第零章
東条都は乾杯の音頭をとった。
高々と掲げたコップをおろすと、そこかしこで談笑の花が咲き始めた。
ゼミ合宿の夜、気心の知れた仲間たちだけで甘い酒を酌み交わす。都の心には計り知れない充足感が満ち溢れていった。
三〇代にして准教授のポストを手にした大和田夏鈴を含め、ゼミに所属する全員が気心のしれた間柄だった。しかしそれは大学グループによくある、仲良しこよしの集まりというわけではない。芸術に対する誠の愛情を彼女たちは有していた。
都は紙コップに注がれた白ワインを口につけた。芳醇な香りが舌の上で踊る。普段彼女が買っている一本九〇〇円のプラスチックボトルのワインとはえらい違いだ。
今回の合宿に男性が参加していないことが彼女たちの饒舌に拍車をかけているのかもしれない。もちろん、紀秋のことを嫌っているわけではない。嫌いというわけではないが、やはり男性である彼がここにいては、同じような雰囲気にはならないだろう。
――なにより……なによりもまつり先輩のおかげだよね――
鳥峰祭に近づこうとした都のそばで、卵の殻を砕いたような音が鳴った。
垣本愛乃は手にしていたデジタルカメラの画面を都に見せた。
「ほら都ちゃん。これこれ」
愛乃の指が画面の横にあるボタンの上で動く。画面の写真が横にスライドして前の写真が現れる。愛乃が指を止めると、乾杯の音頭をとる都の写真で画面は止まった。
「写真を撮るときはひと声かけてくださいよ。ワインちょっとこぼしちゃった」
「あは。ごめんね」
愛乃は赤い舌をちろりと出して笑った。
「大型のカメラは使わないんですか。こつこつバイト代をためて買ったってやつ」
「あれは特別なときにしか使わないの。こうした時はちっちゃいので充分」
「先輩はいつからカメラを?」
「大学一年生のとき。同級生の子が大学を辞めて結婚したの。結婚式にその子の写真がバーッとスライドに流れてね、笑顔でね、きれいでね、それで思ったの。私、自分の写真ってあんまり持ってないって。カメラを持ち歩けばほかのひとに頼んで自分の写真を撮ってもらえる。結婚式用の写真を用意できるってわけ。もちろん、みんなの写真も撮ってあるから、結婚式のときは私に声をかけてね。都ちゃんの写真もいっぱいあるよ」
『寝間着姿の写真なんて結婚式に流せません』と茶化す後輩を尻目に、愛乃は身体をくるりと回し、テーブルの前で顔をつき合わせる三人にレンズを向けた。
匙之宮琴音は細長い指で弱々しいピースサインを作った。
彼女の左右で林さゆりと龍首恵もまたピースサインを並べた。
「垣本先輩のカメラ好きにも困ったものですね。相当酔っぱらってるし」
ピースサインを崩しながらさゆりが言った。
「酔ってなくてもあんな感じでしょ。琴音。つぎは何のむ」
恵の指が琴音の空のカップをつついた。
「それじゃあ、さゆりちゃんとおなじやつ。なにをのんでるの」
「スクリュードライバーでしょ。さゆり。もってきて」
「はいはい。少々おまちくださいまし」
さゆりは小型冷蔵庫から缶入りのスクリュードライバーを取って戻ってきた。
「ありがとう。さゆりちゃん」
「えっへへ。琴音先輩に褒められちゃった。美人にほめられるなんて悪い気がしませんなー」
下品に笑うさゆりを見て、琴音と恵は苦笑した。
この半年間における、大和田ゼミの中心人物は琴音であった。彼女の生活の安寧を取り戻すため、大和田ゼミの生徒たちは結束して、彼と戦った。
匙之宮琴音はストーカーに悩まされていた。
西洋人形のように美麗な外見と、その外見と違わない繊細なこころをもつ琴音は、ストーカーを相手に拒絶の態度をはっきりと示すことができなかった。そうした彼女の態度がストーカーのふるまいを加速させた。自分の行いがストーキングにあたると、彼は露とも思わなかった。
