自衛隊
花本
1
花本は自衛隊退職後、中学時の同級生、川西に誘われバイク便のメッセンジャーサービス、アルファーに就職した。花本の卒業した中学校は埼玉にあり、在学中は川西とつるんで遊び回った。ほとんど勉強をしなかったが、それでも花本は工業高校に進学し、川西は職業訓練校に進んだ。それからも二人の仲は続き、もう一人花本の高校の同級生である坂城と、オートバイで走り回った。暴走族のような団体には属さず、ひたすら山間部のワインディングロードを走った。そんな中、坂城がRの大きいコーナーで、対向車のトラックに衝突し亡くなった。それでも二人はオートバイに乗るのを止めなかった。
川西は職業訓練校を卒業し、群馬にある自動車メーカーのラインに就職したが、花本は高校二年生の冬休み明けから、学校に行かなくなり中退した。その後ガソリンスタンドなどでバイトをしたが、しばらくするとそこも辞めた。毎日仕事をせず、ふらふらしているところを地連につかまり、あまり気はすすまなかったが自衛隊に入隊した。当初自衛隊で大型免許を取得し、運送会社にでも勤めようと考えていた。しかし一任期では免許が取れず、けっきょく二任期いて退職することになった。
もしあのことがなければ、まだ自衛隊に残っていたかもしれない。原口が人を撥ね、由良が事件を隠蔽した。罪に問われるのはあの二人で、自分と光村はただそこに居合わせただけだ。あの時は由良の口車に乗せられ、黙っていることに何の疑問も感じなかった。あれから月日が経ち、社会的にも飲酒運転による危険運転が、頻繁に取り沙汰されるようになった。あの時はまだ自分たち同乗者は、今のような厳しい罰則は受けなかったのではないかと知ることになる。知識がないということは、すなわち相手にうまいよう利用されることを意味していた。
光村はともかく、花本自身はまったく罪悪感はなかった。悪いのはあの二人であって、自分たちは何の落ち度もない。自衛隊に在職している時は、あまり意識していなかったはずが、自衛隊を退職すると、由良のとった行動が理不尽に思え、怒りがふつふつとこみ上げてきた。馬鹿な俺たちは由良にいいように利用されたのだ。
あの時由良自身は監督責任を問われるのを懼れたのか、上司として部下の飲酒を黙認したのがばれるのを危惧したのか、花本の知るところではないが、ともかく自分たち二人は巻き添えを食ったのは間違いない。
自衛隊を退職し、頭の中が階級社会から解放されると同時に、冷静に物事を判断できるようになっていた。今の仕事はオートバイで荷物を運ぶ単純な仕事だが、思い返してみれば、自衛隊に在職していた時の仕事に比べると、はるかにつまらない仕事内容に思えてならなかった。
生産性のない自衛隊の仕事は言葉を変えれば、大人の戦争ごっこみたいなところがある。実際死に直面することはないので、いわばシュミレーションゲームみたいに楽しめた。そう考えると辞めてしまったことを、後悔し始めていた。自衛隊にまだ未練があった。それはすべて由良のせいだ。
時間が経てば忘れられると思ったが、逆に便器に付いた汚れのように、けっして花本の脳裏から払拭することができなくなっていた。
花本は由良とは個人的な付き合いはなかったため、由良の携帯電話番号も、アドレスも、知らなかった。退職後かなり日にちが経っていたにもかかわらず、まだ由良は12戦車大隊にいるとふんで、由良宛に手紙を書いた。他の者に中を見られることはよもやあるまいが、詳しい内容は本人に合ってから直接話すことにした。手紙は花本の携帯電話番号と、話したいことがあるので電話をくださいと認めた。手紙を投函してから5日後の夜に、早速由良から電話が掛かってきた。
「あ、もしもし、花本です」
「由良だが手紙を受け取った。話したいことって何だ。あの事故のことか?」
ひさしぶりに聞く由良の声は、花本が自衛隊に在職している時と少しも変わっていなかった。その人間性を排除したような、機械的な話し声を聞き、やはり由良に対し何かしなければと、再認識せずにはいられなかった。
「はい。直接会って話したいと思います」
「私に東京まで出て来いということか?」
「いえ、そんなお手間は取らせません。俺がそっちに伺います。高崎で会ってください」
「ああ・・・・・・分かった」
電話口の向こうにある、由良のにがみばしった顔が頭に浮かんだ。自分と違って由良は頭の回転が速い。花本が何を要求してくるのか、おおかた察しがついているように思われた。
しかし何で?あの事故から既に5年の月日が経過している。今更由良を恐喝して何を得ようというのか。
自衛隊というところは階級章をつけ、戦闘服に袖を通した瞬間から、バーチャルな世界に足を踏み入れたような錯覚に陥る。そこが自分に合っていると感じれば、そこに留まろうとするし、そこにいることが苦痛に感じれば、脱走してでもそこから抜け出したいと願う。
あの時、自分の思考はどうかしていたのだ。自衛隊を辞めると現実の世界に引きずり戻され、何が正しくて何が間違っているのか、正常な判断ができるようになる。それに自衛隊にいる間は、新聞も読まなければ、TVのニュースも見なかった。完全に情報から取り残されていた。
2
由良とは久し振りに高崎の喫茶店で再会した。花本は髪も染め、自衛隊にいる時より髪を長くしていたたが、由良はまったく変わっていなかった。高崎駅に近い(ル・マン)という喫茶店の隅にあるテーブル席で待っていると、黒の革ジャンにジーンズ姿の由良が、ブランド物のセカンドバックを持ち、ゆっくりと店内に入ってきた。出入り口に注意していた花本が、それに気づき立ち上がった。由良も花本に気づき、花本の向かいに腰掛けた。店内はカウンター席以外すべて埋まっていた。ウエイトレスが注文を取りにくると、由良はアイスコーヒーを注文した。
「お久しぶりです」
「ああ・・・・・・」
由良は露骨に不愉快さを顔に表した。
「由良さん。何で俺がこんなところまでわざわざ来たか分かりますか?」
花本は一瞬由良を階級で呼ぼうとしたがやめた。もう自分は自衛官ではない。
「金か?金が欲しいのか」
「まあ、金はあるにこしたことはないのですが、それよりも分かって欲しいことがあるんです」
よほど注意して聞き耳をたてないかぎり、花本たちの話す内容は、他の客に聞かれることはないように思われた。
「何だ?」
「由良さん、俺もあの時はまだ若かったし、世間の常識っていうものを知らなかった。あなたが言うことはすべて正しいとは思っちゃいなかったが、あなたに従えば間違いないような気がしたのも事実です」
花本はそこまで言うと一旦言葉を切った。
「何が言いたい」
「俺と光村はあなたに暗示を掛けられたんだ。あの頃は飲酒運転にしても、今のような厳しい罰則規制は、まだ適用されていなかったはずでしょう。あなたは何であの時、自分が跳ねたわけでもないのに、あの場所から逃げたんですか?」
「・・・・・・」
由良は花本に対し鋭い視線を投げかけた。
「花本、私はお前がうらやましい。娑婆に出てもちゃんと飯が食っていけるのだからな。私はここを辞めたら、外の世界では生きていけない。動物園にいる動物と一緒で、野生に戻されても、自ら餌を採取できない。12戦車大隊に配属される前は、市谷に勤務していたが、そこで仕事上ミスを犯し左遷されたのだ。だからたとえ部下の不始末とはいえ、失敗は二度と許されなかった。こんなことをお前に話したところで、分かってもらえないだろうが、私がいたところはアメリカのCIAにも近い職場だった。そこでは国の存続が第一で個人の尊厳は二の次だ。人道的にいいか悪いかは別として、あの時私はそれが一番正しいと思い判断したのだ」
「それだけの理由で原口さんを人殺しにしたのですか?」
「それだけの理由?花本、あの人は病院に運ばれても、おそらく助からなかった。それに原口が逮捕されれば、実刑は免れまい。私自身意識しなくとも、物事というのは水が低いところに流れるように、決まった方向にしか進まないんだよ」
「あなたあの時『乗り合わせた船だ。沈む時は一緒に沈もう』と言いましたよね。あの時はそれに対し何の疑問も感じなかったが、光村と俺はたまたまあの車に乗っていただけだ。それなのに共犯にさせられた。俺はそのことでずっと悩んでいたんだ」
花本は興奮し、涙ぐんでいた。
「それならなぜあの時、警察に通報しなかった。なぜ今ごろになって、昔の話をぶり返す。あの時点で警察に知らせていれば、おまえたちは何の罪にも問われることはなかったろうに。しかし今警察に申し出れば、少なからず犯人を隠匿した罪に問われる。私は法律家ではないから、詳しいことは分からないが、おまえが逮捕されるのは間違いない」
由良は花本と打って変わって落ち着いていた。
「何を言っているんですか。あなたがあの時、黙っていろと俺たちに命令したんじゃないですか」
すこし声が大きくなったため、他の客が二人に注目した。
「あまり興奮するな。ここではちょっと話しづらいな。場所を変えようか」
確かに話の内容が内容なだけに、他人に聞かれてはまずいと感じた。花本たちは一旦喫茶店を出ると、近くにあるゲームセンターに入った。中はゲームの効果音があるため、他の者に話の内容を聞かれる心配はなかった。二人はテーブルゲームに向かい合って座り、喫茶店での話の続きを始めた。
「お前はさっき、私に命令されて警察に通報できなかったと言ったが、そんな証拠はどこにも存在しないし、光村もおそらく証言を拒むだろう」
「あんたどこまで汚いんだ」
あの一件後、いくら自分に関わりないと考えてもやはり、煮え切らない気持ちに変わりなかった。それにここに来る時、由良がこのような行動を取ることは、おおかた予想がついた。
「由良さん、以前の俺だったらそうですかと引き下がるところですが、俺もこうやってわざわざ出向いてくるからには、それなりに学習してきました。あの日、原口さんのサーフは長野インターを降りて、二時間足らずでまた長野インターから乗っています。あの日の記録が果たして残っているか定かでないものの、八方のペンションにキャンセルを入れたのを、ペンションのオーナーに確認すればはっきりすることでしょう。なにせあの日は、御巣鷹山に飛行機が落ちた日です。オーナーも覚えているんじゃないですか。完全な証拠などなくても、警察は確実に興味を示すと思いますよ。いらぬ疑いをかけられれば、あなたは警察の追及をかわせても、原口さんは耐えられますかね」
「お前・・・・・・」
花本は先ほどとは違い、落ち着きを取り戻していた。喫茶店を出て、ここまで来る間、落ち着け、落ち着けと自分自身に言い聞かせた。花本は由良に会おうと考えた時から覚悟を決めていた。最悪の場合、刺し違えてもかまわないとさえ思った。真の目的は金ではなかった。強いて言えば由良の人間性が許せなかった。それと今まで心のどこかに引っ掛かっていたものを、自分で納得し、けじめをつけたかった。
「いったいいくら欲しいんだ?私もしがない公務員だ。貯金なんてたいして持っていないぞ」
目の前にいる男が、果たして金を素直に払うかどうかは問題ではない。花本は自分の受けた屈辱に対し、何でもいい仕返しがしたかった。それはたんに由良を困らせたかったからかもしれない。
「三百万円お願いします」
中型車が一台買えるか買えないかの微妙な金額である。この金額であれば何とか由良でも払えると踏んだ。
「分かった。三百万円払おう」即答だった。由良はテーブルゲームの上に置いた市松模様のセカンドバックから、携帯電話を取り出した。
「誓約してもらう。今後この件に関し、一切口外もしないし、金も請求しない。これが最後ですと。今までの会話は、すべて携帯のレコーダーに録らせてもらった」
由良は勝ち誇ったように、薄気味悪い笑みを浮かべた。この男の自信に満ちた態度はどこからくるのか。悪いことをしているにもかかわらず、それをおくびにも出さない。自分が考えているより、目の前にいる男は悪党かもしれない。その時になって藪蛇だったのではないかと危惧した。この男は転んでもただでは起きない。そんなしぶとさが見受けられる。
二人はゲームセンターを出ると、目の前にある大型スーパーに入った。目的はキャッシュコーナーで金を下ろすためだった。複数のカードを使い、金を下ろすと、その場で花本の要求した金額を支払ってくれた。あらかじめそれなりの金額は用意してあったようだ。その後レコーダーに二度と恐喝しないことを、吹き込まされた。
「これでおまえの気持ちが済んだのか?」
自販機横のベンチに由良は腰掛けると、花本を見上げた。
「由良さん、これお返しします。俺の本当の目的は、金をあなたから巻き上げることじゃないんです。あなたの本当の気持ちが知りたかったのです」
由良から受け取った金の入った都市銀行の封筒をつき返した。
「恐喝しておいて、何いまさら綺麗ごとを言っている」
蔑むように由良は花本を見上げた。
「あなたがあのことで俺に脅され、どんな態度に出るか試してみたかったんです。その意味では少々がっかりさせられたけど。俺の知っているあなたなら、絶対に自分の非は認めず、何らかの理由をつけ、話をはぐらかすのではないかと思っていました」
「私はおまえが考えているほど冷血な人間じゃない。二人にはすまないと思っている。この金はそれに対する謝罪だと思ってくれていい」
花本がつき返した金を由良は受け取らなかった。それは花本からすれば、意外な行動だった。もうこの男には二度と会うまい。あの事故の日の天気と一緒で、気分はすっきりしなかったものの、これで自分の中では、けじめがついたような気がする。花本は東京に戻り、由良から強請取った金を競馬につぎ込み二日でなくした。それに対してまったく後悔はしていない。
3
二度と会わないと思っていた由良から、電話が掛かってきたのは、由良から金を受け取って一ヶ月ほど経ったころだった。花本が思うに、おそらく自分が、また金を要求してくると勘繰ったのではないだろうか。花本はたんに別れた彼女に、少し嫌がらせでもするが如く、由良に対し嫌味の一つでも言いたかっただけなのだ。その行動が恐喝というかたちになり、自分が想像していたより大事になってしまった。
当初由良と刺し違えてもかまわないとさえ思っていたが、冷静になってみると実際そんな勇気は花本にはなかった。しかし由良にとっては、そう単純なことではなかったようだ。
驚くことに今度は由良が上京し、花本のアパートまでわざわざ訪ねてきた。配達の仕事が土・日休みだったため、由良は土曜日の夜、花本のアパートにやって来た。由良が詳しい場所を教えてくれと言うので、仕方なく教えてやると本当に由良は訪ねてきた。
その日花本はテレビで録画しておいたバラエティー番組を観ていた。近所のコンビニで購入した弁当を食べ、ビールをちびちび飲みながら、好きなバラエティー番組を観て笑っていた。
この歳になっても彼女ができず、友人という友人もいなかったため、休みの日はほとんど家でテレビを観ているか、パソコンで遊んでいた。オートバイは仕事で嫌というほど走っていたため、オートバイでどこかへ走りに行くことはなかった。
玄関扉を叩く音がしたため、花本は立ち上がり、狭いキッチンを
抜け玄関ドアを開けた。そこに立っていたのは、花本が知っている
無表情の由良ではなかった。
由良
1
花本から手紙を受け取った時、とうとう来たかという思いのほう
が強かった。招かざる客であるはずが、いつか分からないものの、
必ず来るという確信めいたものもあった。原口が飲酒運転で人を撥ね、そこから立ち去ったことは、結果的には間違いだった。あの時は逃げ切れると高を括っていた。
省みると自分が計画をたて行った犯罪であれば、逃げ切れる自信
はあっただろうが、人が犯したミスを隠蔽することはどだい無理だと、後に気づくことになる。御巣鷹山の飛行機事故が、思わぬ楔となり、自分の立っている土台が崩れ始めた。
あの時は原口をかばって取った行動ではなかったが、自分に降り
かかる火の粉をたんに払ったつもりだった。
ネズミ捕りの網と一緒で、入ってしまったら二度と出ることはで
きなくなっていた。
花本が要求してきた金額は、思っていたより少なかった。オート
バイ以外まったく趣味を持たない、由良にとって払えない額ではな
かった。しかしどんなドラマを観ても、推理小説を読んでも、恐喝
は一回で終わるはずがないことは、十分承知していた。
花本に恐喝されてからというもの、夜の眠りが浅くなり不安が全
身を支配した。嘗てこのような気持ちになったことはあっただろう
か。これはまさしく犯罪者の心理だと感じずにはいられなかった。
いつか自分は捕まる。それがいつになるか分からないが、その日は必ず来るに違いない。そう確信すると、残された手段は一つしかなかった。
2
