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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第四章 天命を受けし者
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唇亡べば、歯寒くなる

 しん献公けんこうは群臣を集め、彼等に向かって、宣言した。


かくを滅ぼす」


 晋と虢という国はいつの時も、兵を交わせていた国である。晋統一が長引いたのも虢も原因の一つであった。謂わば、虢を滅ぼすのは悲願と言ってもいい。


「準備は出来ております。いつでもご出陣できます」


 荀息じゅんそくを始め、口々に進言する。


「うむ。荀息よ。此度も虞へ使者として出向き、道を借りて参れ」


「御意」


 彼は虞へと向かい、虞君に道を借りることを請うた。虞君は晋の要求を飲もうとしたが、宮之奇きゅうしきが止めた。


「主よ、なりません。虢は我が国にとって、表面です。虢が滅べば我が国もそれに従うことになります。晋のために道を貸してはならず、他国の兵を軽視してはなりません。一度でも問題があるにも関わらず、二度も貸すことはあってはなりません。諺にこうあります『車輔(車輪が重荷に堪えられるようにするため、車輪につける二つの補助木)と車輪は互いを助け、唇亡べば、歯寒くなる』これは虞と虢の関係を表しているのです」


「晋は我が国の宗室(晋も虞も周王室に連なる国)だ。なぜ我が国を害すというのだ」


太伯たいはく虞仲ぐちゅう古公亶父ここうたんぽの子でしたが、二人は父が弟の季歴きれき(周の文王ぶんおうの父)を後継者することを望んでいることを知り、南方に出奔しました(呉に出奔したという話が一番有名だが、虞仲は虞の地に出奔し、始祖となったという話もある)。虢仲かくちゅう虢叔かくしゅく(二人は虢の始祖)は季歴の子で、文王の卿士を務め、王室に功績を残した方々です。その記録は盟府に保管されています。晋はそんな虢を滅ぼそうというのに、なぜ虞を惜しむと思うのでしょうか。そもそも虞と晋の関係は成師せいし荘伯そうはく(晋の献公の曽祖父と祖父)よりも親しいでしょうか。桓・荘の一族に何の罪があって晋君に殺されたのでしょうか。誅滅されたのは彼等が晋君にとって脅威となったからです。たとえ親族であっても尊重される地位に登り、晋君の驚異となったため滅ぼされたのです。他国ならなおさらではないでしょうか」


 親族同士でさえ争う。それが乱世であり、晋はそれを体現している国でもある。そんな国が他国である虞だけには優しいということがあるだろうか。それが虞君は理解してない。


「私が神を祀る祭品は清く豊かだ。神はそんな私を必要としているはずだ」


「鬼神は特定の人に親しくなるものではありません。徳がある者の親しむのです。だから『周書』には『天にかたよりはなく。ただ徳を持つ者のみを助ける』とあり、『祭祀の穀物は香らず、明徳だけが香りを放つのだ』とあり、『民が祭物を変えることはできない。徳だけが祭物となる』とあるのです。もしも徳が無き者に民は和となさず、神も助けに来ません。晋が虞を奪った後、明徳によって芳香のする祭物を捧げようとも、神は虞のためにそれを吐き棄てるのでしょうか?」


 されど、虞君は彼の言葉に耳を傾けることなく、晋に道を貸すことを了承した。


 虞君の元を離れた宮之奇は自分の子供たちを集め、彼等に言った。


「我が国はもうすぐ滅ぶだろう。忠と信を守る者だけが他国の兵を国内に留めても害を受けないもの。己の愚昧を除き、外に対することを忠と言い。己の身を正し、事を行うことを信と言う。今、我が君は己には受け入れることができない悪を人に施そうとしている。これは愚昧を除くことができない証拠である。また、賄賂をもらって親しき国を滅ぼさんとしている。これは身を正すことができないからだ。国が忠を失なえば立つことはできず、信を失えば安定できない。忠も信もないにも関わらず、他国の兵を国内に入れれば、他国の兵は我が国の欠点を知り、帰国の際に謀を巡らすだろう。己で立国の根本を失っているのに、長く生き延びるのは難しい。今のうちに去らなければ禍が訪れるだろう」


