まさか再会する日が来るとはな
「もう泣くなよ」
「だってぇ……」
シズクは鼻をすんすん鳴らしながら、つぶらな瞳から涙をこぼす。
つないだ小さな左手は火照っており、引っぱってあげないとその場から一歩も動けなくなってしまいそうだ。
「しょうがないだろ、みんなマジカルイチカが大好きなんだから」
マジカルイチカというのは、人気のある魔法少女のキャラクターのことだ。
魔法少女だけど、イチカはとても弱い。一人ではなにもできない。仲間の力を借りて、やっと一人前だ。いつも仲間と協力して敵をやっつけている。
そのマジカルイチカが漫画になると知り、朝から二人で近所の書店に駆け込んでいった。
家を出るときはシズクもはしゃいでいたが……マジカルイチカは子供たちに大人気なので、開店直後に漫画は売り切れてしまったそうだ。
他にもいくつか目ぼしい書店を訪ねてみたが、どこも売り切れていて、とうとうシズクは泣き出してしまった。
「どこか置いてある本屋がないか明日友達に聞いてみるからさ、もう泣き止めよ。ほら、イチカだって仲間に支えられてピンチを乗り切るだろ? だから俺がシズクの力になって、このピンチを乗り切ってやる」
シズクはぐしぐしと赤く腫れたまぶたをこすると、ずるるるるっと鼻水を吸い込んでから、つないだ右手をぎゅっと握り返してくる。
「……わたしも一緒に行く」
「一緒にって……本屋にか? あちこち駆けまわらないといけないから大変だぞ? めちゃくちゃ疲れるぞ?」
「それでも一緒に行くの。イチカだって、仲間に助けられてばかりじゃなくて、ちゃんと自分でがんばっているから、わたしもがんばらないといけないんだもん」
――だから、わたしも一緒に行く。
涙でびしょびしょにぬれた瞳には、揺るぎないものがあった。
そんなふうに見つめられたら、もう一人で行くだなんて言えない。
「わかった、一緒に探そう。マジカルイチカとその仲間たちみたいに、俺たちも支えあってがんばろうぜ!」
うん、とシズクは快活な返事をする。
「ねぇ友くん。明日はイチカの漫画がぜんぜん見つからなくて大変かもしれないけど、イチカのことは、嫌いにならないでね?」
「なるわけねぇだろ。俺はこれからも、マジカルイチカのことが大好きなままだ。おまえこそ、イチカを嫌いになるんじゃねぇぞ」
「ならないよ。だってわたし、誰よりもイチカのことが大好きだもん」
にっこり微笑むと、シズクは右手を胸にあてて頬を赤らめる。
「それとね、友くん。これからもずっと、わたしと一緒にいてね」
「なに当たり前のこと言ってんだ? 俺たちはこれからもずっと仲良しに決まってるだろ」
ニカッと笑ってみせる。シズクも晴れやかな笑顔で「うん!」と頷いた。
もう返ることのない。
幼馴染みとの、思い出の一幕だ。
◇
梅雨入りをはじめた六月。
登校中の朝の天気は曇り空だが、俺の心は晴天だ。ていうか近ごろはずっと晴れっぱなしだ。
なぜかって? そんなの決まっている。
大好きな女の子に、はじめて告白できたからだ。
もうね、俺の厄介な異能力である好感度表示のせいで、一生誰とも付き合えないかと思っていたよ。一生童貞のままで、魔法使いルートに直行して、このまま二次元の女の子としか付き合えないばかり思っていたよ。そんな未来予想図を描いていました。
しかし俺は、好感度表示というこれまでの人生でさんざん苦しめられてきた試練をクリアした。好きだと、特別なんだと、想いを伝えることができた。
だけど交際がスタートしたわけじゃない。想いを伝えあっただけで、まだ付き合ってほしいとは明言していない。
なので、今日こそは言う。恋人になってほしいと、言葉にして二人の関係を前進させる。
……まぁここ数日、そう決意しては、ひよって言えなかったわけだが。
でも今日の俺は違うぜ。昨日までの俺と一緒にしないでほしい。個別ルートに入って、イチャラブを開始させてやる。