由良は自ら花本のアパートに赴いた。携帯電話のGPS機能を使えば、花本のアパートを探し出すのは、容易いことだった。花本のアパートは由良が借りているアパートより新しいものの、広さとしてはそれほど広いものではない。土曜日の夜、花本のアパートまで行きドアをノックした。
子供のころ八時から『8時だよ全員集合』を観ていると「くだらねえ」と言って父がテレビを消してしまう。しかし九時からの『Gメン75』は父も観たいらしく、テレビをつけ一緒に観た。父と暮らしていて唯一、一緒に観たテレビ番組だった。すぐそばにいる同じ血が流れている、この男が凄く遠い存在に感じた。自分の人間性は父によって壊されたのだ。あのような男が父でなければ、自分は自衛官にすらなっていなかったであろう。
玄関扉を開けた花本は由良を見てかなり驚いていた。
「どうしたんですか?こんな遅くに。まさか本当に来るとは思いませんでした。見てのとおり狭いところですけど、上がってください」
入ってすぐ二帖ほどのキッチンがあり、その奥の襖を開けると、六帖の部屋があった。パイプベッドにガラステーブル。独身男にしては、部屋は小奇麗に片付けられていた。ただし食事中だったのかガラステーブルには、ノートパソコンが置いてあり、他に弁当の空容器と缶ビールが無造作に載っていた。テレビではバラエティー番組が流れている。
「食事中のところ、悪かったな」
「いえ、もう終わりましたから。狭いところですけど、そこに座ってください」
花本はリモコンを使いテレビを消した。
由良は花本に勧められ、部屋に僅かに残った空間に腰を下ろした。畳の上に絨毯が敷いてあり、安物の絨毯のごわごわした感触は気持ちいいものではなかった。
「どうしたんですか?俺はもう由良さんを恐喝したりしませんよ」
花本はお茶を出すわけでもなく、テーブルを挟んで由良の向かいに座った。ベッドの置いてある壁際には、オートバイの大きなポスターが貼ってあった。
「花本がオートバイ好きとは知らなかったな」
「ええ。由良さんはまだハーレーに乗っているんですか?」
「ああ。趣味といえば、それぐらいだからな」
由良は何度か中隊の整備場で、ハーレー・ダビットソンを洗車し
ていたことがあり、花本もそれを目にしていたのだろう。
「悪いが、お茶か何か貰えないか」
「すみません、気がつかなくて。お茶は飲まないので、コーヒーで
いいですか?」
「ああすまん」
花本は立ち上がると、キッチンに行くため襖を開けようとした。
それと同時に由良も素早く立ち上がり、花本の背後に立った。殺気
を感じたのか、花本は後ろを振り返ろうとした。
「ゆ・・・・・・・」
花本が言葉を発するより早く、由良は左肘を花本の顎下に持って
いくと、柔道の裸絞めの要領で首を絞めた。十数秒で花本の膝が落
ちた。左手に花本の重みが伸し掛かり、それでも由良は絞め続けた。
由良は花本の首から腕を放すと、静かに床に寝かせた。花本の口か
らは蟹のような泡が吹き出していた。
由良はセカンドバックから、白手袋とロープを取り出すと、手袋
をはめロープであらかじめ作っておいた輪を花本の首に掛けた。襖
を開け、鴨居の上にある格子の欄間にロープを掛け、花本を引き上
げた。あまり身長の高くない花本は僅かに足を浮かせ、照る照る坊
主のようにぶら下がった。
この部屋に入って自分が触った物がないか、頭の中で整理してみ
た。そしてセカンドバックからナイロン製の手提げ袋を取り出すと、
カラーボックスの上に置いてある携帯電話と、ガラステーブルにあ
るノートパソコンを、持ってきた手提げ袋に入れた。
部屋にある引き出しをすべて開け、自分につながる物がないか探
した。携帯電話もパソコンも一台ずつしかなく、自分につながりそ
うな物は何も見つからなかった。
破滅の道へ一歩一歩近づいている。自分はいったい何をやってい
るのか。自分の人生っていったいなんだったのだろう。思い返して
みても、楽しいことが何一つ浮かんでこなかった。人一人を殺して
も何の感情も湧いてこない。もしかしたら自分は自分を殺したのか
もしれない。
光村
1
あれは確か中学一年生の時だったと思う。同じクラスに向山治という男子生徒がいた。鼻根部が低く目が離れていたため、数人の男子生徒がハットリ君と言ってからかった。漫画の忍者ハットリ君に似ていたからだ。その時向山は、さして腹を立てているように見えなかった。もともとおとなしい子だったので、身体的な特徴を指摘されても、嫌な顔一つしなかった。
中学校に入ってから、先生と生徒の連絡帳のようなものがあり、毎日5~6行その日の出来事や、先生に伝えたいことを書き留め、翌朝ホームルームの時間回収する。その日のうちに担任が目を通し、簡単なコメントを書き添え、下校時に本人に返していた。
向山は連絡帳に(ハットリ君とからかわれ、悲しいです)と書き込んだ。担任が夕方下校時「このクラスに人の容姿をからかう愚か者がいる。誰とは言わんが、言った本人は分かっていると思う。もう少し相手の気持ちを考えろ」と生徒たちを諭した。
向山にからかい半分で言った生徒は、男子生徒3~4人だったが、彼等はクラス全員を巻き込み、露骨に向山に嫌がらせをするようになった。クラスの誰もがこれに追従しなければ、次は自分かもしれないと危機感を抱き、いじめに加担するしかなかった。
山間部の中学校でクラスは、一クラスしかなく、それでも光村たちの学年は人数が多いほうで男女合わせて三十人ほどいた。
光村は何とかいじめに加担しないように心掛けた。他人をいじめるのは勿論、いじめられるのも嫌だった。いじめを先導している生徒に対して憎しみすら湧いてきたが、それはあくまで内面的なもので、向山に対して何もしてやることはできなかった。やがて向山は学校に登校してこなくなった。
担任はクラス全員に対して怒ったが、個人を吊るし上げることはしなかった。いじめを率先してやっていた者たちに対し、何も言えなかったことが、光村自身悔しくて仕方なかった。その後向山は町に転校していったが、高校に進学してもそのことはしばらく頭から離れなかった。
今回白馬へ行く途中原口が、人を撥ねてしまい、由良の命令で公にしないことを誓わされた。階級でも年齢でも一番下っ端の光村は、上の命令に従うしかなかった。たとえ自分が犯した犯罪でなくとも、見て見ぬ振りを決め込むことは、それ自体が罪に違いない。
子供のころから正義感は常にあった。ただそれは内面的なもので、その正義感を表立って主張することはなかったのである。
目の前で人が撥ねられ、有ろうことかそれを置き去りにしていった。上官とはいえ、人としてあるまじき行為に違いない。さらには自分たちに黙っているよう強要した。それを拒否できない弱さが自分にあった。あの中学の時と何も変わっていない。
御巣鷹山の惨劇を目の当たりにしたことで、自分には関係ないことと言い聞かせてきた。人殺しを見ておきながら、見て見ぬ振りを決め込んだ。そんなことが許されるわけがない。
半乾きの服を着ているようで、いつも気持ちが落ち着かなかった。ここに来て神様は自分を試そうとしている。悪魔の僕と成り下がるか、すべてを失っても人間としての尊厳を取り戻せるのか、自分は岐路に立たされているのではないだろうか。
2
駐屯地への帰り道、光村は道路脇にある空き地に車を停めた。そこは積雪時タイヤ・チェーンを脱着する場所だった。
「どうしたの?」
もう少しで駐屯地に着くというところで停まったため、茜は疑問に感じたのだろう。
「ちょっと、大事な話があるんだけど」
「何?」
茜から白馬で父がひき逃げされたと告白され、一ヶ月が過ぎていた。茜とはすでに男と女の関係になっていたが、あの告白された日から、茜に手を触れることができなかった。茜とセックスするのはもっぱら高崎近辺のラブホテルだったが、時折APC(装甲兵員輸送車)の中でセックスした。椅子は硬かったが、中からハッチを閉めてしまえば、外からは開けることはできない。音は漏れることがないので、ここでのセックスは異質な感じがして、けっこう楽しめた。本部管理中隊には、衛生隊のアンビ(救急車)があった。こちらはベッドも備え付けられ、セックスするには打って付けの場所だったが、他の中隊の車両を使うわけにもいかず、自分の中隊のAPCの中で用を済ませた。戦車部隊ではラブホテルAPCといって、けっこうここをラブホテル代わりにする隊員も少なくなかった。
白馬から帰ってきてからの、光村の様子が以前と違っていたのは、茜も気にしていたようだ。
光村は原口が茜の父をひき逃げした事実を告白しようとして、一ヶ月もの間、随分と悩み苦しんだ。たとえ自分が黙っていても、茜との関係はもうこれ以上続けられない。初めて愛した女性のことを考えると、真実を語るしかないと思い至った。ここで真実を明らかにしなければ、自分はもう人間としての尊厳を捨てなければならない。それほど大きな決意が光村にはあった。
エンジンを掛けたまま、カーオーディオのスイッチをOFFにした。
「茜、非常に言いにくいことなんだけど・・・・・・茜のお父さんを轢いたのは、原口2曹なんだ」
光村は喉から搾り出すように言葉を発した。この一言が破滅への一歩となるのは間違いない。しかしこれで自分は人として留まることができたような気がする。
「え・・・・・・」
茜は驚きのあまり、言葉を失ってしまったようだった。
「あの日、原口2曹が運転する四駆に、僕と由良2尉、そして退職した花本士長が乗っていた。泊り掛けで白馬の八方に行く予定だった。茜が白馬へスキーに行きたいと言った時、正直怖かった。茜が北アルプスを指し、『あの山だけは真実を知っている。だから犯人は、あの山の前には立てないはずよ』と言われた瞬間、身を引き裂かれる思いだった。
御巣鷹山に飛行機が墜落した日、前段に休みを取り、旅行や帰省していた者たちに、非常召集が掛かり、部隊に呼び戻された。車の運転中原口3曹の携帯に電話が掛かり、ポケットにある携帯を取ろうとして、前方不注意で茜のお父さんを撥ねてしまった」
光村はそこでいったん言葉を切った。
「・・・・・・」
おそるおそる茜を覗き見ると、カーオーディオのグリーンの光の中で、正面を見据えていた。真っ黒なフロントガラスには、二人の姿が蜃気楼のように映っている。
茜は今、自分の父親をひき殺した共犯者のような男と一緒にいる。この瞬間から二人は恋人同士ではなくなった。
「あの時由良2尉が、現場から立ち去るように命令したんだ」
すぐ隣にいるはずの茜が、糸が切れた凧のように、二度と触れることができない、遠いところに存在しているような気がした。
「何でそんなこと命令できるの?」
茜の声は今まで聞いたことのない悲痛なものだった。
「僕は部隊に配属されたばかりの2士で、何で由良2尉がそんなことを言ったのか理解できなかった。おそらく非常召集が掛かり、すぐに部隊へ帰還しなければならないことが、あの人の頭を混乱させてしまったのではないかと思う。それに加え原口2曹はお酒を飲んでいた」
これはあきらかに口からのでまかせだった。あの沈着冷静な由良が、頭が混乱していたなんてことはありえない。あの時目撃者がいないことを幸いに、足跡まで消し証拠隠滅を計った。原口の車を綺麗に洗車し、衝突した痕跡がないか確認して、買い取り業者に出した。
あまりに事務的に行動する由良を見て、感心すらしたものだ。それと相反し、いつ発覚してもおかしくないという思いがついてまわった。
あれから原口は別人になった。明るかった性格が、とても暗い性格になった。それは無理もないことだと思う。光村の告白で、原口は刑務所に収監されるのは確実だ。もしかしたら光村自身も、犯人隠匿の罪で何らかの罰則を受けることになるかもしれないのだ。
「父は撥ねられた時、まだ生きていたんですか?」
「それは僕には分からない。僕は少し離れたところにいたので、茜のお父さんがその時すでに亡くなっていたのか、そうでないのかは分からない」
それも嘘だった。由良はあの時、頸動脈に手を当て「まだ生きている」とはっきり言った。この期におよんで自分はまだ自分をかばおうとしている。
「何で由良2尉は自分が撥ねたわけでもないのに、あの場所から立ち去ったの。私の家はあのすぐ近くにあった。あの日父は勤務先の忘年会があったため、普段車で通っているところ、お酒を飲んだためタクシーで帰宅した。家のすぐ前までタクシーで送ってもらえばよかったのに。気を遣ったのか、大きい通りでタクシーを降りてしまったため、車に撥ねられてしまった。警察の話では、おしっこをしているところを、撥ねられたんじゃないかと言っていたけど、すぐに病院に運べば父は助かったかもしれない。あなたたちは父を見殺しにしたのよ」
酒を飲んで正しい行動をとったほうが亡くなり、間違った行動を取ったほうが生きている。茜でなくとも理不尽に感じるのは当然のことだろう。
光村の頭にあの時の光景が蘇ってきた。あれほど衝撃的な出来事にもかかわらず、その後目にした御巣鷹山の惨劇があまりにも凄まじく、茜の父親を撥ねた記憶が霞んでしまった。
「確かにあの時病院へ運んでいれば、お父さんは助かっていたのかもしれない。何であんなことになってしまったのか、僕は・・・・・・」
そこまで言って光村は言葉を詰まらせた。次の言葉が声になって出てこなかった。
しばらく沈黙が続いた。茜は身体を震わせていた。怒りと悔しさは、加害者の立場に近い、光村にも確かに伝わってきた。沈黙がどのくらい続いたのだろうか。
「なぜ今ごろになってそんなことを言い出すの?私はほんの数分前まであなたのことが好きだった。あなたと結婚してもいいとさえ思っていた。それが何で今さら・・・・・・」
何でこんなことになってしまったのだろう。
「・・・・・・」
言葉が見つからなかった。何て言えばいいのか見当がつかなかった。
「光村さん、何とか言ってよ」
闇の中に一歩足を踏み入れたのは確かなようだ。もう引き返すことはできない。それはまるで無人島へ、一人取り残されたように、そこには孤独しか見出せなかった。
「・・・・・・僕はスキー場のリフトの上で、君から父親がひき逃げされたという事実を訊かされ、どれほど驚いたことか。これが神の啓示かもしれないと思った。僕は信仰心もまったくないし、神の存在自体信じていない。そんな僕でも何か目に見えないもので、君に引き寄せられたのかもしれない。そう思わずにいられなかった」
「私は最初に会った時、何か暗い過去があなたにはあるような気がした。あなたの目の色は、どことなく父に似ていた。私はあなたが何でそのように暗い瞳になったのか、どうしてもその原因が知りたかった。それは父がひき逃げされたことが原因だったなんて、夢にも思わなかった。あなたが言うように、これは神様のいたずらなの?あなたのそのやさしさは、罪の意識から出たものなの?」
「それは違う」
他人に対して否定的な言葉を口にしたことのない光村が、茜の言葉に反論した。
「どう違うのよ?」
光村は子供のころから人と争うのが嫌いだった。それは喧嘩だけではない。かけっこでも、勉強でも、他人と競争するのが嫌だった。とくに学力が低かったわけでも、運動能力が人より劣っていたわけでもない。自分に自信が持てなかった。そのため他人に対し、我を通すことができなかったのだ。その自信のなさの表れが他人から見れば、やさしさに映ったのではないだろうか。
光村の行動はすべて、自信のなさが起こさせるものだった。それは子供のころ覚えた身を守る防衛手段に他ならない。我を通せば多かれ少なかれ、他人と衝突することになる。我が強いものは自分が正しいと思っているし、自分より強い者でなければ引き下がらない。光村にとってそれは、無駄なエネルギーだった。長い物には巻かれろのたとえの如く、たとえ相手の意見が間違っていても、それに対して反論することはしなかった。それゆえに相手が光村に対し、拳を振り上げ怒りをあらわにすることは、到底考えられないことだ。ガンジーのような無抵抗なものに、力で対抗しても暴力を振るった側が、惨めな思いをするのは明らかである。光村は別にガンジーを崇拝していたわけではないが、自分に争う意志がないことを示せば、相手はそれ以上力を誇示してこないことを学習した。
「僕は人と争うのが嫌なんだ。自分の方が一歩引けば、相手はそれ以上付け込んでこない」
他人に対し自分の本心を打ち明けたのは初めてだった。
「意気地なし」
茜の怒りの矛先はどんな鋭い刃物より尖っていた。
「僕は確かに意気地なしかもしれない。あの時頭の中では、由良2尉の意見に従いたくないと思いつつ、けっきょく何も言えなかった。本当にすまないと思っている」
「あなたは卑怯よ。自分は一番下っ端で、車を運転していたわけでないから、本当は自分には責任がないと思っている。しかしそれは逃げだと思う。あなたは、自分はいつも安全な場所にいて、自分だけ火の粉が掛からないようにしているだけなんだわ」