彼女たちはストーカーを『ひどい』目にあわせた。その結果、ストーカーは琴音から手を引いた。ほんの二月前の話。それ以来ストーカーが琴音の前に現れることはなかった。
琴音は室内を見まわし、そこにいる十人に感謝の言葉を心の中でつぶやいた。
ストーカーに悩まされていたときはろくに食事も摂ることができず、ストレスで背中にはぽつぽつと吹き出物が浮かんだ。そして夜には欠かさず涙を流した。
――もう大丈夫。私は、もう大丈夫なんだ――
琴音は目の前で笑いながら言葉を交わす二人を、とろりとした瞳で見つめた。
林さゆりは腕を組みながらうんうんと唸った。
「はーなるほど。そういうことなんですね」
「ちょっと。本当にわかってるの」
龍首恵は後輩の背中を軽くはたいた。
「さゆりってば前に修学旅行で見た三十三間堂の千手観音像に感動したって言ってたでしょ。たしかにあれだけたくさんの木造があると圧巻だけど、仏教美術の鑑賞としては間違っているわけ」
「一般芸術概論の授業で市東先生が言ってたやつですね。宗教芸術とは実践的でなければならない。教えを説き、その宗教の特色を理解させることが何よりの目的である。でしたっけ」
「そう。だから私はあの三十三間堂ってのが好きになれないの。たくさんの仏像を並べるだけのパフォーマンスよ」
「言われてみればそうですね。で、あるからにして、九相図というのはしごく実践的な宗教画であると」
「そういうこと」
恵はカップの中の白ワインを一気にのみほした。
「九つの死体が描かれているからって、それをグロテスクだの倒錯したエロティックだのと唱える輩は、そもそも宗教芸術の根本的な目的を理解していないわけ。昼の授業でもやった通り、九相図は本来お坊さんが修行のために作り出した瞑想用の道具なの。それをまるで仏教の裏には下品な思想が隠れているような言い方をして面白がるジャーナリストや研究者がごまんといる。しかもそのほとんどが男! 本当に嫌になる」
風に吹かれて合宿所の窓が揺れる。空に浮かぶぶ厚い雲からは雨粒が降り注いでいた。
「だけど、ごめん。ここまで言っておいてなんだけど、私はこんな風にも考えているの。宗教の根源的な目的のためには、ひとの目を惹く要素があるに越したことはないんじゃないかって」
「死体を鮮明に描くことで、リアリティが増して、瞑想がしやすくなるってことですか」
琴音が訊ねた。
「それもある。私が言いたいのは、宗教に興味をもってもらうことで、一人でも多くのひとを宗教の道に招き入れ、彼らを救うことに繋がるってこと。救済のまえの誤解っていうのは、間違ってはいるけれど、その結果によってはこうした効用があるわけ」
「はぁ、なるほど」
さゆりは頭を前後左右にくるくると回した。
「しかし先輩が九相図にここまで詳しいとは思いませんでした」
「興味ある? 資料があるから今度持ってきてあげる」
「本当ですか。ありがとうございます」
「返さなくていいから」
突き放すように恵は言った。さゆりと琴音は眉をひそめて恵の顔を見た。
「……あ」
恵はキュっとくちびるを噛んだ。
「いいの。私の卒論は印象派だから。仏教芸術の本はもういらないの」
「先輩。あの、本当に先輩は西洋画で卒論を書くんですか」
「なにを言っているの」
さゆりは先ほどの憂いた印象を払拭するようにケラケラと笑い出した。
「もうすぐ夏休みも終わるのよ。中間発表も今日終わったのに、いまさら卒論の内容を変えられるわけがないでしょう。私はもう九相図なんかには興味ないの」
龍首恵は嘘をついた。
彼女の心は九相図に惹かれていた。
だが、環境が彼女にそれを許さなかった。
『卒業論文は一生大学に保管される。九相図なんて不気味なものを書くのは龍首家の恥だ』
