術に対する愛があった。全ては『九相図』と言う一つの芸術から始まったといっても過言ではない。それなのに、あなたはまだ芸術を愛することができるのですか」
「……知りたいんです」
千沙は言った。
「大和田先生は芸術を愛しました。美を求め、美を手にするためにゼミのみんなを殺した。恐ろしい考えです。私そんなの間違っているって否定したい。だけど、私は芸術についてどれだけ知っているといえるのでしょう」
千沙は小さく頭を振った。
「知らない。私は何も知らない。絵画なんて、彫刻なんて、そんなものなくても人間は生きていけます。それなのに人間はそれを造ってきた。どうして人間は芸術を求めたのでしょう。先生はそこで何を見つけたのか。そこに人間の命を上回る価値はあるのか。先生が何を求めたのかを知りたい。知って、それを否定したいんです。人間の命を上回る価値なんて芸術にはないって、否定してやりたいんです」
大和田夏鈴は自身の犯行を全面的に認めている。しかし、彼女は自身の犯行が『悪』にカテゴライズされることは否定した。刑法にふれる行いであることは認めるが、それが人道から逸れた行いであることは認めなかった。それゆえ、彼女はいまだに被害者とその遺族に対して謝罪の言葉を口にしてはいない。
「あ、そうだ。恒河沙さん。メールアドレスを教えてもらえませんか」
千沙はソファーから立ち上がり、スマートフォンを取り出した。
「アドレス?」
「私、ヨーロッパからメールします。こんなものを見た。こんなひとに会った。こんなものを食べたって報告します」
法律の鼻先に千沙のスマートフォンが突き付けられた。カエルを模したカバーに包まれており、三本の革バンドが三つ編み状に結われたストラップがぶら下がっていた。
「わかりました。私でよければ、メールをください」
「恒河沙さんからもメールをくださいね」
「いや、私からはちょっと」
「なんでですか」
「なにを贈ればいいのかわかりません」
「なんでもいいです。なんでもいいから送ってもらえれば、私は嬉しいです!」
そう口にして、千沙はほほを膨らました。
「わかりました」
法律は自身の名刺を千沙に差し出した。
「あ、ありがとうございます」
千沙は名刺を両手で優しく包んだ。その顔は花が開いたように明るく、耳の先が赤く染まっていた。
「そろそろ帰ります。旅行の準備しなきゃ」
千沙がソファーの上に置いたバッグに手を伸ばしたとき、法律はその中に見覚えのある封筒が入っていることに気づいた。
「あ、これ……」
法律の視線に気づいた千沙は、封筒の中のものをとりだした。
それは大和田ゼミの八人の姿が収められた例の集合写真だった。
「おまもりにしているんです。どこへいくにも必ずいっしょ」
恩愛のこもった表情で写真を見つめると、千沙はそれを優しく抱きしめた。
「ヨーロッパ旅行にも?」
法律がたずねると、千沙はうなずいた。
「もちろん。みんなにもヨーロッパの芸術をみてもらいたいんです。きっと、きっと喜んでくれます」
5
「よ。ひさしぶり」
入り口のドアから籐藤が上半身をのぞかせた。
「籐藤さん」
法律は腕時計を見た。時刻は夜の八時だった。
「どうしたんですか。また何か事件が?」
「また何か事件が? じゃねえよ。そもそも事件はまだ解決してねえんだよ」
「あぁ。なるほど」
法律は一度大きく伸びをした。籐藤の手はコンビニの名前が印字されたビニール袋を握りしめていた。
「江川富彦がまだ見つかっていないのですね」
「そうだよ。大和田夏鈴が逮捕されてからもう半月になる。このままだと死体遺棄罪で起訴することになるかもしれん」
法律はテーブルの上におかれたカレンダーをみた。今日は十月十四日。大和田夏鈴が逮捕されたのは九月二十七日だ。
「捜査内容を民間人に漏らしてもいいんですか」
「うるさい。何が犯人逮捕までだ。ばかげた契約書を作りやがって。犯人逮捕と事件解決は同義じゃないのに、警視監はこれ以上お前さんの力を借りるのは遠慮したいってよ」
籐藤は手元の袋からビール缶をとりだし、プルタブをひいた。
「ここで呑むつもりですか」