それは図星だった。自分は傷つくのが嫌だった。茜が言うように、自分に火の粉が降りかからなければいいという思いは確かにあった。悩んでいてもけっきょく警察には通報しなかった。それは所詮、自分には関係ないことだという思いがあったからに他ならない。
茜という存在が現れなければ、自分は一生このことに関して、口を噤んでいただろう。良心の呵責は確かにあった。それでも自分は当事者じゃない。自分の立場では何もできないのだと、自分自身で納得したかった。
「あなたは当事者でないから、責任がないと思っていたかもしれないけど、私から言わせれば、父を見殺しにした犯人と一緒なのよ。もしあなたがあの時、救急車でも呼んでくれていれば、父は助かったかもしれない。父が生きていれば、私はもっと違う人生を歩んでいたと思う。もしかしたら今ごろどこかのキャンパスで、学生生活を謳歌していた」
茜の父親が亡くなり、伯母の家で育てられたことは、以前茜から聞かされていた。親戚に引き取られ、その後大学に進学せず、自衛隊に入隊したが、それは少なからず養父たちには、迷惑を掛けたくないという思いが強かったのだろう。
その原因が自分たちにあったことを知り愕然とした。茜の未来を奪ったのは他でもない、自分たちなのだ。あの時躊躇わずに通報していれば、今ごろ茜は青春を謳歌していただろう。自分のあさはかさを確認したところで、どうしようもなかった。
由良
人を殺すのが軍人の仕事ながら、日本の自衛隊が人を殺傷することはほとんどないといえる。人を殺すプロであるはずが、実際その技を使えないのが今の自衛隊の実情だった。
しかしそれはあくまで敵であって、上官の命令がなければ、それを実行に移すことはできない。由良にとって花本は旧ソ連以上に脅威だった。花本がいる限り、枕を高くして眠ることができない。しかし花本がいなくなっても、決して枕を高くして眠ることはできなかった。
服についたしみを落とそうと思い擦ったが、よけい広がり目立つようになってしまったような、そんな状況だった。一旦割れた皿は二度と元に戻らない。
人を殺めても何とも思わないと自分自身考えていたが、実際はそうでなかった。それは罪の意識でも、相手に対しての贖罪でもない。強いて言えば自分の取った行動を省みて、間違っていたと悟ったからに他ならない。テストが終わり自己採点したら、一箇所間違っていたところを見つけた。そんな心境に近かった。
あの事件後、他の部隊に転属命令が出たが、頭を下げ何とかここに留まっている。それは原口が心配だったからだ。しかしほころびはまったく違うところから発生した。
自分は子供のころから、人並みの幸福を望んだことは一度もない。だからといって刑務所のような、自由を奪われる生活はまっぴらごめんだった。
あの事件以来原口は明らかに人が変わった。あれほど好きだった酒も口にしないようになった。それではあまりにも不自然だったため、原口に部隊での飲み会は、なるべく酒を断ることはするなと諭さなくてはならなかった。しかし以前のように美味しく飲んでいる姿は見られなくなった。
自分が原口に対し、自首を勧めれば喜んで従ったのではないか。あいつの心が開放されるのは、あいつ自身が逮捕された時であろう。そんな最中休日原口が、由良のアパートに突然訪ねてきた。原口が由良のアパートに来たのはこの時が初めてである。
由良のアパートは相馬原駐屯地から、歩いて10分ほどの距離にあった。そこの住人はほとんどが自衛官で、独身者だけでなく、既婚者も何人か居住している。3DKの決して広くない住居だったが、独り身の由良には無駄な空間が多かった。田舎だったためアパートの横には、住人専用のトタンでできた物置があり、物置の扉は両開きだったため、由良はそこにハーレーダビッドソンを置いていた。今の由良にとって楽しいと感じる時間は、このハーレーダビッドソンをいじっている時だと言っても過言ではない。磨けば磨くほど輝きをます。
機械はけっして人を裏切らない。手入れをしてやれば、必ずそれに報いる。人間嫌いの由良にとって、唯一信頼できるものだった。
その日パソコンの動画サイトを観ていた由良は、安っぽい呼び鈴の音で玄関に赴いた。玄関扉を開けると、ジャージ姿の原口が立っていた。
「どうした、原口?」
「ちょっといいですか?」
「おう。中に入れ」
冬には炬燵になるテーブルを挟んで二人は座った。来客に対し由良は飲み物を出さなかったし、出す気もなかった。由良にとって原口は、招かざる客以外の何者でもなかった。
「花本を殺したのは由良さんですか?」
この時すでに花本殺害のニュースは全国に配信されていた。中隊でも花本のことは話題に上った。
あの事件の日、車に乗っていた者であれば、間違いなく花本を殺害したのは由良と疑うであろう。それでも由良はあえて原口の質問には答えなかった。
「何で?何で花本を殺さなければならなかったのですか?あの時自分は大変なことをしてしまったため、由良2尉は自分を庇ってくれたのだとばかり思っていました。しかし由良2尉は自分を庇ってくれたわけではなく、ただ自分の保身を考えての行動だったと後で気づきました。自分は何度死のうと思ったことか、でも死ねませんでした。自分でもどうしたらいいか分からないんです。いつも溝に足を浸しているような状態で、気が晴れたことは一度もありません。いっそのこと自首しようかと思いましたが、それもできませんでした」
花本がそこまで追い詰められていたとは知らなかった。足下の氷が融け始めていた。このままでは下に落ちていくのは間違いない。
「お前の好きなようにすればよかったではないか」
「由良2尉。自分たちは破滅の道に向かって突き進んでいるんじゃないですか?自分が殺してしまったのは、ある意味不可抗力な部分もあったと思いますが、由良2尉が殺したのは明らかに殺意があってのものです。相手に死んでほしいと願ったはずです。なぜそこまでして、あの事件を隠さなければならなかったのですか?」
原口の言葉は氷を噛んだように、頭の芯に響いた。あの時何で被害者を救助せず、あの場所から立ち去ったのか。調査隊の上官新井3佐の無骨な顔が頭を掠めた。由良が調査隊として受けた教育は、微々たるものだった。新井3佐は「この国にはスパイは存在しないことになっている。しかし我々のような組織がなければ、この国はそいつらの餌食になってしまう。そして我々の仕事はいかなる時も人間的感情を排除し、冷徹に判断を下さなければならない。困難な局面に遭遇した場合、何が重要かを見極めなければ命取りになる」と語った。
あの時自分は判断を誤ったのだ。その判断ミスが、自分自身の首を絞めることになってしまった。自分では冷静に判断したつもりだったが、結果としてそれは間違いだった。
「あの時の私の判断は、間違いだったということか?敵を倒すということと、犯罪を隠蔽することは、まったく別ものということを、認識するべきだったかもしれない。しかしそれもお前があの時、運転をしながらビールなんて飲まなければ、あんなことにならなかったのだ。飲酒運転でなければ、たんなる過失傷害ですんだものを。お前が酒なんか飲むから、私が隠蔽せねばならなくなったのだ。すべての元凶はお前にあったということを肝に銘じておけ。しかし・・・・・・」
そこまで言ったが、後に続く言葉が見つからなかった。状況を読み違えたのは、由良の責任に他ならない。市谷で受けた訓練は何の役にも立たなかった。いや防大に入ってから受けた教育がまったく役立っていなかった。
由良が受けた教育は国防であって、それは決して個人の利益を守るものではない。
戦争は勝ったほうが正義なのか?たとえ敗戦国が何の落ち度がなくとも、武力行使し相手を徹底的に叩けば、そこに正義が生じる。白人至上主義が罷り通り、一旦植民地化してしまえば、麻薬を売りつけようが、奴隷にしようが、好き勝手にできる。軍事力の強い国が、弱い国に侵攻しても、誰も文句を言えない。たとえ文句を言われても、聞く耳を持たない。
国を守るための殺人であれば、どんな非合法なことでも許されるが、個人の場合それは罷り通らないであろう。そんなことは十分理解しているつもりだった。
チャップリンは殺人狂時代の中で「一人の殺害は、犯罪者を生み、百万の殺害は英雄を生む。数が殺人を神聖化する」と述べているが、それはアメリカという国を皮肉ったのだろう。これによりチャップリンは赤狩りにあい、アメリカを追放されることになったが、それは力だけに頼ってきたアメリカの弱さでもある。
由良は自分の行動はすべて国家のためと、思い違いをしていた。本来愛国心を持たない由良が、自己防衛のためにとった行動を、正当化しようとしたところにほころびが生じた。
「由良2尉自分を殺してください。自分はもうだめです」
原口の背後にある悲しみの影が、しだいに大きくなっていくのを、由良にも感じることができた。
将棋にたとえるなら、あと2・3手で詰むところまで追い詰められている。後に残ったのは絶望だけだった。
原口
各中隊にはそれぞれ武器庫があり、火器は鉄の扉の奥に厳重に保管されている。弾薬の管理はさらに厳しく、原則として弾薬庫と門衛所にしか保管されていなかった。弾薬庫は四方が土手で囲まれており、二十四時間歩哨が小銃を持ち警備にあたっている。門衛所の弾薬は警備責任者である、曹長が厳重に管理していた。
原口は夜中、乾いた癇癪玉が破裂するような音で目が覚めた。すぐ横のベッドには今年3曹になったばかりの横井が寝息をたて寝ている。
人を撥ねたあの日から、熟睡することはできなかった。僅かな物音でも目が覚めてしまう。自衛隊にいる限り、一人になることはなかったが、その一人になることが、ことのほか恐ろしかった。
一週間前由良のアパートに押しかけ、花本のことを問い詰めたが、由良は否定も肯定もしなかった。あれから浅い眠りが益々浅くなった。
ベッドの上に上体を起こし、先ほどのことが気になり営内班を出た。原口がいる営内班は、二人部屋ですぐ横に補給倉庫があり、その横が武器庫になっている。
原口が廊下に出ると、本来扉が閉まっているため、明かりが点いていないはずの武器庫から明かりが漏れていた。何でこんな時間に武器庫が開いているのか。まさかあの由良に限って。武器庫が開いていることには、色々な原因が考えられるはずなのに、由良のことしか頭に浮かばなかった。
原口は急いで明かりのもとへ向かった。
武器庫の鉄の扉は開けられ、床には迷彩服を着た男が倒れていた。顔を確認するまでもなく、倒れているのは由良に違いなかった。右手に9ミリ拳銃を握り、こめかみを撃ちぬいたのか、武器庫の床にはうっすらと血が付着していた。
「由良2尉・・・・・・」
声を掛けたところで返事が返ってくるわけがない。すでに由良は原口とは違う世界にいた。それでも原口は由良に呼び掛けずにはいられなかった。
「自分で死ねるあんたが羨ましい。これがあんたのけじめの付け方か?自分は何度も死のうと思ったが、けっきょく死ねなかった。自分に手が及ぶ前に死ぬというのは、あんたらしいといえばあんたらしいかもしれない」
しかし武器庫の鍵はともかく、銃弾はどこから入手したのか。原口には想像もつかなかったが、いくら由良でも弾薬庫から持ち出すのは不可能であろう。自分で制作したか、あるいは在日アメリカ軍から譲り受けたのか、まったく分からなかった。アメリカ兵は富士演習場に平気で弾薬を廃棄していくので、こちらのほうが可能性としては高かった。
自衛隊における武器及び弾薬の管理は、徹底している。小銃の部品一点、薬きょうが一個無くなっただけで、部隊を総動員してそれが見つかるまで捜索する。
由良が武器庫で拳銃自殺しようとしたところを、目の当たりにしているにもかかわらず、自衛隊における武器管理のずさんさが、マスコミに叩かれるなと、一人のんきなことを考えていた。
人の運命はほんの些細なことから狂い始める。原口にとって飲酒運転は日常的なものだった。高崎で中隊の飲み会がある時はきまって、車を使用していた。運がよかったのか、一度も捕まったことがない。一回でも捕まっていれば、今回のような大事には至らなかったであろう。飲酒運転よりも、あの時電話が掛かってきたことがいけなかったのだ。あの電話を取ろうとまごつかなければ、人を撥ねてしまうなんてことにはならなかった。それにあんな時間山奥のあんな場所を、人が歩いているなんて誰が想像できただろう。いやあの車に由良さえ乗っていなければ、自分はあの場所から逃げたりしなかった。そもそも由良をスキーに誘ったのが間違いだった。寝ても覚めても、あの時と、そればかり考えていた。
原口はこの期におよんでも、自分が一番悪いということを認識できないでいた。
あの時車に乗っていた一人が、すでに亡くなっているにもかかわらず。
茜
相馬原駐屯地の門衛所のすぐ前は、道を挟んで榛名女子学園がある。ここには犯罪傾向の進んだ少女が収容されていた。榛名女子学園の向かいに、小さなロータリーがあり、そこはバス停になっている。高崎行きのバスは一時間に二本しかなく、茜は大きなボストンバックを抱え、バスを待っていた。
向かいの榛名女子学園からは、四十歳前後の女性と、高校生ぐらいの少女が、学園の職員と思われる制服を着た女性と出てきた。二人は母と娘だろうか、母親と思しき女性が、職員に深々と頭を下げていた。それとは裏腹に少女はあらぬ方角を向いていたが、母親に何か言われたのか、少女も母親と一緒に頭を下げた。二人は職員が建物に入るまで、そこに佇んでいた。
少女にとっては、今日が新たな旅立ちになるのだろうが、当の本人はそれほど深刻には受け止めていないように見受けられる。
榛名女子学園は塀で囲まれているものの、刑務所のような厳つさはなかった。どのような少女がここに収容されているのか、茜の知るところではないが、何かしら法に触れることをして収容されたのは間違いない。
職員の姿が見えなくなると、二人はこちらに向かって歩いてきた。
「お母さん。携帯」
「後にしなさい」
「だってマリに連絡しないと・・・・・・」
二人の会話を聞いている限り、今までこのような矯正施設に、入所していたとは思えない。ちょっと怪我でもして病院に入院していたとしか見えなかった。
光村から原口がひき逃げしたことを告白され「だからあなたはどうするつもりなの?」と詰問すると「君に話したことを、すべて警察に話しにいく」と答えた。しかし茜は「ちょっと待って」と言って引き止めた。光村はかなり驚いていたようだが、自分自身で確かめたいことがあった。
原口に直接確かめようと思い悩んでいた。そんな最中、あの時一緒に車に同乗していた花本という男が、何者かに殺害されたと、テレビや新聞で報道された。茜が驚いたのは勿論、光村は私以上にショックを受けていたようだ。
光村は花本を殺害したのは由良に違いないと語った。警察発表では、花本が殺害されたのは、光村が茜に告白した後だったと思われる。ここに茜は運命を感じた。たとえ光村が警察に通報しなくても、遅かれ早かれ事件は明るみに晒されることになったのだ。光村に待ったを掛けたのは、このようなことが起こることを想定したわけではない。それでもあの事件に関係した者が、人生の濁流にでも飲み込まれるように、本来落ちるところへ落ちていくのだと感じずにはいられなかった。
茜自身も身の振り方を考えていた。このまま部隊に居続けることはできない。かといって茜には帰る家がない。
心から愛した人が、実は自分の父親をひき殺した仲間の一人だった。正確には共犯者ではないものの、今まで口を噤んでいたということは、共犯と思われても仕方がないのではないだろうか。茜は光村に対する愛情が深かっただけに、このまま光村を警察に行かせ、肩の荷を降ろしてやるには、あまりにも芸がないような気がしてならなかった。もっと苦しめばいいのだわ。正直光村の態度が気に入らなかった。
光村の一方的な言い分だけを聞いていると、まるで自分も事件に巻き込まれたような口振りである。正直に話せば私が許すとでも思ったのだろうか。私に対する優しさも、他の者に対する優しさも、すべて偽りだったのだ。自分の父を死に追いやった者に、抱かれていたかと思うと、気が変になりそうだった。あのまま素直に警察に行かせてしまえば,光村自身はたいした罪に問われないような気がする。
犯人がまだ誰か分からないうちは、犯人に対して憎しみはあったものの、それは漠然としたものだった。しかしこうして父をひき逃げした犯人が判明すると、その憎しみはより強いものとなっていく。
光村を愛していたからこそ、その事実を知った時のショックは計り知れない。自分の心臓を抉り出し、相手に投げつけてやりたい。そんな妄想を抱くほど、精神状態が不安定になっていた。