今年の春先。龍首太一は、ネクタイを結びながら、一人娘の恵に向かってそう言い放った。
国内有数の大手商社に勤める太一にとって、家族とはオーダーメイドのスーツや高級外車と同じ、自分を飾り立てるための道具でしかなかった。
休日ともなると、太一は豪邸に客人を招き入れ、妻や息女に給仕をさせた。
アルコールの臭いと紫煙が充満した居間には、倫理を軽視した金儲けの話と、その場にはいない者への罵詈雑言が飛び交っていた。
恵は給仕の手伝いがいやでいやで仕方がなかった。盆に氷やつまみを乗せて現れると、脂ぎった皮膚の男たちが値踏みをするように彼女を見つめる。太一は瀟洒な洋服に着飾った息女に空のボトルを押し付け、従属関係を教え込むように罵倒の言葉を投げつける。すると客人たちは笑い声をあげ、形ばかりの同情の言葉を恵に向ける。作り物の笑顔と共に退室し、扉の外で唇を噛みしめる。屈辱以外の感情が浮かぶことはなかった。
人間の本質とは、醜悪に過ぎない。
それは四半世紀に満たない人生で恵が導き出した人生哲学のひとつだった。
――だからこそ私は、人間の醜悪を認める九相図に惹かれる。あの男たちへの蔑視は間違っていない。醜いものは醜いのだから――
恵は立ち上がり、トイレに行くと後輩たちに告げた。
空き缶を振りながら部屋の外へと向かう。その途中、テーブルに片手をつき、窓際でジッと外を見つめる加藤彩の存在に気がついた。
加藤彩はため息をついた。
窓ガラスに打ち付ける雨は勢いを増していた。芝生が生い茂った庭の先には、暗がりに隠れ輪郭を失った森林が拡がっている。
切り開いた小道もなく、その周囲は切り立った崖に囲まれている。今夜のような豪雨の中では、普段はけもの道をすいすいと駆けていく野生の生き物でさえも、この森を通るのは遠慮したいと願うであろう。
だから彩は驚いた。森林のなかに、そっと動く人影を見たような気がしたのだ。
両目を細めて暗がりをにらみつける。人影は見えない。
気のせいだ。彩はそう自分に言い聞かせ、カップに注がれたウォッカのコーラ割りをちびりと舐めた。
白い壁にもたれながら彩は天井を見上げた。
彩は紀秋に対する自分の気持ちが、恋と呼べるものなのか判断しかねていた。
本来ならこのゼミ合宿には例年通り講師の大和田紀秋も参加する予定となっていた。大和田夏鈴准教授の実弟である彼は、姉と同じく美術史を専門としている。
紀秋は今回のゼミ合宿には参加しなかった。彼はこの日、都内で催されている若手研究者を対象とした勉強会に参加していた。文学部の重鎮市東教授の空咳を聞いたとあってはそうせざるを得なかったのだ。
彩は考えた。山中とはいえ、この合宿所と勉強会が行われている会議場は同じ東京都だ。勉強会が終ったあと、紀秋は合宿所まで駆けつけてくれるかもしれない。
だから彩は、森林の中で人影らしきものを見て、一瞬だけ心を躍らせた。
しかし考えてみれば、あの人影が紀秋なはずが、いや紀秋であろうとなかろうと、そこに人がいるはずがない。合宿所の玄関は庭の手前にある。誰がすき好んでこの大雨の中玄関を素通りするというのだ。
彩は孤独を覚えていた。
ゼミの仲間たちと仲が悪いわけではない。むしろ気心が知れた間柄だからこそ、ゼミ生たちは彩を放っておいたのだ。
彩は他人の心遣いに気を重くする性格だった。そして、彼女が憂いているのは紀秋の不在を起因としていることは確実だ。ならば、その憂いは時間が解決してくれる。合宿を終え、紀秋とキャンパスで会えば、彼女の憂いは排水溝に流れていく雨水のようにその場から姿を消すだろう。
――星が見たいな――
合宿所から二十分ほど車を走らせたところに高台があると彩は先輩たちから聞いていた。
天気予報によると雨はもうすぐ止むらしい。星を見にいこうとみんなに提案してみようか。
彩の視線は一人の先輩に向けられた。