あっ、もちろん正式に交際をスタートさせても、二次元の女の子たちとの交流は継続させていくつもりだ。そこは勘弁してほしい。切っても切れない縁なんだ。やれやれ、エロゲだけはやめられないぜ。
本日の目標を頭のなかで決定すると、前方に制服を着た小柄な少女の後ろ姿を発見。背筋をまっすぐ伸ばして軽やかなステップを踏むように、きれいな歩調で進んでいる。
間違いない。あれは我が天使、氷室仁美だ。
その姿をタゲると、俺はフルスロットルでダッシュ。大好きだあああああああ、と叫びたい衝動を抑えながら、いざ愛しの後輩のもとまで駆け寄る。
「と、友則先輩?」
あにはからんや、俺が駆け寄るのに先んじて、仁美は艶やかなセミロングの黒髪をなびかせてこちらを振り返ると、くりんとした両目を丸くする。
足音で気づいたのか、それとも気配で感づいたのかはわからないが、さすが我が天使だぜ。こちらの接近をあらかじめ察知するとは、ただ者じゃない。そして今日も、その端正な顔立ちはかわいい。ずっと見ていたい。むしろ至近距離でガン見したい。
「おはよう、仁美」
「お、おはようございましゅ……」
挨拶をすると、仁美は頬を色づかせて挨拶を返してくる。噛んだが。
お互い相手をどう想っているのか面と向かって伝えあったせいか、このごろ仁美は顔を合わせるたびにドギマギしている。超かわいい。ちなみに俺もドギマギしてます。
「えっと、そんなに息を切らして走って、どうかしたんですか?」
「あぁ、仁美を見つけたからな。ダッシュで来たぜ。それこそ背後から抱きつくくらいの勢いでな」
「そ、そうですか」
なんだろう、若干引かれているような気がしないでもない。照れてるんだよな? 照れてるんだよな! これって照れてるんだよなっ! 信じているぞ仁美!
仁美は学生鞄を両手できつく握り込むと、身を縮めるように肩をすぼめ、おもむろに歩き出した。俺も仁美の背中を追いかけるように足を動かす。
「あ、あの、友則先輩っ!」
にわかに名前を呼ばれる。
いきなりだったので、びくっとなった。
「ど、どうした、急にデカイ声を出して?」
「その、わたし……」
息継ぎでもするようにスーハーと深呼吸をすると……わずかな沈黙。やがてうつむいていた顔をあげて、泣きそうな瞳で見つめてくる。
「わ、わたし、友則先輩に言いたいことがあって、その……」
もにゅもにゅと小さな唇を波打たせながら、ぎこちなく一つ一つの言葉を紡いでいく。
仁美の言わんとしていることを察すると、慌てて制止にかかった。
「待て! 待ってくれ! その先は俺に言わせてくれ!」
うっ、と仁美は息を止めるように続きの言葉を飲み込む。
どうやら仁美も俺と同じ気持ちだったようだ。二人のこの微妙な関係を、曖昧なものから明確なものに進展させたいんだ。
だったらそれは俺に言わせてほしい。というか言いたい。大事なことだから。
隣の仁美に向き直り、視線をそそぐ。
顔が熱くなってきた。なんか脇とか手から汗がしたたるけど、目はそらさない。
呼吸を落ち着かせると、俺の言葉を待っている仁美に語りかける。
「仁美、俺と……」
「おはよう、ひとみん。それと、ついでに友則さんも」
俺の渾身の気持ちがつまった言葉を、にこやかな笑顔でインターセプトしてくる女が現れた。
近藤雛子。仁美と同じく一学年下の後輩だ。
「二人とも見つめあったまま立ち止まってどうしたの? 早く学校に行かないと遅刻しちゃうよ」
至極まっとうな忠告なのに、なんでだろうね? その笑顔からは悪意しか感じられないよ。ここまでタイミングが悪いと、狙ってやったとしか思えない。
俺はげんなりしつつ、雛子を見やる。ちなみ仁美は両目を細めて、攻撃的な視線を雛子に向けていた。
「ん~、ひとみんなんだか目つきが怖いけど、もしかしてわたし邪魔だったかな?」
「はい。雛子はいつも邪魔です」
