永遠を信じますか?
「永遠を信じますか?」
8月の終わり、故郷に向かう電車内の中吊り広告に、そんな文字が書かれていた。
「永遠、ね」
「そんなもの、あるなら見てみたいよ」
つり革越しに、そんな事を思う。
帰省することになったのは一昨日のことで、突然だった。
中学の時お世話になった、サッカー部の顧問の呉田先生が亡くなったそうだ。
教員を引退した後も、元気に暮らしていたと聞いていたから、その訃報は本当にショックだった。
まっくろに焼けた肌と、人懐こい笑顔の持ち主で、生徒からの信頼も厚かった。
当時50歳目前だったと聞いていたから、先生もだいぶ歳をとっていたんだろう。
あれから、もう20年近くが経とうとしている。
故郷の駅に到着し、トランクを引きずって電車から降りてみる。
降車して1秒で感じた。
空気が、うまい。
東京のそれとは何もかもが違う。
土や草、そして何かが焦げたような、安心する香り。
温かみのある、そんな空気だ。
駅舎はリフォームしたのか、最後に訪れた8年前とは様子が激変している。
壁がモダンな木目調になっていたり、改札も装飾が施されて、お洒落になっていた。
「変わっちゃったなぁ」
そんなオッサンめいた言葉がこぼれる。
だけど、確かに変わっていたのだ。
駅前では中学時代のサッカー部の友人である、健人が車をつけて待っていた。
「健人、久しぶり。悪いな、わざわざ車で」
「いや、気にすんなって。とりあえず荷物は後ろにつけてくれ」
「あいよ」
彼に会うのも5,6年ぶりになるのだが、長年の付き合いというやつか、
久々に会っても不思議と安心できた。
走り始めて2分も経たないうちに、俺が胸元から煙草を取り出し、健人に尋ねる。
「吸っていいか?」
それを聞いて、健人は少し眉間にしわを寄せた。
「いいけど、灰は携帯灰皿に出してくれよ」
「ああ、サンキュー。窓開けるぞ」
そう言って窓を開けると、むわっとした熱気が入り込んできた。
「暑いな。すぐに吸って窓は閉めてくれ」
「ああ、ごめん。そうするさ」
ふと、窓から外に目をやると、見慣れない大きな橋の上を通っていた。
「なあ、ここ。こんな大きな橋あったっけ?」
「ああそうか。お前は知らないんだな――」
健人はパタパタとうちわをあおぎながら、話を続けた。
「2年前くらいにこうなったんだよ」
「ここってもともと末広橋だったよな? 中学の時通学路だった――」
「ああ、そうだよ。拡張工事して、塗装も変えてこうなった」
「そうなのか――」
少し、ショックだった。
俺がこの地を離れてからもう17年以上。
もちろん変わってしまったものも沢山あったが、
中学の時毎日使っていた道が、こうも変貌を遂げてしまうのは、
大人になった今でも、やっぱりショックだった。
「俺ここで、まっちゃんと美沙が一緒に帰るのよく見たぜ」
健人が笑いながら言ってみせた。
健人が思い出を話してくれて、少し安心した。
「ああそうだ。確かあいつら、付き合ってたんだよな、中3の頃」
「そうそう、あいつ絶対美沙はないとか言ってたくせにさ――」
二人でげらげらと笑った。
昔話に花が咲き、車内は和やかな雰囲気になった。
「俺はよく、部活の帰りに哲太とこの橋の上から景色を見てたなぁ」
俺が思い出したように言うと、健人は真面目な表情になってこちらを見た。
「あ――」
しまった、と思った。
別に、禁句というわけでもなかったが。
「哲太の墓参り、行ったか?」
俺は表情のこわばった健人に聞いてみた。
「先月ね――行ったよ」
「そうか、それならいいんだ」
俺はふっと煙草の煙を吐き、その後は何も言わなかった。
「お前は行かなくていいのか?」
「ああ、いいよ。また次の機会に行くさ」
哲太はサッカー部のチームメイトだった。
キャプテンだったがとてもユーモアのある面白いやつで、皆から好かれていた。
だからこそ、キャプテンだったのかもしれないが。
そんな哲太のサッカーセンスはずば抜けていて、大学に行ってからもサッカーをずっと続けていたそうだ。
大学を出てからは地元に戻って、仕事の傍ら町の少年サッカーのコーチをボランティアでやっていた。
結婚して子どもも生まれて、とても楽しそうにしていた。
だが、5年前、仕事中の不慮の事故で、哲太は帰らぬ人となった。
残された奥さんと子どもが、それからどうしているのは、誰も知らない。
いい奴だった――
なんて月並みなことは言いたくない。
けど、いなくなって欲しくなかった。
これだけは確かだった。
「もう、本当に無理になっちゃったな」
健人がふとつぶやいた。
俺は煙草を吸い終わり、急いで窓を閉めながら答える。
「何が?」
「言ってたじゃんか、中学の卒業式の日に」
「20年経っても、また同じメンバーでサッカーしようなって」
「ああ――」
俺は生返事で答えながら、自らの記憶の糸を手繰る。
そんなこと、言ってたっけ――
「哲太がいなくなって、先生も死んじまった――」
「20年なんてあっという間だと思ってたけど、こうも違うんだな」
健人がハンドルを握ったまま、深くため息をついた。
確かに、もうあの日のように、みんな揃ってサッカーを出来る日は、二度と来ない。
二度と来ないのだ。