その先輩とは、ほんの二月前、大和田ゼミの結束を強めることに尽力を果たした鳥峰祭であった。
鳥峰祭は「しかし」と啖呵を切った。
「そうした実際的な問題は美術史そのものとは関係がない。メタ美術史だ。美術史について語る理論や姿勢、それらは美術史の研究が扱う領分ではない」
「私のやっていることが『メタ美術史』だとして、じゃあその研究を行う領域はどこにあるんですか。私はどこの研究室に身を置けばいいんですか」
片瀬双葉は先輩に対し臆することなく喰ってかかった。
「感情的になるな。被害者ぶる言いぐさは修辞学の領域だ。美術史からさらに離れていくぞ」
「祭さんは狭量すぎます。研究者の多くは研究に夢中で自分たちの立ち位置を理解していません。自分の手足の先にあるものに夢中で俯瞰的にものごとを捉えることができない。こと美術史は、芸術鑑賞を基礎にしているため趣味嗜好が反映されやすい学問です。世界は広く、研究者の数も、美術作品の数も膨大です。その中で自分がどこにいるのか。他人はどこにいるのか。世界はどんな形をしているのか。それらを把握するためにメタ美術史は必要なんです」
「また話が脱線した。私は『メタ美術史』なるものは美術史の範疇には置けないと言っているだけだ。学問としての存在を否定したいわけじゃない」
「だけど、美術史の発展に貢献します」
「それは健康医療が野球選手のバッティングに貢献するのと同じだ。バランスのよい食事はホームランの増産につながるかもしれない。しかし、バランスのよい食事はホームランを打つことそのものではない」
「詭弁です」
「詭弁じゃないよ」
「やめなさい」
大和田夏鈴は二人の生徒に手のひらを向けた。
尊敬する教授に冷や水を浴びせられ、片瀬双葉は縮こまった。対して祭は、ひとまわり年上の夏鈴に噛みつくような表情をみせた。
「二人とも、学部生特有の『学者病』にかかっているね」
「学者病?」
「ある程度の学識を得た学部生が陥りやすい症状。一つの研究が知識の網目においてどこに位置するのかを知らんと、もしくは定めようと躍起になる病気」
「それは病気なのですか。悪いことなのですか」
「もちろん」
祭の問いかけに夏鈴はうなずいた。
「百害あって一利なし。そういったことは脳細胞の死滅した御用学者にでも任せておきなさい」
「私の研究は間違っているんですか。だって、美術史の比較研究って言うのは知識の網目の位置づけにほかならなくて……」
目元に涙をためる双葉の頭を、夏鈴は優しくなでた。
「ちがうの。私はね、一次的な視線を放棄するなと言っているの。研究者は机に向かって問題をいじくりまわすのが仕事。問題と格闘する自分を背後から見つめることが仕事ではない。片瀬さんが美術史の比較研究をしたいと思うなら、それでいいの。机から立ち上がる必要はない。所属している研究室なんて関係ない。周りの目を気にせず、純粋に目の前の問題に取り組みなさい。机に向かう自分がどこにいるかなんて考えるだけ無駄だし、それはあなたたちのような優秀な学徒のするべきことじゃない。わかった?」
二人の学部生は瞳を輝かせ、同時に自身が夏鈴の言う『学者病』にかかっていることを自覚して恥じた。
祭は夏鈴に自身の未来を重ねようと努めた。
彼女は夏鈴のような優れた研究者になると夢見て、いや、信じていた。
四年生の彼女はこの一年を卒論と院試の勉強に費やしてきた。夏鈴をはじめ、学部の教授たちは徳和大学よりもレベルの高い他の大学院への進学を勧めたが、祭は首を縦には降らなかった。彼女は夏鈴のもとで学びたかった。これまで何人もの研究者の論文を読み、何人もの研究者の講演を聞き、何人もの研究者と言葉を交わしてきた。しかし、夏鈴以上にインスピレーションを刺激してくれる研究者は一人として存在しなかった。