ただたんに警察に逮捕され、刑務所に行くだけでは、茜の気持ちはおさまらない。光村もまさか茜がそこまで加害者に対し、憎しみを持ち続けていたなどとは、思ってもみなかったのではないだろうか。(皆地獄に落ちればいいのだわ)
光村は茜の言葉に戸惑いを感じている最中、花本という男が殺害された。因果応報とはまさにこのことだ。悪いことをすれば必ずその報いを受ける。光村も自分が殺されるかもしれないという恐怖を味わえばいい。
現実は茜が想像するより、はるかに恐ろしいことになっていた。私は何も悪いことをしていない。なのに何でこんな辛い思いをしなければならないのか。私がいったい何をしたというのか。
結果として光村の通報で、原口も逮捕され光村も任意同行を求められたが、由良は捜査が自分のもとにおよぶ前に、自ら命を絶とうとした。
自分の肉親を殺した者なら、同じようにこの世からいなくなってほしいと望むものだが、茜も同じ考えだった。しかし由良がなぜあのような行動を取ったのか、知りたかった。光村の説明では、気が動転していたというようなことを述べていたが、果たして本当にそうだろうか。由良には何か考えがあって取った行動に思えてならない。それはけっきょく確かめることができなかった。
茜は部隊に配属されても、由良と言葉を交わすことはなかった。先任士長にでもなれば士官と話す機会もあったかもしれないが、2士や1士の分際で士官と話すのはおこがましいように思われた。
光村と付き合いだしたころ、「あの人は氷のように冷たい人だ」と言っていたが、その時はまだ、どうしてそのようなことを光村が口にしたのか、理解できなかった。
事件が公になると陸上自衛隊のトップが記者会見を開き、国民に陳謝した。マスメディアでは由良の生い立ちから、現在までの経歴を調べ上げ、連日テレビ放映された。
どこで調べたのか、被害者である茜の携帯電話にも、何回となく電話が掛かってきたが、それには極力出ないように努めた。さすがに駐屯地内まで、マスコミが押しかけてくることはなかったが、正直もうここにはいられないと痛感した。
本人から供述が取れない以上、マスメディアが憶測で、由良がなぜあのような行動を取ったのか報道しても、どれも真実とは程遠いような気がしてならない。そんな中にも一つだけ興味深いものがあった。それは由良の父親の存在である。由良の姉に取材したところ、由良は父親との間に確執があったということだ。実父からコメントを取ることはできなかったようだが、男子にとって父親の存在は、その人物の今後に重要な役割を担っているのは間違いないように思えた。
真奈美
真奈美は新聞もあまり読まなかったし、テレビのニュースはほとんど見なかったため、人見啓輔がひき逃げされた事件をまったく知らなかった。
真奈美は啓輔と離婚後、二年ほどして十歳以上年上の銀行員と再婚した。相手も再婚で、前妻との間に子供が二人いたが、子供は真奈美同様前妻が引き取った。
再婚相手との間には、男子一人を授かり、今は東京の大学に通っている。娘の亜美は父とは別の銀行に入行した。娘が銀行に就職したのは、たんに父親を尊敬していたからだと思っていた。
今回啓輔をひき逃げした犯人が逮捕されたことは、かなり大きく報道されたため、否応なく真奈美の耳にも入ってきた。報道によれば新日本航空の墜落事故と重なり、自衛隊は組織ぐるみで、ひき逃げの隠蔽を行ったのではないかと報道されている。
驚くことに啓輔には娘がいて、その娘は現在陸上自衛隊にいるということだ。インターネットで調べると、啓輔の娘茜は亜美にそっくりだった。
啓輔はそれなりの容姿をしていた。いくら押しが強い男性でも、若い娘にとって容姿が、それなりに伴っていなければ引いてしまうのもまた事実だった。啓輔は、見てくれだけは合格点に達していた。
啓輔の遺伝子を引き継いだ亜美と、もう一人の娘である茜が、同じような容姿をしていたのは、半ば当然のことかもしれない。省みれば現在の夫のほうが学もあれば、経済力も勝っていたが、人間的魅力は啓輔のほうが勝っていたのではないだろうか。
休みがなかなか取れないにもかかわらず、真奈美が水芭蕉を見たいと言えば、車を飛ばし長野の山奥まで連れて行ってくれたし、ミッキーマウスが見たいといえば、夜間高速を飛ばし日帰りで、東京ディズニーランドにも連れて行ってくれた。
結婚してしまうと新婚旅行にも連れて行ってくれなかったが、それまで真奈美の要求を満たそうと努力するその姿は、正直頭が下がった。その時は何よりも啓輔といるのが楽しかった。
今の結婚は体裁のため仕方なく再婚したところがある。夫とは夫婦の関係はそれなりにあったが、啓輔のそれとは違っていた。半分は義務みたいなものだ。しかし男はどんなに外見がよくても、経済力が伴わなければ生活していけない。それもただ普通に食べていけるだけの生活では満足できなかった。それは図らずも真奈美の父親の存在が多分に影響している。行き着くところ男は経済力がすべてなのだ。それさえあれば幸せになれると信じて疑わなかった。
幼いころから大きな家に住み、綺麗な服を着せられた。そのような環境に慣らされてしまうと、生活水準を下げることは、真奈美にとって屈辱的なことでしかなかった。
啓輔との生活も最初のうちは、珍しさも伴ってけっこう楽しめたが、そのうち不満のほうが勝ってきた。挙句の果てに姑と同居しようと申し出る始末である。何を考えているのか、いい加減にしてほしかった。この男についていては、私は一生うだつが上がらないと思えた。
自分自身の未来のために、啓輔を自分の人生から排除するしかない。その男がその後の人生において成功することは、真奈美にとってけっして喜ぶべきことではなかった。啓輔は何年経ってもうだつが上がらないと思えたから別れたのだ。真奈美と離婚後再婚したが、その再婚相手も病気で亡くなったらしい。挙げ句の果てに自分自身も何者かにひき殺された。それを知った時私は、私のとった選択は間違えではなかったと感じずにはいられなかった。
今の時代、離婚したことはその後の人生において、けっしてマイナスな要因にはならないはずである。それでも女の商品価値が下がらないうちに、新たなパートナーを見つけるほうが、先決ではないだろうか。真奈美は女子高、女子大と周りには異性がいなかったため、話ができる男性は家族の他は、歳のいった教師だけだった。女子高でも他校の男子生徒と付き合っている子はいたが、真奈美の父は異性との交際に、ことのほか厳しかった。さすがに大学に入ってからは、父が異性の交際について意見を述べることはなかったが、内心は面白くなかったに違いない。
真奈美自身始めて付き合う男性に対し、まったく打算はなかった。見てくれさえよければ、経済力なんてほとんど気にならなかった。その日その場が楽しければそれでよかった。それはたんに未熟だったため、世間を知らなかったからなのだろうが、まさか初めて付き合った相手と結婚するとは、自分自身思ってもみなかった。
真奈美に限らず大学の同窓生は皆比較的婚期が早い。ほとんどがお見合いで、医師や御曹司、一流企業に勤務する経済的に恵まれた者と一緒になっていた。自宅が皆名古屋市内にあったため、ランチやティーに誘われると断れなかった。
皆旦那に買ってもらったブランドものの服とアクセサリーを身につけ、高級外車で乗り付けてくる。その時真奈美はとても惨めな思いを味わった。嘗ては友達より大きな家に住み、いい服を着ていた。それが今はごく庶民的な賃貸マンションに住み、国産の大衆車に乗っている。服はほとんど通販で済ませていた。それは真奈美にとって堪え難いことだった。
真奈美は待ち合わせ場所の最寄り駅まで地下鉄で行き、そこからわざわざタクシーに乗り換え店に乗り付けた。彼女たちは自分自身が富裕層と認識しているため、ランチやティーの店はそれなりに格式張った店だった。彼女たちに誘われても断ればよかったのだが、誘われるとどうしても足が向いてしまう。それは現実の生活がつまらないこともあるが、彼女たちと会っていると、自分も富裕層の一員だという錯覚に酔いしれることができた。
しかし彼女たちと話していても、いっそう惨めな思いが募るだけで、そこから這い出す手立てはまったく見出せなかった。子供ができるとそれもできなくなり、いらいらはますます増幅されていった。
そんな最中啓輔が長野で義母と暮らさないかと、寝ぼけたことを口にした。これはこの男と別れるチャンスかもしれないと思った。この期を逃したら自分はいつまで経っても、このうだつの上がらない男と寝食を共にしなければならない。それを想像すると背筋が寒くなった。
真奈美が思い切って別れ話を切り出すと、啓輔は意外にあっさりと承諾してくれた。自分で望んでおきながら、これにはいささか拍子抜けした。もう少し自分に未練を残してくれていると思っていたため、啓輔のその態度は真奈美のプライドを痛く傷つけた。
バイト先で知り合った時あれほど好きだった男が、別れ際には一緒の空気を吸っているだけで鳥肌がたつ。なぜ自分はそのように変わってしまったのか、自分でも正直分からなかった。
実家に帰り両親と世間話をしていると、父が「何であんなつまらない男」と言っているのを耳にしているうちに、啓輔が本当につまらない男に思えてきた。両親は最後まで、娘の夫を名前で呼ばなかった。
離婚話を打ち明けると「何でもっと早く決断しなかった。あの男がお前と釣り合うはずがないだろう」と言われる始末である。榊原の家にとって啓輔は、ウイルス以外の何ものでもなかった。
現在の夫、桜原和人と父はよく経済の話をしているが、自宅で少し酒を飲みすぎた時、ふと愚痴を漏らしたことがある。本人はおそらく意識していなかったであろうし、自分がそんなことを口走ってしまったことは、覚えていないのではないだろうか。その時和人は「お前の親父本当に疲れるな」と口にした。
和人は銀行に勤務しているからなのか、人当たりはソフトで、経済の知識も豊富だった。傍目から見ていると、父とはとても気が合っているように感じた。
父は自動車以外のことは、詳しくなかったし、和人と比べると情報量が明らかに少なかった。もともと技術屋だったため、経済の知識は低かった。一方和人は職業柄、グローバルな視点で世の中を見ることができた。決定的に違ったのは、学歴だった。父が出た大学は地元では名の知れた大学だったが、和人が卒業した大学は東京の有名大学だった。
いつも楽しそうに父と話しているのを見て、和人自身も楽しいのだと思っていたのだが、実は和人は父のことを見下していたのだ。父が啓輔を見下していたように、和人も父を見下していた。それを悟った時ショックだった。その時になって今の夫より、啓輔のほうがよかったのではないかと初めて感じた。少なくとも啓輔は他人を見下すようなことはけっしてしなかった。高校生のアルバイトにも懇切丁寧に仕事の段取りを教えていた。真奈美は当初啓輔の容姿に惹かれたからと思い込んでいたが、本当は啓輔の人柄に惹かれていたのだ。人にとって大切なものは何か、最近ようやく分かってきたような気がする。
和人は職業柄人当たりがよく、父からも啓輔の時とは違い名前で呼んでもらえた。銀行員というだけで、父は一目おいていたのである。時折孫の顔を見せるため実家に立ち寄ると、父は和人が一緒でないと非常に残念がった。
啓輔は自分が榊原の人間に歓迎されていないことを感じていたのか、真奈美の実家にはほとんど顔を出さなかった。今の夫は自分が真奈美の両親に好かれていることを感じているのか、頻繁に両親の家に顔を出してくれる。和人自身も父を気に入ってくれていると思い込んでいた。しかし実のところ和人は父を見下していたのだ。
あの日、仕事上何かうまくいかないことがあったのか、普段家であまり酒を飲まない和人が、愚痴が出るほど酔っていた。元来外で酒に酔って千鳥足で帰宅することはなかったが、家には真奈美と子供しかいなかったため、気がゆるんだのだろう。ポロッと愚痴をこぼしたのだが、それは和人の本心に違いない。
今まで父と楽しそうに話していたのは、銀行に来る客同様たんに話を合わせているだけで、心から打ち解け語り合っていたわけではなかった。和人の真の姿が垣間見え、よりいっそう啓輔と別れたことを後悔した。
体裁を気にして再婚したのだが、あらためて自分が和人を、あるいは和人が真奈美を心から愛しているとは到底思えない。打算で結婚したよりも、女の本能に従って相手を選んだほうが、よかったのではないかと思えた時、真奈美は自分の中にある価値観が、しだいに崩れていくのを感じずにはいられなかった。
亜美
桜原亜美にとって父の存在は、普通の娘が親に抱く感情とは、だいぶ掛け離れていた。その原因の一つに継父ということがあるのだが、理由はそれだけではなかった。継父の桜原和人は人の温かみの薄い人物だった。
和人と母の間には弟の博人が生まれたが、その実子にも世間一般の父親のように、愛情を注ぎ込んでいるようには見えなかった。私が物心ついた時和人は、すでに父親だったが、和人に抱擁してもらった記憶もなければ、一緒に風呂に入った記憶もない。
小学校になってある程度、物事をはっきり見極めることができるようになってから、実の娘でないから和人は私をかわいがってくれないのかと思っていたが、弟の博人を見ているとそうでないことを悟った。弟も亜美同様、抱擁してもらったこともなければ、キャッチボールすらしてもらったことがない。何より家族で一緒に過ごす時間が少なかった。和人は家にいる時は書斎で本を読んでいるか、パソコンに向かっていた。
自分の父親が普通と少し違っていると気づいたのは、小学校三年生のころ、同級生の女の子に誕生会へ呼ばれた時だった。友達はマンション住まいで、小学校一年生の弟がいた。誕生会はダイニングで行われたが、リビングはダイニングと隣接していた。亜美たちがケーキを食べている食卓のすぐ横で、友達の父親と弟が、仮面ライダーごっこのようなことでふざけあっていた。父親は時折床に寝て、弟はソファーから飛び降り「どうだ参ったか」と言うと父親は「う~参りました」といかにも苦しそうに答えた。
亜美はそれを呆然と眺めていた。幼いながらに、こちらの家族のほうが普通なのだと感じた。和人は父親としての資質が欠如していた。子供でも近寄りがたい、バリヤーのようなものを張り巡らしている。その時は何でうちの父親は、子供と遊んでくれないのだろうと思わず、きっと子供自体があまり好きではないのだと考えた。子供らしくない子供がいるように、父親らしくない父親がいても別に不思議ではない。
亜美は中学校に入ると、家庭教師をつけてもらった。家庭教師は国立大学の三回生で、非常に綺麗な女性だった。彼女は「あなたのお父さんって銀行員なの?」と訊いてきた。別に隠し立てすることもなかったため、「そうです」と素直に答えた。
彼女は「私、大学を卒業したら、銀行員になりたいの」と打ち明けた。彼女が語るには「日本経済はますますグローバル化し、アメリカに肩を並べるまでになる。銀行に入行したら、海外支店に勤務し、バリバリ仕事をしたい」と語った。この人ならきっと希望が叶うだろう。その時なぜか亜美も将来銀行員になりたいと思った。
父がどうしてあのような非人間的なのか、自分が同じ仕事に就けば分かるかもしれないと考えた。亜美は和人があまりにも冷たかったため、実の父はどんな人だったのか、いろいろ想像した。少なくとも和人よりは、人間的ではないだろうか。母に訊くわけにもいかず、実父に会いたいという気持ちはしだいに強くなっていった。
亜美は人見啓輔が実の父であることはすでに知っていた。和人が実父でないことは、幼いころから漠然と分かっていた。高校二年生の時、アメリカへ語学留学するため、戸籍を取り寄せた折、実の父が人見啓輔であることを知った。名前が少し特徴あったため、テレビの報道などで人見啓輔の名前が出た時、もしかして実父ではないかと思えた。自分なりにインターネットで調べてみると、それは実父に間違いなかった。驚くことに自分によく似た妹までいた。週刊誌には恋人が、実は犯人だったと書かれていた。週刊誌がどこまで真実を語っていたかは定かでないものの、これがもし事実ならこんな哀しいことはないのではないか。そのことを知った時、妹はどんな気持ちだったのだろう。それを思うと胸が痛んだ。
妹にとって血の繋がった肉親は伯母が一人いるだけで、その他は私以外いないのではないかと思われる。今までどれほど辛い人生を歩んできたのか。
私は両親にあまり愛情を注いでもらえなかったが、経済的には何の苦労もすることがなかった。人見啓輔はどんな人だったのだろう。いろいろ考えると、妹に会わなければという思いが、しだいに強くなっていった。
茜
1
茜がいる朝霞駐屯地に、相馬原から手紙が転送されてきた。何の変哲もない長方形の白封筒の裏には名古屋市北区大曽根・・・・・・桜原亜美と書かれていた。茜にとって始めて目にする名前だった。