なに当たり前のことを言ってんだろうと真顔で切り返す仁美。これは冗談とかではなく、わりとガチな本音だ。
「えぇ~、ひとみんひどぉ~い。ねぇねぇ友則さん。ひとみんひどくないですか?」
雛子はニヤニヤと楽しそうに唇を曲げると、俺の右腕に両腕をからめてしなだれかかってくる。
慎ましくもやわらかな感触が押しつけられ、つい全神経が右腕に集中してしまう。もう右腕になりたいと、意味不明な願望さえ抱いてしまう。
「先輩が迷惑しています。離れてください」
仁美は冷気をこめた声音を発するが、雛子はどこ吹く風でおどけた笑顔を崩さない。
「そうかな? わたしには喜んでいるように見えるよ、このゴミムシ」
「おい、こら。誰がゴミムシだ。そのゴミムシとか言うのはやめろ」
「わかりました。このカス」
「わかってないね。ゴミムシがカスになっただけだね。あとせめて『さん』くらいつけろよ」
「はい、カスさん」
うん、だめだね。『さん』づけでも傷つくね、これ。
「ていうか、いい加減に離れろよ」
雛子の意思で離れるように催促する。俺からは離れたくても離れられない。だって、おっぱいが、やわらかなおっぱいが腕に当たっとる。離れられるはずがない。
てか、さっきまで仁美といい雰囲気だったのに、別の後輩にぴったんこされているとか、いろいろ最悪だ。
「ねぇ友則さん。ほんとうに、わたしが離れちゃってもいいんですか?」
うぐっ。なんだよ、そのあざとい上目づかいは? かわいいやん。しかもこういうときにかぎって、ちゃんと名前を呼んできやがって。
「……先輩。どうして迷っているんですか?」
「べ、別に迷ってねぇよ。ほら、離れた離れた」
あんまりぴったんこしていたら、仁美との仲がこじれてしまう。名残惜しいが、少々乱暴に右腕を振って雛子を払いのける。
「あっ……」
ほんの一瞬だけ、雛子は驚いたように素の表情になった。
ちょっ、なにその反応? なんかすげぇ悪いことしたみたいじゃん。俺が傷つけちゃったみたいじゃん。
あわあわとうろたえている俺を見るなり、雛子は取り繕ったような笑みを浮かべる。
「ぷっすすすす。友則さんってばパニクっちゃって、簡単に騙されちゃうんですね。そんなんじゃこれから苦労しますよ」
「なっ、演技かよ。びびらせやがって」
あまりにもリアルだったので、ぜんぜん演技に見えなかった。こいつ、人を騙すことに関しては天才だな。
ところで望みどおり離れたというのに、なぜか仁美は不機嫌な面持ちのままだ。詐欺師でも見るような不審な目つきで、雛子をジーッと凝視している。
「それよりほらほら、立ち止まってないで学校に行きましょうよ。ひとみんも早く」
やたらと急かしてくるので、俺と仁美は返事をする代わりに足を動かした。
「待っていたわよ! 仁美さん!」
で、しばらく歩いていたら、甲高い声が聞こえてきた。
前方に目を向ければ、人の家の石塀の上で仁王立ちしている女がいた。
立花麗佳。俺と同級生の女子生徒だ。
麗佳は長い黒髪を水中を泳ぐイルカの尾のように揺らめかせると、ビシッと仁美を指差してきた。
「今日こそは、あなたとの決着をつけてあげるわ」
「……あの、とりあえず石塀の上から話しかけてくる人とは知り合いだと思われたくないので、降りてきてもらえませんか?」
「ふん。この完璧美少女であるわたしに指図するだなんて、何様のつもりかしら?」
長い髪を撫であげると、なぜか麗佳は嬉しそうに微笑む。
それと、さっきからスカートがひらひらと揺れているが、パンツは見えない。あのスカートは自動防衛の機能でもついているのか? 風にはもっとがんばってほしい。
麗佳は舞うように軽やかな身のこなしで地面に降り立つと、優雅な歩調でこちらにやってきた。
「わたし、敗北をそのままにしておくつもりはないわよ。いつか必ずあなたを超えてみせるわ。そのときまで、せいぜい腕を鈍らせないでおくことね」
艶然と口の端をつりあげて、仁美を横目で流し見てくる。