そんな夏鈴のもとに集まるゼミ生たちを祭は愛していた。
祭は孤独な子どもだった。その孤独は周囲から『神童』と呼ばれる彼女の性質を起因としていた。
祭には周りの子どもが泥人形か何かのようにしか見えなかった。試験で満点を取れないクラスメイトが不思議で仕方がなかった。彼女にとってQとAは等しく、『?』と『。』は同じ意味しかもたなかった。こんな簡単なことがどうして理解できないんだ。こいつらは一体なんなんだ。
当然のごとく彼女は爪弾きの目にあった。
集団というものを嫌い、小中高と孤独に過ごしてきた少女にとって、大和田夏鈴は特別な存在だった。そんな夏鈴を慕って集う仲間たちも特別な存在となった。
ゼミの仲間たちは祭を正面から見つめてくれた。かわいい後輩も、よき理解者である同級生も、卒業してしまった先輩も、祭を正面から見据えて言葉を交わしてくれた。
祭が初めて所属する集団。それが大和田ゼミだった。大和田ゼミは祭にとって心地よく、その結束は、何があっても崩してはならないものだった。
だから祭は動いた。この春、大和田ゼミの『輪』を破壊しかけたあの男を、祭はゼミ生たちを率いて、大和田ゼミから追放したのだ。
片瀬双葉はあたまを掻いた。
「あの、一応報告しておいたほうがいいかと思いまして」
歯切れの悪い口調に、祭と夏鈴は顔を見合わせた。
「三日前から市東先生が不機嫌だって話なんですけど、あれたぶん私のせいなんです」
「え」
昼食の席で何気なく漏らした話題のことだ。
「四日前に昼食を兼ねて、垣本先輩と東条さんと三人で、第三研究棟の談話ルームに行ったんです」
双葉はカメラ談義を続けている愛乃と都に視線をずらした。
「我ながら大きな声でおしゃべりを続けてしまい、そうしたら一度、廊下から市東先生が怖い顔をのぞかせたんです。特に何も言わずに研究室に戻られましたけど」
「ふぅん」
夏鈴はウェーブがかかった黒髪を人さし指でくるくるとかき回した。
「市東先生の研究室は談話ルームの真横だからな」
祭は腕を組みながら深い息を吐いた。
「それで、うちのゼミの生徒がうるさかったから、ゼミの准教授に不機嫌に当たろうっていうの。ずいぶん幼稚だこと。あの先生もう古希でしょ」
「まだ六四です」
「六年なんてあの年齢になれば誤差。だいたい市東先生もどうしてその場で片瀬さんたちに注意しないの」
「東条がいたからじゃないですか。一応所属は市東ゼミですし」
「四日前の昼なら紀秋が研究室にいたはず。もしかしたらあの子が市東先生に怒られたのかも。あの子そういう事があってもどうせ報告しないし」
「だとしたらアキ先生には悪いことをしちゃいましたね……」
「市東先生には私から一度頭を下げておく。今後は複数人で談話スペースを使用するのは禁止。グループワークの準備も別の場所でやること。わかったわね、ゼミ長」
双葉は返事をしなかった。前年度のゼミ長である祭が双葉の脇腹をつついて彼女はハッと顔を上げた。
「は、はい。わかりました」
「双葉、まだゼミ長の自覚がないのか」
大和田ゼミでは三年生がゼミ長を務める。今年の春、双葉は昨年度ゼミ長の職務を全うした祭からそのバトンを受け継いでいた。
祭の言う通りだった。双葉にはゼミ長の自覚がなかった。それはひとえに祭のせいだと彼女は考えていた。祭は優秀すぎた。勉学のみならず、ひとを惹きつけるカリスマの点でも彼女は優れていた。大学院に進み、やがては学問の世界で輝かしく羽ばたいていくであろうことは、誰の目にも疑いようがなかった。
そんな超人の後釜に、いったい誰が座りたがるというのか。
どうすれば彼女のようになれるのか。どうすれば周りに認めてもらえるのか。何をしても祭と自分を比較してしまい、自己嫌悪に陥ってしまう。