茜は自分から転属願いを出したわけではないが、上層部の配慮で朝霞に転属になった。事件発覚後中隊長に呼ばれ、この後どうしたいのか訊かれた。
「私は帰る家もないし、このまま自衛隊にいさせてください」と哀願した。
上層部には辞めさせたほうがいいという意見もあったようだが、本人が残りたいと言っている以上、強制的に辞めさせるわけにもいかず、朝霞駐屯地に転属することとなった。朝霞は教育隊以来久しぶりの場所だった。相馬原でどこの部隊に行きたいかと訊かれ、職種は気にしなくていいと言ってくれたため、迷わず朝霞と答えた。女性も沢山いるし、教育隊がここだったため、安心感もあった。
茜は東部方面総監部付隊に配属された。詳しい仕事内容は分からなかったが、おそらく事務関係が主な仕事ではないだろうか。
いろいろな人が奇異な目で茜を見たが、それは時間が解決してくれると信じるしかない。精神的にはかなりきつかったが、それでも何とか乗り切れるような気がした。
営内班のベッドに座りながら封筒を開けると、女性らしい綺麗な字で次のことが書かれていた。
(茜さん、突然のお手紙を御許しください。私が誰だかわかりますか?桜原亜美といい、あなたの実の姉です。今回いろいろな報道を目にし、あなたの存在を知りました。私の実父であり、あなたの父でもある人見啓輔は母と離婚する前、名古屋で暮らしていたのですが、どうも私の祖父と折り合いが悪かったようです。祖父は私の目から見ても、一流大学を出て、一流企業に勤めている者しか、認めないというところがあります。ですから父はそれが耐えられなかったのではないでしょうか。
私の母も当然そのような祖父のもとで育てられたため、いまだに人を経済力でしか判断できないところがあります。母が人見啓輔と別れ、今の夫、私の継父と再婚したのは、悪く言えば体裁のためではないでしょうか。
私は人見啓輔という人が、どのような人物かまったく知りませんが、今の継父を見ている限り、人としてはとても優しい、人間味のある人物に思えてなりません。
あなたに御会いして父の本当の姿を教えてほしいのです。そして何よりも血を分けた妹に会いたいのです。
あなたの今まで歩んできた辛い道程を、ぜひ私に訊かせてください。
私はあなたの姉です。それはこれからも変わることはないでしょう。ぜひ返事を訊かせてください。お待ちしております)
本文の後に携帯の電話番号とメールアドレスが記載されており、手紙を出すのであれば会社のほうへと添え書きがしてあった。自宅だと母に開けられる可能性があるということだ。
茜は最初、これはいたずらではないかと危惧した。しかし何も知らないはずの茜でも、ところどころで辻褄が合う。こんな手の込んだいたずらをして、何の意味があるのだろうと考え直した。その時父が隠し持っていた赤ん坊の写真が頭を掠めた。
何もかもすべて悪いほうへ転がり、諦めかけていた。私は存在自体が、神から許されていないが如く、周りの人が次々と私から離れていく。それはすべて私が大切だと思ってきた人たちだ。
この人がかりに私の本当の姉だとして、心を許したとたん、この人も私から離れていくのではないか。そんな疑念さえ抱くようになっていた。それでも、どうしても会ってみたいという欲求が抑えられない。
茜のどこかに姉を探し出したいという気持ちは確かにあった。しかしどうやって探せばいいのか見当がつかなかった。それが今回の事件報道で、姉は茜の存在を知ったのだろう。
今まですべて悪いほうへ悪いほうへと風は吹いているように思えた。それでも今度だけは何か違うような気がする。それがどうしてかは分からない。でも私自身姉に会いたいという欲求を、抑えることがどうしてもできなかった。
手紙を読み終えた後、父が亡くなってからのことを振り返ってみた。たった一人の伯母にでさえ、心を開くことができなかった。それが、父の死があまりに突然だったため、私は私の中にある扉を自らの手で閉ざしてしまったのだ。おそらく今なら伯母とうまくやっていけるような気がする。世の中に伯母ほど私を思ってくれた人はいないのだから。
あの時私は幼かったのだ。あれから恋愛も経験し、私は私なりに成長した。世の中は邪悪に満ちている。そんな中で、伯母の存在はオアシスに近いものだった。それがここにきて、伯母以外の肉親がいることが分かり、私に会いたいと言っている。
私は迷いもあったが、手紙を読み終え一時間もしないうちに、姉の携帯番号を押していた。
2
姉の亜美とは新宿のホテル、ロビーで会うことになった。手紙を受け取ってから、五日後の日曜日、今日姉と会う約束をした。電話では言葉がつまってしまい、こちらの考えをうまく伝えることができなかった。いろいろなことを話そうとしたが、言葉が出てこなかった。
何とか日時と約束場所を決め、今日にこぎつけた。ホテルの広いロビーでどうやって姉を探し出せばいいのか、見当もつかなかったが、姉はこちらがあなたを探すと言った。茜はグリーンのトレーナーにGパンという出で立ちで、待ち合わせ場所に10分ほど早く到着すると姉はすでにそこに来ていた。薄いベージュのスーツを着ており、姉のほうから茜に声を掛けてきた。姉は茜より長身で顔もそっくりだった。姉の顔は知らなかったが、姉はネットか何かで調べたのか、茜の顔を知っていた。
姉は当然年上であるが、茜の中では父の手帳に挟んであった、赤ん坊の写真のままだった。それでも目の前にいる女性は姉に間違いない。
「茜ちゃん?」
姉と思しき女性は、私をまっすぐ見据え声を掛けてきた。
「はい・・・・・・」
私はそれ以上言葉を発することができなかった。父が亡くなってから人前ではけっして涙を見せたことがなかった茜の瞳から止め処なく涙があふれ出た。何百年と活動を停止していた火山が、突然噴火したように涙が止まらなかった。
悲しかったから泣いたのではない。嬉しかったのだ。今まで生きてきて、こんなに嬉しかったことがあっただろうか。
姉は足を一歩前に踏み出すと、いきなり茜を抱きしめた。
「いいのよ、茜ちゃん。思い切り泣いて。今まで本当に辛かったわね」
茜も自分より少し高い姉の背中に手を回し、人目があるにもかかわらず号泣した。ホテルのロビーにいた人々が何事かと、二人の女性を奇異な目でみていたが、そんなことは少しも気にならなかった。
気持ちが落ち着いてくると、姉から離れた。姉はグッチのハンドバックから、花柄のハンカチを取り出し茜に差し出した。
「茜ちゃん。涙を拭いて」
「すみません」
茜自身もポシェットにハンカチを入れていたが、素直に差し出されたハンカチを受け取り、涙を拭いた。姉を見ると姉の目にも涙がうっすらと滲んでいた。
姉は私より身長も高く、綺麗だった。他人から見れば二人はそっくりなのだろうが、それでも姉と茜は少しずつ違っていた。何よりも私と違って、育ちのよさが顔に表れていた。私と違い姉は恵まれた環境で育ったのだろう。
「部屋をとって、そこでゆっくりお話ししましょう」
茜はロビーにある喫茶店で、話しをしようと考えていたので少しばかり困惑した。
「ちょっとフロントで部屋をとってくるわね」
そのように言い残すと、すたすたとフロントへ歩いていった。五分も経たないうちにカードキーを持って茜のもとへ戻ってきた。
「十五階二十五号室に行きましょう」
カードキーを茜に見せ、身体をエレベーターのほうへ向けた。
ホテルの部屋はツインでシングルベッドが二つ並び、窓際には小さなテーブルを挟んで、角ばった布張りのソファーが二つ置かれていた。カーテンは開けられ、窓からは新宿の高層ビル群を眺望することができた。
目の前にいるのは確かに姉なのだろうが、まだ実感が湧いてこない。
「茜ちゃん、こっちに来て椅子に座って」
茜はその時入り口側のベッドの前に立っていた。姉はソファーの横に行き茜を招いた。二人はゆっくりとソファーに腰を下ろした。座り心地は悪くなかったが、何か落ち着かなかった。
「何か飲もうかしら」
姉は立ち上がると、ベッド横にあるミニ冷蔵庫まで行き扉を開けた。
「ビール、ウイスキー、コーラにウーロン茶があるけど、茜ちゃんは何を飲む」と姉は訊いてきた。
「ウーロン茶ください」茜が答えると「ねえ、せっかくだからビール飲まない。茜ちゃん飲めるんでしょ」と姉は言い、こちらが返事をしていないにもかかわらず、350ミリリットルの缶ビールを二本持ってきて、再び茜の向かいに腰掛けた。
父もビールが好きだった。そして茜も自衛隊に入り、飲ませてもらったのは、ビールと酎ハイだった。好きとはいわないまでも、日にちの経過とともに、それなりに飲めるようになっていた。
「コップはいいわね」
姉は缶ビールを茜に差し出すと、自分の缶のプルタブを勢いよく開けた。姉の一方的な行動に戸惑いながらも、仕方なく茜も缶のプルタブを開けた。「ねえ、二人の出会いに乾杯しましょう」と姉は缶ビールを茜の前に差し出した。
「乾杯」と姉が言うと、姉は一気に缶ビールを喉に流し込んだ。
「あ~おいしい」
茜も姉に倣ってビールを半分以上、喉に流し込んだ。美味しかった。ビールは嫌いではなかったが、今日ほど美味しいと感じたことはない。
今茜は冷えた身体が温泉に浸かり、次第に芯から温まっていくような、心地好い感覚を味わっている。光村と付き合いだした時もこのような感覚になったが、その時はほんの僅か不安が混じっていた。しかし今は何の不安もない。目の前のこの女性に、心から信頼をおいている自分が不思議でもあった。
「お酒、いけるくちみたいね」
「ビールだけです。自衛隊ではことあるごとにお酒を飲むんです。だから父は飲酒運転の車にひき逃げされたんですが・・・・・・」
「お父さんはあの日、職場の飲み会だったの?」
「はい。父もお酒が好きでした。私がこうしてビールが飲めるのも、父の遺伝かもしれません」
「それなら私もきっとその遺伝子を引き継いでいるのね。お父さんはどんな人だったの?父と別れた時、私はあまりにも幼かったため、父の記憶が全然ないの」
今まで穏やかだった姉の表情が、一瞬険しくなったように感じた。何らかの理由で前妻と別れ、姉を残し家を出なければならなかったことは、父にとっても辛いことだったに違いない。一時も別れた娘のことを忘れたことはなかったはずである。これはあくまで茜の推測に過ぎないが、きっと父はそのような人間だったに違いないと思えた。
「父は絵に描いたように、真面目で優しい人でした。私のことを大切に思ってくれていたのは勿論ですが、あなたのことも大切に思っていたはずです。父の手帳の間には、あなたが赤ん坊の時の写真が大切に仕舞ってありました。父は私を透してあなたを見ていたのかもしれません。どのような経緯であなたのお母さんと別れたのかは知れませんが、あなたのことを大切に思っていたのではないでしょうか」
茜のその言葉を訊き、姉の瞳は完全に濡れていた。
「手紙にも少し書きましたように、私の祖父は学歴や経済力でしか人を判断しないところがあります。私は銀行員になったのですが、別に祖父の目を気にしたからではありません。父が銀行員だったということもありますが、人を観察する上でこれほど人と関わりを持つ仕事はないように思えたからです。私の継父は子供に対しとても冷たい人でした。私はともかく、実の息子である弟でさえ、父に遊んでもらったことがなかったくらいです。
母が継父と再婚したのは、社会的体裁を気にしたからではないでしょうか。母も祖父の影響を多分に受けたのでしよう。やはり人を判断する基準は、学歴や職業だったのです。母がどのような経緯で、あなたのお父さんと知り合って結婚したのか、私の知るところではありませんが、それがあっという間に破綻し、それぞれが新しい家庭を築くまで、それほど時間は掛からなかったはずです。
茜ちゃんもいろいろ苦労したみたいですね。私は経済的には何の苦労もしなかったのですが、父の影響で他人と心から打ち解け、話すことができなくなっていました。男の人を受け入れられないのです。ですからこの歳になっても、男性とお付き合いしたことがないのです」
姉はそのように言うと、さびしそうな眼差しを茜に向けた。その目は父にどことなく似ていた。
「人の本質というものが分からないのです。継父があまりにも非人間的だったため、男の人と付き合うのが怖いのです。世の中がすべて継父のような人間でないことは分かるのですが、もし自分が付き合った男性が継父のような人だったらと考えると、どうしても二の足を踏んでしまうのです。ですから銀行員になって、人間というものがどういうものか、見極めようと考えたのですが、そんな簡単に人の本質は見えないのだということが、この仕事に就いてより強く感じるようになりました」
茜はその姉の言葉を訊いて、自分も他人とうまくコミュニケーションがとれなかったが、少なくとも姉のような気持ちにはならなかった。その意味においては、この人も辛い人生を送ってきたのかもしれないと素直に感じた。
姉の継父がどのような人なのか想像もつかないが、啓輔を見ている限り男が信用できないと感じることはなかった。
茜は内面に重たいものを抱えていた父のような男性に惹かれ、普通では経験できない嫌な思いを味わった。それはまるで運命の糸にでも引き寄せられるように、光村のもとへ引き寄せられていった。私が光村に惹かれず、私の父のことを告白しなければ。私自身は傷つかずにすんだ。
事件自体は光村が警察に通報しなくても、結果として発覚することになるのだが、なぜ神様は茜を渦中に招き入れたのだろうか。
ネットでは現代の奇跡のように取り上げられ、面白おかしく、あることないこと書き込まれている。
「父に私以外の子供がいるのを知ったのは、伯母の家に引き取られていくため、父の遺品を整理している時でした。先ほども言いましたように、父の手帳の間にあなたの写真が挟んでありました。私はその写真の人に会いたいとずっと思っていました。しかし自分でその人を探し出すことは不可能に思えました。興信所とか使えばおそらく見つけられたかもしれませんが、そこまでする行動力は私にはなかったのです。
私は今度の事件で失うものも大きかったのですが、こうしてあなたに出会えたことは良かったと思っています」
「茜ちゃん」
茜と姉はしばし見詰め合っていた。
私の根底には姉に会いたいという気持ちは常に既存していた。しかしどうやって姉を探し出すのか、人生経験の浅い茜には、まったく見当がつかなかった。私は何も悪いことをしたわけではないが、地獄に落ちたカンダタが、お釈迦様のたらしたくもの糸でたすかろうとしたように、目の前のそれにすがるしかなかった。どん底にいた私は姉の出現により、救われたような気がする。
手の中には缶ビールがあったが、胸がいっぱいで、それ以上ビールを飲もうという気にはなれなかった。
「お姉さん」
その時初めて茜は目の前の女性をお姉さんと呼んだ。
「茜ちゃん。私は今回の一件であなたの存在を知ったのですが、あなたがこれまで大変苦労されたことは想像がつきます。しかし実際にどのようなことがあったのかは、詳しくは知りません。週刊誌には恋人が犯人だったと書かれていましたが、もしそれが本当なら世の中に、こんな辛いことはないのではないでしょうか?」
事件の矢面に立たされ、周りの者たちは皆、気の毒にと言いながらも、自分が知りたい情報を茜から引き出すことに必死だった。その中に心から茜を気遣ってくれる者は一人としていない。いや唯一半田の伯母が「茜ちゃん、帰ってらっしゃい」と心のこもった手紙をくれたが、他の者たちは皆興味本位で茜に近づいてきた。それが今回初めて目の前にいる女性が、私のことを本心から心配してくれている。そう茜には感じ取れた。
「週刊誌も、ネットも、私のことが書かれているものは、極力目にしないようにしていたのですが、恋人が父をひき殺した犯人ということに関しては違っています」
茜は父がひき逃げされ、その犯人が逮捕されるまでの経緯を姉に詳しく話した。まるでエッシャーの絵のように、現実には起こりえないことのようだと姉は言った。
「こんなことを言って気を悪くなさらないで。その彼もある意味ではかわいそうな人ですね。本当は彼にも責任はあるものの、心のどこかで、許してもかまわないのではないかという気持ちがあるのではないかしら。しかしそれを許してしまえば、自分が今まで歩んできたものが、すべて否定されてしまうことにもなりかねない。何よりも父に対し済まないと思っているのではないでしょうか。これは今あなたの話を訊いて素直に感じたことです」
自分の裸を覗かれているようで、気恥ずかしかった。姉の言っていることは、半分は当たっているが、半分は違っている。