敗北というのは……闘技場での一件のことだろう。
こいつはこう見えてめちゃくちゃ努力家で、しかも仁美を目標としていて、その実は仁美と仲良くなりたいという、一人でどんだけ裏設定をかかえこんでいるんだよ、とツッコミたくなるほど面倒な性格をしている。
当の仁美は「はぁ、そうなんですか」とおざなりにスルーしていた。麗佳との温度差がパッない。
麗佳は顎を少しだけあげて、ふんと鼻を鳴らすと仁美から視線を切り、俺を見てきた。
「友則。あなたもわたしと戦いたくなったら、いつでも挑んできなさい。万が一にもありえないことだけど、も、もしもわたしに勝てたのなら、そのときは……」
ほのかに頬を染めて、ちらちらと期待するような眼差しを向けてくる。
いやいや、やりませんよ。だって俺、最低のランクEの能力者だからね。このランクE自体ちょっと意味わかんないけど。
「あれれ、ひとみんどうしたの? すねたような顔をして?」
「べつに、すねてなんてないよ」
否定するわりには、いつもの敬語ではなくなっている。それと、俺を見る目つきがちょっとキツいんですけど。
「そもそも俺は異能力バトルは専門外だからやんない。それよりほら、学校に行こうぜ」
話を打ち切るように、足早に歩を進める。
情けないわね、とつぶやいて麗佳は憮然と睨んでくるが、取り合わないでおく。
いや、異能バトルとかマジで無理だから。俺ザコだから。特別授業の模擬戦闘でも、黒星ばかりで成績は下位だから。
この三人の少女たちにはヒヤッとさせられることも多々あるが、好感度表示があった頃に比べればだいぶマシだ。他人からの評価を気にせずに生活できる。これこそが健全な日常だ。
できることなら、永遠にこの日常が続いてほしいが……そうは問屋がおろさないだろう。
俺が望んでいなくても、いつの日かまた好感度表示という試練は現れる。
現れるだろうが、この間の件でとっておきの攻略法を見出したから、もう昔ほどの危険はない。次があっても、上手くやれる自信がある。
「あっ、そうだ麗佳さん。このまえ麗佳さんのクラスに転校生がやってきたそうですけど、どういう人なんですか?」
「あまり口数の多いほうではないわね。人と話すよりも、本と睨めっこをしているほうが好みというタイプかしら。本来なら新学期の始まる四月に明栄へ転入する予定だったそうだけど、親の都合で二ヶ月ほど遅れたそうよ。それと異能力者だから、今週から特別授業にも顔を出すみたいね」
すらすらとよどみなく麗佳は転校生の情報を口にする。
うちの学校に美人の女子がやってきたのは、ちらほら耳にしていたが、まだ顔は見ていない。特別授業に参加するのなら、近いうちにその美しいご尊顔を拝することになるだろう。
転校生のことも気にかかるが、俺にとって当面の目的は仁美ルートに入って、イチャラブすることだ。ぶっちゃけそれに比べたら、美しい転校生とやらはどうでもいい。
合図を送るように芝居がかった咳払いをすると、仁美は大きな目をこっちに向けてきた。
カニみたいに横歩きで距離をつめていくと……仁美はムッと眉根を寄せる。
うっ、さっき俺が雛子や麗佳と話していたのを見て、ちょっぴりヘソを曲げてしまったみたいだ。やきもち焼きさんだな。そんなぷんぷんしてたらかわいい顔が台無しだぜ。つうか怒った顔もかわいいぜ。大好きだ。
「あ~、仁美」
「なんですか?」
声にもわずかな険がある。でも反応してくれるあたり、本気で怒ってはいない。
「もしかして雛子の言ったとおり、すねてるのか?」
仁美は唇をキュッと結ぶが、一つ吐息をもらすとこわばらせていた肩を落とす。
「雛子には強がってみせましたけど……やっぱり先輩が他の女の子とくっついたり、親しげにしていたら、おもしろくはないです。こういうの子供っぽいっていうのはわかってるんですけど……」
「いや、まぁ、気持ちはわからんでもない」