アルコールのせいだろうか。双葉の思考は黒く染まり始めた。カップのふちを指で撫でまわしながら双葉は呆けた表情を浮かべていた。
「片瀬さん。勉強の調子はどうなの」
暗くなりかけた雰囲気を察知したのか、夏鈴は話題を変えた。
「順調です」
「そう。鳥峰さんにも言えることだけれど、二人は大学院を出ることは確実にできる。だからこそ、今からその先のことを考えておきなさい」
二年前の九月に鬼籍に入った祖父が高名な歴史研究家であり、その孫である双葉もまた、祖父と同じく学問の使徒になることを周囲から期待されていた。彼女自身もまたその未来を希ってはいたが、今心の中にある小さな黒い意志が、少しばかりの反抗を望んでのどの奥から身を乗り出した。
「……考えなきゃいけませんか」
「なんだって」
「考えなきゃいけませんか。だって未来なんて、結局、私たちはみんな……」
「あぁ、そういうことか」
祭はカップのコークハイでくちびるを濡らした。
「双葉は九相図のことを言ってるんだな」
「先輩の言う通りです」
双葉は小さくうなずいた。
「生きている間にどんな栄華を築こうと、死んでしまえば私たちは醜い肉塊に変わるだけです。それなら人生にはいったい何の意味があるんですか。生きていることに何の価値があるんですか。未来について考えることで、どうして人生に希望を見出せるんですか」
大和田夏鈴は答えに窮した。
夏鈴の専門は美術史だ。過去から現在への推移に於いて、人間は芸術と共に生きてきた。
芸術とは人間にとって必要不可欠なものではない。実際、芸術鑑賞などとは縁のないまま一生を終えるひとだっているだろう。
だが人類は――群としての人間は、常に芸術と共に生きてきた。
すりつぶした木の実で洞窟の壁に牛の絵を描いた古代人。お気に入りの電子音楽を聴きながらタブレット端末の上でタッチペンを走らせる現代人。
膨大な時間という壁を隔てて、そこには二人の人間がいる。だが彼らの行為はなんら変わらない。
脳からの解放。
脳内に閉じこもる想像をキャンパスの上にぶちまける。脳内に溜まったイメージという不純物を、強制的に体外に放出することが芸術活動に他ならない。
不純物。
そうだ。芸術とは不純物だ。
創造は神の領域にある。無を有に変える神秘の力。芸術家は神の領域を侵犯している。自然界に存在しえない神のごとき芸術作品……それらは鑑賞者の心に高貴な感情を抱かせ、鑑賞者は創造主たる芸術家を神の如く奉る。
芸術活動とは人類の罪であり、芸術とはひとを神に変える禁忌の秘術。
――だからこそ私たちは芸術に惹かれるのか――
「先生、どうですか」
双葉のことばに夏鈴はハッと我を取り戻した。
「先生はどうなんですか。私たちは何のために生きて……ねぇ、先生は大人でしょう。たくさんの芸術作品に触れてきて、いっぱい論文を書いて、先生は――」
「落ち着いて、片瀬さん。私の考えは……ちょっと兎走さん。どうしたの」
兎走千沙はテーブルの上に両手をついた。
身体を上下に揺らす荒い呼吸がアラートのように繰り返される。冷たい汗と不快感が彼女の全身を覆っていた。
椅子に手をかけながら立ち上がる千沙の身体を祭が支えた。
「兎走。どうした」
祭は千沙のひたいに手を当てた。
「熱があるわけじゃなさそうだな」
「すいません、先輩。ちょっと気分が悪いだけです」
「無理するな」
祭は千沙を椅子に座らせた。
「疲れが出たみたいです。合宿前もバイトが夜勤だったので。私、部屋に戻ります」
立ち上がろうとした千沙の身体を再び祭が支えた。
「部屋まで送ろう」
「先輩にそんなことをさせるわけには……」
「『先輩』じゃなければいいわけだな。さゆり、彩」
部屋の中央から林さゆりが、窓際から加藤彩が小走りで駆け寄ってきた。
「ちょっとちょっと大丈夫なの?」