「お前に残された選択肢は二つ。おれといっしょに楽しく呑むか、おれの手により無理やり呑まされるか」
「……ご相伴にあずかります」
テーブルの上に大量のアルコール飲料とツマミが並べられた。
「探偵事務所を酒盛りに使うなんてひどいですね」
「探偵事務所らしい使い方をすればいいわけだな。それじゃあやろう。事件だ。事件の話をしよう」
「え、ほんとうに話すつもりですか」
プロセスチーズをもった法律の手がぴたりと止まった。
「もう酔っているんですか。バレたら大変なことになりますよ」
「なんだ、チクるつもりなのか」
「そうじゃなくて……」
「うるさい。これはおれのひとりごとだ。酔いに任せたひとりごとだ。おまえも酔いに任せたひとりごとを繰り返せ」
「わかりました」
「それはひとりごとか」
「ひとりごとですとも」
「よし」
まずはじめに――と籐藤は魚肉ソーセージに食らいついた。
「大和田夏鈴の隠れ家についてどう思う。どうして無能な警察は見つけられない」
「自虐的な態度はやめてください」
「実際問題見つかってないわけだ。自虐的になっても仕方ないだろう」
「隠れ家はすでに存在しないのではないでしょうか」
「『すでに』?……ぶっ壊されたっていうわけか」
「そうです。解体です。証拠がたっぷり残っている建物を解体して更地にしてしまったわけですよ。誘拐が行われた八月一八日から、大和田さん逮捕の九月下旬あたりまでの期間中に解体された建物について調べてみたらどうでしょう」
「しかし、もしお前の言う通りだとしたら、すでに証拠はなくなっていることにならないか」
「その建物を解体した業者はまだこの世に存在します。解体業者が作業を始めるまえに、大和田夏鈴は犯罪の痕跡をある程度消したと思われますが、ユンボ―に乗った作業員が何かを目にしているかもしれません。可能性は低いですがゼロではないでしょう」
「野上たちに相談してみるよ」
「電力会社のほうはどうですか?」
人間の遺体を早急に腐敗させるためには、それに適した『温度』と『湿度』と『風量』が必要となる。これらの諸条件を満たすためには、エアコンや加湿器といった家電機器をフルに活用する方法が最も現実的といえる。そのため、ゼミ生が誘拐された八月下旬以降、不自然に大量の電力を使用した建物は大和田夏鈴の隠れ家である可能性が高い。警察は事件発生当初から、電力会社と協力してこのアプローチで大和田夏鈴の隠れ家を探していた。
しかし――
「ダメだ。いくつか当たってみたが、久しぶりに使う別荘で四六時中エアコンを使い続けたって金持ちばっかりだ」
「発電機の販売履歴は?」
電気を使うのに、必ず電力会社を通さなければいけないわけではない。発電機を用意すれば、複数の家電を稼働させるくらいは簡単なことだ。
「国中の販売履歴を漁ってみた。大和田夏鈴の手にはわたっていない」
「リース業者は」
「右に同じ」
「発電機は私的な取引で大和田さんの手に渡ったのかもしれません。もしくは盗難」
「その線も探ってはいるよ。今のところは手がかりゼロだ」
「ガソリンスタンドは」
「なに」
「ガソリンスタンドです。発電機を動かすには無鉛ガソリンが必要です。ガソリンを購入するのに、隠れ家からそれほど遠いガソリンスタンドを利用したとは思えません。大和田さんに見覚えのあるガソリンスタンドの店員が見つかれば、隠れ家はきっとその近くにあるはずです」
「可能性はゼロじゃないな。毎日発電機を動かしていれば、何度も通うことになるだろうし。そうだ、ガソリンスタンドで思い出した。大和田夏鈴はなんで大型のバンなんか持っていたんだろうな。まさか今回の事件のために用意したのか」
「彼女の専門は美術史です。芸術品を自身で運ぶために使用していたんじゃないですか」
「あぁ、なるほど」
籐藤は手帳を取り出してペンを走らせた。
「大和田夏鈴さんは、ゼミの八人の殺害は認めているわけですよね」
ビール缶を時計の振り子のように揺らしながら法律が訊ねた。
「認めている」
「重罪です。よっぽどのことがない限り、死罪は免れないでしょう。それなのに隠れ家の場所を口にしない理由とは……」
法律はビール缶をぴたりと止めた。