想像したくないが、もしも仁美が他の男と親しげにしていたら……あっ、うん。俺、そいつ殴るわ、特に理由も説明せずに、問答無用で喧嘩に突入しちゃうわ。俺ってば意外と独占欲が強いのね。新しい自分を発見した。
手を出さないぶん、仁美は感情の制御ができている。
「さっき立花先輩に挑発されたときはなにも感じませんでしたけど、立花先輩が友則先輩に挑もうとしたときは、不覚にも、わたしから決闘を申し込でしまいそうでした」
感情の制御がぜんぜんできてなかったね。一歩まちがえば、バトルシーンが挿入されてたね。
「悪かったな。いろいろ不安にさせちまって。でも、俺の想いは変わらないから」
雛子や麗佳がどんなに魅力的な女の子でも……いや、あいつらが魅力的かどうかは疑問だが、とにかく、俺の気持ちが変わることはない。
「ううっ……」
仁美はぷしゅ~と煙でも出そうなほど赤面すると、「は、はい」と上擦った声をもらした。
俺もなんだか恥ずかしくなってくる。
「えっと、それでだな……」
仁美のちっちゃな耳に顔をよせる。黒髪から清潔感のある香りが漂ってきて、鼻腔をくすぐった。
仁美は両目を見開いて、熟れたリンゴのように頬を赤くしたまま耳をそばだてる。
口内にたまった唾液と一緒に緊張感を飲み下す。雛子や麗佳には聞こえないように、声のボリュームを下げると。
……今日の放課後、大事な話がある。
そう、ささやこうとした。
「あら、あの後ろ姿は噂の転校生ね」
いいところで、麗佳が美人の転校生とやらを発見する。
……どうでもいいので無視だ、無視。
それよりも仁美だ。仁美に、俺の覚悟を伝えるんだ。
「おはよう、真宮さん。今日も一人で読書かしら? 歩きながら本を読むのはほめられた行為ではないわよ。誰かにぶつかったら危ないわ」
その名を耳にした途端、電流が走ったように心臓が激しく悲鳴をあげた。
なにかの間違いだ。そう信じたくて、視線を前に向ける。
そこには……清流のように長い黒髪に、文学少女のようなおとなしめな、けれど整った目鼻立ちをした少女がいた。
全体的な色素は薄く、体つきはほっそりとして、のびやかな手足をしている。
白魚のような右手には、ブックカバーのされた文庫本を握っていた。
そこにいる存在を視認するのは一瞬のことなのに、俺にはこの一瞬が、永遠のように感じられた。
「……シズク」
知らず、その名が口をついて出る。
「えっ」という声は仁美のものか、雛子なのか、麗佳なのか、それとも三人のものだったのかはわからない。ただ、少なくともシズクのものではないことは確かだ。
目の前にシズクがいることが信じられなくて、俺は頭のなかが真っ白になった。
「どうしたんです、友則さん? そんなカチコチに固まっちゃって? もしかしてもらしたんですか? だったらわたし達から離れてください。他人のふりをしますから」
「そんな非常事態じゃねぇよ。てか、他人のふりするなよ。助けろよ」
雛子が変なことを言ったせいで、ぼーっとしていた頭が正常に戻る。まさか俺を気づかってわざとふざけたのか? いいや、それこそまさかだな。
「先輩、顔色が優れないみたいですけど、本当に大丈夫ですか?」
話を中断させられた仁美は、心配そうな顔で覗き込んでくる。そのあふれんばかりの優しさに、つい抱きしめたくなった。
「あぁ、大丈夫だ」
意図して軽く笑顔を作ってみせる。本心から笑ってないと見透かされているのか、仁美はどこか腑に落ちない様子だ。
麗佳は鼻を鳴らすと、淑女に掌を差し出す紳士のような折り目正しい仕草でシズクを指し示した。
「こちらは真宮シズクさん。さっきも話したように、わたしのクラスに転入してきた生徒よ。それでこっちの三人が」
麗佳はシズクのことを紹介すると、俺や仁美や雛子のことをシズクに教えていく。
もっとも、麗佳に紹介されるまでもなく、俺はシズクのことを知っていた。
目の前にいるこの少女。真宮シズクは俺にとっては馴染み深い存在……小さな頃の時間を共にした、幼馴染みだ。