「ごめんねさゆり」
「持ち物はスマホだけだね」
「うん。ありがとう」
三人の二年生は教室をあとにした。
点滅を繰り返す蛍光灯が長い廊下を照らす。三人の靴の音だけがぱたぱたと響き渡った。
「この合宿所、私たちしかいないから広く感じるね」
さゆりのことばに千沙は『うん』とだけ答えた。
八王子合宿所の最大収容人数は五〇人。夏季休暇期間の今の時期なら二つのゼミが同時に利用することが多い。しかし、今回大和田ゼミが利用するこの三日間には、彼女たち以外の利用者はおろか、ある特別な事情から管理人夫婦さえもいなかった。
電気の消されたロビーでは自販機と誘導灯が重苦しい光を放っていた。
がたりと言う音に三人は飛び上がった。
建付けが悪いのか、両開きの玄関のドアが強風に吹かれて音を立てている。三人が安堵の息を漏らすと、もう一度、二度、三度と扉が音を立てた。駐車場がある扉の向こうでは、闇夜が大きな口を開けて三人を見つめていた。
「行くよ」
彩が促し、三人は西棟へと向かった。
階段を上がり、二階にある寝室へ。二段ベッドの下段に千沙が横たわるのを見て、さゆりと彩は『ふぅ』と息を吐いた。
「ごめんね。もう戻って大丈夫だから」
「わかってるよ。気を使ってここに残るなんて言った方が、嫌な気分になるでしょう」
さゆりは千沙の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「外から鍵を締めるからね」
彩の言葉にさゆりと千沙が『え』と声をあげた。
彩の脳裏には窓の外に見えた人影の姿がこびりついていた。そんなはずはない。人がいるはずがない。しかし、不安はぬぐえない。彩は『念のため』と付け加えて二人をごまかした。
「……それじゃ私たち戻るね。おやすみ、千沙ちゃん」
「ちゃんと寝なよ」
「うん。ありがとう。おやすみなさい。また明日ね……」
二人が退室すると、カチリとカギを締める音が聞こえた。常夜灯のかすかな光の下で、
千沙は枕元のミネラルウォーターを口にした。少量がこぼれてシーツを濡らしたが、それを気にする余裕もない。
身体は石のように重く、思考は泥のように粘ついている。
大丈夫。一晩眠ればすぐによくなる。
そう自身に言い聞かせながら、千沙は瞳を閉じた。
カーテンの隙間から差し込める朝陽が千沙の顔を撫でた。
身体を右側に傾ける。呆けた意識の中で、千沙は一度あくびをした。
スマートフォンを手に取り、時刻を確認する。朝の七時二八分。
ぬるくなったミネラルウォーターを口に含む。身体は回復していた。
部屋のなかには千沙以外には誰もいない。
朝食は八時からの予定だ。いまごろ皆は食堂で二日酔いの頭を傾けながら朝食の支度をしているのだろう。
千沙はカギを開けて部屋の外に出た。
「あれ」
食堂には誰もいなかった。五十人が同時に収容できる広い食堂、その奥にある炊事場にもひとはいなかった。
昨夜飲み会が行われたA教室にも誰もいなかった。テーブルや椅子は昨夜と同じく宴会用にと並べられたままだ。酒の空き瓶や紙コップ、残ったスナック菓子や乾きものが広がっている。
千沙は西棟に戻り、他のゼミ生が使っている寝室に向かった。
寝室には誰もいなかった。ゼミ生たちのカバンや化粧道具、ノートや参考書などはすべて室内に置いたままだった。
隅から隅まで館内を歩き回った。誰一人とも会うことなく、千沙はロビーに戻ってきた。ロビーの玄関のドアに手をかける。ドアは施錠されたままだった。
心臓の鼓動が速くなる。経験したことのないストレスに全身が硬くなる。
千沙はその場に力なく座り込んだ。
ロビーの柱時計が鐘を八度鳴らした。
無機質な金属音が響き渡る中で、震えながら千沙はつぶやいた。
「みんな、どこに行っちゃったの?」