「ふと思いついたのですが、彼女は誰かをかばっているのではないですか」
「かばう?」
「そうです。隠れ家には、大和田さんにとって見られてはいけない『何か』がある。なぜそれを見られてはいけないのか。大和田さんに実害が及ぶからではない。大和田さんにとって親しい『誰か』に害が及ぶから。誰かをかばっているから、彼女は隠れ家を口にしないんですよ」
「誰をかばっているというんだ」
「協力者。事件の協力者ですよ」
「単独犯じゃなかったということか」
「わかりません。ただ、八人もの人間を誘拐して、都内にその遺体を配置する。複数人ならばやりやすいでしょうね。具体的に誰とはいえませんが。どうでしょう。ここらへんをネタに揺さぶっていけば、口を割らないまでも、大和田さんは何かしらの反応を示すのではないですか」
「試してみる価値はありそうだな。そうだ。兎走千沙のことは聞いたか」
籐藤は出し抜けにそう言った。
呆けた表情の法律は『はぁ』と『ふぅ』の中間と言った言葉を返した。
「なんだその声は。兎走だよ。兎走千沙がどこにいるか知っているのかと訊いてんだ」
「パリでしょう」
『ほぅ』と籐藤は下品な笑みを見せた。
「やっぱりお前に言いに来たか。まぁ日本を発つ前に、お前さんに会ってこいと推めたのはおれなんだがな」
「籐藤さんのせいで、旅立ち前の貴重な時間をこんな小汚い探偵事務所で浪費してしまったわけですね」
「そう言うな。お前だってうれしかったくせに。それで実際のところ。お前らどこまで進んだんだ?」
空のビール缶が宙を舞い、刑事のひたいにコツリと当たった。
6
十一月十一日 水曜日
恒河沙法律は神保町の駅から地上へ出ると、コートの襟で口元をおさえてクシャミをした。
太陽の光を遮断した雲の天蓋に表情はない。冷たい風がほほを撫でて首すじから身体の表面へと滑り込んでくる。
革靴とブーツの雑踏に紛れて法律は国道沿いの歩道を進んだ。
数十メートル歩き、法律は人気の少ないわき道に入った。少ないのはひとだけではない。車の往来もまた少ない。一人静かに歩き続け、恒河沙探偵事務所がある三階建てのビルについた。
法律は足を止めた。
まばたきを忘れた二つの瞳がそれを見つめた。
それはビルの右側にある、玄関の手前に無造作に置かれていた。
心臓が不規則な鼓動を刻み始める。
本能がそれに触れるなと叫びをあげる。
それでも『せず』にはいられなかった。
白く、持ち手のついた小さな紙箱。
ケーキが入っているような代物だ。
法律は震える手で紙箱にふれた。
この震えが取り越し苦労であってくれと、そう強く懇願しながら指に力をいれ――
開いた。
法律の白い手が箱の中に入っていく。震える手が何かを握りしめた。
それはスマートフォンだった。
そのスマートフォンはカエルを模したカバーに包まれており、三本の革バンドが三つ編み状に結われたストラップがぶら下がっていた。
声なき声がのどから漏れでた。
法律はもう一度箱の中に手を入れた。
両手に乗った小さな無数の紙片。
紙片は乱暴に破かれたのか、どれもが微妙に大きさは異なり、どれもがいびつな形状を成していた。
ある紙片は黒く。ある紙片は白く。ある紙片には空き缶が映り、ある紙片には女性の笑顔が――
震える両手から紙片が零れ落ちる。法律は箱の底に視線を落とした。数えきれない紙片の中から、八人の女性がこちらを見つめていた。
法律は腰を地面に落としたまま後ずさった。彼は玄関の横にあるガレージに目をやった。
二枚のシャッターのうち、右側のシャッターだけが数センチだけ地面から浮き上がっている。
法律の指がシャッターの取っ手をつかんだ。
――おまもりにしているんです――
巨人の悲鳴のような音を立てながらシャッターが上がっていく。
――どこへいくにも必ずいっしょ――
白い光がガレージの中に差し込まれていく。
――ヨーロッパ旅行にも?――
ガレージの中には車もバイクも、自転車の一台さえもない。
――みんなにもヨーロッパの芸術をみてもらいたいんです――
そんな空っぽのガレージの中に。
――きっと、きっと喜んでくれます――
人間の白骨だけが転がっていた。