好感度表示に、はじめて名前が載った少女でもある。
そう、真宮シズクは好感度表示の爆発によって、俺を嫌いになった二人の少女のうちの片方だ。
かつての俺とシズクは仲良しで、いつも一緒だった。
シズクは大事な話があると俺に言ってくれたが、爆発が起きたせいで俺を嫌いになり、それ以降はまともに口もきいてくれなくなった。いつの間にか疎遠になって、どこか遠くの土地に引っ越してしまった。
真宮シズクは俺にとって、過去の絶望だ。
麗佳はひととおり俺たちのことを紹介し終えると、ちらりと視線をよこしてきた。俺とシズクの間に、ただならぬ空気が漂っていることを察したんだろう。何か話したいことがあるなら話せ、ということだ。
ふと冷静になってみれば、もしかしたらこの再会は喜ぶべきことではないだろうかと思える。
というのも、ついこのまえ俺は、好感度表示をはじめて爆発を起こさずにクリアした。
名前の載っていたヒロイン、仁美、雛子、麗佳の三人のうち、誰からも嫌わることなくカウントが『0』になる瞬間を迎えた。
もしかしたら好感度表示をクリアしたことによって、過去の爆発の効果も消えているかもしれない。だとすれば、現在のシズクは俺を嫌いではなく、昔の友くん好き好きなかわいいシズクちゃんに戻っているはずだ。
おぉ~、そう考えたら俄然、幼馴染みとの再会が嬉しくなってきたぞ。
イケメンになったつもりでキリッと表情を引きしめると、シズクの静かな目を見つめて、一歩踏み出す。
意を決して、数年ぶりに幼馴染みへと声をかけた。
「よう、久しぶりだな、シズク」
「……どちらさまかしら?」
やだ! 忘れられてる! どうしよう!
「友則だよ、朝倉友則! つうか、名前はたったいま麗佳から聞いただろ!」
「そういえばそうだったわね。確かにそんな人もいたかもしれないわ」
シズクは眉間をわずかにひそめると、その静かな瞳に敵意にも似た嫌悪感を映す。
あっ、うん。やっぱ嫌われたままだね。このまえ好感度表示をクリアしたからシズクの爆発もチャラになっているとか、マジで舐めまくっていたよね。
というか俺のことを嫌いなままだってことは、ちゃんと覚えてるってことじゃねぇか。なんで知らないふりすんだよ。それは嫌いだからだよ。わっ、ソッコーで答えが出た。
「その様子からすると、二人は顔見知りかしら?」
「わたしはあまり記憶にないけど、どうやらそうみたいね」
麗佳の問いかけに、シズクは淡白な声で答える。
なるほど、素知らぬふりというわけか。
だったらこっちのスタンスも決まってくる。
シズクが俺を嫌いなままだというのなら、近づかないにかぎる。互いに存在を無視しあえば、つつがなく学園生活を過ごせるだろう。
ほんのちょっと、胸にしこりができたような引っかかりを覚えたけれど、これでいいんだと自分に言い聞かせる。
無理をしてまで、シズクと仲直りする必要はない。そもそも嫌悪感を持たれている相手と仲直りなんてできないし、それは俺の感情を一方的に押しつける行為だ。シズクは俺との関係を修復したいだなんて望んじゃいない。
だからこれでいい。いいはずだ。
「そろそろ行かせてもらうわ。ここにいると、なんだか気分が悪くなるから」
意訳すると、俺のそばにいたくねぇってことかな? そうだな。
シズクは文庫本に目を落とすと、後ろ髪を引かれることもなく、むしろ足早にこの場から立ち去っていった。
シズクの姿が遠くなるにつれて、胸のなかで渦巻いていた緊張が凪いでいき、平常心を取り戻す。
あいつがいなくなってホッとするだなんて、ちょっぴり罪悪感だ。
「で、どういうことかしら?」
「どうって、なにがだよ?」
「だから、あなたと真宮さんの関係よ。正直に白状しなさい。今なら許してあげるわ。ほら、さっさと吐きなさい」
え? なんで? なんで浮気が発覚した彼氏みたいになってるの、俺?