哲太も先生も、もうみんなの記憶の中にしかいない。
あの頃は当たり前だと思っていた光景が、日々が、今ではこんなにも遠い。
「なあ健人、ちょっと俺んち行ってくれないか」
「いいけど、大丈夫か? だってお前ん家――」
「いいから、行ってくれ」
俺がやや強い口調でそう言うと、健人は深く頷いて、信号を右折した。
見慣れた道を進んでいく。一部景色が変わったり、見たこともない建物もあったが。
近づくにつれ、どくどくと俺の胸の鼓動も高鳴っていった。
「着いたぞ」
健人が、静かに車を止めた。
そこには、住み慣れた俺の実家が―― なかった。
あるのは、「TIMES」と書かれた駐車場だ。
「ここも懐かしいな。今じゃ立派な駐車場だよ」
「近所の寺の縁日の日なんかには、満車になるんじゃないのか」
俺がおどけている間も、健人は終始黙っていた。
「健人は、何回くらい俺の家に来たっけな」
「さあ、分かんねえけど、50回くらいは来たんじゃねえかなぁ」
俺はそれを聞いて、「はは、来すぎだっての」と笑ってしまった。
「懐かしいよな、あの赤い屋根の家」
「俺は好きだったよ。お前の母ちゃん、いつも欠かさずジュースをくれたよな」
そんな事を聞いているうちに俺は目頭が熱くなってきて、
「そうだっけぇ」と適当にあしらった。
俺の実家は10年前、他人の手に渡り取り壊された。
親父が死ぬ直前、借金を抱えているとかで、実家の土地もろとも売り飛ばした。
そして母さんも、その直後に病気をしてしまい、この世を去った。
なので、ここはもう誰もいない。
跡形もない。
幼少時代、確かにここには幸せな家庭があって、
子どもの頃の俺は、それが永遠に続くものだと思っていた。
父さんがいて、母さんがいて、弟がいて、大きな庭があって、ボールを蹴る。
そんな日々が、場所が、ずっとあるものだと、信じていた。
だが、今俺の目の前にあるのは間違いなく、
人の温もりを感じない無機質な駐車場だった。
あの頃の日々は、文字通り跡形も無い。
遠くの木の上で、ツクツクボウシが鳴くのが聞こえた。
今年もそろそろ、夏が終わるのかもしれない。
でも、あの時に聞いたツクツクボウシの音色とは、何もかもが違った。
こんなのって、あんまりじゃないか。
気づけばあれから20年が経って、俺も大人になった。
故郷を離れて、東京で一人働いている。
毎日必死に生きている。
その過程で、大切なものをいくつも失ってきた。
思い出の景色や、家族、友人、恩師…
何一つ、永遠なんてないのだろう。
夏が必ず終わっていくように、人間は大切なものを失っていく。
それは当たり前のことなのだ。
遠くの木の上で、ツクツクボウシが鳴くのが聞こえた。
さあ行こう、と思って顔を上げると、何やら健人がニヤついていた。
「感傷に浸るのはもう満足だろ?」
俺には健人が何を言っているの理解できなかったが、車に半ば強引に乗せられた。
「なあ、どこに向かってるんだ?」
「お前、スパイクは持ってきたか?トレシューでもいい」
「ああ、持ってきたけど――」
「ならいい、黙って乗ってろ」
俺は健人が何をするつもりなのかまったく分からなかったが、ただ従うしかなかった。
「さあ、着いたぞ」
そこは母校のグラウンドだった。
そして、何人かがサッカーのユニフォーム姿で駆け回っていた。
「おい健人、いいのかこんな所に車で乗り入れちゃって……」
「いいから、早く降りてこいよ。みんな待ってるぞ」
「みんな?」
俺は恐る恐る車から降りて、あたりを見回した。
「懐かしいなあ……バックネットとか、昔のまんまじゃないか」
ぼんやりとグラウンドを見回す俺の周りに、人が集まってきた。
「久しぶりだな、何年ぶりだよ」
「早く着替えてアップしろよ、ゲームするぞ」
みんな一様に、ヘラヘラして、にこにこと笑っていた。
それはまるで、中学生のように。
「まっちゃん、それに、みんな――」
そう、そこにいたのは中学の時の、サッカー部のみんなだった。
溶けそうなくらい、真っ直ぐな陽射しがグラウンドを灼いていた。
その中で俺は、思い切りボールを蹴り飛ばした。
みんなのかけ声が、グラウンド中にこだました。
おい、健人にボール渡すな!ぬかれるぞ!
まっちゃん! まっちゃんマークついて!
俺はそれを見て、大笑いする。
死ぬほど暑い日にボールを追いかけるしんどさだとか、
みんなと一緒にサッカーをした時の笑い声だとか、
試合中にふと見上げた時の空の青さだとか、
遠くから聞こえてくるツクツクボウシの鳴き声だとか、
そういうのは永遠かもな、と思えた。
そんな、些細なことが。
だって、変わりようがないから。
あの時から20年が経った。
色んなものが変わり、失くしたものも沢山ある。
だけど、永遠に変わらないものだってある。
きっとそうだ。
そう信じたい。
この青空の下で、みんなとサッカーをする。
ボールを追いかけて、追いかけて、汗をかいて、
手を叩いて、大きな声で笑う。
そして喉が、カラカラに枯れる。
冷たい水を飲み干したら、目が覚めるくらい美味いんだ。
後半は、トップ下で攻めてやる。
健人がサイドから高くボールをあげた。
俺はそれに合わせて、思い切りボレーシュートを決めた。
ゴールネットが大きく揺れた。