「お姉さんの言っていることは、当たっているところもありますが、本筋では違っています。彼を愛したことは紛れもない事実ですし、こんなことがなければ結婚してもいいとさえ考えていました。
彼は私に告白してくれましたが、それは彼にとっても、苦渋の選択だったのではないでしょうか。しかし私は彼から告白された時点で、すっぱりと彼に対する愛情は立ち消えたのです。それは理屈では説明できません。お姉さんが言うように私から見て、けっして彼はかわいそうだとは思えないのです。彼自身にも責任があります。
確かにあの車に乗ったこと事態が、彼にとって不幸なことだったことは間違いありません。また自衛隊の社会は、他の社会と違って上の命令は絶対です。だからといって、私の父を撥ねたところを現認しておきながら、口を噤んでいたことは、絶対に許すことはできないのです。この気持ちは当事者でなければ理解できないかもしれません。
そして何よりそんな人間を、知らなかったとはいえ、好きになってしまった私自身が許せないのです」
「茜ちゃん・・・・・・」
何か感じることがあったのだろうか、言葉が続かなかった。
「お姉さん。今回私は恋愛に失敗しましたが、それは結果論であって、その時その時は、それなりに幸せを感じていました。だからもう恋愛はこりごりだなんて、けっして思いません。いい人がいればまたお付き合いしたいと考えています。
私は何度踏み潰されようと、また生えてくる雑草のように、人生けっしてあきらめたりはしません」
それは自分自身に言い聞かせているようでもあった。
確かに昨日までの茜は、そんなに物事を前向きに捉えることはとてもできなかった。まだ二十年ちょっとしか生きていないにもかかわらず、あまりにもいろいろなことを経験しすぎた。
世の中には病気で亡くなっていく人や、私より不幸な人は沢山いるはずである。幸いといってはなんだが、私の不幸はすべて時間が解決してくれるような気がする。
「私は今日茜ちゃんに会っただけで、目の前にあった霞が綺麗に取り除かれたような、目から鱗が落ちたようなそんな気がするの。あなたに会ってまだほんの少ししか時間が経過していない。それなのにあなたから発せられるオーラは、萎れたひまわりが、太陽の日差しを浴び元気を取り戻すように、私の中にある何かが変わった。
あなたは本当に強いのね。あなたに比べれば私の悩みなんて、どうでもいいことのように思えてきちゃう。私が今まで男の人を受け入れられなかったのは、きっと自分自身が傷つくのが怖かったのね。茜ちゃんあなたを見ていると、傷つくことを懼れちゃいけないんだとつくづく思うわ」
その時一瞬この人も父や光村同様、心に何か闇を抱えているような気がした。最初に会った時、父に目が似ていたからとも思ったが、やはり姉にも私に言えない悩みがあるように思えてならない。それはいくら姉妹とはいえ、初めて会った者に心の陰部をさらけ出すわけにいかないのだろう。しかしそれすらも、時間が解決してくれるのではないかと思えてならない。だから茜はそのことをあえて、姉から聞きだそうとはしなかった。機会がくれば姉のほうから話してくれるはずである。
「お姉さん、私が前向きになれたのは、お姉さんの存在を知ったからなのです。それまでの私は暗い砂漠を彷徨い歩いているようでした。生きていることさえ、億劫に思えることさえあったのです。だからといって自ら命を絶つ勇気もないし、時間の波に流され生きる目的を見失っていました。お姉さん、あなたがいたから、このように前向きになれたのです」
初めて会った人なのに、自分の内面をさらけ出しても、少しも恥ずかしくなかった。
「茜ちゃん・・・・・・」
再び姉の目は涙で潤んでいた。その後姉とはいろいろなことを話した。二十年の歳月を急いで埋めるように。まだまだ姉には訊いてほしいことが沢山あった。
気がつくとすでに窓の外は暗くなり、新宿副都心の灯りがとても綺麗だった。血を分けた姉妹、たったそれだけのことが、茜には凄くうれしかった。
亜美
妹とはいろいろなことを語り合ったが、どうしても言えないことが一つだけあった。一瞬妹に私の根底にある闇の部分を、さらけ出してしまおうと考えたが、寸前のところで踏み止まった。
父と母はともに私たち姉弟に無関心だった。私も弟も両親に催促されなくとも、学校の成績はそれなりに良かった。親にとって子供の成績が悪いことだけは、容認できないことを私も弟も肌で感じていたし、父は周りの者が皆「へ~すごい」というような大学を出ていたため、私たち姉弟にある種のプレッシャーをあたえていたのは間違いない。
これで子供たちの、学校での成績が悪ければ、父も母も何かしら子供たちに働きかけたのだろうが、幸い私たちは親の手を煩わすことはなかった。
弟は私以上にさめた性格で、父が学生時代はこのような人物だったのではないかと思えるほど、外に向ける眼差しが冷ややかに映った。私はまだ恋愛を経験したことがなかったが、弟みたいな性格の男性は、自分にとってもっとも受け入れにくい存在だったのではないだろうか。
私は妹に父の存在が、男性との関係の妨げになっていると告白したが、現実はまったく違っていた。私にとって父親がどのような人物であれ、それはけっして異性と付き合う上での、妨げにならないはずである。原因はまったく違うところにあった。
亜美は高校生の夏休み、一ヶ月ほどアメリカへ語学留学したことがある。ホームステイ先はテキサス州ダラスの近郊で、御主人のマイクは、アメリカではかなり名の知れた軍事産業に携わる人物だった。
家族構成は亜美の家と一緒で、夫人のキャサリンと娘と息子が一人ずついた。娘はメアリーといい亜美より歳が一つ上だった。弟のトムは亜美の弟よりさらに幼かった。夫人はすらりと背が高く、とても綺麗な人だった。一方マイクは、身長は高かったが、かなり体格がよく、ビア樽のような体型をしていた。アメリカ映画に出てくる、ドラックストアの主人という雰囲気だった。
家の敷地は、日本にある住宅とは比べものにならないほど広く、亜美が与えられたゲストルームは、亜美が住んでいるマンションのリビングより広かった。大きなガレージには大型SUVとワゴンが停めてあり、もう一台余裕で置けそうなくらい、広いガレージだった。庭には芝生が敷き詰められ、パターゴルフができるほどの広さを有していた。亜美の頭の中にある裕福なアメリカの家そのものだった。休日にはキャンプへも連れて行ってくれた。そこで行ったバーベキューは、これがアメリカだという実感が湧いてくるほど、ボリュームがあった。すべてにおいて日本とはスケールが違っていた。
一ヶ月があっという間に過ぎていくように思われた。あのことがなければ、それは楽しいだけのホームステイで終わるはずだった。
ホームステイも残すところあと三日となった時、キャサリンと子供たちは、祖父の家に用があると言い出掛けて行った。夕方には戻るということだったので、亜美は一人で家に残った。マイクはその日午前中だけ仕事に行き、亜美が昼食をとっている最中突然会社から帰宅した。昼食を済ませてきたと言い、居間で雑誌を読みながらくつろいでいた。亜美は食事を片付け終えると、自分に与えられた部屋がある二階に上がった。部屋で机に向かいレポートを書いていた。しばらくしてドアをノックする音がしたため、「どうぞ」と言い招き入れた。
マイクは汗っかきだったため、いつも家に居る時はホットパンツにTシャツという、ラフな格好で寛いでいる。マイクは部屋に入ると亜美の背後に回り込み、椅子に座っている亜美をいきなり抱え上げた。咄嗟のマイクの行動に、どう対応していいか分からず、一瞬声を出すことも、暴れることもできなかった。マイクは亜美を羽毛布団でも運ぶように、軽々と持ち上げベッドへ運んだ。
「マイク何をするの?」と小さな声で尋ねたが、マイクは何も答えなかった。その時まだこの後マイクが何をするのか、まったく想像がつかなかった。きっとふざけているのだと解釈した。
ベッドへ亜美を乱暴に落とした時、マイクが何をしたいのか初めて気がついた。マイクは亜美を見て微笑んだ。それは狩に出て獲物を見つけた時の目のようだった。
「マイクやめて」と初めて叫んだ。
マイクは亜美に馬乗りになり両手が使えないように、膝で押さえつけると、亜美の着ていたピンク色のTシャツを、首の部分から引き千切った。白いブラジャーが露になり、マイクはそれも引き千切った。白い小さな乳房が露になった。マイクは上体を亜美に被せ、亜美の穿いていたホットパンツとパンティーを剥ぎ取った。
亜美はこれまで異性と付き合ったことがなかったため、当然男性を知らなかった。マイクが身体をゆするたびに、ベッドのスプリングが大きく沈んだ。
「お願い、やめて」と日本語で叫んだ。
「ジャプめ」とマイクは亜美の耳元でささやいた。亜美がお世話になる前も、何人かの日本人留学生が、この家にホームステイしていたはずである。親日的な子棒悩な人だと思っていた。しかしこの主人にとって、日本人は下等な人種でしかなかったのかもしれない。マイクの言葉と表情には敵意さえ感じとれた。
亜美は抵抗を試みたが、体格のいいマイクの前では、トラに睨まれたネズミも同然だった。日本人とは明らかに違う体臭と、体毛の濃さに心の傷はいっそう深くなった。昨日までのあの楽しい日々はいったいなんだったのだろうか。悪魔に捧げる生け贄のように、それまではとても大切に扱われ、悪魔が現れるとあっという間に連れ去られてしまう。そんな状況だった。まったく男性経験のない亜美にとって、それは痛くて悲しいことでしかなかった。
行為が終わるとマイクは、亜美をそのままにして何も言わずに部屋を出て行った。夕方になりキャサリンと子供たちが帰宅した。キャサリンは亜美の様子がいつもと違うことに気がついたはずなのに、何も口に出さなかった。もしかしたらメアリーも気づいたかもしれない。それでも子供たちには知られたくなかった。自分の父親が鬼畜みたいな人間だと知ったなら、子供たちはどう思うだろう。亜美はメアリーもトムも好きだったため、彼等たちに辛い思いはさせたくなかった。
もしかしたら以前にもこのようなことがあったのかもしれない。キャサリンはすべて承知していて、子供たちを連れ祖父の家に避難していたのではないか。そんな懐疑的なことまで考えるようになっていた。それでも帰国の前日には、盛大なパーティーを催してくれた。マイクはまるで何もなかったように亜美に接した。
帰国の飛行機では何も喉を通らなかった。こんなことならアメリカ留学なんて、するのじゃなかったと悔やまれて仕方ない。
家に帰っても両親に打ち明けることができなかった。思い返してみると何であの時、両親に相談しなかったのだろう。父はともかく母親であれば、私の話を親身になって訊いてくれたかもしれないのに。それはきっと母を心から信頼していなかったからではないだろうか。心底母親に頼ることができなかった。
それでも周りの者には気丈に振舞っていたので、亜美の受けた心の傷は、誰にも知られることはなかったのである。
茜
光村は警察に勾留されたものの、すぐに不起訴処分となり釈放された。辛くも事件のことを通報したことが、結果として光村自身を助けることになった。光村から告白された時、彼を罵倒し怒りをぶつけたが、考えてみれば光村も気の毒な運命を歩んできたのかもしれない。たとえば光村が自分の恋人でなければ、事件の車に乗り合わせた不運な人と遣り過ごせただろう。あの状況で新隊員が警察に通報することは、よほど信念を持った者でない限り無理なことは、茜自身も自衛官であるためよく理解していた。
茜にとって光村はジョーカーのカードのようなものだった。持っていれば自分を救ってくれる切り札にもなれば、逆に持ち続ければ命取りにもなりかねない。危険な存在だった。
何で神様はあのようないたずらをなさったのか。最初光村は何か心に闇を抱えているように感じた。彼の抱えている闇を覗いてみたかったが、それは茜自身までも飲み込んでしまうほど、とてつもなく深いものだった。
同級生から弁当のおかずを馬鹿にされ、父に対し怒りをぶつけた時のように、光村に怒りをぶつけたのは筋違いかもしれないと思い始めていた。
私が父のことを打ち明けた後、一ヶ月もの間光村は一切茜には手を触れなかった。しかしその間デートしなかったわけではないため、まさか光村がそのことでずっと悩んでいるとは夢にも思わなかった。仮に光村を許し、また以前のような恋人同士になる。それはたとえこの世の終わりが来ようともありえないことだろう。
光村にとってもそれは同じことだと思われる。裏を返せば父がひき逃げされたことを聞かされ、平然と私を抱くような男であれば、私は彼を好きになったりしなかった。そしてそのように無慈悲な男であれば、あのようなことを告白するわけもなく、適当に遊んで私のもとから離れていったのではないだろうか。その意味において光村はまともだったかもしれない。
本来一番憎いはずの原口にさえ、光村に対する憎しみよりも、浅かったのではないかと思えるほどである。一番の元凶である由良に対しては、当然の如く憎しみは存在していたはずが、なぜか子供のころ思い描いていた、まだ見ぬ犯人に対する憎しみとは違っているような気がしてならない。
父がひき逃げされた直後は、犯人を見つけ出すただそれだけのことが、自分の生きる糧だと思い込んでいた。しかし高校を卒業するころには、どうでもいいことのように思えるほど、気持ちに変化が生じていた。それでも自分の根底には、たえずひき逃げした犯人に対する憎悪が燻っている。
あのまま犯人が見つからず、時効にでもなっていれば私の気持ちはどうなっていたのか。悔しさ無念さが残るのは間違いないが、それでも仕方がないと諦めたのではないだろうか。
私は何で自衛隊に入ろうと思ったのだろう。早く伯母の家から出るには、当時の茜にはこの方法しか思いつかなかった。いろいろな偶然が重なり、濁流に木っ端が流されるように、自分の意志とは関係なく、運命にもてあそばれたような気がしてならない。
今それらを振り返ると、もしかしたら父が私を運命の濁流に誘いこんだのではないか。あの一連の出来事がマスコミに取り上げられなければ、茜は姉に会うこともなかった。
私が世間から注目されるには、このような事件の当事者にでもならない限り、人前に名前が出ることはない。スポーツでずば抜けた才能があるわけでもなく、芸術に秀でた才能があるわけでもない。そのように考えると父が、私を姉に引き合わせてくれたと考えるのが、一番自然なことなのではないか。絡まった糸を一つ一つ解していくと、やがてそれは一本の糸になり、姉という掛け替えのない人に繋がっていた。
亜美
1
亜美は一ヶ月に一度のペースで妹の茜と会うようになっていた。すべて亜美の方から東京に出向いた。茜は自衛官という職業柄、拘束時間が一般の職業より厳しい。
恋人に会う日を待ちわびる乙女の心境に、似ていなくもなかった。茜と話をしているとなぜか落ち着く。それは肉親だからというよりも、むしろ彼女を心から信頼していたからに他ならない。たとえ血が繋がっていても、母や弟とは腹を割って本音で語り合えることはなかった。亜美にとって茜と会っている時だけが、素の自分をさらけ出すことができた。
茜は当初あまりにボーイッシュな服装だったため、御節介とは思いつつ原宿で茜に似合いそうな、女性らしい服装を見繕いプレゼントした。最初恐縮し、なかなか受け取ろうとしなかったが、「あなたより給料を多く貰っているんだから、私に姉らしいことをさせて」と言って譲らなかった。茜は申し訳なさそうに「お姉さん、ありがとう」と頭を下げた。次に会った時、その服を着てきたが、今までとは随分雰囲気が変わり、大人びて見えた。
最初は食事をしたり、渋谷や原宿をふらふらしたりしているだけだったが、そのうちお台場や、デズニーランドにも行くようになった。
東京には弟がいたが、弟に会おうとは思わなかった。同じ血の繋がった姉弟であるはずなのに、弟と苦楽をともに分かち合いたいとは考えなかった。あの家では個人個人が完全に孤立している。茜といる時だけ、素直な気持ちになれた。なによりも彼女といると楽しかった。
そんなことを繰り返しながら、何ヶ月か経ったころ、茜から「今度外泊許可を取ったので、私のほうが名古屋に行きたい」という申し出があった。大都会の東京に比べれば、何といって珍しいものはないように思えたが、茜が来たいという以上拒む理由はなかった。私はこの時、アメリカでのいやな思い出を、茜に告白しようと考えた。突然思いついたわけではなく、私が東京まで茜に会いに行った時、何度か茜に告白しようと試みたが、いざ妹を前にすると言葉が出てこない。
今まで肉親であっても決して、自分の中にある蟠りを解放しようと思ったことは、一度たりともなかったが、茜と接しているうちになぜか、自分の悩みを聞いてもらいという衝動に駆られた。いろいろ辛い思いをした茜なら、私の気持ちをきっと理解してくれるに違いない。