「あっ、それわたしも知りたいです。なんだかとてつもなく、おもしろそうな臭いがぷんぷんしますから」
にぱ~、と明朗な笑みを浮かべる雛子。こいつ、イジくりまわす気まんまんじゃねぇか。
どうしたものかと頭を悩ませ、助けを求めるように仁美を見ると……。
「先輩、その、わたしも先輩と真宮先輩がどういった関係なのか、教えてもらいたいです」
右手の拳をぎゅっと握って、せがむように見つめてくる。
うっ、三人からいっせいに詰めよられる。まるでエロゲ主人公みたいだ。もしも好感度表示があるときだったら、かなりピンチだったな。
「シズクは……ちょっとした昔の知り合いだよ」
「ふぅん。そう」
「なぁんだ。つまらないですね」
二人とも素っ気なかったり、笑顔を貼りつけたままだったりと、本心が見えにくい返事をしてくる。
仁美は……まだはっきりと納得はしていないのか、なんだか難しげな顔をしたままだ。
本当は仲良しの幼馴染みだったと、俺もシズクも、そう口にはしなかった。
麗佳と雛子が歩き出すと、俺と仁美も足を進める。
「あの、先輩。それで、さっきわたしに言いかけたことって……」
「あ、あぁ、そうだったな」
幼馴染みとの再会イベントにすっかり気をとられていたが、俺の目的は仁美との関係を進展させることだ。仁美ルートに入ることこそが、俺の本来やるべきことだ。
だというのに……言葉が出てこない。胸に灯ったはずの覚悟は下火になってしまい、成長したシズクの姿がまぶたに焼きついて離れなかった。
情けなく口をつぐんだまま、不安げな仁美を見つめることしかできない。
「えっと……悪い。また日を改めるってことでいいか?」
「そう、ですか……」
すごすごと仁美はうつむく。
さんざん期待させておいて何もないとか、最悪だな。ごめんよおおおおおおおおお、と全力で叫んで謝りたいが、引かれそうなのでやめておく。
しかしこんな暗い気持ちで交際を申し込むなんてできないし、やったとしても仁美だって喜んではくれない。やるんなら、気持ちが前を向いているときだ。
シズクがそばにいるという意識が定着するまでは待とう。
別に好感度表示が出てきたわけじゃないんだ。すぐに慣れるさ。
「えっと、先輩」
「ん? なんだ?」
仁美は気を取り直すように、やわらかな微笑をつくってくる。まるでいつもと変わらぬ自分を演じようとしているみたいに。
「あんまり、無理はしないでください。わたしなら大丈夫ですから、無理だけはしないでください」
仁美……気落ちしているはずなのに、それでも俺をなぐさめようとするなんて、めちゃくちゃいい子じゃねぇか。もうマジで嫁にほしい。ゲームだったら真っ先に仁美を攻略しちゃう。むしろ二週目、三週目と立て続けに仁美しか攻略しない。仁美の無限ループにハマりたい。
って、キモイこと考えてる場合じゃないな。
「ありがとよ」
自然と笑みを浮かべて、感謝を口にする。
仁美も、心が通じあったように笑ってくれた。
そうさ。なにも不安に思うことはない。
もう、好感度表示はクリアしたんだから。
◇
翌朝、自室のベッドから身を起こすと、なんだか物凄く見覚えのあるものが目の前に表示されていた。
『カウント:9 氷室仁美:30 近藤雛子:25 立花麗佳:27 真宮シズク:0』
ん~、なんだろうこれ?
