狐裘の毛が乱れ
年が変わり、紀元前655年
重耳ら一行は蒲に着いた。
「あまり、整備がされてませんな」
魏犨が蒲の城壁を見ながら、呟いた。
「大司空・士蔿殿が城をちゃんと造らなかったので」
狐毛がそのように言う。
以前、晋の献公が重耳と夷吾のため、士蔿に蒲と屈の城を造るよう命じた。
しかし、彼はその二城を造る上で手を抜いた。そのことに怒った夷吾は父・献公に報告した。
献公はそれにより、彼を呼び出し、譴責した。
彼は稽首しながら言った。
「『喪事でもないのに憂いれば、憂いは誠になり、兵事がないのにも関わらず、築城すれば、敵がそれを守りにする』といいます。敵(重耳と夷吾。驪姫にとって邪魔な存在)のために築城するのに、真剣に行う必要はありません。官を与えられ、命に背くのは不敬のため、命に従い築城しましたが、敵のために守りを作るのは不忠ではありませんか。忠と敬を失い、どうして国君に仕えることができるでしょうか。『詩』にこうあります『徳を抱けば安寧となり、宗室の子弟が居れば城となる。』主君が徳を修め、宗子(宗室の子弟)の地位を固めれば、城など必要ないのです。そもそも、三年後には兵を用いることになります。今回の築城を重視する必要はありません」
彼は退室すると賦を詠んだ。
「狐裘(狐の皮で作った外衣)の毛が乱れ、国に三公が並ぶ。我は誰に仕えればいいのだろうか」
「大司空殿がしっかりと造っておればな」
先軫が呟いた。それに対し、重耳は言う。
「大司空殿は誠の忠臣であったのだろうな」
彼は今は亡き、士蔿のことを思う。彼は士蔿と直接会話することは少なかったが、父と兄そして、国のことをよく考えていた人であったと思っている。
(父よ。あなたがあの方を見出したではありませんか。それなのに真っ先にあの方の忠を踏みにじった)
彼は初めて、父に対し憤りを覚えた。
重耳は蒲に夷吾が屈に逃れたことを知った献公は怒りを表わにする。
「やはり、あやつらは乱を起こすことを考えていたか」
乱を起こす気が無ければ、申し開きするべきであると彼は考えている。
「披よ。お前は蒲を攻めよ」
「承知しました」
寺人・披は拝礼し、部下を集めると蒲に向かった。
蒲が暗闇に包まれた頃、寺人・披は将ではないので、兵を率いて攻城戦を行う気は更々無く。彼は部下と共に密かに侵入する。
「重耳の部屋を探せ」
部下に先行させ、探らせる。しばらくして、部下が重耳の部屋を探り当てて来た。
「部屋は見つけました。ただ部屋の前に剛の者が二人立っております」
披はそれを聞き、少し考えると命じた。
「お前たちは二人の気を惹かせよ。その隙に私が重耳を殺す」
「承知しました」
重耳が眠りについている間、彼の部屋を守るのは顛頡と魏犨である。
彼等は警戒心を剥き出しにしながら、警備する。
「うん?」
何かを顛頡が感じる。
「どうした?」
「いや、さっきあそこが動いた気がするのだが……」
彼は右側の廊下を見る。すると、男たちが現れる。
「敵だ」
顛頡と魏犨の二人は男たちの向かう。
その隙に逆の廊下から、披が重耳の部屋に侵入した。重耳の寝てる姿を確認すると、彼に向かって、剣を振り下ろした。
その瞬間、重耳を目を覚まし、横に転がり、それを避ける。
「逃げられんぞ。覚悟せよ」
披は舌打ちをして、彼に襲いかかる。
「覚悟するのは貴様の方だ」
戸を蹴り破って、魏犨が披の後ろから襲いかかる。彼は部屋から離れすぎたことに気づき、男たちの方を顛頡に任せ、引き返してきたのだ。
彼は手に持っている矛を彼に向かって、突き出す。それを冷静に披は剣で受け止める。
「主よ早くお逃げを」
魏犨が叫ぶ。相手の剣の腕を見て、重耳を逃がすことを優先にした。重耳は頷くと部屋の入り口に向かう。
「逃がさん」
披は彼の右足を僅かに切りつける。それにより、彼は思わず、膝を着いてしまう。その横を走り抜け、披は重耳を横薙ぎに切り裂こうとする。
「まだ、俺の相手をしてもらわなければ困るぞ」
その時、魏犨は彼の服を後ろから掴む。それにより、重耳との間が空き、剣は重耳の袖を切り落とすぐらいであった。
披は魏犨をきっと睨むと彼に襲いかかる。
「魏犨っ」
「どうなさいましたか」
そこに先軫と胥臣が騒ぎを聞きつけ、やって来た。
「賊だ。今、魏犨が戦ってくれているのだが」
「左様ですか。胥臣。主を頼むぞ」
先軫は魏犨を助けに行き、胥臣が重耳を守りながら、その場を離れていく。
魏犨の助太刀に先軫がやって来たのを見て、披は舌打ちをすると彼らの攻撃を剣で受け止める。狭い部屋の中での不利を悟った彼は一先ず、部屋を向け出す。
廊下に出た彼を二人も追いかける。しかし、二人の攻撃は全て彼に受け止められてしまう。そんな状況の中、男たちを追いかけていた顛頡が戻ってきた。
流石の彼も廊下で三人も相手にするのは難しく。彼は魏犨を押しのけ、逃走を図る。
「くそ、あの野郎」
「よせ、これ以上追いかけることはない」
顛頡が追いかけようとするが、それを先軫が止める。彼は魏犨を肩で支えながら、声を掛ける。
「大丈夫か?」
「何とかな。取り敢えず、主に合流しよう」
彼等は頷き、歩き出した。
「おお、無事であったか」
城の堀近くに逃れた重耳は彼等を労わる。
「主よ。兵を集め、敵を討ちましょう」
魏犨が進言する。しかし、重耳は首を振る。
「私が抵抗するのは敵だけだ。父の命に抵抗してはならない」
彼は披たちはあくまで父の命を受けている。そのため戦うべきではないと言うのである。
「ならば、どうなさるのか」
「このまま逃げる」
重耳はそう言うと趙衰がぼそっと進言する。
「ならば、この堀を越え取り敢えず柏谷まで逃れましょう」
彼の進言を聞くと重耳は頷き、堀を越え柏谷に逃れた。
柏谷に逃れると彼は斉と楚のどちらかに逃れようと思い、卜いをしようとした。それを狐偃が止めさせた。
「卜う必要がありません。斉と楚はここから遥か遠く、野望が大きいため、亡命したあなた様を憐れもうとはしないでしょう。困窮した時に行くべき所ではありません。遠方ならばたどりつくのが難しく、野望が大きければ離れることが難しくなります。困窮している今、斉や楚に行きば必ず後悔することになります。困窮し、後悔するならば、我々が帰国する時に助けを得ることも難しい。私が思うには、狄(翟)こそがふさわしいかと。狄は我が国の近くにありますが、交友がありません。その風俗は遅れ、隣国からは嫌われています。近いので行きやすく、交友がないので隠れるのに最適です。隣国の怨みが多いので、我々も共にそれを憂いて協力することもできます。狄で休養しながら態勢を整え、晋国の様子を観察し、諸侯の動きを監視すれば、必ず成功できましょう」
「わかった」
彼の進言を受け入れ、重耳らは狄に逃れた。ここから重耳の長い亡命生活が始まった。