申生
驪姫に優施は囁く。
「あなた様は明日、申生に会いに行っていただきたい」
「なぜですか?」
「全ては申生と他の公子を害するための策でございます」
彼は策を話し始めた。
翌日、彼女は申生に会いに行った。
「よくぞ参られました」
彼は拝礼をしながら言った。
(この男は私がお前を除きたいと考えていることを知らないのかしら)
彼の態度を見ながら、彼女はそう考えてしまう。
「あなたに会いに来たのは、あなたに国命があったのです」
「その国命とは?」
「昨晩、君が夢で斉姜(申生の母)に会われたそうです。あなたは速やかに祭祀を行い、祭祀の酒と肉を君に贈りなさい」
このような国命は出てない。全ては優施から出た言葉である。
「承知しました」
彼は何ら疑いを持たず、従った。
(目の前の者がどういう者か考えないの?)
ここまで来ると彼には若干、異常性を感じる。
(やな、男だ)
彼女は速やかに彼の元を離れた。
申生は曲沃に向かった。曲沃には晋の宗廟があり、彼の母である斉姜もここに入れられている。
「夫人が祭祀を行うよう命じたのですか?」
申生の配下である猛足が彼に聞いた。
「ああ、その通りだ」
「本当に君からの命令なのでしょうか?」
驪姫は申生を除こうとしている人なのである。罠ではないかと考えるのは普通である。
しかし、それに何ら疑問に思わないのが、申生である。
「義母上が偽る必要などないだろう」
彼は何らの疑い持たず、祭祀を行いと酒と肉を晋の首都である絳に送った。
「届きましたか」
「ええ、届いたわ」
「では、少しの間これを保管します」
酒と肉を見ながら、優施は言った。
「どれぐらい保管するのですか?」
「今、君は狩りに出ていています。君がお戻りになった時にこれをお出しします」
彼は酒と肉を指差すと言う。
「毒を入れましてね」
「毒を入れるのですか」
彼女は驚いた。毒を入れるとはまさか、献公を殺すのかと思ったのである。
「君に食べさすわけではありませんよ」
そんな彼女を見て、彼は苦笑する。
「大丈夫ですよ。全て上手くいきます」
六日後、献公は狩りから戻ってきた。
驪姫は優施の言う通り、酒と肉に毒を入れ、献上した。
献公はそれらが祭祀で用いられた物であると知り、地を祀るために先ず、酒を大地に注いだ。すると、酒が注がれた場所は盛り上がった。
驚いた彼は肉を犬に与えた。犬が食べると死んだ。念のため宦官(位が低いのは毒見をやらされる)にこれを食べさせると彼も死んだ。
驪姫が泣きながら言った。
「恐らく、太子の陰謀です」
「左様か」
献公は怒りを表わにすると、申生の傅・杜原款を殺した。
そのことを知った申生は都に行こうとしていたが、曲沃に逃れた。
「申生はきっと、乱を起こそうとしてます」
彼女の言葉を聞き、彼は兵を曲沃に行かせることにした。
猛足は申生に言った。
「君に弁明なさいませ。あなた様が直々に弁明すれば、全て驪姫の仕業であることを理解されるはずです」
だが、彼は首を振る。
「父上は驪姫がいなければ食事も満足にできない。私が弁明すれば驪姫が……義母上が必ず罪を受ける。父上は老いた。義母上が罪を得て父上が楽しまないのに、私が安楽でいることはできない」
「ならば、他国にお逃げになるべきです」
「父上が罪を探し、潔白を証明することができないのに父を殺そうとした悪名を背負い、逃走したところで私を受け入れる方はいないだろう」
彼は孝の人である。父を思い続け、尽くしてきた彼にとって父を殺そうとした悪名を背負うのは耐え難きことである。それを背負って、他国で生きるのであれば死んだ方がましである。
また、自分が死ぬことで父が、義理の母とはいえ、母が喜ぶのであれば喜んで死のう。
それが申生という人である。このような考えを持っている人は長い歴史の中で稀である。故に彼の名は歴史の中で異質である。
彼は死ぬ前に猛足に頼み事をした。
「狐突殿にこれを渡してくれ」
「これは……」
「彼は私に良く尽くしてくれた。そのお礼を最後にしたくてな」
彼は笑いながら言った。
「承知しました」
彼が立ち去った後、申生は首を吊って死んだ。
「狐突殿」
早朝、猛足は遠路を急いで来て、狐突の屋敷の戸を叩いた。
「どうぞ」
使用人が彼を招く。
「どうなさった」
「太子からの書状です」