2
土曜日の昼過ぎ名古屋駅に、妹の茜を迎えに行った。亜美の家から地下鉄を使い、名古屋まで十五分ほどの距離である。
新幹線の改札口で待っていると、定刻どおり茜はボストンバックを下げ、改札口に現れた。コンコースは多少混んでいたものの、すぐに茜を見つけることができた。茜は亜美の姿を確認すると、ちょこんと頭を下げた。
亜美は茜に近づき「ねえ、お昼ご飯まだでしょう?」と伺った。
「はい」
「何か食べたいものある?」
「何でもいいです」
「じゃ、ラーメン食べようか」
亜美自身とくに何かを食べたいというものはなかったが、咄嗟に思いついたのはラーメンだった。
「はい」
二人は駅構内にあるラーメン屋に入った。昼時だったこともあり、店内はけっこう混んでいた。ほんの少し店の入り口で待たされたが、すぐに店員に案内され二人掛けのテーブルに腰掛けた。亜美は醤油ラーメンを、茜はとんこつラーメンを注文した。何の変哲もない普通のラーメンだったが、けっこう美味しかった。
「これから、どこへ行く?」
二人は向かい合い、亜美は茜がどこへ行きたいのか訊いた。
「お姉さん・・・・・・」
茜は一旦そこで言葉を切り「私、半田の伯母のところに行きたいんです」と言った。その時の茜の表情は、いつもより幾分顔が強張っているように見えたのは、私の気のせいだろうか。茜から伯母のことはいろいろと訊いていたため、なぜ今日伯母の家に行きたいのか理解はできた。心情的なことは別として、半田の伯母の家が茜の実家に他ならない。ただ茜は伯母に対して、素直に甘えられなかったという後ろめたさがあったようだ。一人で訪ねるには、少々敷居が高かったのかもしれない。
「いいわよ。電車で行くのもなんだから、レンターカーを借りるわね」
亜美の言葉に安心したのか、先ほど強張って見えた表情が、幾分おだやかになったような気がする。
家には父のアウディーがあったが、亜美自身は車を所有していなかった。実家は地下鉄の駅からさほど距離がないため、生活上車がなくても不自由は感じない。たまに父にことわりアウディーを借りドライブを楽しんだ。だから車を所有していなくともペーパードライバーのように、車の運転をまったくしないわけではなかった。
二人は駅前のレンターカー会社で国産の小型車を借りると、丸の内から名古屋高速に乗り常滑方面に車を走らせた。
「茜ちゃんは、自動車の免許はもう取ったの?」
車を運転しながら訊いた。亜美の頭では自衛隊に入隊するとすぐにでも、免許が取れるものと思っていた。
「いいえ、大型特殊の免許は取ったんですが、普通免許はまだ持っていないんです」
「大型特殊免許?」
亜美にはそれが何をする免許か皆目見当がつかなかった。
「ブルドーザーとかショベルカーを運転する免許です。戦車を操縦する時必要なんです」
「え、茜ちゃんて戦車運転できるの?」
茜が以前いた部隊が、戦車部隊だったことは、報道で知っていたが、実際に茜が戦車を運転するとは考えてもみなかった。自衛隊がどのような仕組みになっているか分からなかったが、女性隊員は支援部隊みたいな役わりだと思っていたため、茜が自ら戦車を運転すると訊いて、驚かずにはいられなかった。
「でも、今は部隊が変わっちゃったから、戦車に乗ることはもうないんです」
そう言った茜の声は少し寂しそうだった。あの事件の後も茜は、自衛隊を辞めず現在に至っている。事件後マスメディアでは、自衛隊の在り方についてまで言及し、番組のコメンテーターの中には、存在自体を危惧する者までいた。茜にとってもかなり辛かったであろうと想像がつく。
道路は多少混んでいたものの、一時間足らずで半田に着いた。亜美自身、半田は勿論知多半島に来たのも初めてだった。中学、高校とバスケットをやっていたため、大府市の体育館には何度か訪れたことはあったが、それ以上南下したのは今回が初めてだった。
父の車はウインカーが、左側についていたため、亜美は進路変更するたびに、ワイパーを動かしてしまう。
「父の車がアウディーだから、ウインカーが国産車と逆についているの。だから国産車に乗るとどうしても間違えちゃうの」と言い訳したものの、自動車の運転経験のない茜には理解できなかったであろう。
半田中央インターを降り、十分ほど走ると目的地である伯母の家に着いた。レンターカーのナビに登録した住所の予定到着時刻より、ほんの少し早く到着した。家の敷地はけっこう広かったが、家主の車が置いてある場所意外は、車を停めるスペースはなかった。仕方なく車を前の道路に停車させた。
「茜ちゃん、着いたわよ」亜美が声を掛けると、茜は真っ直ぐ前を見据えていた。思うことがあるのだろう。暫らく見守っていたが、茜は決意したのか車のドアを開けると車外へ出た。
その時いつ誰に言われたかは憶えていないが、半田の町は酢の匂いがすると聞いたことがあることを突然思い出した。しかし車外に出てもそのような匂いはしなかった。
モルタル二階建ての家は、どこにでもあるごく普通の家だった。建築当初は白いモルタルだったのだろうが、月日の経過とともに今は色がくすみ、砂埃が付着し古さを感じさせた。
茜は国産の大型セダンが停めてある横を通り抜け、玄関まで行き呼び鈴を押した。亜美も茜に続いて玄関に向かった。
「は~い。どちら様ですか?」とインターホンから女性の声がした。
「伯母さん、御無沙汰しています。茜です」
「茜ちゃんなの。今すぐ行くから・・・・・・」と返事の後すぐに玄関扉が開かれた。そこには品のいい中年の女性が立っていた。
「伯母さん、いろいろ心配かけて御免なさい」と言うといきなり伯母に抱きついた。茜の目からは涙が溢れ出ていた。それを見ていた亜美は、身体の中心からこみ上げてくる熱いものを感じた。この感覚は何だろう。二人が抱き合っている姿を目の当たりにして、人の愛というものを感じずにはいられなかった。
「今まで本当に辛かったわね」
すでに茜のほうが伯母よりはるかに身長が高かったが、伯母は子供をあやすように、優しく頭を撫でていた。もはや言葉はいらない。お互い何が言いたいのか、双方肌で感じたであろう。気がつくと亜美の目からも涙が溢れ出ていた。
茜
1
伯母が久し振りだから夕食を食べていきなさいと言ったため、断るわけにもいかず姉と二人よばれることにした。夕方になると伯父が釣った魚を持って帰ってきた。近くの衣浦港で釣ってきたらしいが、四人で食卓を囲むには少なすぎた。
まさか茜が訪ねてくれるとは思っていなかったのだろう。伯父は気をきかせ、近所の魚屋で刺身を買ってきてくれた。茜が以前刺身を喜んで食べていたことを憶えてくれていたのだ。
伯母たちと今回の事件について触れることはなかったが、伯母たちに茜の気持ちは伝わったと思われる。
茜は伯母の家を出る時、今後はなるべく伯母の家に顔を出すことを約束した。
「茜ちゃん、良かったね」と帰りの車中姉が口にした。
「今度は一人でも行けそうです」
「本当にいい人たちね。ねえ、今日私も一緒にホテルへ泊まってもいいかしら?」と姉が控えめに申し出た。
「勿論、いいです」と茜は答えた。
宿泊先は姉がケイタイサイトで探し、ツインの部屋をとってくれた。場所は栄にあるビジネスホテルだった。レンターカーを返却しタクシーで目的のホテルへ向かった。ホテルにチェックインするとすでに9時を回っていた。
朝から電車で東京に出て、新幹線で名古屋に着くと、昼食を摂り半田に向かった。けっきょく伯母の家に四時間以上いたことになる。伯母とは込み入った話はしなかったものの、けっこう長く家に留まっていたのだ。
ホテルの部屋に入り荷物を床に置くと、ベッドに腰掛けた。
「ねえ、ちょと出ない。まだ休むには早すぎるわ。すぐそこが錦といって、まあ東京で言う銀座みたいなところがあるの。銀座ほど敷居は高くないけどね。バーにでも行ってみない?」
「はい」と答えたものの、あまり気乗りはしなかった。それでも姉は姉で、何か茜のために夜を演出したかったのではないか。そう思うと無闇矢鱈に断れなかった。
ボストンバックからショルダーバックを取り出すと、ウエストバックにあるものをそれに移した。姉はハンドバックから化粧ポーチだけを出すと、鍵を取り出入り口に向かった。茜も後に続いた。
ホテルを出て大きな通りを渡り、オフィス街を2ブロック進んだ。そこは風俗や飲み屋の看板がやたらと目に付く場所だった。姉は銀座と言ったが、新宿の歌舞伎町に近い雰囲気があった。姉はその中のスナックやクラブの入った雑居ビルに入って行った。
エレベーターに乗ると5階のボタンを押した。エレベーターの扉が開くと、左右に扉があり姉は右側にある扉を開けた。扉にはGLORIAと書かれている。カウンター席が五つと小さなテーブル席が三つあるだけの、すごく狭い店内だった。時間がまだ早いせいなのか、客は一人もいなかった。
カウンター内に、赤いタータンチェックのベストを着た若い女性がグラスを磨いていた。
「よろしいかしら?」
姉は女性のバーテンに伺った。
「いいわよ。亜美久し振りね」
このような店に来たことのない茜でも、バーテンが客を呼び捨てにすることはないだろうと思った。バーテンはきっと姉の知り合いなのだと推測した。
姉は入り口から遠いカウンター席の端に座り、茜にも自分の横に座るよう目で促した。
「私の妹」と姉は中のバーテンに茜を紹介した。
「え・・・・・・亜美に妹がいたなんて知らなかった」
「異母姉妹なの」
「お姉さん・・・・・・」
茜は二人の関係が気になり、姉に確認しようと思った。
「突然ごめんね。不思議に思ったでしょう。この人は賀川沙耶といって中学の時の私の親友なの。高校からは違う高校に進んだのだけれど、家が近所だから時々会っていたの。だから私の家のことは良く知っているわ。彼女も以前会社勤めをしていたのだけれど、事情があって今はバーテンをしているの」
姉の説明でなんとなく二人の関係が理解できた。そしてなぜ私をここに連れてきたのか、分かったような気がする。
「茜ちゃんと会うようになって、ここに来たのはひさしぶりなんだけど、それまでは私の悩みや話を訊いてくれるのは、この人しかいなかったの」
そのように言った姉の目は、薄暗い店内でも分かるほど悲しみに満ちていた。やはり最初会った時に感じた、姉も父や光村同様、心に何か闇を抱えていたのは間違いないと確信した。
私は子供のころから辛い思いをしてきた。しかしそれは私だけに限ったことではなく、いろいろな人がそれぞれ辛い過去を背負っている。
私たち二人は女性向けの、口当たりのいいカクテルを作ってもらいそれを飲んだ。お酒がスイーツのように美味しく感じたのはこの時が初めてだった。
「もう一杯いただいてもいいですか」と姉に伺った。
「美味しいでしょう。でもけっこうアルコール度数は強いから飲みすぎないでね」
そのように言う姉のほうは、すでに二杯目を飲み干していた。
お酒は人を幸せにも不幸にもする。それまで茜はお酒によって自分の運命が狂わせられたことを、まったく意識していなかったわけではない。それでも父が飲酒運転によって、ひき逃げされたにもかかわらず、お酒を飲まないようにしようとは考えなかった。
今飲んでいるお酒はとても美味しい。しかしそれはたんに、食事やデザートとかが美味しいというように、口当たりが良かったに過ぎない。お酒を飲んで心から美味しいと感じたのは、姉に初めて会った時、ホテルで飲んだビールではなかっただろうか。それは祝杯時に飲むお酒と同じで、気持ちを豊かにさせてくれた。茜自身辛い時にお酒を飲んだことはなかったが、お酒でその辛さをまぎらわせるのは一時的なことにすぎず、しらふに戻ると同時に現実の世界へ引き戻され、よりいっそう辛い思いをしなければならないのではないだろうか。
姉がどのような時にお酒を飲むのか分からなかったが、これほどペースが速いのは、私と会うようになってから初めてのような気がする。カクテルだから飲みやすいということもあるかもしれない。しかし理由はそれだけではないような気がしてならなかった。今日私のところに泊まろうと言い出したのも、もしかしたら・・・・・・。
「お姉さんもしかして、私に何か打ち明けたいことか、何かあるんじゃないですか?」
グラスをもてあそんでいた姉の手が突然止まった。一瞬姉の身体が、石のように硬くなったのではないかと思えるほどだった。
「茜ちゃん・・・・・・」
茜の目を見詰めると、グラスに僅かに残っていた液体を喉に流し込んだ。「実はだいぶ前から、あなたに相談しようと思っていたんだけど、なかなか言い出せなくて。でも今日はどうしても、あなたに聞いてもらいたいことがあって、こうゆうところに連れてきたの。しかしこのようなところで話す内容じゃないかもね。ホテルに戻りましょうか。そこで私のここにある蟠りを聞いてちょうだい。お酒の力を借りてもなかなか言い出せなかったの。あなた感がするどいわ」
姉は右手を胸に当て茜をじっと見詰めた。
「お姉さん・・・・・・」
沈痛な姉の表情に、なんと声を掛けていいか分からなかった。
姉はバーテンに手で合図した。バーテンは名刺よりやや小さい紙を姉に渡した。それを見て姉はハンドバックから財布を取り出すと、バーテンにお金を支払った。
「出ましょうか」
姉は財布を仕舞いながら立ち上がったので、茜もそれに続いた。
2
原口は実刑判決を受け今はどこかの刑務所に収監され、受刑生活を送っていることだろう。光村は自衛隊を辞め、茜にも消息はつかめない。マスメディアもあの時のことが嘘のように、まったく取り上げられなくなった。周りの者たちは、自分に関係ない出来事は時間の経過とともに忘れていく。
父が亡くなった同じ日、大型旅客機が群馬県の山中に墜落した。毎年その日になると必ずそのことが取り上げられるが、父のひき逃げ事件は人々の記憶から、もう少ししたら完全に忘れ去られてしまうに違いない。
茜と姉の亜美はちょうど初めて東京のホテルで会った日のように、ホテルの部屋で小さなテーブルを挟んで座っていた。あの時と少し違ったのはビールがなかったことと、姉のほうが沈痛な面持ちだったことだ。
「ねえ以前高校の夏休み、アメリカへ短期留学したことがあると話したことがあったでしょう。私が男性と、どうしても踏み込んだお付き合いができないのは、あなたに最初に話した継父のせいではないの。本当はその留学先のホストファミリーの、ご主人から受けた性的いたずらのせいなの」
その後姉が告白したことは、茜にとっても衝撃的な内容だった。姉は性的いたずらと言ったが、それは紛れもない強姦に他ならない。姉も自分が他人に強姦されたとは言いにくかったのだろう。
目の前にある情景が一瞬ムンクの絵のように歪んでいく。私は(叫び)の絵の中で耳を押さえている人物のように、聞いてはならないものを聞いてしまったような不安な感覚に陥った。しかしその後目の前の情景が、パズルのピースが剥がれるように崩れ落ち、新たに新しい風景が現れたように感じたのが、自分でも不思議でならなかった。
やはり最初に感じたように、姉もまた心に闇を抱えていた。なぜ私の周りにはこのように、心に何らかの闇を抱えている者が多いのだろう。それは偶然なのか。それともこれが、私が神にあたえられた宿命なのか。それは茜自身にも答えを見つけ出すことはできなかった。
茜は自分の運命が何者かによって、弄ばれているような気がしていたにもかかわらず、生まれてから今日まで、神の存在を信じたことはなかった。それは日本で生活していることもあるし、人見家に生を受けたことも関係している。子供のころ七五三は祝ってもらったし、正月には善光寺へ初詣でにも連れていってもらった。しかし父や母が信仰心をもっていたとはとても考えられない。
宗教は風土と環境が生み出すものと考えている。アメリカでは大統領就任式、聖書に手を置き宣誓しているし、映画など観ていると、食事の前には神様にお祈りを捧げるシーンをよく目にする。ドラキュラやバンパイアなどに襲われると十字架を翳し身を守る。これが『耳なし芳一』や『牡丹灯籠』になるとお経になるのは、やはりお国柄のせいなのではないかと感じざるをえない。
茜自身も日本ではない他の国に生まれていれば、神の存在を信じて疑わなかったに違いない。それでも今の茜にとって、姉は神以上の存在だった。
宗教によって心の安らぎが得られるのなら、私は姉の存在によって心の安らぐを得ることができる。人が神に変わることはよもやあるまいが、今の茜にとって姉は神以上の存在だったに違いない。
それぞれいろいろな人が、いろいろな痛みを抱えている。その痛みは痛みを受けた本人でしか、おそらく理解できないものであろう。しかし姉にはどんなことをしても、立ち直ってほしかった。