ぐじぐじと強めにまぶたをこすってみるが、やっぱりそれは表示されたままだ。
ナゴ~、と床で丸くなっていたボタロウがのんきな鳴き声をあげて、身を伸ばす。
ふぅ、とタバコの紫煙でもくゆらせるように息を吐くと、天井を見上げる。
そして……。
「早くねっ!」
叫んだ。
おかげで眠気がふっとび、ボタロウがびくりとして「どうした坊主」と問いかけるような渋い顔で見てくる。
いやいや、マジで早ぇよなんだよこれ! 今まで数年に一度のペースだったじゃん! まだ前回から一ヶ月も経ってねぇじゃん! なんで好感度表示が出てきてんだよ!
異能力の手違いなら、どうかお引取り願いたい。だけど何度まぶたをこすっても消えないことから、これは現実のことらしい。
くっ……なんでこんなに早く好感度表示が出現した? 出てくるとしても、数年先のことだと予想していたのに……。
この間の好感度表示と、過去二回の好感度表示。違いがあるとすれば……一つしかない。爆発を起こさずにクリアしたか否かだ。
もしかして、前回爆発を起こさずにクリアしたことで発動時期が早まったのか? だとしたら何度クリアしても、そのたびにすぐ次の好感度表示が出てくることになる。永遠にこの地獄から抜け出せない。
うっ、寝起きだというのに、なんか目まいがしてきた。
好感度表示については、まだまだ不明な部分が多々ある。前回ヒロインたちの好感度をフラットにしたら、爆発が起きずにクリアできたのもその一つだ。
いろいろ試してみれば、今回もまた新たな発見があるかもしれない。いや、いろいろ試すなんて度胸はないけど。だって試して爆発したら、誰かに嫌われてシャレにならないからね。
とりあえず、またしても俺に試練が訪れたという現実を受け止めよう。受け止めたくなんてないけど。パスしたいけど。でも受け止めよう。
改めて今回の好感度を確認してみる。
カウントは『9』か。今日が火曜日だから……来週の水曜日の午後二十三時五十九分が終わり、日付が変わる木曜日になった瞬間にカウントは『0』になってしまう。それまでにどうにかしなきゃいけない。
次に各ヒロインの好感度だが……やはり気持ちを伝えあった仁美が一番高いよな。にしても『30』って、過去のヒロインたちを振り返っても、ここまで好感度が高くなった女の子はいない。
どうしよう、仁美が俺のこと好きすぎる。やったぜ。って、喜んでる場合じゃないね。好感度が高ければ高いほど、爆発が起きる可能性も高いからね。
次に雛子と麗佳だが、前回の件で親しくなったからか、あの二人の好感度も高い。高いのに、なんであいつら俺のことしょっちゅうディスってくるの? もっと朝倉友則という男性を優しく扱ってほしいです。ほんと切実に。
そして問題のシズクだが……『0』か。
べつに意外でもなんでもない。爆発が起きて嫌われたんだから、この数字は極めて妥当なものだ。
だけど昔親しかった幼馴染みに、はじめて好感度表示が現れたとき最も好感度を高くしたシズクに、俺のことを『0』だと思われているのは、なかなかこたえるものがある。
もう仲良く手をつないで歩いていた幼馴染みではないんだと、『0』という数字が明瞭に突きつけてくる。
ぴしゃりと、両手で膝を叩いた。
しょげていても事態は改善しない。好感度表示が出現したというのなら、解決策を打たないといけない。
そのために俺は……。