 彼は子供たちを抱き寄せると泣いた。そして、一族を連れ、西山せいざんに出奔した。


 去りゆく虞の地を見ながら、彼は呟く。


「虞が今年の臘祭(十二月の祭祀)を行うことなないだろう。晋の出兵もこれで最後だ」


 国の滅びゆく姿を誰よりも知ってしまう。賢臣の悲しさがここにはある。






 八月、晋の献公は軍の率いて、虢に侵攻し、首都・上陽じょうようを包囲した。


 献公の傍らに珍しい人物が控えている。郭偃かくえんである。


 彼に献公が聞いた。


「成功すると思うか?」


「成功するでしょう」


「それはいつのことになる?」


「童謠にこうあります。『丙子の朝、龍の尾星は輝きを失い。揃いの軍服が武威を振るわせ、虢の軍旗を奪い取らん。鶉火じゅんかの星は輝くは大鳥の如く、天策てんさく星(伝説の星)は光を失う。鶉火の星の下で軍を整え、南下すれば、虢公が出奔す』これは夏暦(夏の暦のこと。晋では夏暦を使っていた)の九月と十月(周暦では十二月)が交わる時を表しております。丙子旦(丙子の日で初一日)はまさに日が龍の尾星の方角(東)にあり、月が天策星の方角(西)にあり、鶉火星はその間(真南)にある時になります。この時でしょう」


 十二月、晋は虢を滅ぼし、虢公・しゅうは周の都・洛邑に逃れた。こうして、名門と言っても良かった虢は滅んだ。


 その後、晋は引き上げる際に虞に駐屯を請うた。虞公はこれを許そうとしたが、百里奚ひゃくりけいが諌めた。


「なりません。道を貸しただけでも大事であるのに、駐屯まで許すべきではありません。許すべきではありません」


「戦に疲れた身体を休めたいだけであろう。駐屯させるくらい良かろう」


 そんなことを言う虞公に苛立ちながら、彼は進言する。


「ならば、いつでも兵を動かせるように備えをするべきです」


「そのようなことをすれば晋に余計な疑心を与えることになる」


 そう言って、虞公は百里奚の進言を聞き入れなかった。百里奚は退室すると呟く。


「私はまたしても志を得ることはできず、己の身も失うか」







 駐屯を許された晋軍は荀息じゅんそくが急襲を進言したため、虞を攻め滅ぼした。


 虞公、大夫・井伯せいはく、百里奚を捕らえ、晋軍は帰国した。


「さて、この者らをどうするべきか……」


 晋の献公は彼らの扱いをどうするか考えた。そして、荀息を呼んだ。


「彼らを娘の侍臣にする」


 彼の娘は秦の穆公ぼくこうが婚姻を結ぶことを請うたため、嫁がせることにしていたのだが、その娘の使用人にしようと考えたのである。


「承知しました」


 戦で得た捕虜を娘の使用人にするというのはあまり、褒められたことではないが、彼は己の主の意向に逆らう人ではないため、同意した。






「お前たちを秦に嫁がれる公女様の侍臣とする」


 兵にそう言われて、百里奚は驚いた。戦で敗れ、囚われたことで最早処刑されるだけと考えていたためにこのようなことになるとは思っていなかった。


「死なずに済むのか」


 虞公と井伯は安堵するが、それを見て、彼は湧き上がる怒りを感じた。


 確かに虞という国は愚かな行い故に滅んだ。されど、その国のために戦った民がいたのだ。それにも関わらず、虞公らは命が助かることを喜んでいる。


(これが、一国の主の姿か……)


 改めて、自分は愚かな人に仕えたと思った。また、この怒りは晋にも向けられている。


(このような扱いをするのが、晋という国か、晋君という人か)


 この扱いに晋君の悪意を感じた。このような扱いをされるならば、殺された方がましである。


(このような扱いを受けるぐらいならばその辺で野垂れ死んだ方がいい)


 彼は逃げることを決めた。


 数日後、彼は秦に同行する振りをして、警備の目をくぐり抜け、逃げた。彼はどこに向かおうとは考えてはおらず、とにかく南に進んだ。


 そして、楚のえんまで逃れた。


(これからどうするべきか)


 そのようなことを考えていると突然、後ろから殴られ、目の前が暗転して彼は倒れた。


「こんな爺さんどうするんだよ」


「仕方ないだろ。突然奴隷の一人が急死してしまったんだ。数合わせが必要なんだ」


 男たちは奴隷商に仕えている男たちで奴隷を運んでいたが、一人の奴隷が死んだため、数合わせのために彼を殴って気絶させたのだ。


「まあ、仕方ないな。こんな爺さんでも」


 男は彼を担ぎ上げるとほかの奴隷と共に買い手の元に送った。






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