彼は狐突に書状を渡した。そこにはこう書かれていた。
『私には罪があり、あなたの忠告を聞かなかったためにこうなってしまいました。私は命を惜しまない。しかしながら、君は既に年をとり、国家は多難である。あなたが外に出て補佐しなければ、君はどうなるだろう。あなたが君を助けてくれるなら、私は死んでもあなたの恩恵に感謝はしても、決して悔やむことはない』
「こ、これは……太子は……」
書状を読んで、彼は全てを理解した。
「猛足殿に頼みたいことがある」
悲しみを堪え、彼は猛足に言う。
「重耳様に危機が近づいている。太子の死を伝えると共にここから逃げるように伝えるのだ」
「公子にも危機が?」
「ああ、必ず太子を殺した者たちの矛先は公子たちに向く。早く伝えるのだ。息子たちが重耳様に仕えている。息子たちに伝えれば理解してくれるはずだ」
「承知しました」
猛足が出ていこうとすると、彼は止めた。
「後、息子たちには……父は父の道を行くと伝えよ」
猛足は拝礼し、今度こそ立ち去った。
「兄上が亡くなられただと……」
「誠のことでございます」
重耳は思わず言葉を失う。彼は才能溢れる兄・申生に妬みなどの感情を抱かず、また兄がいれば、悠々自適の生活が送れるだろうと考えていた。
そんな兄が死んだ。そして、死に追い込んだのは驪姫であり、父・献公である。
(父上……)
「すぐさま、出奔しましょう」
狐偃が進言する。
「蒲に逃れましょう」
続けて、狐毛が提案する。
「よし、わかった。私はお前たちに従う」
「ならば、急いだ方がよろしいでしょう」
ぼそっと、重耳の傍に現れた男が聞き取れないか聞き取れるかわからないほどの小さな声で言った。
「趙衰か」
この男の名は趙衰。父は趙夙である。
「既にこちらに兵が向かっています」
「なんと、それほど早く動いたのか。よし、急ぐぞ」
重耳は彼の言葉に驚きながらも、急いで、出奔の準備を進める。
「敵は寺人(宦官)の披です」
「披か……父上の寵愛されている寺人だ」
寺人……宦官は主に罪を犯した人が刑罰を与えられ、去勢された後宮の使用人のことである。
彼等は宮中の警備を兼ねており、剣の腕は優れている。その中でも剣術の優れているのが披である。
「主は我らが守らなければな」
「おうよ」
「その通りだ」
先軫(先友の子)、顛頡、魏犨(畢万の子)、がそれぞれ言う。
「既に馬と馬車を用意しました」
そこに胥臣がやってきて言う。
「流石だ。相変わらず、そつなくこなす男だ」
「さあ、急ぎましょう」
狐偃が重耳を急かし、馬車に乗せ、走らせる。
「狐偃殿。狐毛殿。狐突殿から伝言があります。父は己の道を行くとのことでした」
「ならば、父上にこう伝えてください。我らも自分の道を行きますと」
猛足はそれを聞くと拝礼して立ち去った。
馬車を走らせていると、前方から兵がやって来た。
「敵です」
「このまま、突っ込みましょう」
「仕方ないか……進めえ」
矛を手に取り、顛頡、魏犨が躍り出て、敵兵を蹴散らす。
「どうしたこの程度か」
顛頡が大声で煽ると、兵たちの中から、一人の男が飛び出し、剣を彼に向かって突き出した。
彼は矛でその剣を受け止めるが、その男が次々と剣を繰り出し、耐え切れなくなっていく。
「顛頡、助太刀するぞ」
魏犨、先軫が顛頡を助けるために男に襲いかかる。しかし、男は彼等の矛を剣で受け止めならが、逆に圧倒する。
「なんてやつだ」
「ここまでの武勇を持った男がいるとはな」
「顛頡、魏犨、先軫。逃げるぞ」
狐偃が叫び、その後ろから狐毛と胥臣が矢を男に向かって放つ。
男はそれらを弾き飛ばす。その隙をついて、三人は後退する。
「逃げますよ」
狐偃は重耳を乗せた馬車を操り、逃走を始める。
「逃がさん」
男は彼等に向かって駆け出す。その瞬間、彼に向かって、剣が突き出される。男はそれを避け、剣を繰り出すが、それは弾かれてしまい、手から離れてしまう。
男は相手の攻撃をかわすためにも横に転がり、逃れ、落ちた剣を拾った。しかし、気付くと自分に剣を突き出してきたやつはおらず、重耳らもこの場から離れていた。
「披様如何しますか?」
配下が男に話しかける。
「先ずは、君に報告しよう」
そう命じてから、歩き出す。
(しかし、先ほどの剣は凄まじかった。あれほどの者がいるとはな)
彼はそう思いながら、この場を立ち去った。