「お姉さんの受けた心の痛手は、どうやって取り除けばいいのか正直、私には分かりません。でもこう考えてみてはどうでしょう。たとえば光村さんと私は結婚して子供が生まれ、幸せの絶頂期に、光村さんが突然『僕は君のお父さんを撥ねた車に乗っていた』と告白したとしたら、私の受ける衝撃は今以上に大きなものになっていたでしょう。こんなことを言って気を悪くなさらないでください。お姉さんがもし強姦だけにとどまらず、命まで奪われていたらと、もっと悪いことが起こりえたと考えてみてください」
「茜ちゃんは強いわね。確かにあのことは私にとって辛いことに違いないけど、あなたのように考えられれば、少しは前向きになれるかもしれない。なんで茜ちゃんはそんな前向きになれるの?」
「心の痛みも、身体の痛みも一緒なんです。必ず時間が解決してくれると信じています。これはシンクロナイズスイミングの女性アスリートが言っていたことなんですが、人生は振り子のようなもので、悪いほうへ振られた後は必ずいいほうへ戻ってくると。その人はここ愛知県出身で、子供のころ交通事故で歩くことすら間々ならなかったのに、本人の努力と家族の支えで、オリンピック選手に選ばれるまでに快復したそうです。それは並大抵の精神力じゃなかったと思います。顔にもひどい怪我を負っていたので、子供のころはそれでからかわれたりもしたそうです。しかし彼女はいつも、前向きでけっしてへこたれなかった。私はそれを知った時、すごく感動したと同時に、どんなひどい境遇でも考え方一つで、前向きになれるんだということを学びました」
姉は私の話を聞き終えると目を閉じ、やがてゆっくりと目を開けた。
世の中には三度目の正直という言葉があるが、今度こそ姉の心の闇を取り除いてやらねばならない。それは私にしかできないのだ。今の私はそのために存在しているといっても過言ではないような気がする。
慎三
体格のいい男が集中治療室のベッドに横たわっていた。瞼は閉じられ、話しかけても何の反応も示さない。その傍らに老人が項垂れるように、パイプ椅子に腰掛けている。目には目やにがこびりつき、口の周りは白い無精ひげで蔽われ、焦点の定まらない目で、横臥している男の顔を見ていた。
「真一、真一・・・・・・」と聞こえるか聞こえないか分からない、小さな声で言葉を発している。誰が見ても、そこには絶望しか見出せなかった。
真一は自衛隊の武器庫で、自身のこめかみを拳銃で撃ち命を絶とうとした。しかし弾道が僅かにそれ、死の一歩手前で留まった。辛うじて命だけは助かったものの、指一本動かせない植物状態になってしまった。
人を殺めていたため、たとえ意識が快復しても、警察に連れて行かれる。警察に逮捕されれば、二度と外の空気は吸えないだろう。最悪の場合死刑もありえるかもしれない。そのように考えれば、このまま眠り続けたほうが、本人にとっては幸せなのではないだろうか。
真一があのような非人間的な人格になったのは、ひとえに父である自分に責任がある。実の我が子でありながら、なぜ真一に辛く当たったのだろう。すべて酒のせいなのだ。酒さえ飲まなければと何度思ったことか。アルコールが慎三の人格を変え、偏屈な人間にしていった。
終戦を迎えたのは、慎三がまだ七つか八つのころだった。父は職業軍人だったため、戦争に駆り出され、行方が知れず、母と姉たちで父の帰りを待っていた。終戦間際の東京大空襲で、家は焼かれおそらく母たちはその被害にあったのだろうが、疎開していた慎三だけが助かった。
東京が焼け野原になっているといううわさを耳にして、親せきが止めるのを振り切り、東京に戻った慎三は、すべてが焼け野原になった東京の街を見て愕然とした。自分の家もどこにあるのかまったく見当がつかなかった。自分の家があったであろう界隈を、数日間歩き回ったが、母も姉の行方も掴めなかった。
そんな最中腹を空かせ焼け跡を彷徨っていると、一軒のバラック小屋からなにやら旨げなにおいがしてきたため、小屋の隙間から覗いた。中では髭面の中年の男が、鍋でなにかを煮炊きしている。それをじっと見ていると、男のほうも慎三に気づいたらしく「ぼうず、入ってこい」と促した。
慎三は入り口に回りこみ、薄い板でできた、つぎはぎだらけの戸を開けおそるおそる中に入った。男は鍋の中のものを、つぶれた飯盒にそそると、それを慎三の前に差し出した。
「ぼうず。腹が減っているんだろう。食え」
中身は芋や菜っ葉を味噌で煮ただけの、粗末な食べ物だったが、とにかく腹が減っていたため、ことのほか旨かった。その日から男と慎三の奇妙な共同生活が始まった。
日中男はどこかへ出かけ、夕方になると少ないながらも食料を調達して戻ってくる。慎三はまだ幼かったため、自分自身で食料を調達するのはむずかしいと感じ、この男のもとに居座った。その当時はそれが生きるための術だと思っていた。
最初のうち男は親切だった。幼い子供にとって、空きっ腹をいやしてくれることだけが幸せだった。男はどこから調達してくるのか、酒を毎日飲んでいた。その男の酒臭い体臭が、何年経っても慎三の記憶から払拭することができなかった。その時は思ってもみなかったが、やがて月日が流れ自分もその男と同じ臭気を発するようになっていた。
「ぼうず、父ちゃん母ちゃんは、あの空襲で亡くなったのか?」
すごく落ち込んだ目が慎三を見詰めた。
「母ちゃんたちはたぶん空襲で亡くなったけど、父ちゃんは戦争に行ったきり帰ってこなかった」
「そうかお前の父ちゃんも、出征して行ったのか。わしも戦争に行ったんだが、わしだけ生き残り、日本に帰ってきた。わしの部隊は全滅した。わしだけ暑いジャングルの中、虫や木の根を食べ生きのび、やっと日本に帰ってきたらこのありさまだ。この国が勝てっこないことは、うすうす分かっていたものの、ここまでコテンパンにやられるとは思ってもみなかった」
男は目が落ち込み実年齢より随分老けて見えたが、自分の父親と同じくらいか、あるいはもっと若いかもしれない。
ある日慎三が寝ていると、自分のいちもつをまさぐっている者がいた。慎三はなぜか分からないが、怖くて目を開けることができなかった。そのころは男と女のすることさえ知らなかった慎三である。性の知識はまるでなかったから、男が男と猥褻なことをすることが、不思議ではないと思っていた。ただ本能的にとでもいうのか、気持ちが悪かったし怖かった。へたに抵抗すれば、飯を食わせてもらえないかもしれない。もっと悪くすれば、この男に殺されるかもしれないという恐怖心すら湧いてきた。
あのころはよく分からなかったが、今顧みると男の精神状態は明らかにおかしかった。戦争という狂気が男を変貌させてしまったのだろう。
あの場所から逃げればよかったのだが、その時は見えない檻の中に閉じ込められているような感じがして、そこから抜け出すことができなかった。
男がすることは、慎三のいちもつをただいじくりまわすだけのことなのだが。時間の経過とともに、あの酒臭い体臭と男のゴツゴツした手が、なんとも不愉快に感じ、居た堪れなくなった。
何日か経ったころ、いつもより早く目が覚めた。バラック小屋の隙間から、朝日が差し込む中で、男はいびきをかき寝ていた。その姿がすごく醜い化け物のように映った。その時なぜか、この男から逃れるのは今しかないと感じた。
慎三は外に出ると自分の頭と同じくらいの石を抱え、男の枕元に赴き、それを力いっぱい男の額に叩きつけた。子供ながらにこの重たいものを、頭に叩きつければ男が死ぬのではないかということは分かっていた。
石が男の額にめり込んだ瞬間、実際にはそんな音は聞こえなかったのであろうが、瓜に石を落とした時に発する、鈍い音がしたような気がした。それはあっという間の出来事だった。
慎三は男が蓄えていた僅かな芋や米を、男が持っていた背嚢に詰め込むと、小屋を飛び出した。どのようにして駅までたどり着いたのか分からなかったが、気がついたら甲府行きの列車に乗っていた。本能的に慎三が疎開していた山梨の親戚の家に向かっていた。
親戚の家にたどり着いた時は、すでにあの小屋から持ち出した食い物は、すべて食いつくし、残ったのはぼろぼろになった兵隊が被る帽子だけだった。何気なくその帽子の裏を確認すると、そこには文字がかすれて読みにくいものの、由良拓造と書かれてあった。こんなことがあるのだろうか。慎三は運命を呪った。あの男が父なのか、本当のところ分からない。父は自分を見て息子と気づかなかったのだろうか。慎三自身父の記憶がまったくない。物心ついた時には、職業軍人だった父はすでに家には居なかった。家には軍服姿の父の写真があったが、凛々しく精悍な顔立ちだった。鶏のような顔をしたこの男とはまったく似ていなかった。
僅か七歳で人を殺した。それも実の父親を、いやな時代だった。そう思うことでしか、精神状態を正常に保つことができなくなっていた。今でもあの男のつぶれた顔は、頭から払拭することができない。
中学校を卒業すると、家の近くにある鉄工所に丁稚に出された。貰える賃金は微々たるものだったが、ほとんど酒につぎ込んだ。酒を飲むのはあの時のことを、頭から払拭したかったからだ。しかしどんなに酒を飲んでも、頭から消し去ることはできなかった。
真一は自分と違って頭はすごく良かったが、人間の本質は自分の血を受け継いだのだろう。これが因果応報というものなのか。
「俺は・・・・・・」
毎日ここに来て、もの言わぬ息子に話しかけている。
慎三が真一に酒を飲んで暴力を振るようになったのは、慎三があの男を殺した時の年齢に、真一が達した時期だった。慎三は真一に嘗ての自分の姿を重ねていた。酒臭い父親を蔑んだ眼差しで見ている真一は、おそらくあの時の自分と同じ目をしていたのではと感じる。幼いその目がすごく怖かった。
慎三は子供のころの己自身を殴っていたのかもしれない。それでなおさら自己嫌悪に陥った。
真一に初めて柔道の技で投げられた時は、悲しくもあったが反面嬉しくもあった。いっそのこと自分がしたように、父親を殺してくれたらと妄想を抱いたりもした。その反面、自分と同じ血が流れている真一が、自分とは違う道を歩んでくれるのではないかという、かすかな希望もあった。頭の良さだけは自分には似ず、家内に似たのかもしれない。あるいは屑の父親を目の当たりにして、あのような人間にだけはなりたくないと思い、勉学に励んだのだろうか。
慎三が進学を阻んだにもかかわらず、金の掛からない方法で上の学校に進学した。そして就いた職業が、慎三がもっとも嫌いな軍人だった。日本では自衛隊といっているが、慎三からすれば軍人との違いはみられない。
進学を阻止したため、慎三が最も嫌う軍人になった。真一が軍人にならなければ、今回の事件も起こさなかったのではないだろうか。そう考えると自分のとった行動が、すべて息子を破滅の道へと導いていたように感じ愕然とした。
慎三は壁にかけてある杖を取ろうとしたが、杖は手からすり抜け床に転がった。杖を取ろうとして、椅子から腰を浮かせたが手が届かない。
「ちきしょう」と舌打ちし仕方なく椅子に座りなおした。すべてが慎三の人生を象徴しているようで腹立たしかった。
「俺はいったいなにをやっていたんだ。息子の幸せを願うのが親なのに、俺は・・・・・・」
慎三はあれほど飲んでいた酒を、五年前にきっぱりと止めた。身体をこわし医者から止められたのだ。
「由良さん、これ以上飲みつづけると、本当に死にますよ」と医者から通告された。それでも医者から止められたから、酒を止めたわけではない。孫娘が生まれたからだ。娘や息子と違い、孫は本当に可愛かった。その孫が自分みたいな偏屈な老人にも懐いてくれる。それはこの上もない幸せなことだった。そしてなによりも終戦直後、慎三の下半身にいたずらしたあの男の酒臭い臭気を、可愛い孫娘に嗅がせたくなかった。
「まだ死にたくない。まだ孫の顔を見ていたい」と強い願望が自分の根底から、湧いてくるのが不思議でもあった。
人にとって幸せとはいったいなんなのだろう。孫ができてはじめて考えさせられた。それから慎三はきっぱりと酒を止めた。アルコールが身体から抜けていくと、今までとは違う自分が現れた。歳をとったということも影響しているのは間違いない。以前の慎三とはまったく違う、温厚な老人になっていた。
今回真一がこのような状態になってしまい、その責任がすべて自分にあるのだと感じ、なにか真一の役に立てることがないかと思いをめぐらせたが、結論はなにも見出せなかった。けっきょくこうやって傍に付き添っているしか、今の慎三にはすべきことが見付からない。そこには怪物を造りだしてしまった、フランケンシュタイン博士のような苦悩があった。
茜
幸福か不幸かというものは、けっきょく自分が判断するもので、周りの人たちから見てどんなに気の毒に思えても、本人が幸せに感じていれば、それは幸せなのだと思う。月日が流れ、振り返ってみれば私の人生は誰の目にも不幸に映ったに違いない。私自身もなんで私だけこんな不幸なのかと思ったことも一度や二度ではなかった。
顧みれば私の周りで起こったことは、確かに不幸な出来事なのだろうが、私自身が不幸の当事者になったわけではない。それは交通事故に遭った車に乗り合わせていたが、偶然にも自分だけが助かり、後の者は皆亡くなってしまった。そんな状況に似てなくもない。それは見方を変えれば非常に楽観的な、自分勝手な考え方なのだろうが、そのように考えたほうが、私にとって都合が良かった。
私が現在このように思えるようになったのは、言うまでもない、姉の存在があったからに他ならない。
姉から留学先で受けた理不尽な出来事を告白され、この人は私なんかよりも、もっと辛い思いをしてきたのだと感じずにはいられなかった。私は姉の出現によって前向きになれたのと同時に、姉も私との出会いによって前向きに人生を歩んでいってほしい。それはきっと亡くなった父が、私に与えた使命なのではないだろうか。
父があんなに優しかったのは、たんに心に闇を抱えていたからではない。きっとあれが父の本質なのだ。その血が私にも流れている。私の根底には、父のような思いやりのある人間になりたいという願望が常に存在していた。
私は父のほんの一部分しか知らないから、父が誰に対しても思いやりのある人物か、そうでないかということは、実際のところ分からない。父の知人や職場の人から「君のお父さんは本当に思いやりのある人なんだよ」と教えられたわけでもない。それでも父は私の中で、私のイメージした人そのものなのだ。それはなんの根拠もないことなのに、そう思うことで茜は納得したかった。
その日茜と亜美は渋谷のレストランで食事をしていた。今まで何度となく、姉は東京に遊びに来ていたいが、なぜか分からないものの、姉はこの街が好きだと言っていた。食事はいつも姉が奢ってくれた。最初のうちは申し訳ないと感じていたが、姉がそれで言いというのなら、それに従うのが妹のつとめだと思う。
渋谷センター街にある、イタリアンレストランで食事を終え、エスプレッソコーヒーを飲んでいると、姉が突然話の矛先を変えた。それまで最近観た映画の話をしていたのだが、姉は急に真剣な眼差しで、茜を見詰めた。
「茜ちゃん実は私、今度東京の本社に転勤希望を出そうと思うの。これはあなたに出会う前から、いずれは東京か大阪に出て自分の力を試してみたいと考えていたのだけれど。そしたら今回偶然東京行きの話があったものだから。通るか通らないかは別として取り敢えず希望を出しておこうと思って。弟はもうこちらの家電メーカーに就職しているから、私も東京に出てこようかと考えたの・・・・・」
「本当ですか・・・・・・」
それは嬉しいことに違いないのだが、突然の申し出にどう返答していいか分からなかった。姉の勤務している銀行に限らず、日本の多くの企業は東京に集中している。姉が東京に出て来たいと願うのは、私のことも含めいろいろな要因があってのことだということは、理解しているつもりだった。
「お姉さん、私も陸曹試験を受け、隊舎を出れば外で暮らせます。そしたら一緒に暮らしましょう」
自衛隊の実情は姉に順を追って説明すればいいことだ。私は今までマイナスの人生を歩んできた。しかしこれからはプラスの人生を歩んでいく。今まで辛かった分これからは大いに人生を楽しまなくては。
「もし、茜ちゃんと一緒に暮らせるなら、こんな嬉しいことはないわ。ね真っ昼間だけどワインを注文しましょう。茜ちゃんと飲むお酒が一番美味しいの」
「はい」
人に頼られること、ただそれだけのことがどれほど嬉しいか。今の茜には痛いほど感じることができた。
ウエイターが運んできたグラスワインは、店内の照明を受け黄金色に輝いていた。それはこれからの二人の人生を象徴しているようでもあった。
(了)
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